珈琲時光のレビュー・感想・評価
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☆☆☆★★★ 簡単な感想で。 ホウ・シャオシェン監督が描く鉄オタ物...
☆☆☆★★★
簡単な感想で。
ホウ・シャオシェン監督が描く鉄オタ物語、、、ゴホッ!もとい…東京風俗物語(Hな意味じゃなくて)
一応のストーリー展開となっているのは、主人公は東京で一人暮らしをする女性が居る。
彼女は、台湾の音楽家《江文也》が東京で暮らしていた時の足跡を訪ね歩いては調べている。
(作品中には本人が作曲した曲が使用されている)
…表向きは。
しかし実際は、特に映画全編でその事を重要視はしておらず。現実には話らしい話とゆうのは描かれてはいない。しいて言えば、監督ホウ・シャオシェンがリスペクトしている小津安二郎に対する想いに溢れた作品と思われる。
この作品が魅力的なところ…それは、人が居てカメラはただひたすらにその対象となる人物を映している、、、ただそれだけ。
本当にそれだけなのに映画が1本出来てしまう…とゆうところなのだ。
以前にジャック・ロジェ監督の『メーヌ・オセアン』と『オルエットの方へ』を観た時に感じたのですが。ただ若い女の子達がお喋りをし、はしゃいでいる。それをただ単に撮っているだけなのに、何故感動してしまうのだろうか?…と。
小津安二郎作品の特徴として、同じ場所・同じアングルでのシーンが、作品の前半と中盤ないしは後半で描かれる場合が多々あります。
本編でも似た様に、2回又は3回に渡って同じ様な箇所があるにはある。但し細かい事を言ってしまうと、場所やアングル等は少しだけ違ってはいましたが。
記憶を頼りに見て行くと、、、
・喫茶エリカにて主人公の彼女。最初は珈琲を、その後は訳あってホットミルクを。
・萩原聖人が務める天麩羅屋。最初は彼の働いている場面で、最後は彼が休憩時間中での女友達(彼女)とのお喋り中に。
・父親役の小林稔侍と、後妻役の余貴美子の出演場面。最初は主人公の帰省での実家で、その後はこの夫婦が東京で知り合いの葬儀に参列する為に上京する。
(主人公の彼女は、その時に自分に関する或る事実をこの両親に告白する)
・山手線オタクで音鉄の友人役。浅野忠信が営む古本屋は、1回目は彼の正面から。2回目は彼の背中越しからのアングル
・更に付け加えるならば。彼女が◯◯初期による症状の苦しさから、新宿駅のホームで思わず座り込みそうになる場面と、やはりその症状の為に、洗足池駅周辺で苦しそうになり歩く場面。
(その後には、自宅で苦しさからなかなか起き上がれない場面も有った)
・そして、聖橋から御茶ノ水駅の3路線同時走行(計3回)は。まるでホウ・シャオシェンが憧れた小津安二郎が、実際に自身の作品中に挿入し描かれたショットを。同じアングルから映し込む事での嬉々とした喜びに溢れている。
自分は多少なりに鉄オタ(乗り鉄)的なところがあるので、映画の中に出て来る多くの列車の走行場面等は面白く。特に御茶ノ水駅を撮る聖橋からの撮影等は、小津安二郎が実際に作品の中で描かれているだけに。ホウ・シャオシェンの「嗚呼!今、小津安二郎が撮った場所で撮っているのだなあ〜」…とゆう(おそらくは)想いを、存分にスクリーンから浴びながらを眺めていた。
そう思いながら観ているだけに、主人公が帰省した時に映る電車等は、小津安二郎が『早春』での多摩川近辺(蒲田駅だっただろうか)を走行する場面をも想起させる。
そんな風に、小津安二郎作品を意識しながら観てしまうホウ・シャオシェンの演出ではありました。
でも、ホウ・シャオシェンと小津安二郎との大きな違いを考えて観て行くと、、、
ホウ・シャオシェン監督の演出の特徴として。ワンシーンワンカットを多用しての、その場の空気感等を重視した演出をしている風に思えるのですが。対して小津安二郎の特徴として、ショットを積み重ねた編集で映画にリズム感をもたらす演出(あくまでもこちらの考えとして)と思ってはいるので。その辺りの違いを感じながら鑑賞して行くと、更に面白く鑑賞出来る…のでは?と。
初見の日時は不明。シネマヴェーラ渋谷
2022年4月20日 シネマブルースタジオ
どうでも良いんですが、カメラで建物を撮影する一青窈の背後に映る《花◯ら大回転》の文字💦
おいおいスタッフ〜!
監督ひらがなが混じっていたから気が付かなかったのなら、誰か指摘してあげなさいよ〜(`_´)ゞ
陽子(一青窈)は台湾人の彼氏の子供を身籠った。 しかし、結婚はしないつもりである。 そんな彼女を両親(余貴美子、小林稔侍)は心配している。
一青窈
オープニングの松竹の富士山が古いものを使用して、いきなりビックリだ。
小津の映像感覚を21世紀に持ち込んだらこうなる!とでも言わんばかりの定点カメラの視線。たしかにオマージュしてることはよくわかる。が、台詞がすべてアドリブっぽいんじゃないかと思えるほどつまらない。さらに物語が進むと、切り返しカットがほとんどないことに気づく。これじゃ小津じゃない・・・一発撮りだらけじゃないか・・・小津映画を撮りたかったのかドグマ映画を撮りたかったのかわからなくなってしまいます。
妊娠したという事実なんて二の次であるかのような現代ッ子を上手く表現しているし、そんなことはおかまいなく一人の音楽家に興味を持つとかいう設定も面白い。都内の電車の映像が多用されていることもあり、これが都会の人間関係そのものであるような印象もあるけど、そんな深読みはしてもしょうがない。ストーリーがつまらなさ過ぎるのだ。
終わってみると、なんだったんだろ・・・これが台湾人から見た日本人の姿なのか。ううむ。
確信を得た
やはりこの人、かなりの電車好きだ。これまでの台湾で撮ってきた作品にも当地の鉄道と、それが溶け込んだ風景が映されていた。今回は東京。子供の絵本にもよく出てくる御茶ノ水駅の立体的なショットが何度も出てくるのが象徴的で、都電、山手線(と並走する京浜東北線)、東急洗足池駅など、登場人物はフィルムの大部分を電車に乗っている。
鉄道に乗るということは、通勤通学のような日常生活の側面と、見知らぬ土地や懐かしい土地へ向かう非日常の側面を併せ持つ。一つの車両に、その両方の乗客を乗せているという意味でも、一人の乗客にとってその移動が持つ意味が両方であるという意味でも、この二側面は常に同時に現れるのだ。
主人公の一青窈は、結婚する予定のない相手の子を身ごもっている。しかし、彼女は以前と変わることなく、台湾の昔の作曲家について調べるという、フリーライターの仕事を続けている。自分の運命を受け入れて淡々と過ごす彼女に対して、両親は沈黙という形でその妊娠の事実と彼女の決断を受け入れるのだ。
この一青窈の生活自体が鉄道に乗る二面性を持つ。変わらぬ日常生活を生きる中で、父親のいない子を産むという非常な決心を抱いているという意味で、日常と非日常が同時進行するのである。
穏やかな日常に含まれる、その日常そのものが崩れ去る契機。それを淡々と受け入れる人々。多くの小津作品で描かれてきたドラマがここに再現されたのならば、本作は成功作と言えるのだろう。
母の映画
【72点】
この作品のテーマとして監督の語る「珈琲を味わうときのように、気持ちを落ち着け、心をリセットし、これからのことを見つめるためのひととき」という言葉通りの、穏やかな雰囲気の佳作でした。この作品のオマージュ元である小津安二郎『東京物語』を、残念ながら私はまだ観ていないのですが、それでも十分楽しめました。
物語は、一青窈演じるヒロインと浅野忠信演じる友人の交際を軸に進行していきます。浅野忠信が登場するたびにBGMとしてピアノ曲が響くのですが、この作品内でのピアノは、台湾出身の作曲家・江文也を表しています。つまり一青窈と浅野忠信の関係が、江文也と(インタビュイーとして作中に登場する)江乃ぶ夫人との関係のようにこの先進展するであろうことが暗示されているのです。
ヒロインの一青窈が妊婦であることに表されるように、この作品の主題は「母」だと思います。作品全体を通じて、胎内を意識したような逆光のライティングが多用されていました。また、登場人物もさまざまな「母」の属性を持っています。妊婦である一青窈はもちろん、一青窈の母親(父親に殆ど台詞がないのは象徴的です)、マザコンの彼氏(彼の作る傘は外界を遮る子宮の象徴でしょうか)、そして、電車のガタゴトいう振動音を、母の心拍を慕う胎児のように追い求める浅野忠信です。彼が胎児と関係していることは、中盤で提示される絵を見れば明らかです。
将来、一青窈が出産するときには、胎児であった浅野忠信もまた新しい行動を起こすのでしょうか。そうした変化が起こる前のひとときの準備期間が、この作品ではゆったりと描かれていました。この作品の舞台である古い町並みが感じさせるノスタルジーというのも、我々日本人にとっては一種の母親なのかも知れません。
ちょっと、ひと休み
「悲情城市」などの作品で知られる台湾の名匠、ホウ・シャオシェン監督が、一青窃、浅野忠信を起用して描く、暖かさに満ちた群像劇。
たおやかに薫り立つ、気品のある物語である。
最小限の登場人物、台詞、展開で描かれていく本作。その随所に投げ込まれた甘美な音楽、嗅覚を刺激する湿った雨の描写、そして効果的に人間達を照らし出す光と影の世界が、観客の五感を存分に揺り動かしてくれる。
そのどれもが無理なく、無駄なく提示され、観賞を重ねるたびに観客が毎日の中で蓄積してきた経験、挫折、思い出に反映されて形を変えていく。ここまで観客一人一人の記憶によって色や、香りを変えていく映画は、稀である。
一人の女性が辿る数日間という主要な軸は用意されているが、観客はその軸に縛られることを迫られてはいない。どこにでもありそうな風景、昨日貴方の隣で笑っていたかもしれない人間達を淡々と描いていく世界の中で観客に求められているのは、「あの頃、自分を支えていた風景、世界」であったり、「あの頃、憧れていた人」を静かに、穏やかに懐古していく想像の力である。
この心の遊びがどんなに切ないか、楽しいか、嬉しいか。この作品が観客に教えてくれることは、この一点に尽きる。それは貴重で、新鮮で、嬉しい。
何かと用事に追われ、今を生きることで精一杯になっている貴方にこそ、一杯の珈琲を片手にゆったりと味わって欲しい一品である。喧騒を離れ、悩みを忘れ、本来の笑顔と心の安らぎを取り戻すために、ちょっとだけ、ひと休み。至高の幸せを、貴方へ。
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