アメリカン・サイコ
劇場公開日 2001年5月3日
解説
80年代、好景気に沸くニューヨーク。ウォール街にある証券会社のエリートとして誰もが羨む贅沢な生活を送るパトリック・ベイトマン。高級フラットに住んでデザイナーズ・スーツに身を包み、完璧な体型を維持するハンサムなヤッピー。社会的な成功をすべて手に入れたかに見えた彼だったが、物質では満たされない心の乾きを感じるようになっていた。次第に目立ち始める奇行、そしてついには殺人への衝動が抑え切れなくなり……。
2000年製作/102分/R15+/アメリカ
原題:American Psycho
配給:アミューズピクチャーズ
スタッフ・キャスト
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2020年4月17日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD
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イカのラビオリ、チーズパイ、ルッコラのサラダ、メカジキのミートローフ、ラズベリーソースを添えたウズラのロースト、ウサギ肉のグリル――オープニングで映し出されていくのは、“美”と“味”の両方が追求された、獣や魚、植物たちの殺害現場。スノッブな人々の欲を満たすべく、シェフは“遺体”を華麗に処理していく。そんなスマートさと対照的なものが、主人公・パトリック・ベイトマンによるアッパーな殺人だ。
ベイトマンは、81丁目ウエストサイドに住む27歳のエリートサラリーマン(=ヤッピー)。自分のケアも、決して欠かさない(ボディスクラブ、ジェル、ノンアルコールのローション、ミントのパック――朝の身支度の流れが最高のテンポ感)。完璧な肉体を高級スーツで包み、一流の同僚たちと最高のレストランで会話(中身は空虚で下世話)。仕事は、誰かと会食をしていれば万事OK。でも、名刺の質だけは、誰にも負けたくはない。そんな彼には“快楽殺人者”としての裏の顔があった、というのが本筋だ。
顔立ち、身だしなみ、学歴――全て非の打ち所がないライバルの出現から、ベイトマンの殺人行為は加速していくのだが、どれもこれもずさんものばかり。殺した遺体を詰めた袋から血が滴り、通りすがりの者を躊躇なく殺害。警察に発砲、遺体は隠れ家へ隠してしまう……まるで現実味がない。印象的だったのは、遺体を運んでいる時、知り合いに遭遇するパートでの「パトリックか?」「いいや“俺”じゃない。間違いだ」というセリフ。ジャンルとしてはサイコホラーに属しているが、本作はブラックコメディの側面の方が強い。
クライマックスに訪れるのは、解釈の分岐だ。真実と虚構、どちらをとっても良いように描かれているので、他人との議論が捗るはず。こんなことも考えられる。ベイトマンは、生気のない目でエリート社会の鉄則「中身なんて関係ない(外見だけでいい)」と語っている。ベイトマンの殺人行為も、中身(=理由)はなく、外見(=結果)だけだった。しかし、その外見すらも消え失せたことで、全ての“意味”を失った……「何もない」という断定は、彼にとって最も耐え難いものだろう。ラストの“顔”は、あまり空虚だった。
余談:なんといっても、クリスチャン・ベール!濃ゆい芝居がしっかりと堪能できます。“鏡の中の自分を愛でるSEX”はかなり笑えますし、「悪魔のいけにえ」の亜種ともいえる“血まみれ全裸チェーンソー男(スニーカーを履いているのがミソ)”はやっぱり衝撃的。
面白くなかったので序盤で切ってしまいました。
まったく話が進展せず、私には合いませんでした。
2021年11月27日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
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人は誰しもが殺人を犯しているのでは?
頭の中でなら。毎日のようにそれは起こる。
思い通りにならない店員に、ライバルの同僚に。それらの不満は視界に映る不潔な路上生活者、娼婦、野良猫にも向けられる。
私の解釈では、彼の吐く汚い言葉は、殆どが妄想である。よく漫画などで妄想カットが挟まれ、後に主人公が我に返り実際は何も起きてないという演出があるが、この主人公は我に返らない。
そのため、どれだけ暴言を吐いても相手には聞こえてないか無視されているように見える。心の声だからだ。
本人も述懐しているように、殺人がアイデンティティになってしまっているのだ。親のレールで成功しただけの中身のない退屈な自分の。
名前よりも名刺が大事で、中身よりも見た目が大事。他人の名前で呼ばれても動じない、自らも他人の名前を騙る。自分の名前で呼ばれたときは「人違いです」病的に自分がないのだ。
婚約者は言う「お父様が社長で働かなくても暮らせるのになぜ仕事するの?」彼は答える「仲間になりたいからだ」ある種のカテゴリにはまった生活様式や服装をすることで辛うじて人としての輪郭を保っている。
冒頭で完璧なスキンケアを施しながら自分語りが入るが、そこで彼は透明なパックをする。そのパックが色つきでなく透明なのが1つの暗喩に見える。
マスクを被っているが、ひと皮向いても、同じ。
途中まで騙されかけたが、彼はサイコパスとは違うと思う。
幼い頃から周りが期待する型に添った自分を演じるうちに、本当の自分が分からなくなってしまったのだ。育む機会がなかったというほうが正しいかもしれない。
だから自分が『ほんとうに』好きなことや楽しいことが分からない。人を愛することもできない。人より秀でていることや、自分が不快にならないことだけが重要。完璧なボディメンテナンスにそれが現れている。
男が…という人もいるけど、女にもこういう人はいる。
自分にしか関心がなく、セックスの最中も気になるのは自分のボディーライン。噛み合わない会話。ステータス自慢。
音楽は聴くけれど、感想は何かの丸暗記のようで、一方的に語るだけで人と共有できず、好みも支離滅裂。ただ雑音を遠ざけるだけの装置のようにも映る。一方で必死に人間的な感受性に触れたがっているようにも見える。
安定剤漬けのセックスフレンドは、いかにも空虚さを抱えたニューヨークの上流階級の娘で、どこかしら彼と波長が合っている。
彼はすぐ嘘をつく。しかもすぐにバレる嘘だ。虚言癖のように。後半、自分でも何が嘘か本当か分からなくなっている様子が、刑事への受け答えに現れる。
仕事の書き込みが皆無の、女の名前と暴力的お絵描きまみれの手帳を発見した秘書は、恐怖よりも哀しみを浮かべている。子供が病んでいるのを発見した親のように。
彼は電話やエクササイズをしながらビデオを流しているが、1つは3PのAV、2つ目はチェーンソーを振り回す男のホラー。私はこれがヒントだと思う。
創作(妄想)と現実の区別がなくなっていく。
この映画はその境界線が分からないように出来ている。
もちろん実際にやっている可能性もゼロではない。
でも重要なのは、彼や我々が「本当の自分」などというとき、「本当」なんて存在するのか?そんなものは最初からどこにもないのではないか。薄っぺらい現実に嫌気が差した時、本当を作り上げ、現実を偽りにするのかもしれない。
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