「この世界に存在するかもしれない"確かなもの"について」あの頃ペニー・レインと 第2電気室さんの映画レビュー(感想・評価)
この世界に存在するかもしれない"確かなもの"について
原題『Almost Famous』として2000年に製作された本作は、母親の厳しい教育方針により、性の知識はもちろん、ロックさえ聞いたことのなかった"超"が付くほどウブな15歳の少年=ウィリアムの成長を描く物語だ。
姉がベッド下に隠していったレコードでロックに目覚めたウィリアムが、その後、駆け出しの音楽ライターとしてバンドの全米ツアーに同行した際の出来事が、高揚感と悔しさと挫折と──つまりは青春の全てを凝縮した濃度で展開していく。
鑑賞後に胸に残る温かさは、きっと明日も前を向いて歩く勇気になるはずだ。
この作品が爽やかさと温もりに溢れた印象となる理由のひとつに、「はっきりとした悪人が登場しない」ことが挙げられるように思う。
ときに毒親的に振る舞う母、その母との折り合いが悪くボーイフレンドと家を出ていく姉、メンターとしての役割を果たす地元音楽誌の編集長、バンド=スティル・ウォーターの面々、そしてグルーピーのペニー・レイン。(本人たちはグルーピーでなく、純粋にバンドを愛するバンドエイドを自称している)
誰もが本質的に良い人たちで、ウィリアムと同じく、それぞれに理想を持ち、悩みを抱え、ギャップの中で──言い換えれば「almost〜」という、"あわい"のような、過酷さと美しさが混ざり合う時間のなかで戦っている。
almost famous=ほとんど有名=ブレイク前夜。
このタイトルがバンドの状況を表すように、耐えがたい子離れの時と、渇望した自立の時と、商業主義による憂うべきロックンロールの退廃と、そして望むほど逃げていく本当の愛と、それぞれが"あわい"のなかで対峙しているのだ。
バンドメンバーのラッセルがLSDでハイになったとき、若者やら玩具やらを指し示しては「これがリアルだ。リアルなんだ」とわめき散らすのは、確かなものを手に入れたいという本音の吐露、ドラッグにより思わず漏らしてしまった弱音に他ならない。
では、"確かなもの"を掴みきれないなかで、結果的に彼ら≒物語を支えたのは何だったか。
それはウィリアムの母の「いまからでもマトモになれるわ」というセリフだ。母の愛だけが、作品の始まりから終わりまで一貫して確かに存在していたものだった。
リアルがリアルを紡ぐ。私たち自身も、身近に存在しているかもしれない"確かなもの"に目を凝らし、見つけることができたなら、それを大切にしなければならない。
ラストでは登場人物が各々の決断をし、それぞれの人生は続いていく。
"あわい"のなかで悩んだことのある人、いま悩んでいる人に、強く強くオススメしたい。
それが誰なのかは、あなた自身がよく分かっているはずだ。