スティーヴン・ダルドリーの手による二〇〇二年の映画「めぐりあう時間たち」は、二十世紀文学の深淵に触れたヴァージニア・ウルフの精神を、三つの時代の重層構造へと転生させた野心的な文芸映画である。本作は、映画という媒体が持ち得る洗練された工芸品としての性格を極限まで突き詰めており、十九世紀的演劇性と現代的編集技術が高度な次元で融合した稀有な一作である。
作品の完成度を考察する。本作の白眉は、ピーター・ボイルの編集が「日常の反復」という視覚的リズムによって、異なる時間をひとつの意識体へと昇華させた点にある。洗面、卵を割る音、花を飾る動作といったモチーフが、時代を超えて共鳴するシームレスな転換は、時間芸術としての映画の優位性を存分に発揮している。しかし、この洗練は同時に、映画が本来持ち得る「生の無秩序さ」を去勢し、すべてが運命論的に収束していく箱庭的な調和をもたらした。構成は完璧であり、観客の情動を一定の方向に導く設計図は極めて精緻だが、その整合性の高さゆえに、既存の映画技法の集大成という枠組みを脱するまでには至っていない。脚本のデヴィッド・ヘアは、ウルフの思想を普遍的な「生の問い」へと整理したが、文学的な台詞回しが俳優の身体性を規定し、映像言語が語るべき沈黙を言葉で埋めてしまった点は、文芸映画の宿命的な限界を露呈している。
役者の演技において、本作は三人の主演女優による競演が核心を成す。
ヴァージニア・ウルフを演じたニコール・キッドマンは、特殊メイクによる外見的変化以上に、精神の均衡を欠いた人間の「焦点の合わない視線」を克明に演じ、アカデミー主演女優賞を獲得した。彼女の演技は、常に死の磁界に引き寄せられる作家の孤独を、冷徹なまでの様式美で表現している。その表現は高度に計算されたテクニックの産物であり、理知的なアプローチによって、神経症的な作家像に圧倒的な説得力を与えた。
ローラ・ブラウン役のジュリアン・ムーアは、戦後アメリカの幸福という神話の中で窒息していく主婦の絶望を、抑制された静止の演技で描き出した。彼女の瞳に宿る空虚は、言葉による説明を排してなお、観客にその深淵を見せつける。本作において最も純粋な映画的表現を担っているのは彼女であり、静かなる崩壊を体現したその手腕は、見る者の肺腑を突く。
クラリッサ・ヴォーン役のメリル・ストリープは、現代のニューヨークを舞台に、過去の亡霊と闘う女性の焦燥を多層的に演じた。彼女の演技は、日常的な動作の中に深い愛情と諦念を滲ませる卓越したものであるが、その老練さは時としてキャラクターの切実さを上回り、技巧の高さが際立つ結果となっている。
リチャード・ブラウン役のエド・ハリスは、病に蝕まれた肉体と、崩壊していく精神の極致を見せた。彼の窓際での最期は、本作における悲劇の絶頂であり、その凄絶なリアリティは助演の枠を超え、作品の倫理的支柱として機能している。
晩年のローラを演じたトニ・コレットは、クレジットの最後を締め括るに相応しい重厚な存在感を放つ。過去に下した非情な決断と、その結果としての「生き延びた者」の矜持を、彼女はわずかな出演時間で完璧に定着させた。
映像と美術に関しても、一九二三年の沈鬱な褐色、一九五一年の偽飾的なパステル、二〇〇一年の冷涼なブルーという色彩設計は、それぞれの時代の閉塞感を補完し、物語を美学的に統一している。フィリップ・グラスによるミニマル・ミュージックは、反復する日常の虚無と、逃れられない運命の足音を旋律化した。特定の主題歌を持たず、通奏低音のように流れ続けるこの音楽は、映画全体をひとつの巨大な意識体へと昇華させている。
総じて「めぐりあう時間たち」は、二十一世紀初頭のハリウッドが、文学という高尚な素材を、最高の技術と人材で料理した至高の成果物である。その美しさは、完成された墓標のような静謐さを伴っている。良質な文芸映画というジャンルの完成型として記憶されるべきだが、その足取りはあまりに典雅であり、既存の美意識に忠実な、極めて保守的な傑作である。
作品[The Hours]
主演
評価対象: ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープ
適用評価点: A9
助演
評価対象: エド・ハリス、トニ・コレット
適用評価点: B8
脚本・ストーリー
評価対象: デヴィッド・ヘア
適用評価点: B+7.5
撮影・映像
評価対象: セイマス・マクガーヴェイ
適用評価点: B8
美術・衣装
評価対象: マリア・ジャーコヴィク、アン・ロス
適用評価点: A9
音楽
評価対象: フィリップ・グラス
適用評価点: A9
編集(加点減点)
評価対象: ピーター・ボイル
適用評価点: +2
監督(最終評価)
評価対象: スティーヴン・ダルドリー
総合スコア:[82.2]