大きな川が映し出され、カメラが静止する。永遠のような間があり、向こう岸の土手の稜線から無数の黒点が湧いてくる。黒装束に身を包んだ村人と花婿だ。すると此岸からも人々が。こちらには白装束の花嫁がいる。彼らは川越しに結婚式を執り行う。川=国境を隔てた危険な儀式。花婿と花嫁は今にも越境の禁忌に手を触れそうになる。しかし一発の銃声が鳴り響き、それまで結婚を祝賀していた人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。カメラはまだじっと川を捉えている。しばらくして花婿と花嫁が土手から川べりに降りていく。それから川を隔てて向かい合い、互いの愛を確かめ合うように同じ動きをする。しかし花嫁はふと踵を返し、泣き暮れながら走り去る。
何かを誰かが撮るという行為には多かれ少なかれ恣意性が伴う。撮るべき対象ははじめからそこにあったのではなく、誰かがそこに配置したものである。それゆえ映像には作り手個人の好悪やイデオロギーが否応なしに反映される。そしてその出力が一定のラインを超過したとき、作品はプロパガンダに堕する。しかし、かといって偶然を無作為に羅列してみたところで、そこに現代アート的な批評性はあるかもしれないが、一回限りの不意打ちにしかなりえない。
アンゲロプロスもまた何かをカメラに収める映像作家である以上、恣意性の呪いから完全に脱却することはできない(というか世界中のどこを見渡してもそんな作家はいない)。しかし彼の場合、限界まで判断を留保する。カメラを固定したまま、あるいは動いているのかいないのかわからない速度で微動させながら、沈黙を貫き、貫き、なお貫く。そして終いには映し出された人物や風景のほうにその歴史の蓄積や矛盾を吐き出させてしまう。
土手の向こうから黒い群衆が現れるシーンはその好例だ。彼は旧ユーゴ圏とギリシャに跨がる移民の問題について、自分(本作でいえば彼の分身たるギリシャ人のテレビディレクター、次作『ユリシーズの瞳』でいえば映画監督のA)の口から何事かを語ろうとはしない。彼らはひたすら待ち続ける。待ち続けることによって映像に語らせる。そういう撮り方・見せ方が非常に上手い。語るのではなく、語らせる。寓話的で超自然的な演出が多いにもかかわらず、そこにプロパガンダじみた政治性を感じないのは、彼の徹底して他動的な撮影スタイルゆえだろう。
本作が製作された1991年といえば、セルビアとクロアチアの民族対立を主旋律としたユーゴスラビア紛争が幕を開けた年だ。「民族自決」を錦の御旗に血で血を洗う凄惨な戦闘が連邦各地で巻き起こっていた。本作の舞台となるギリシャの小さな町(通称「待合室」)はユーゴスラビアの諸共和国とも北端を接しており、イラン人やクルド人といった中東人のみならず、ユーゴ圏からの難民も多く暮らしていた。それゆえ「待合室」にはただならぬ民族的緊張が漂っている。それだけではない。東欧諸国の不安定な情勢は国境線を侵犯不可の壁に変え、それによって人々は分断を余儀なくされることさえままある。あの花嫁と花婿のように。
ここに立ち現れてくるのは「一歩踏み出せば異国か死」しかない「国境」の不条理だ。すぐ近くに戦争や死の恐怖が迫ってきているというのに、あるいは川を挟んだ向こう側に最愛の人が待っているというのに、なぜ彼らはそこで立ち止まっていなければならないのか。思えば前作『シテール島への船出』においても、国籍を持たぬがゆえに上陸を許されず、ロシア行きの船が来るまでの間を川に浮かんだ橋の上で過ごす老人の姿が描かれていた。
さて、国境とは何であるのか。ナショナリズムの輪郭線である、とひとまずは言っておく。殊に互いの民族主義が激しくぶつかり合っていた東欧周辺においては、国境の持つ意味はなおさら大きい。それは「我々」と「敵」を分かつ絶対的審級なのだ。他国とじかに領土を接していない日本のそれとは比較にならない。またこの強固な「我々」と「敵」の意識は、国家のみならず、共同体、友人、パートナーといった具合に下層へ下層へと浸透していき、終いには自分自身が「敵」であるという倒錯に辿り着いてしまう。本作の元大物政治家がその好例だ。しかしアンゲロプロスは「国境」がもたらすそうした悲劇を乗り超える術を懸命に模索し続ける。
ラストの電柱工事シーンはその一つの実践だ。電柱とそれに登る工事夫を捉えたカメラは徐々にズームアウトしていくが、電線はどこまでも果てしなく伸びている。おそらくそれは画面を越え、視界を越え、国境を越え、どこまでも伸びていって世界を一つに接続するのだろう…
本作に込めた意図をそう語りながら「まあ、一人のロマンチストの戯言だよ」とはにかむアンゲロプロスを見て、ますます彼への尊敬の念が強まった。