なんて小粋なセリフの応酬!と思ったら、
この監督、ジャック・リヴェット映画の常連脚本家さんなのね。どうりで。
信頼しているレヴュアーさんが激賞していたのと、
一応、大学で美術史専攻だったので観に行ってみた。
文化村は元東急のところが改築中で、現時点でビックカメラのある小汚いビルに移っているが、相変わらず客層の品が良くて、少しお金を持っていそうな中高年の夫婦が多い。明らかに他の映画館と一線を画している(笑)。
映画は、観に行った甲斐のある良い映画だった。
90分という軽めのヴォリュームで、フランス映画の一番上質な部分をさくっと味わわせてくれる、軽やかな映画。
「会話」と「間」と「空気」を楽しむ、心地よい「映画の時間」。
語りすぎず、適度に謎を残し、歯ごたえはあるけど、無理強いはしない。
食前に出てくる、重たすぎないワインのような、芳醇な映画だ。
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話の大筋は、概略でいえば、田舎の工場労働者の家からエゴン・シーレが出てきて、それをオークションにかけたら高値で売れましたってだけで、それ以上でも以下でもない。
個人的には、オークションにまつわる真贋の鑑定だとか、コレクター間の駆け引きだとか、競りを用いたコン・ゲーム的な仕掛けだとか、そういう要素を強調した「美術ミステリー」だとばかり思って観に行ったのだが、ぜんぜんそんなことはなかった(笑)。
一応、「仕掛け」は出てくるけど、トリック自体にそこまで力点は置かれていない。
「エゴン・シーレ」という部分についても、たいして多くの蘊蓄が披露されるわけではない。簡単な絵の描かれた経緯と、たどった来歴が語られるだけだ。
むしろ描かれるのは、その過程で登場する人々の群像劇だ。
バルザック『人間喜劇』の伝統とでもいうべきだろうか。
成り上がりで偉そうだが、仕事には誇りを持っている有能なオークショニア。
もはや恋愛関係にはないが、仕事の同志としては信頼しあっている彼の元妻。
出だしから息を吐くようにウソばかり吐いているオークショニアのアシスタント。
欲がなく周囲との和を大切にしながらも、芯のしっかりした絵画所持者の青年。
交渉の大事な山場で、休暇をとってスキーに行っているマイペースな女性弁護士。
その他、アシスタントのお父さんとか、お父さんみたいなのとか、青年の友人とか、お母さんとか、絵の所有権をもつユダヤ人一族とか、周辺の人物を含めて、磨き上げられた人物描写がつづく。
この人たちが、絶妙にクセがあって、(青年以外)絶妙に感じが悪くて、それでも絶妙に嫌いになれないんだよね。なんとなく人間味があって、目を離せない。
彼らの関係性や、彼らの性癖について、ことさらの説明があるわけでもない。
たとえばアシスタントのオロールが、なぜウソばっかりついているのかも、結局、彼女の血縁関係はどうなっているのかも、最後まで観てもよくわからない。
でも、彼女が複雑な家庭環境のもとで育って、父性に対して執着とともに対抗心を燃やしていて、虚言癖で武装する自分の在り方に本人も疲れを感じていて、父性に対するわだかまりが職場での上司との衝突にもつながっているというのは、しっかり伝わってくる。
他人のことなどどうせわからないものなのだから、それだけわかればあとは「謎」のままでも、別段映画としては構わないわけだ。少なくとも、監督がそう考えているのはわかる。
あるいは、主人公のオークショニア、アンドレ・マッソン(著名なシュルレアリスムの画家と同姓同名。わざと?)の半生についても、映画の中できちんと語られるわけではない。きちんとは語られないながらも、彼が田舎から出てきた「成り上がり」で、上流階級にしがみつきながらもガッツを持って仕事に臨み、背伸びをしながら技量を磨き、今の彼が自身のオークショニアとしての鑑定眼と絵画売買の能力に誇りを持っていることは、よくわかる。何本もそろえられた高級時計や室内の凝った調度品、服装、高級車愛好、立ち居振る舞いなどから、彼の「出自」と目指している「見え方」がほの見えてくる。彼のスノビッシュな部分は、彼の燃え盛るガッツと反骨心の裏返しでもあるのだ。
それから、エゴン・シーレのオークションに立ち会った青年が、終盤で大泣きするシーンがある。あれはとても印象的なシーンだ。あそこで、なんであんなに泣いていたのかについてのちゃんとした説明はなされない。でもあのシーンで大の大人が「泣く」というインパクトはとても大きくて、こちらも「なにが彼をあそこまで泣かせたのか」を一生懸命考えることで、この映画への理解と認識が深まっていくところがある。
かように、「語りつくさない」部分で、観客の能動的な参加と思考の加速をうながすような、「働きかける」作用が、この映画にはたしかにある。
そして、僕はそういう映画がけっして嫌いではない。
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僕には、美術業界を題材にしたフランス映画で、ものすごく好きな映画がある。
アラン・ドロン主演の『プレステージ』(76)という映画で、ワーカホリックの美術商が、ひたすら走って、走って、働いて、働いて、セックスして、働いて、走って、セックスして、働いて、働いて、唐突に心臓麻痺を起こして倒れて死んで、話がそのまま終わってしまう凄い映画だ。
僕も比較的近いような仕事のスタイルでもう30年近くやってきたので(笑)、ものすごく主人公の生き方には共感するし、なんならアラン・ドロンの映画で一番かっこいいアラン・ドロンが観られる映画だとも思っている。今回のオークショニアを見て、ちょっと『プレステージ』のアラン・ドロンを思い出して、良いよなあ、こういう生き方、いっつもヒリヒリしてて、アドレナリンもドバドバ出るだろうなあ、とうらやましく思った。
上司や部下との関係性も、別れた奥さんとの関係性も、あまり日本ではなさそうな感じのノリで、いかにもフランス映画といった感じが強い。
でも、これはこれでなんとなく楽しそう(笑)。
言いたいこと言い合って、文句も言い合って、嫌いな感情も思い切りぶつけて、ひりひりして、ぎすぎすしながら、それでもエキサイトしたあとは和解して、熱い思いも共有できて、最後は自然な形で寄り添えるというのは、日本とはまた違う個の尊重の在り方だろう。
それから、本筋のオークションに関わる「仕掛け」自体は簡素なものだが(リアルな人間描写のテイストからすれば、このくらいのギミック程度でちょうどよい)、その代わりに、周辺の事項で思いがけない展開や伏線を結構張っていて、なんでこんなエピソードをぶち込んできてるんだろうなと思っていたような話が、終盤で巧みに生かされてくるのが純粋に面白かった。
特に、「新たな恋でわくわくしてる」元奥さんの意外な「恋の正体」とか、
アシスタントのトラウマになっている過去話が終盤生かされる展開とか、
思っていたよりも素直で良い人だったユダヤ人富豪の変わり身ぶりとか、
昇進を確約されたあとに主人公が見せる意外な決断とその「理由」とか、
「ミステリではないけどミステリみたいな」組み立ての巧さに感心した。
そう思いながら、家に帰ってからパンフを観たら、この監督ってアガサ・クリスティの『ホロー荘の殺人』を原作とする『華麗なるアリバイ』(2008)を撮った人だったんだな。あれは映画館で観た記憶がある。というか、2010年7月に、劇団フーダニット公演の『ホロー荘の殺人』(戯曲版)と映画『華麗なるアリバイ』をハシゴしつつ、原作小説を合わせて再読するという得難い「三重」体験をさせてもらったのだった。あの映画を撮る監督なら、ミステリ的な手法に知悉していてもおかしくない。
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以下、雑感。
●予告編がほとんど映画のダイジェストそのまんまなんだけど(笑)。
●主演のアレックス・リュッツって、ダリオ・アルジェントとフランソワーズ・ルブランが老夫婦を演じた『ヴォルテックス』(2021)の息子役だったのか!! パンフを観るまでまったく気づきませんでした。あっちはジャンパー来たヤク中の兄ちゃんだったからなあ(笑)。雰囲気変わるもんだ。
●本作に登場するエゴン・シーレの『ひまわり』は実在する。ただし、実物はロンドンで競売にかけられ、クリスティーズがそれをとりしきった(なので、日本クリスティーズの社長がパンフに寄稿したり映画のゲストに呼ばれたりしているのだと思う)。
ゴッホの『ひまわり』をエゴン・シーレなりに解釈した絵画だというが、一見して銀色っぽい平面的な背景といい、ちょっとセンターを外して天地を切ったような構図感といい、僕にとっては琳派の銀箔貼の秋草図屏風あたりをより強く想起させる作品である。具体的にいえば、酒井抱一(東京国立博物館本)や鈴木其一(出光美術館本)のような。ゴッホ自身、ジャポニスムの影響を強く受けた画家だったことはよく知られているが、エゴン・シーレもかなりジャポニスムの影響下にあった画家であることは間違いないと思う。
あと、あのひまわり、なんとなく「ほおずき」感があるよね(笑)。
●『ひまわり』に関してさんざん贋作呼ばわりしていた主人公と元嫁が、現地で作品の前に立った瞬間、大笑いを始めるシーンは印象的。バカにして笑うなんてひどいじゃないかと言われて「失礼、興奮してしまって。まさか真作と出合えるなんて」と返す。要するに、ふたりとも観た「瞬間」にこれが真作だと「見極め」、確信し、その自分の判断には一切の疑念がない。それだけ、二人が絵画鑑定に関しては本物のプロであり、自信をもった目利きであることを示す好シーンである。
ついでに、お母さんがぶっ倒れる様子が「音だけ」のオフスクリーンで描かれるのは粋な演出。テンポ感も絶妙で面白かった。
●ユダヤ人の絵画所有者の見た目って、誰かに似てると思ったら、指揮者のクリストフ・エッシェンバッハか。ラストの拍手のシーンは、感動するというよりは、ちょっと自己啓発セミナーみたいな空気でしょうじき怖い。
●「ナチスによる絵画略奪」「退廃美術」に関しては、これまでも何本か劇映画やドキュメンタリーが撮られている。本作では、ここにはあえて深入りはしないと決めて撮った気配があるが、原題「盗まれた絵画」の「盗まれた(volé)」の使い方はちょっと気になる。
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本作のキモになっているのは、ウソにまみれた美術売買の業界のなかで、ウソに順応してしたたかに生きる主人公と元妻および、強迫的にウソを吐きつづける部下を描きつつ、対比的に、いっさいのウソのない生き方を選択して貫く青年マルタンを置いてみせる構図である。
本作でのマルタンは、絵画がナチスによる盗品だと判明した瞬間から、無償で手放して遺族に返すことを当たり前のように決めて、その決断を貫くためならば親友とのつかみ合いも辞さない信念の持ち主である。
ただ彼の場合、かたくなに清廉な生き方をごり押ししているというよりは、あくまで自然体で過ごしているだけ、というのが重要だ。当たり前のように無私に、まともに生きて、勤労をたっとび、仲間をたっとび、家族をたっとぶ。そして、ラストのあの決断!
僕は本作でのマルタンの描写を見ながら、少しロッセリーニの『神の道化師、聖フランチェスコ』(50)を思い出していた。
あそこに出てくるフランチェスコや、同志ジネプロの虚心で自然体の虚飾を排した生き方こそが、実はマルタンの原型なのではないか。欲にまみれた美術売買の世界を描くにあたって、監督が対比したかったのは、実はフランシスコ会修道士たちの純粋な精神性なのではないか。
フランシスコ会の会則には以下の文言がある(Wikiより抜粋)。
高価な衣装を着、美味な飲食物を食べている人を見ても軽蔑したり裁いたりしてはならず、むしろ自分自身を裁き軽蔑せよ。直接にせよ間接にせよ金銭を受け取ってはならず、何物も所有せず、清貧と謙譲のうちに主に仕え、喜捨を請うことを恥じず、清貧を友とせよ。
この「軽蔑したり裁いたりしてはならず」の部分が、いかにもマルタンっぽいと思ったのだが、いかがだろうか。