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いやーこれは、親も本人も大変だ。特に、いろいろあってサッカー観戦行脚を始めるまでの序盤は、見ていて正直つらくなってしまった。悪意のある人間が誰もいないのにぎすぎすした雰囲気になっているのが余計にきつい。自閉スペクトラム症の大変さへの理解は確実に深まる作品。
最初、母親のファティメはバス停で「自分の」席に座りたいというジェイソンのために老婆と喧嘩したりしていた。彼女だって一生懸命に、ジェイソンのことを思ってそうしたのはわかる(何年も日々何度となくああいう場面に遭遇するうち彼女のアプローチはああなってしまったのだろう。前振りとして、あまりよくない庇護の姿を描いているのだと思った。お婆ちゃんの言い分もわかる……)。
ただ結果的には、上手いタイミングでジェイソンのやる気を掬い上げ、スタジアム巡りという形で見知らぬ他人と間近に過ごす機会を作ったことが彼をめざましく成長させた。一番やりたいことができたことで、自分が作ってきたルールに少しずつ優先順位をつけることができるようになった。「可愛い子には旅をさせよ」とはよく言ったものだ。
ジェイソンと週末遠征を重ねるうち、それまでは仕事が忙しくて息子の面倒をファティメに任せがちだったミルコは妻の苦労を知り、ジェイソンのパニックや成長に向き合う。
出張ついでにスタジアムに行こうというジェイソンの提案をのんで出かけた先では、ジェイソンの教えてくれたオーロラに見惚れて荷物を失くし、息子の面倒を見るより仕事の方が楽だとつい本音を言ってジェイソンに当たってしまう。
この時のミルコの気持ちがとても切ない。家庭事情への上司の配慮で割り振られた仕事を飛ばしてしまえば、そりゃ感情的にもなる(もっとも根本原因はミルコの荷物管理がおろそかで置き引きにあったためで、ジェイソンの主張に足を引っ張られて列車に乗れなかったのはダメ押しに過ぎないのだが)。お父さんも大変だもの、時に失敗もするし感情的にもなるよ……。
ただ、ジェイソン自身は「仕事の方が楽ならパパが仕事を選ぶのは当たり前、それより試合を見られなかったのが許せない」というドライなスタンスで、意外な形でミルコのぶっちゃけが救われたのがちょっと面白かった。
週末遠征が定着するにつれ明るさを取り戻すジェイソンの家族。そんな中、ジェイソンはかねて関心のあった宇宙物理学の教授に会って、自分の才能で社会とつながる端緒を開く。学校では自分の特性を壇上で説明し理解を求め、自分の力で少しでも生きにくさを解消していこうとする。自立の芽が見えて、希望を感じるエンディングだった。
ジェイソン役のセシリオ・アンドレセンが上手すぎてうなった。2011年生まれということで、撮影時には物語のジェイソンと同じ10歳そこそこだったはず。自閉スペクトラム症当事者というわけでもないのに、多分再現度がかなり高い。モデルになったミルコ・ジェイソン父子のインタビューを読んだが、列車内での食事シーンなどはあまりにも現実と同じで、ジェイソン本人が恥ずかしくなってしまうほどだったそうだ。
(やたらサスティナビリティにこだわりを見せるくだりは、グレタ・トゥーンベリ氏を思い出してしまった。彼女もジェイソンと同じ特性の持ち主だが、サスティナビリティの思想と自閉スペクトラムの思考回路は何か親和性があるのだろうか)
現在のジェイソンはチューリッヒの大学で宇宙物理学を学んでいるとのこと。好きなことで居場所を見つけられてよかったね。
ドイツの様々なスタジアムと現地の熱狂的なファンの応援風景も見応えがある。私は欧州サッカーのことはほとんど知らないが、それでも観客席の熱量と一体感の特別な感じは伝わってきた。サッカー好きの人なら、次々映し出される現地スタジアムの風景も大きな見どころになるのではないだろうか。
ちなみに、ある観戦シーンに本物の方のミルコ・ジェイソン親子が出演していて、父ミルコは後ろから主人公親子に話しかけている。
世間の「普通」の感覚とのギャップ、そして自分の中で氾濫する発想の渦と闘いながら生きるジェイソンの大変さはよくわかったが、彼らには恵まれている側面もある。
一番驚いたのは、父ミルコの上司の寛容さだ。これはどこまで事実通りなのかと穿った見方をしたくなるほど理想的な職場。あの上司の采配がなければジェイソンたちはスタジアム巡り自体できなかった。あそこまで職場に恵まれずに、作品序盤のような余裕のないやり取りが延々と続く当事者家庭も少なくないのではと想像した。
もうひとつ、ジェイソンには物理学の才能があり、社会でもリスペクトされるその才能を育もうとしてくれる両親がいた。そのことが、彼の自立を助けてくれるだろう。
でも一般的には自閉スペクトラムだからといって、必ずわかりやすい何かに秀でているとは限らないのではないだろうか。作中で、家族は特殊学級について否定的だったが、自立して生きるという教育の最終目標のために、特殊学級が適する当事者もいるのではと思う。
ジェイソンの物語は個別の一例に過ぎず、神経発達症(発達障害)当事者にはさまざまな特性の人たちがいる。そこが第三者の理解を難しくする部分でもあるが、まずその事実を知り家族の気持ちを想像する人間が増えるだけでも、少しずつ何かが変わっていくのではないだろうか。