日本統治時代のとある金鉱山を舞台とした壮大な群像劇。主人公であるチュウとウェイの兄弟は長い旅の果てに金鉱山の街へと辿り着いた。この街で金を貯めて田舎に土地を買う。それが二人の夢だった。
金鉱町の地形はひどく歪だ。急峻な坂道にへばりつくようにして家や店が立ち並んでいる。太古からそこにある自然と、資本主義の論理がぶつかり合った結果として出力されるこうした不自然な街並みは、同国の映画であれば侯孝賢『悲情城市』などにも顕著に表れている。
ロケ地といい主題といい、本作は『非情城市』の裏トラックのような作品だといえる。『非情城市』では台湾の人々が中国本土からやってきた国民党政府に蹂躙されるさまが描き出されていたが、本作はそれよりも数十年前、つまり台湾が台湾総督府の支配下にあった時代を記述している。
両作とも名もなき市民たちの生活を通じて権威の欺瞞と悪辣を暴露するというスタイルをとっているが、侯孝賢に比べるとワン・トンはいささか喜劇的な筆致が特徴的だといえる。台湾総督府の圧制下にありながらも、そこに住まう人々はどこか楽天的だ。狭苦しい日常の中にありながらも祭りや性行為といった喜劇性を各々が見出している。そうすることによって不安と絶望の日々をやり過ごしている。
しかしそうした喜劇性がふと崩落する決定的瞬間がある。本作の喜劇的な筆致はまさにその極点を目指している。
街の遊郭にガサ入れが入る一連のシークエンスなどがその好例だろう。矢継ぎ早でリズミカルなショット展開が停滞し、突如としてカメラは目の前の惨劇を記録する光学機械へと様相を変える。直前までの喜劇性との落差が本シークエンスの迫真性を倍加していることは言うまでもない。
侯孝賢の長回しはどちらかといえば物語や登場人物との精神的な距離感を確保するためのものだが、ワン・トンのそれは苦痛をやり過ごすためのフィクションがふとした瞬間に覗かせてしまう「現実」であるといえる。
ラストの名の花畑のシーンも同様に長回しの手法が取られている。石垣にもたれかかるウェイと富美子。互いに言語の通じないはずの二人会話はなぜか噛み合っている。そこには言語というある種のナショナリズムを超越した先にある人間同士の融和が立ち現れている。
物語が辿る結末は非常に苦しいものだ。金鉱町で未亡人のズーと恋愛関係を取り結んだチュウは、金鉱から金を盗もうとして爆薬を仕掛けたところ、その爆発に巻き込まれ死んでしまう。チュウを喪ったズーは必死に貯めてきた貯金を全て下ろし、街を後にする。
遊郭で働く富美子に恋をしていた少年は、富美子が日本人に乱暴されたことに対する復讐のため所長を殺害。翌日、その咎で処刑される。
作中に漂っていた喜劇性はいつしか消え去り、街には残酷な現実だけが残る。遊郭のママが道ゆく男の裾を引き、麺茶売りの老爺が声を張り上げる、かつての街の喧騒はとうに鳴り止んでいた。無言の丘。