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◯作品全体
タイトルにもある「フィクション」という題材の使い方が面白い作品だった。
本作には「フィクション」がたくさんある。主人公・モンクが作った黒人物語はステレオタイプな黒人を登場させて「こんな黒人像はフィクションだろ?」と訴えるような作品だ。しかしそのフィクションは白人にとって都合の良い「マッチョで悲しい物語」であるため、支持を得てしまう。冷めた感情で作ったフィクションをリアルだとして熱狂する読者たち。この構図をコメディだけでなく、都合良くフィクションを掬い上げる社会に対しシニカルな表現で映していたのが印象的だった。
特に白人の登場人物は、ほぼ全員が営利主義であり、都合良くモンクを操り始める。かといって白人は狡猾な人間としてではなく、「こうしたほうが儲かるし、都合が良いから」とハイテンションで絡んでくるのが異様だ。黒人を主人公とするフィクションに登場する「白人の救世主」とも違う、向こう見ずなフィクション白人。モンク一族だけが地に足のついた悩みを抱えているのは、モンクの視点を通した「都合良く切り取った部分を望む調子の良いやつら」として存在しているからかもしれない。
モンクの作品を授賞させようとする風潮に対し、モンクはノンフィクション映画として作品を売り出す。物語を作るに至るモンクの心情を暴くことで物語がフィクションに過ぎないことを訴えようとするが、作品のラストをプロデューサーによってリテイクされてしまう。ここで唐突に映し出されていたものがフィクションであったと示されるのはすごく驚きがあったし、シームレスにプロデューサーが物語をストップさせる演出が面白い。
代案として出したフィクション特有の壮絶なラストは案の定ウケて、結局のところはフィクションの物語として落ち着いてしまう。抗ってはみるものの、モンク一人だけの抵抗ではどうにもならない。ラストシーンでザ・典型的な黒人衣装を身にまとった黒人役者がモンクの前に現れるが、モンクは軽く挨拶をするだけでその場を去ってしまう。社会に根付いた先入観と「フィクションに望む黒人像」の根強さに諦めてしまったようなラストは、少し哀愁すら感じた。
主人公・モンクや作中の白人などなど、フィクションに望む黒人像は様々だ。本作ではその様々な価値観やその勢力関係をモンクのノンフィクションとして語るという、トリッキーな構成が独特で面白かった。
○カメラワークとか
・救急病棟に運ばれた姉を見るモンクのシーン。姉の表情とかは映さず、施術されてなすがままに揺さぶられる足だけを映しているシーンが印象的だった。モンクの主観にすることで姉の苦悶よりもモンクが受けた衝撃にクローズアップする演出が心に刺さる。モンクの物語であることを徹底しているようにも感じた。
○その他
・モンクとガールフレンドが喧嘩するシーンはすごくありふれた中盤の山場でうんざりした気持ちになったんだけど、ラストシーンで実際はガールフレンドと音信不通のままという話をしていて、モンクには申し訳ないけど嬉しい気持ちになった。フィクション特有のセオリーに則っていないところが良い。
・兄・クリフが良いキャラクターだった。問題児だけど、その分ズカズカとモンクへ踏み込んでいける。でも母にゲイであることを見透かされると真っ青な顔をして部屋を出ていってしまう。踏み込むのは得意なのに踏み込まれるのは苦手っていう性格が凄く人間味があって好感を持てた。
・モンクの作品が受賞することが決まったあと、階段に飾られたドールテストの写真をモンクが見つめる。ドールテストは黒人の児童に白人の人形と黒人の人形を見せ、どちらを選ぶか実験したものだ。大半の児童は白人の人形を選んだといい、白人が優遇され黒人は制限される社会で過ごす黒人は、幼いころから人種の優劣を植え付けられていることがわかる。ただ、本作の場合だと立場は逆といっても言い。黒人だから受賞を、黒人の作品だから映画化を、という黒人優遇の取り扱いを受けている。ただ、根底にはドールテストを行った頃の社会があって、その贖罪の意味も含んでいる。白人と黒人の優劣がねじれた、おかしな社会を表現しているようなシーンだと感じた。
・アマプラの字幕がひどかった。セリフの後ろに付くクォーテーションマークがクエスチョンマークに化けてる。雰囲気が台無し。