劇場公開日 2025年7月11日

顔を捨てた男 : 映画評論・批評

2025年7月8日更新

2025年7月11日よりヒューマントラストシネマ有楽町ほかにてロードショー

外見と内面をめぐるシュールな問いかけが我々の意識に揺さぶりをかける

今さら言うまでもないが、A24の映画はいつも観客の凝り固まった価値観を巧妙に揺さぶる。本作もこれに同じ。無二の視点とユニークな語り口を持ち、「外見とは?」「アイデンティティとは?」という直球なテーマを我々に投げかけ、体の芯を稲妻で貫く。2時間足らずの映像体験によって意識が変容するのを何よりも期待する人にとって、まさに打ってつけの一作と言えるだろう。

主演のセバスチャン・スタンといえば、片腕を失ったマーベルヒーローといい、どこぞの偉大な大統領の若かりし頃といい、”外見の変貌”を伴う役柄が多いように思えるのは私だけか。今回演じるは、顔に大きな変形があるエドワード。ニューヨークで行き交う人々の視線から目を伏せつつ、やや内向的な性格を抱えて生きる人物である。

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そんな彼は、隣室に越してきた劇作家志望のイングリッド(レナーテ・レインスヴェ)に惹かれ、それと同時期、とある治験によって自身の顔が変化を遂げるのを実感する。生々しく崩れ落ちた肌の底からは全く新しい自分の姿が。いつしか過去と決別し、ガイという別名で意欲的に生き始めるのだが、しかしある日、イングリッドとの再会によって、昔の自分へと引き戻され始め・・・。

あらかじめ言っておくと、これは「美女と野獣」的なストーリーではない。むしろここから劇作家になったイングリッドの戯曲「エドワード」を用いた劇中劇的な展開があり、さらにはかつての自分そっくりの外見を持つオズワルド(アダム・ピアソン)が目の前に現れることで更なる価値観の揺さぶりが起こる。そう、事態は刻々とチャーリー・カウフマン的なポストモダン&メタ的な流れへ突き進み、「あるべき自分とは何か」を様々なレベルで問う実験劇場と化していくのだ。

また、この映画におけるピアソン(実際に顔の変形を抱えた俳優でもある)のエンターテイナーぶりは格別で、彼の登場によって作品の第三幕が鳥のように颯爽と羽ばたき出すと言っても過言ではない。それに序盤のスタンが特殊メイク用いて表現した症状を、ピアソンは偽らざる生身で演じているという点も、観客に「どう演じるか」を巡って様々な問題意識を投げかける。

恐らく10人いれば10人、感じることは違うはず。それでもなお「外見や内面」をめぐるひとつの意識が刻まれ、その波紋が自分の中で時間をかけて広がっていく。まずは体験してみるに越したことはない。そんな稀有な作品だ。

牛津厚信

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