コット、はじまりの夏のレビュー・感想・評価
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髪をなびかせて
コットは、一言にまとめると陰気な子だ。冒頭、草むらに埋もれている白っぽい(正確には黒ずんだ)かたまりが彼女、とはなかなか認識できなかった。彼女は、いつもどこでも居心地悪そうにしている。誰にも気づかれない、人知れない悲しみが、外にあふれ出さないよう、おずおずとしているようにも見えた。
そんな彼女が、邪魔者を追いはらうかのように田舎の親類に預けられる。おば(正確には、母のいとこ)はやさしくコットに寄り添い、手を差し伸べる。自分をいたわり慈しんでいい、と彼女は初めて知ったのかもしれない。けれども、彼女をほんとうに大きく揺り動かしたのは、おじ(彼女の夫)のように思えた。
最初は無愛想で、関わりを避けていた(それには相応の事情があるのだが)彼が、次第に彼女に目を向け、情を感じていく過程があたたかい。悲しみや寂しさに沈みそうになる彼女を、敏感に感じ取りそっと掬い上げ、「足が長いんだから、きっと速い」と全力で走ってみるよう誘い掛ける。彼の言葉自体は素朴で、名言というわけではない。それでも、コットに語りかける姿そのものが、彼女への想いに満ちていて、心に沁みた。
おばが丁寧に梳きほぐした髪をなびかせて、コットが全速力で走る姿が忘れられない。所在なさげにうつむいていた彼女が、まっすぐに前を向き、自分の人生をつかみ取ったその瞬間。穏やかにきらめく木漏れ日や吸い込まれそうな水面、豊かな自然とその音が、物語に絶妙な効果をあげていた。時を経るとむしろ鮮やかに、思い返すほどに余韻がじわじわと心に満ちてくる。小さいけれど、豊かで広がりのある作品だ。
寡黙でも不器用でもいい、そこがあなたの居場所です。
主人公のコットを演じたのは、本作で映画デビューを果たしたキャサリン・クリンチちゃん。貧しい大家族で育ち、不遇な境遇のうちに心を閉ざしがちな寡黙な少女を透明感あふれる演技で好演!史上最年少の12歳でIFTA賞(アイリッシュ映画&テレビアカデミー賞)主演女優賞を獲得したというのだから素晴らしいですね。
コットは、ひと夏預けられた親戚の家で戸惑いながらも少しずつ心をひらいていきます。叔父叔母の不器用ながらも真実の愛に触れ、生きる喜びや自分の居場所を知っていきます。ラストシーンで待っている感動のその先は、私たちの余韻に委ねられます。
特別なサプライズや仕掛けがあるわけでもないのですが、なぜだか心揺さぶられ優しい涙が溢れ出すこと必死な良作です。お気に入りのシーンは、叔母さんがコットちゃんの髪の毛をとかすシーンと叔父さんとコットちゃんが郵便ポスト前でかけっこするシーン。
親子で、お友達と、もちろんおひとりで静かに…
ご鑑賞いただけるオススメの映画です♪
もし今作品を日本でリメイクするとするならば、叔父役は在りし日の高倉健さん、叔母役は倍賞美津子さんがよかったな…なんてついつい妄想してしまう…。年齢バレてます?!
素朴な中に煌めきがある。思い返すだけで涙ぐんでしまう
言うなればこれは素朴な物語だ。大家族の家長はギャンブルにうつつを抜かし、人に対する態度も最低。彼自身、己に愛想が尽きて、もはや開き直っているようにも見える。そんな多難な家庭に育った物静かな少女コットが、母の出産までの間、親戚夫婦の世話になることに・・・。きっと多くの観客は親戚夫妻を目にする瞬間、外見にほとばしる優しさと慈愛に心底ホッとし、ここからは人間の正の部分に目を向けた温かいドラマが始まっていくのだと予感するはず。現に夫婦とコットは次第に打ち解けあい、少しの言葉や表情だけで多くのものを察しあえるほどの愛情で結ばれていく。その過程を美しく彩る風土。光の角度。和解のお菓子。ポストまでのダッシューーー。やがて明らかになる過去も含め、本作は登場人物の内面を決しておざなりにせず、繊細に大切に描写を重ね、観る者の胸にジワッと感情を染み渡らせていく力がある。心のこもった贈り物のような素晴らしい作品。
清冽なデビューを飾った主演キャサリン・クリンチは、シアーシャ・ローナンに続くアイルランドの超新星
本作については当サイトの新作評論コーナーに寄稿したので、こちらのレビューでは補足的なトピックをネタバレ込みでいくつか書くことをあらかじめご了承願いたい。
まずはコットを演じた映画初出演にして主演のキャサリン・クリンチ。2010年にダブリン郊外の村で生まれたが、評論でも触れたように母親は世界的に活躍した音楽グループ「ケルティック・ウーマン」の結成メンバー。本作が2022年2月のベルリン国際映画祭で子どもが主役の映画を対象にした部門のグランプリを獲得したほか、アイルランド国内のアカデミー賞では史上最年少の12歳で主演女優賞も受賞するなど、国内外で高く評価されている。アイルランド人女優のシアーシャ・ローナンも「つぐない」で13歳にしてアカデミー助演女優賞にノミネートされてから順調に国際的スターへの道を歩んだが、キャサリン・クリンチもローナンに続く存在になるのではと同国内外で期待されている。
評論の準備で本作の成り立ちについて調べるうち、アイルランドにおける言語の状況、たとえば第一公用語のアイルランド語よりも第二公用語の英語を日常的に話す国民のほうが多いといったことなども知った。アイルランド映画といえば「ザ・コミットメンツ」「ONCE ダブリンの街角で」「シングストリート 未来へのうた」など大好きな作品もたくさんあったのに、話されているのが英語だということを特に何とも思わなかったのは、今更ながら自分の想像力が足りなかったと反省した。そうした歴史的文化的背景があったからこそ、英語で書かれた原作小説をアイルランド語映画として再構成したコルム・バレード監督の挑戦が同国民に広く支持されたのだろう。
強く印象に残っているシーンとして、評で挙げたもの以外に、コットが全力で走る映像がスローモーションになるのもBGMと相まって感情の高まりを表現し、シンプルながら効果的な演出だと感心した。
そして、あの素晴らしいラストシーン。状況は原作小説を忠実に再現しており、コットの一人称語りの最後の一文はこう書かれている。
“Daddy,” I keep calling him, keep warning him. “Daddy.”
ここでのhimはコットを抱きかかえているショーンを指す。特筆すべきは、彼女が初めて(そして作中では唯一)ショーンを「ダディ」と呼んでいること。実の父親ダンが怒った表情で追いかけてきたことを(気をつけてと)警告する意図で、ショーンに「ダディ」と呼びかけたのだ。それまで、ショーンのことが次第に好きになりながらも何と呼べばいいのか、どういう距離感、関係性で接したらいいのかわからずにいたコットが、人生の大きな選択をしたことを端的に示す秀逸なラストだと思う。その後、めでたくキンセラ家の養子になるのか、あるいは実家に連れ戻されるのかは、原作と同様映画でも観客の想像に委ねられているが、それもまた長い余韻を残す要因になっているのだろう。
寡黙な少女の目を通して描く家族とは、親子とは
1981年の夏、アイルランドの田舎町。育児放棄した両親の下で育った内気な少女、コットが、母親の妊娠を機に親戚の家に預けられることになる。コットを出迎えたのは子供がいないキンセラ夫妻。妻のアイリーンはケイトの髪を慈しむように櫛でとかし、夫のショーンは不器用ながらもコットと打ち解けようとしているのがよく分かる。
静かな農場、井戸、乳搾りetc、一夏、キンセラ夫妻と穏やかな時を過ごすうち、コットは初めて家族の温かみを体全体で味わうことになる。コットを演じるキャサリン・クリンチが瑞々しくて、少女の世界に自然に引き込まれていく。
なぜ、キンセラ夫妻はそこまでコットを可愛がるのか?夫妻の秘密とケイトの両親との対比によって、ままならない家族の有り様が浮かび上がる。ほとんど言葉を喋らないコットがそれに気づき、言葉にならない言葉を心の中で呟く時、誰もが涙を流すことだろう。
繊細さが全編に詰まったような本作は、主にドキュメンタリー映画をメインに子供の視点で家族の絆を描いてきたアイルランド人の監督、コルム・バレード。セリフの大部分がアイルランド語なのは、監督の実家では英語とアイルランド語が使われていたせい。コットに合わせて映画全体が静かなせいか、アイルランド語の響きが観終わってしばらく耳から離れない。
懐かしい記憶のような
GDPが世界二位で豊かになってしまったアイルランドの貧しさが残る1980年代初頭頃。
忙しく十分世話してもらえないコットが、夏の間親戚にあづけられる。
家に来て一番初めにしてもらうのは、お風呂に入り損ねてて汚い足を洗ってもらうこと。面倒見てもらうってそういうこと。ディテールが嬉しい。
あのひと夏、少女は愛に包まれて
大自然の中で大家族と暮らす少女。
世界名作劇場を実写化したような光景が浮かぶ。
アイルランドのある田舎町。木漏れ日や風景の美しさは特筆もの。
その中で、元気ハツラツ娘が躍動するのがお決まりだが、原題通りの“クワイエット・ガール(=寡黙な少女)”。
上に姉たち、下に弟。
母親は妊娠中、父親はろくに愛情も示さない。父親が現れると家族は静まり返り、明らかにDVの疑いが…。
学校でも独り。男子がぶつかってミルクをこぼすも、何も言えない。
家にも学校にも居場所が無い9歳のコット。
母親が出産する事になり、コットは夏休みの間だけ親戚の家に行く事に。
何だかこれ、不条理に感じた。姉や弟は家に残るようで、コットだけ。
姉たちは母親の手助け、弟はまだ幼いからかもしれないが、要は厄介払い。
それくらい、コットは家族から見られてもおらず…。
ショーンとアイリンのおじおば夫婦。
おばさんは優しいが、おじさんはぶっきらぼう。
最初は馴染めず。夜、お漏らしも…。
またここでも結局居場所は無く、短い夏休みが長く感じる独りぼっちと寂しさを抱えていたが…。
余計なサイドエピソードなど一切無い、シンプルな物語。
これは9歳の少女の視点という事が分かる。見るものや範囲も狭いが、そこには…。
“クワイエット・ムービー”でもある。コットの性格や心情とリンク。作品も寡黙(ただ静かな作品ってだけじゃなく、説明的な描写もほとんどナシ)だが、たっぷりの詩情や情緒溢れる。
その中で紡がれる物語も、はっきり言って展開はすぐ分かる。が、それがとても心地よいのだ。
髪を解かしてくれるおばさん。
ちょっと怖そうだったおじさんも不器用ながら優しさを見せてくれる。
牛の乳搾りを手伝ったり、さりげなくテーブルの上に置いてくれた小さなクッキー。
じんわりじんわり、その温かさが滲み伝わってくる。
コットも少しずつ少しずつ、心を開き、話をするように。やはりただ寡黙なだけの子ではなかった。そうさせていたのは…。
ある時コットは知ってしまう。おじおばがずっとある悲しみを抱えている事を。
二人の間には息子が一人いたが…。今も悲しみと喪失を埋められない。
コットも心に孤独の穴が空いていた。おじおばも心に悲しみの穴が空いていた。
その穴を埋め合うかのように。
まるで本当の親子のようになっていく。
本作は何と言っても、キャサリン・クリンチ無くして成り立たなかったであろう。
本作で映画デビュー。デビューどころか、演技も初めて。そう思わせない演技力と透明感とフレッシュさ。
…などと使い回された形容ではある。が、本当に本当にそうなのだから仕方ない。
“THE少女”。アイルランドからまた一つ、ダイヤの原石が。かつてのシアーシャ・ローナンを彷彿。大成して欲しい。
おじおば役も好演。
監督のコルム・バレードも本作で長編劇映画デビュー。これまで子供や家族を題材にしたドキュメンタリーを手掛け、その手腕が活かされた。
少女の成長と自己の解放、“家族”になっていく瞬間…。
見ていて誰もが思った筈。コットがずっとここで、おじおばと暮らせたら。
あっという間のひと夏。帰る時が。
どうしてこうもひと夏って、郷愁感じるのだろう。胸かきむしられるのだろう。心が切なくも、温かくなるのだろう。
帰ってきてからの家の居心地の悪さ。
家の雰囲気も家族との関係も何も変わらないかもしれない。
が、コットの中では確かに何かが変わった。
もう独りじゃない。私を愛してくれる人たちがいる。
本作のラストシーンは映画史に残るだろう。
帰るおじおばの元へ、髪をなびかせながら、ダッシュするコット。
おじは抱き上げ、車内では涙を流すおば。コットが囁いた言葉。
このひと夏を忘れないだろう。
大切にされることの大切さ
大家族の中で居場所のない少女が、親戚の家で一夏預けられて生活する物語。
「成長の物語」というよりは「生活の物語」という感じの穏やかで、静かなテンポの作品でした。
人によっては「眠たい作品」かもしれないです。
ラストシーンは一抹の不穏さもありますし、養子になったらいいのになぁと感じましたけど、その後のコットの人生はどうなるのか観た人の想像に委ねられている気がします。
個人的には養子にもらわれるのが一番幸せだと思うのですが、仮にあの冷たい家で過ごすことになったとしても、一夏の体験はコットの心に貴重な自己肯定感を芽生えさせてくれたと思います。
daddy
素晴らしい映画
ラスト秀逸過ぎる
本当の父親が追いかけてくるラストで、父親が来てる!って警告だと思う意味での1回目のdaddyと、父親って呼ばせて!って意味だと思う、自分の中で心から叫んだ「おじ」への2回目のdaddy…
せつなすぎて自分も2人を抱きしめてしまいそうな感覚になりました
客席から思わず応援
父親の放蕩と貧しさ故に荒んだ家庭内で心を閉ざした少女コットが、ひと夏を親戚の家で過ごす内に夫妻の優しさに触れて少しずつ笑顔を取り戻すアイルランドのお話です。
この映画は本当に素晴らしかった。大きな出来事も起きず言葉少なな作品なのに、親戚夫妻の小さな行動の積み重ねで少女が少しずつ心を開いて行く過程が美しく可愛くそして切なく描かれます。アイルランドの森の緑や水の煌めきが美しく、そこを駆けて行くコットの姿に観る者の心も踊るのです。
このコットを演じたキャサリン・クリンチちゃんは本作が映画初出演だそうですが、本作でアイルランドのアカデミー賞では主演女優賞を史上最年少で受賞したという事に深く頷けます。単に女の子らしい可愛さと言うより、子供のみが有し得る悲しみや憂鬱が伏し目がちの眼差しから強く伝わるのです。ジイサンは、客席から「頑張れ、負けるな」または「よかったなぁ」と声援を送り続けました。
こんなお話、特に珍しくはないでしょうが、「映画はストーリーだけではない」「映画はまだこんな事を表現できたんだ」と改めて目を開かれました。
これは、「観ないと損」と言える作品です。
子供は親を選べない。
原題の「物静かな少女」のとおり主人公のコットは口数が少なくあまり感情表現しない子供だ。およそ子供らしくないおとなしすぎる彼女のその性格は明らかにその家庭環境に原因があった。
牧場を営む夫婦のもとに生まれた彼女には上に姉が三人と下に一人、さらにもう一人を母親は身籠っている。しかしそんな子だくさんでありながら父親はまともに牧場の仕事もせず毎日飲んだくれ、賭け事に明け暮れていた。乳飲み子を抱える身重の母親は子供たちへの世話もろくにできず、ほとんど育児放棄に近い状態だった。
コットの姉たちも放置されひねくれて育ち、その中で大人しいコットは自然と口数の少なく感情もあらわにしない少女として育っていた。
母親が出産を控え夏休みを機会にコットは親せきの家に預けられることになる。そこは同じく牧場経営するアイリーンとショーンの夫婦二人だけが暮らす家だった。
アイリーンはとても子煩悩な性格らしくコットに対して最初から惜しみない愛情を注ぐ。ショーンはコットに対して最初は打ち解けない時期があった。それには訳があったのだが、次第にショーンもコットに対して心を開いてゆく。
生まれて今まで子供らしく親に甘えることも許されずに育ったコットにとって、自分を子供として当たり前のように接してくれる夫婦との生活、その彼らの温かみを肌で感じるようになると心因性のおねしょ癖もピタリと治ってしまった。そして夫婦との生活の中でコットは徐々に感情をあらわにし、その表情には自然と笑顔も見られるようになる。夫婦はコットを実の子のように愛し、コットも二人を実の両親のように愛した。
しかしやがてラジオが夏休みの終わりを告げる。コットは自分の家に帰る時が来たのだ。本来自分の家に帰れることはうれしいことのはずが、彼女は家に帰るのをためらう。
実家に戻ったコット、相変わらず父親はろくでなしのままでショーンたち夫婦に無礼な態度を取り、姉たちも親せきのショーンたちに挨拶さえできない。すでに家庭崩壊しているこの家にコットを残すことに後ろ髪をひかれながらもショーンたちは去っていく。そんなショーンたちの車を走って追いかけるコット。
車に追いついてショーンに抱きつくコットの目には後を追いかけてきた父親の姿が、それを見て思わずダディと声が漏れるが、あらためて彼女はショーンを抱きしめ彼をダディと呼ぶ。その姿を見て涙するアイリーン。とても感動的なシーン、であると同時に厳しい現実を突きつけられる。
コットはショーン達夫婦の子供にはなれないのだ。あのどうしようもない父親がすぐさま追いついて二人を引き離すだろう。
彼のような人間は子供を満足に育てられないくせにプライドだけは高い。牧場経営が順調で明らかに自分たちより裕福な暮らしをしてるショーンたちを彼は毛嫌いしていた。それはアイリーンがお金を送ろうかと聞いたとき、コットの「パパが怒るかも」という言葉からもわかる。
虐待をやめられない親に限って児童相談所に子供を取られたくないというのに少し似ている。
本作は子供を失った夫婦と親にも甘えられない寂しい少女とのひと夏の心の交流を描いた心温まる作品であると同時に現代社会でも続く貧困やネグレクトなどによって子供たちが抱える深刻な問題を浮き彫りにした作品といえる。
邦題に「はじまりの夏」などとついているが本作はそんな牧歌的な内容には収まらない生っちょろい内容ではなく子供たちの厳しい現実を描いた作品である。
コットを演じたキャサリン・クリンチはとても繊細な演技というか、むしろあれはけして演技では出せない独特の存在感を醸し出していた。美しい容姿だがどこか儚げ、いつも不安を抱えた表情、あの年齢特有の頼りなさげな少女像を見事に体現していて素晴らしい。まさにこの時期の彼女自身の瞬間を切りとったような無二の存在感。けしてこれは演技力などで再現できるものではないだろう。それはこの時の彼女にしか出せないたたずまいだからだ。
「ミツバチのささやき」のように子役が時折素晴らしい存在感を放つ作品があるが、それはけして演技では出せないその子役独特の魅力からくるものなのだろう。
本作は彼女をキャスティングした時点で大成功といえる。正直、彼女を見てるだけでも二時間持つのではないかというくらいの存在感、それに加えて自然の美しい映像と秀逸な物語。
公開当時評判の作品だっただけに期待通りの作品だった。今回配信での鑑賞だったが劇場公開を見逃したのを後悔した。
コット役の子役の演技に脱帽!
配信(unext)で視聴。
今年、見逃した作品で一番観たかった作品。
ストーリーは単純だが、なぜか胸が打たれる。
コット役の子役女優の演技が素晴らしかったし、ジーンときた。
コットにとっては素敵な夏だったんだなと観て感じた。
素晴らしい作品でした。
静かな少女
親に褒められるのがなんとなく照れくさくて嫌だった──というのがある。「おまえはできる子なんだから」と言われても、だいたい「そう言ってくれているんだな」ということが解るし、そもそもじぶんはできる子ではなかった。
だから心の中で「いや父さん(母さん)あなたは知らないだろうがね、おれはクラスでみんなからばかにされているんだ、父さん(母さん)が想像もできないほどみじめな子なんだ」と口には出さずに回答する。
機春秋を経て50代になったが何も成しえず離婚して低所得に生きているわたしを年老いた親はまだ「できる子」だと言ってほめるのだ。いったいいつできる子なんだろうね。
だけどもし親にdegrade=価値をおとしめられながら育っていたならどうなっていただろう。子供をdegradeしてはいけないのは常識だがそれを平気でやる大人がいて結局世の中には親に毎日degradeされながら生きている子供がごまんといる。
アイルランドの田舎、80年代初頭の設定。育児放棄な親に育てられた姉妹の一人が母親の妊娠を期に酪農を営む親戚に預けられる。そこで少女ははじめて人の愛情にふれるという話。
父親は飲んだくれで口からは嫌味か難癖か苦情しかでてこない。母親は辟易し厭世しながら台所でひとりで泣いているような受動タイプ、子沢山で家は貧困に支配されている。
コットはタイトル通りの静かな少女。意思をうしなったように何もしゃべらない。姉妹の中でも学校でも浮いた存在だった。
彼女が暫定里子として行った先は初老の夫婦がふたりで暮らしている。里母は慈愛に満ちコットを優しく迎え入れる。おねしょも叱らず、毎朝髪を梳き、新しい洋服を買ってあげる。
公民権運動の時代、南部を訪れた北部の白人が集落にいる黒人に声をかけると誰もがみな徹底してへりくだり、まともな会話にならなかったという逸話が残っている。白人の奴隷としてこき使われてきた黒人が、突如、君の身分はわたしと同じになったんだと白人に言われてもそれを実感できず、気分を害する態度をとれば何をされるかわからない──と警戒するのは無理からぬことだ。
ネグレクトの親から愛情豊かな親にあずけられたコットもそれと似たような状態だった。
人から優しくされたことのないコットの生硬が次第にほぐれ、自我が解放されていく様子が綴られる。
酪農家の父親は厳しいところもあるが恩愛があり、コットの寡黙に美点を見いだしてそれを褒め、またポストの郵便物をとってくる使い走りを日課に課す。コットはだんだんそれに夢中になる。息をきらせて取ってくると里父はそれを「前回のタイムを上回った!風のように速かったぞ」と言ってほめるのだ。
初めて人心地に触れたコットはすでに実家に戻りたくはないが、やがて時がきて引き戻される。コットは送ってきたふたりを──速く走ればどうにかなるかのように──走って追いかけ、里父の胸に飛び込んで「父さん」と言う。
どうにもならなくて胸がかきむしられた。
imdb7.7、RottenTomatoes97%と93%。
RottenTomatoesのコンセンサスは「脚本家/監督Colm Bairéadの驚くべきデビュー作である『クワイエット・ガール』は、小さな物語が大きな感動を残すことができるということを、見かけによらずシンプルに思い出させてくれる」というものであり、アカデミー国際長編映画賞(旧外国語映画賞)へのノミネートをはじめ多数の賞をとった。
Colm Bairéadの来歴によるとほとんどドキュメンタリーかテレビの仕事でこれが初長編映画。
映画ではアイルランド語が使われ、wikiによると『アイルランド語映画のオープニング週末興行収入記録を塗り替え、アイルランド語映画史上最高の興行収入を記録した。』とのこと。
英題The Quiet Girl、原題(An Cailín Ciúin)はその「静かな少女」をCatherine Clinchという映画初出演の少女が演じている。
オーディションするためにアイルランド語学校でその公募をしたそうだがプロデューサーたちはリールを見た途端すぐにこの子だと判断したという。
端正だが表情を制限されたような屈託があり主題にぴったりの子だった。
邦題「コット、はじまりの夏」には齟齬がある。どちらかと言えば夏ははじまらない。「コット、はじまりの夏」と言われたらひと夏の体験のような甘酸っぱさのある話を想像するが子供の生活環境を冷徹に描いた話と言える。
愛のお話
現在にも通ずる、普遍的なテーマが描かれていたと思う。
コットの実の家族は、彼女を愛していないわけではなかった。だけど、子供は、それだけで健やかに成長するわけではないのだろう。
実際、実の家族による不誠実さやネグレクトは、コットの学習能力の発達を遅らせ、気力を失わせていた。
コットが預けられた先での生活は、実の家族との生活とは違っていた。彼らは、質素だけど堅実に働いていて、相手を思いやり、穏やかに生活していた。
コットは、身体を洗い、髪を丁寧にとかれ、心を労られた。お菓子をもらい、文字の読み方を教わり、足の速さをほめられた。
そんなふうに、愛は育まれるのではないかと思った。
まあまあだった
コットが最後まで一貫して誰にも心を開かず、笑顔を一切見せない。心を病んでいるのではないだろうか。見ていて苦しくなる。親戚の二人は彼女を引き取ることになるのだろうか。そうなって欲しい。
映画や物語としてはこれでいいのだろうけど、子どもには安心してリラックスできる環境であって欲しい。心を開いたコットはどんな様子なのだろう。実親の元では愛着障害が起こって、貧困でもあり、厳しい環境だ。
親ガチャ物語
「親ガチャ」最近で1番嫌な言葉
使いたくない言葉ナンバーワンなのに
分かりやすく使っちゃうあたし(嫌な人)
アイルランドの言語が英語じゃないんだね
え?と思っちゃった
最近英語が聞こえるようになってきて
映画を見る楽しみでもあったけど
…そんなことはどうでもいい
純粋に作品を味わった
子を亡くした夫婦の愛情深さをかみしめた
この家には秘密はないわ
とコットの精神が安定した頃
最大の秘密を知ってしまう
そこからの危うさが映画的に仕上がっている
あまりセリフのないコットがよく演技してて
農場や牛やルバーブの香りがした
静かで美しい物語
家族の中で孤独な少女が、一夏親戚の家に預けられ、自分の居場所を見付ける物語。すごく静かな映画。
アイルランドの美しい映像がとてもいいです。最後別れのシーンはグッときます。本当は親戚に引き取ってもらえたらよかったけど、現実的にそうもいきませんよね。。切ない。
でもきっとこの経験が少女の支えになってくれると思います。
良質な読書をして癒されたような気持ちになりました。
居場所
パンフレットにあったコルム・バレード監督のインタビューに、「ミツバチのささやき」(73)に触れている部分があって、さもありなんという気がしました。直接影響を受けたり、意識していたということではないそうですが、映像の質感や叙情的な雰囲気、そして大人になる前の少女の視点で描かれているところなどに相通ずるものが感じられました。「ミツバチのささやき」や「エル・スール」(82)のように、どのシーンも絵的に美しく、説明は最小限に留め、余白を想像にゆだねるカット割りがとても印象的でした。キャスティングもよかったですね。とりわけコット役のキャサリン・クリンチは、本作が映画デビューという等身大の初々しさが唯一無二の作品を生んだように思えました。似たような物語はたくさん観たことがあると思いますが、この絶妙なバランス感覚の心地よさは、なかなか出会えない貴重なものだと思います。オープニングの「え、何なの、この話は?」と引き込まれる感じから、エンディングの胸の奥に落ちてくる深い感動まで、本当に幸せな映画時間でした。ちなみに、パンフレットの仕上がりもとてもいいもので、作品をより深く知ることができました。
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