A.I.のレビュー・感想・評価
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シックスセンスとガンプの息子
公開時以来ですがすっかり忘れていたのでほぼ初見。
こんなに面白かったかと今さらながら感心しきり。
前半は切ない母子ドラマ、後半はロウ選手お出ましでファンタジー風。
アメリカでは哲学映画として宣伝した結果ヒットしなかったようですがトマトでは支持率80%だから評価は高いです。
スピル先生ならではのサービス精神山盛りの演出にET的な情緒にもあふれています。
難しく考えている人もいるようですが、単純に娯楽作として観れば話の展開も起伏があって抜群に面白いです。
【心を持つ少年型ロボットの2000年を超えて母の愛を求めるSFファンタジー。切なくも美しい物語である。】
■近未来のアメリカが舞台。
病の実子マーティンを持つヘンリーとその妻モニカ。
夫妻は愛と言う感情をインプットされた高性能少年型ロボットのデイビッドを養子として迎える。
だがマーティンが不治の病から奇跡的に蘇生し、デイビッドは徐々に居場所を失い、熊型ロボットであるテディと共に捨てられる。
モニカに愛されたい彼は、人間になる方法を求めてテディと旅に出て様々な経験をする。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・序盤は、人間のエゴを描いているように見える。だが、ヘンリーとその妻モニカは決して悪人としては、描かれない。
只、実子マーティンはデイビッドをライバルとして見てしまい、様々な意地悪を彼にしてしまうのである。
例えば、デイビッドに眠っているモニカの髪を切らせるなど・・。
・その後にデイビッドが経験した事。
それは、セックス・ロボットであるジョー(ジュード・ロウ:若くてムッチャイケメンである。)との出会いと、彼と共に連れていかれたロボットを壊して楽しむ悪趣味なショー。だが、彼は窮地を脱し、ピノキオに出て来るブルーフェアリーを信じ続けるのである。
この辺りは、可なり露悪的なシーンから徐々に幻想的なシーンへの移行が上手く映されていると思う。
・そして2000年が過ぎ、人類が死に絶えた世界に現れた細長い形状の”生きもの”が現れ、テディのモフモフの毛の中に有ったモニカの髪を使って一日だけ、デイビッドの長年の願いを叶えてあげるのである。
<今作は、心を持つ少年型ロボットが母を愛する気持ちを、人間のエゴと近未来の風景を背景に描き出した作品である。
それにしても、劇中でモニカとデイビッドがカクレンボをして遊ぶシーンで、モニカがトイレに入っている箇所や、デイビッドが食事をしないのにマーティンと競って法蓮草を食べて体内をクリーニングされるシーンが面白く描かれるが、人間は食べて、排泄して、眠って、年を取って行くのである。
故に、ラストのシーンはデイビッドが願いを叶え、本当の人間になったように見えてしまうのである。>
恥知らずのサイテー泥棒盗作映画で、盗人猛々しさに唖然し怒りを覚えた
優しい表現に変えるなら「無許諾翻案映画化」作品。
正式に許諾された
『七人の侍』→『荒野の七人』
『羅生門』→『暴行』
などと違い
『用心棒』→『荒野の用心棒』(後に解決)
より酷い。
『ジャングル大帝』→『ライオン・キング』
と全く同じ“居直り”図式。
それも同じ“手塚治虫”氏の作品である『鉄腕アトム』そのままという。
今作の企画は元々、故スタンリー・キューブリック氏の残した未映像化作品の“幻の映画企画”に端を発している。
それをスピルバーグが“映画化実現”というフレ込みで、ウリだった。
スタンリー・キューブリック氏は『2001年宇宙の旅』映画化の際に、手塚治虫氏に美術デザインでのオファーをしていた事はよく知られている。
従って、キューブリック氏は手塚作品への造詣は深かったであろうと考えるのが自然であり、『現金に体を張れ』、『ロリータ 』、『博士の異常な愛情』、『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』、『シャイニング』、『フルメタル・ジャケット』、『アイズ ワイド シャット』等、その殆ど大半は”原作付き作品”であって、逆に『バリー・リンドン』のようなオリジナル作品は殆どない。
従って今作についても、「キューブリック氏としては実際の映像化の可能性が高くなった時点での手塚氏への許諾の打診」を想定していたのだろうとの推測ができる。
それを、「スタンリー・キューブリック氏の残した“幻の企画”と称して、スピルバーグが“映画化実現”という宣伝文句で”確信犯”的に作品化してしまったという筋書き。
実際、キューブリック氏の残したどこかしらには、何らかの形で手塚作品との関連性が示唆されていただろうと考えられるし、分からなかった筈がないと思う。
ここに言っていることが理解できない方は是非、我が目で『鉄腕アトム』を確認されることをお勧めする。
主に、
前半が”『少年』誌連載分”「誕生編」〜「ロボット・サーカス」+「最終話(『少年』誌版)」
事故で亡くなった人間の少年の身代わりとして作られ、不満をいだいた生みの親にサーカスに売り飛ばされてロボット同士で戦わされる部分〜漫画では地球を助けるために(爆弾処理のため)太陽に向かって飛んで最後を遂げる(が、その後半溶けで宇宙を漂う)
後半(結末)部分が、雑誌連載終了後(1stTV版も同)に新たにサンケイ新聞連載版として再開された、『アトム今昔物語』編
半溶け状態で宇宙を漂い、既に遥か時代が流れていたところを興味を持った宇宙人に拾われて修理再起動されて、かつての地球文明についての記憶を再生させる。
上記のこの部分だけつなぎ合わせ、一本の映画として成立するように、キューブリック氏によりストーリーが再構成されていたということになると思う。
それをそのままスピルバーグが「オリジナルストーリーであるが如く映像作品化に手をそめる」という、全く”卑劣な手法”だとしか言いようがない。
この件についても当然であるが、結果的に「ヴィック・モロー氏の死に(間接的とはいえ)加担している」スピルバーグは許せず。
1982年7月23日、「ヴィック・モロー氏の訃報」の知らせを丁度その時に観光でハリウッド滞在中のホテルの部屋で、部屋のドア下から差し込まれた朝刊で知ることとなった、あの衝撃的な瞬間のこと、永久に忘れまじ。
取り敢えず、皆さん「外国人」の“巨匠“とか”名監督”とかの肩書にはめっぽう弱い。
そのような「権威にのまれ過ぎ」。
灯台下暗しで、肝心の「自分のお国」の事知らなさ過ぎというか、我が国の先人がとっくの昔に到達していた、こうした分野に於ける先進性、或いは先見性の理解が乏し過ぎでしょう。
自国の先達にこそもっと敬意を払って、誇りを持つべきでは?
『ターミネーター』の“人類対人工知能(機械化軍団)”なんか遥か昔、手塚治虫氏と同時代の横山光輝氏の『鉄人28号』の“ロビー編”で描いていたネタでしょう。
近年は当たり前のように、ある種のジャンルになっている感のある「神(想像主)との戦い」なども、石森章太郎氏の『サイボーグ009』“天使編”登場以前には誰にも想像もつかなかったテーマでした。
その、余りに想像を絶する壮大なテーマに、その当時には(作者以外の?)理解の限界を超えてしまい、殆どが戸惑いを覚えて、“着いて行く事だ出来ない”状態に陥った事。
これら遥か既に半世紀前の時代、昭和30年代〜40年代に“日本人の作家”が構想し、発表された作品の“一部”の事です。
“無知”が、「誤った権威を生み出す。」
“無知”は「過去の過ち(戦争等)を繰り返す元凶となる。」
悲しい悲しい映画。感動…はちょっと違うと思う。 悲しく辛い少年AI...
悲しい悲しい映画。感動…はちょっと違うと思う。
悲しく辛い少年AIを名子役ハーレイ・ジョエル・オスメント君が完璧に演じる。
エゴの塊、人間が近未来で起こしそうな過ちが次々と。ロボットたちの方がよほど人間らしいという強烈な風刺。
どうせなら目覚めたママがまたまたデイビッドにつらい仕打ちを…(笑)だめですね、ここが感動ポイントですもんね。私は違うと思いますけど(しつこい 笑)
とても悲しくて、とても幸せな物語。
記憶が正しければ、スピルバーグによると、キューブリックとの打ち合わせで彼は「AI」とは言わず、しきりに「ピノキオ。ピノキオの話」と呼んでいたらしく、公開前はどんな映画になるのかが楽しみだった。彼が亡くなった後、完成した映画を観た時に、強く印象に残ったのは、A.I.の少年が初めて登場した場面で、彼は「2001年宇宙の旅」に出てきた宇宙船のキャビンアテンダントの履いていた白いグリップシューズに似たものを履かせ、初めて登場させた瞬間、「スピルバーグは意識的に入れたな」と思った。
それはさておき、ロボットの少年と人類の未来を描いた「ピノキオの物語」は、若干の長さを感じるものの、「人であるものと、人でないものの」思いの入った映画になっている。その思いや願いは、とても悲しくて、とても幸せでなのである。
もしキューブリックが監督をしていたら
鋭く冷めた映像に観客は内面を突き刺されるだろうな、、、
しかしエンドクレジットの一番最後に表示された
FOR STANLEY KUBRICK の文字に本当の終わりを感じた。
※
悲劇の形を借りた哲学的な寓話。
公開当時より、変に主人公に感情移入してしまって「感動した」「涙が止まらなかった」との感想が聞かれたり、逆に「デイビッドの言動があまりにも不自然で感情移入できなかった」という真逆の感想が聞かれたりしていた。前者は主人公デイビッドを「人」と見做して感情移入しているに過ぎないが…実は後者の方の「不自然」という捉えかたの方が、この作品の伝えんとすることの方により近づいている。なんせ主人公は母親「だけ」を愛するようにプログラムされたロボットに過ぎず、どう足掻いても人にはなれないのだから(そういう意味では、これは一種の悲劇である)。当然、人として見たら不自然極まりないのであるが、ロボットとしてみれば当然。この辺りを捉え間違えて、感情移入する方に流されてしまうと、この物語の基本的な構造を見失ってしまう。これは、感情を揺さぶる感動のSFドラマなどではなく、大変に理知的で哲学的なテーマを持った作品である。このあたり、スピルバーグの描き方が優しいので、分かりにくくなったかも知れないが…もしかするとそんなことはお見通しで、そういう哲学的テーマを巧妙にベールに包むようにしたのかも…なんて思ったりもする。
この作品が本当に描かんとしているテーマが何なのかが明らかになるのは、物語も終盤、人類が絶滅した2000年後の世界を描くほんの数分間においてである。そこでは高度に進化したロボット(←これを宇宙人だと勘違いしている人がかなりいるようだ)が、「人間とは何であったのか?」と問い、研究している。無生物が人間を問うということは、敷衍して言えばこういうことではないか…「世界には人という複雑高度な種が存在しているが、それ以外の生物も、命のない無生物も存在している。そんな人以外の存在にとって、人とはどんな意味を持つのか?」
①家族に迎えられる→廃棄される、②ジャンク・フェアという狂騒、③出自を尋ねてのマン・ハッタンまでの旅、④2000年後…というのが全体の流れだが、④に当たるラストの数分をきちんと受け止めるならば、ラストに至ってから、これらの物語の大半の部分を振り返って考えないでいられなくなる。平たくまとめれば、デイビッドの辿った道は、明らかに「自分が無生物であり、ロボットでしかないことを知らしめられる道」ではないか。
そう理解すれば、やはり、これは悲劇の形を借りた哲学的な寓話と言っていいと思う。ハーレイ君の名演技と可愛らしさで観客を惹きつけておきながら、ある意味で非常に硬派でディープ問いを観客に叩きつけるのだから、スピルバーグはとんでもない二枚舌(←褒め言葉です)と言っていい。
間延びしていた
ジャンルの違う3作品くらいをまとめたような。
最後まで想像の付かないストーリーだった。
面白かったという意味ではなく…。
高評価だったので期待していたが、刺さるところがなかった。
前半パートは悪くなかったのでその路線で進めてほしかった。
急にロボットの世界やらなんやらで興ざめ。
AIは所詮AI
子供を主役にしている映画って、精神が成長していくのが醍醐味だと思っているんですが、主役はロボットなので何も成長しないよ!という意思を感じました。
主人公の心情に変化があったとすれば、「僕は特別じゃない」と気づいたこと。
自分とそっくりなロボットをぶっ壊す所はゾッとしました。人間なら、自分にそっくりな人間に攻撃するのはすこし躊躇する。でもロボットの彼は違う。
そのシーンでデイビットに寄り添えなくなりました。
彼は「母」という存在さえ居ればいい。他人の心配なんかしない。テディの心配もしない。ジゴロジョーの事も。
サイコパスロボットの出来上がり…怖…
なんか泣かせにきてるシーンとかあるけどツッコミ所があり過ぎて涙が引っ込む。
精神攻撃が強すぎて、個人的にトラウマ映画TOP10に入りました。
最後で人間とロボットの立場が逆になるのは面白いなと思いました。人間が、息子の代わりにロボットを作る。
ロボットが、愛した人間に会うために人間を作る(生き返らせる)
多分この映画は、何も考察せずに見た方が気が楽ですね。
ロマンチックなA.I.
近未来、ハーレイジョエルオスメント扮するデビッドが病気の子供の代用品ロボットモニターとして夫婦に送られた。デビッドは次第に馴染んでいったが、息子の意識が戻ったら息子が挑発するのでデビッドはいらない存在になってしまった。ただひたすらママが好きなだけなのに森へ捨てられた。A.I.の世界もオカルトチックだね。でもデビッドの人間になりたい気持ちはロマンチックだね。
僕の願いを叶えて
子供型ロボットのデイビッドを、無垢な美しい瞳のハーレイ・ジョエル・オスメントが見事な演技で魅せる。
ジゴロ・ロボットのジョーを、ジュード・ロウが美しく魅惑的に演じる。ジュード・ロウの美しい顔立ちが近未来感を加速させる。
ザラリとした感覚を覚えながら観ていたが、ジョーの助けを借りながら、デイビッドが願いを叶えるべく行動を始める中盤以降、小さな心を震わせるデイビッドの姿が胸に迫る。
スピルバーグの深く愛情深い眼差しと、人類の未来への警鐘と憧れを強烈に感じさせる秀作。
NHK-BSを録画にて鑑賞 (字幕版)
子供は母に愛されたい
自分はもう子供でないし、ママについてまわる時期は幼すぎてほとんど記憶ない。
でも子供が母に愛されたいという気持ちや親が子供を守りたい気持ちなどそれぞれの想いが感じられ温かみのあるファンタジーストーリー。
生身の人間であっても親に愛されない不幸な子供もたくさんいるということも現実だ。
意外なスケール感
人の顔を映すときに、鏡や金属に反射したものを使うシーンが多く印象的でした。
物語が進むにつれて冒険感が強くなり、後半では空、海まで旅します。
終盤では宇宙人まで出てきてビックリです。最近の美麗CGに慣れてしまった身では、この作品のCGで描かれる想像上の宇宙人に説得力を感じませんでした。でもそれは過去の作品なので仕方ないです。
ラストも余韻を与えてくれる良いものでした。
自分を捨てた「母親」を想い続けるロボット少年の姿が切ない。 「母親...
自分を捨てた「母親」を想い続けるロボット少年の姿が切ない。
「母親」に愛されたくて人間になりたいと切望する。
2000年もの月日が流れ、結局人間にはなれなかったが一日だけ願いが叶えられた幸福。
胸が熱くなった。
ママは男の子の永遠の憧れ
うーん…長い。
基本の路線はピノキオなんでしょうが、結局のところラストのシークエンスに帰結するのだとすれば、そもそも彼が家を追われた理由が今ひとつ弱い。
あの時点で可能性の分岐としては色々あり得たと思う。どちらにせよロボットであるディビッドと、人間である家族とは生きる時間が違うので、円満に暮らしたとしてもいずれ別れがくることは予感させていた。
そこをあえて90年代のジャンルものみたいな流れにして「誤解なんですっ!」て言いたくなる経緯に。
結果的にディビッドが長い苦しみを味わうことになる原因を作ったのはすべてママ。だがとにかく息子はママを健気に愛する。
美しいママへの憧れ。でも現実の息子にとっていずれ鬱陶しくなったり、年老いて元気がなくなったり、若くて優しいだけのママではいられなくなるタイミングがあるはず。
あえてそれらを見ないことにしてママを神格化しつづけた点は相当なマザコン映画かも知れない。
想像していたよりも非現実的
いや、そりゃ人型ロボット云々の話だから、
もともと非現実的ではあるんだけど(笑)
もっとこう・・・家族愛というか、そういう話かと思ってた。
情がわいて、でも事情があって離れ離れになってとか、
壊れてしまって、でもやっぱり家族のことは覚えていたとか、
そういった類の話だと勝手に思っていたので、
割と序盤にポイ捨てされてビックリ。(笑)
後半は少年ロボットの冒険みたいな。
で、最後はひょろっと長い宇宙人が出てきてお母さんをよみがえらせてくれて
最終的には何故か少年も人間的になって永眠。
あんなに愛してた母親に捨てられて、それでも大好きで、
しかもよみがえった母親は大好きだった穏やかな母親。
なんだか複雑。
全く泣けない。
人間の一生なんて宇宙時間では・・・
ロボット技術が進歩した未来、長い間昏睡状態にある息子の代わりに、ロボットを受け入れ、愛を覚えさせる。
ところが息子が目を覚ましたため、ややこしくなる。
映像の見事さはほとんどが記憶に残る素晴らしさ、意表を突く流れに驚く。
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