コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第61回
2018年6月1日更新
第61回:ザ・ビッグハウス
本作の想田和弘監督は、以前から「観察映画」というドキュメンタリの新たな理念を提示している。この観察映画の第8弾として本作は制作された。舞台は、収容人数10万人以上という米国最大のアメフトの競技場「ミシガン・スタジアム」。タイトルはその通称からとられている。
想田監督は「観察映画の十戒」として、以下のように挙げている。被写体へのリサーチや事前打ち合わせは行わず、台本も書かず、「作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない」。さらにはナレーションや説明テロップ、音楽も原則使わない。
この「観察映画の十戒」はドキュメンタリーという映画ジャンルに対する、きわめて刺激的な向き合い方である。
そもそもドキュメンタリーとは、何を描き出すものなのか。フィクションではなく事実に基づく「記録映画」であり、主観を含まない客観の描写が求められている、というのは多くの観客がイメージしているものだろう。しかし実際には、純粋な客観などあり得ない。「そもそも何を題材として取り上げ、何を撮影するのか」「どのような切り口で見せるのか」「どのようなナレーションを加えるのか」という制作側の視点が必然的に入り込むため、ドキュメンタリーはその意味でとても主観的である。これは新聞やテレビなどの報道機関に客観中立報道などあり得ない、というのと同じ議論である。
想田監督の「観察映画」は、そのような客観を目指しているのではないだろう。そうではなく、ダイレクトに感じられる世界の皮膚感覚や、そこから伝わってくる生々しさのようなもの。制作者=映画監督が、その場所でいったい何を感じたのかということ。スクリーンの中から立ち現れてくる制作者や出演者の「無意識」のようなものを表出すること。そのような方向なのではないかと思う。
そういう視点で本作を見れば、この巨大なスタジアムとそこに集まる無数の人々という全体像を撮影し、しかもそれを17人の映画作家のそれぞれが回したカメラで捉えるというスタイルは、まさに「生々しさ」の追求であるように思える。
しかしただひとつ、本作には残念なことがある。それは2時間近くもある本作が、実に面白くないことだ(もちろん、それは私個人の感想であることは付け加えておく)。驚くような展開もなければ、鮮やかな映像もあるわけでもなく、とても退屈なのである。
そもそも面白さなど記録映画の王道に求めるな、と怒る人もいるかもしれない。それは映画というものに私たちが何を求めるのかという、かなり厄介なテーマでもある。無意識を表出させたような生々しさを、美しい映像やくっきりした物語に慣れた21世紀の観客にどう伝えるのかというのは、とても深い問題なのだ。
私はこの問題を乗り越えるカギは、観客の当事者性と身体性にあるのではないかと考えている。その両立があってこそ、美しい映像やくっきりとした物語を超越した生々しさを観客に送り届けることができるのではないか。
その意味で平面的な映画のスクリーンに映像を投射し、それを遠くから観客が見るという現在の映画メディアのスタイルは、まだ映画のポテンシャルのすべてをまだ引き出していない、そういうことなのかもしれない。
想田監督は日本におけるドキュメンタリの騎手として、ぜひそのような新しい地平を切り拓くような作品を、これから世に出していってほしいと切に思う。
■「ザ・ビッグハウス」
2018年/アメリカ=日本
監督:想田和弘
6月9日からシアター・イメージフォーラムほかにて全国順次公開
⇒作品情報
筆者紹介
佐々木俊尚(ささき・としなお)。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。毎日新聞社社会部、月刊アスキー編集部を経て、2003年に独立。以降フリージャーナリストとして活動。2011年、著書「電子書籍の衝撃」で大川出版賞を受賞。近著に「Web3とメタバースは人間を自由にするか」(KADOKAWA)など。
Twitter:@sasakitoshinao