ダンケルクのレビュー・感想・評価
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退屈な映画でした
クリストファー・ノーラン監督の作品が好きで全部見てきましたが、今回の作品だけは残念!!
戦争映画は自分の中で一番泣けるジャンルですが、ダンケルクは終始敵襲からのピンチを何度も耐え抜くシーンの連続で、人間ドラマもなく感動もしませんでした。
会話が非常に少ないので、登場人物が何を目的に動いているのかとか、思考も捉えにくい。。
バックの音楽も少ないので、静かなシーンばかり。
音が徐々に早くなる効果音は、シーンを限定すればかなりドキドキを演出できますが、乱用しすぎてるので効果減少です💧
ノーラン監督はやっぱりSF映画に限る!!
その場にいるような感覚に陥った! 傍観的な感覚ではなく、その場で実...
その場にいるような感覚に陥った!
傍観的な感覚ではなく、その場で実際にいるような感覚になった。
ドキドキ、ハラハラものでもあり、時間が前後して最終的に繋がっていく‥……
英雄物語ではなく………スゴイ
空虚なこころ
おそらく。アイマックスだなんだとデジタル撮影方法にお金かけすぎたのか、と思う。現代に生まれてラッキーだった、彼らは命が軽んじられ本当に不幸であったと思うが、それがメッセージ?なぜか心に刺さらなかった。
映画『ダンケルク』評
☆映画『ダンケルク』(2017年アメリカ/クリストファー・ノーラン監督作品)評
-映画『ダンケルク』とは砂浜であり、それが生と死の瀬戸際のトポスとして君臨する時、あらゆる記号体系が神話作用を稼動させる。そこには父性的特権と母性的なそれの強靭な拮抗と融合による戦いの構図が、微かなる垂直の振る舞いと女性性を不可視の領域に於くことで成立する倒錯的な記号により暴露される英霊達への弔いのトポスの表象形態が敷衍される。
或いはラスト近く砂浜に並べられた数多のヘルメットの描写は、そこが兵士達の葬られた匿名的特権を奮う場所であると共に、戦争の過酷さを静かに讃える映像として君臨するまさにこの映画の白眉として、筆者も涙を禁じ得ぬ極めて崇高な戦争の縮図と謂っても過言ではないであろう-
クリストファー・ノーラン監督はこの戦争叙事詩を謳歌する為に、常に兵隊に動きを纏わせる事で映画の運動性を誇示させる映像戦略を、観る者にカメラと被写体による操作で感知させる。そこでは、イギリス空軍のスピットファイアとドイツ空軍メッサーシュミットによる空中戦が動きを奪われたパイロットであるにも関わらず、戦闘機が『トップガン』や『ライト・スタッフ』の如くゲーム感覚で披瀝される時の速度との戯れにより映画が活性化される事に観る者は敏感であらねばならない。
その証拠に最期にイギリスに帰り兵士達を運ぶ電車が男根的表象体を維持する事で陸が持つ父性を奮う時、不意に車窓に現れる遊ぶ男の子達に、兵士が次の駅の名前を尋ねる時に彼等が発する「ウォーキング」の一言に端的に現れていよう。ここに於いて、この映画がひたすら女性性を回避する事で成立する歩く事、つまり速度を伴った動きに固執する監督の父性的特権性が認められるのだ。戦争とは、恰もこの父性が纏う運動性に代表される速度の醸成にある。
しかし、この映画にはどこかこの速度を欠かせるトポスの誘惑が認識できるのだ。それはこの映画のほぼ七割が女性的特権を標榜する大海において繰り広げられる兵士達の救出劇にある事から、流れをせきとめる停滞と逡巡の概念が海の場面を占有する。
それは閉塞的な船中に銃弾で穴を開ける事で海水を誘い込む場面と、海上に不時着した戦闘機内に閉じ込められたパイロットが侵入する海水で溺れる間際に逃れる場面のカットバックにより代表される。そこでは生と死の中間地帯を纏う虚構空間を停滞と逡巡を生成する閉塞的装置とする事が、前者では船底に残された兵士達と、後者ではコックピットで海水と抗い窓を壊すパイロットのみという数学的見地からの差異を不覚にもさらけ出す結果となる。
そこでは複数と単数という概念が奮う運動性が、微かなる垂直の動きにより脱出するまでの過酷なる戦争状況を露呈する時の閉塞感が、たとえ複数であろうと単数であろうとその人間が船と戦闘機が運動性を剥奪される事で、殆ど差異を払拭する閉塞的な悲劇的空間からの逸脱装置として機能しているのだ。
これらを導き出す海の存在意義は、母性を孕む事でオイディプス的な側面を暴き出す。そこには、戦争こそはアンチ・オイディプスの概念が働くマッチョな人間の愚行であるかのように振る舞われる自虐的な殺人行為であり、まさに生き残りを懸けた遊戯であるかの如く描かれるのだ。それは、係累を遺せぬ性的不能の様相をも帯びる過酷な悲劇である。
またこの兵士の動きを停滞へと向かわせる砂浜での縦列の並びは、彼等を船に乗せる為に狭い防波堤に並ばせる時に発生するリニア的構図が、男根的特権を行使する縦の構図を図らずも露呈させる。この縦の構図が、只ひたすらダンケルクという砂浜のトポスを陸と海の中間地帯である事に終始させる。それは、父権を保つ陸と母権を奮う大海を表象するトポスの抗い難い宿命をも顕示する表層性の誇示でもあろう。
或いは海水という液体が死への欲動を施す記号体系を謀る溺死を誘い海面に浮かぶ死体を現出させるのに対し、砂浜では死体は土砂によりひたすら隠蔽される事だ。ここにも、トポスの持つ表層への依拠が装わているだろう。それは戦死した兵隊の姿が霰も無い姿で披瀝されるか否かで、弔いの概念の有無を無闇にも曝け出す結果となる。
この弔いとリニア的構図が陸という父性的特権に於いて行使されるのも、戦争が男の兵士により敢行される殺し合いである事からも立派に証明されよう。それほどこの映画は、こと程左様に女性性を回避する事で微かなる縦の運動が保つ生への優位が確認できるのだ。
例えば、ラスト近くでの一般人の船による救出劇の殆どが、船に乗り込む兵士達の姿を不可視の領域に追い込む事で成立している事からも明らかであろう。この映画はこういった垂直の動きを画面から排除する時にこそ、生存率を高める証となる記号体系を編んでいる。それは女性の描写を極度に排した事と連関性を誇る。
これは子供を産む女性こそが、係累を遺すジェンダーとして君臨する事の暗喩として機能しているからに他ならない。この血縁関係が催す垂直の関係を保つ事が、微かなる縦の動きを回避する起因ともなっている。戦争とは、かくも縦の関係を寡少たらしめる男性性というジェンダーの悲劇なのでもある。
それはイギリスからドーバー海峡を渡り連合軍を助けに来る男同士の縦の関係である父子こそが、血縁関係を代表する時に呼応する悲劇的フィクションの醸成だ。この息子兄弟の弟が不慮の事故で命を落とすのも、父性の悲劇的側面の強度を高める捏造に加担している。それが戦争の実体なのだと言わんばかりに。
この映画が女性性を徹底的に駆逐する時、映画は微かなる垂直の動きさえをも回避させる。それは生き抜く事の優位を高らかに謳歌している記号として見事に符合しており、この連関性は喩ようもなく美しい。
しかしこれが逆に照射するのが、戦争状況に於ける死者を英霊として祭り上げる祝祭空間の生成にある。この英雄讃歌がラストに用意されているのも、この映画が只の反戦という通俗的制度に則るメロドラマを排する事の証でもあろう。そこでは敵機を完膚無きまでに撃ち落としたスピット・ファイアが砂浜に不時着する時、この戦闘機が炎に包まれそれを眺めるパイロットが炎の赤さに溶け込む実に感動的な場面。又はダンケルクから逃れるイギリス兵士二人が、本国に帰還し電車の中で静かに微笑む場面。そして、イギリスから救出に向かった船に乗る父親と息子が兵士達と共に無事に生還する場面と、死して帰還するヒーローにも準える新聞紙を彩るもう一人の息子の写真。
この三者の生き残る姿或いは死をもって兵士を救う青年の写真記事には、クリストファー・ノーラン監督の英雄讃歌が些かシニカルさを伴い表現されており、ここには監督自身の怜悧な他者的視線さえ窺えるのだ。
「ダンケルク」とは砂浜であり、それが生と死の瀬戸際のトポスとして君臨する時、あらゆる記号体系が神話作用を稼動させるのだ。そこには父性的特権と母性的なそれの強靭な拮抗と融合による戦いの構図が、微かなる垂直の振る舞いと女性性を不可視の領域に於く事で成立する倒錯的な記号により暴露される英霊達への弔いのトポスの表象形態が敷衍される。
ラスト近くの砂浜に並べられた数多のヘルメットの描写は、このダンケルクで散った兵士達の葬られた匿名的特権を奮う場所であると共に、戦争の過酷さを静かに讃える映像として君臨するまさにこの映画の白眉として、筆者も涙を禁じ得ぬ極めて崇高な戦争の縮図と謂っても過言ではないであろう。
(了)
IMAXでもう一度見たい傑作なのだけど、躊躇してしまうほどのあの体感
その日の体調だったりするのかもだけど、スピットファイアの主観視点によるピッチ/ロール/ヨーにはまりすぎて気持ち悪くなってきたのでしばらく視線を外すハメに。途中まで「これは凄いな」と思って入り込みすぎたのかもしれない。こうした経験は『クローバーフィールド』でもあったがアレはただただ苦痛でしかなかったので途中で離席した。
例えば『アバター』でも主観で飛翔するシーンは多くあったがあれは100%ヴァーチャルだったので楽しさしかなかった。今作では実機での撮影ということでリアリティしかなかったし、その感覚と実際の客席に座っているだけの自分の状況との食い違いに耐えられなくなったのかもしれない。
『インターステラー』でも繰り返されたノーズコーン横に相当する位置に据えられたカメラ視点のみでなく、コクピット内からのパイロット視点も加えられることで迫力は十分。CGIに頼らないための工夫に進化を見せた。あえて不自由な手法をとることでしか得られないものを最大限に作品に落とし込んでいる。こういう作家がいることに感謝しかない。
今作はドラマも希薄で登場人物は掘り下げられない。しかしそれは表面的な見方であり、彼らの行動の背景に何があるのかを考えればそれで十分補完できると思う。
ノーラン作品にしては全体の尺が短い今作にあって冒頭の台詞もなくただケガ人を担架で運ぶだけのシークエンスの冗長さがユニーク。あれでドラマ性に関してはある程度の覚悟が出来た。今作では全体の構成としてもそうだが、局面でもタイムリミットがあってそれらに対応させられる人びと、という構図がしつこいまでに繰り返される。そのしつこさに辟易しそうな頃に民間船による救出劇があって有無を言わせず感動的なシーンになっている。リアリティはともかくとして。
オリジナリティは評価するがホントに変わった作品を作るな、という感想が個人的に定着しつつあるノーランだけど、とうとう実話ベースの作品を撮ったということでますます今後の制作に期待がもてる作家であることは間違いない。
ちょっと、船酔い感
IMAXで見ました。音や画面の迫力が凄過ぎて、ずっと緊迫感があり過ぎて、映画館を出る頃には、ちょっと船酔い感がありました。それから日本人には馴染みのないダンケルクの歴史背景を知ってから行く方が良いかも。前提知識も無く映画館び行ってしまって、恐怖感以外は感情移入しづらかったです。
小学生向け戦争映画
レビュー通り映像は素晴らしいの一言に尽きる。
ですが私は開始30分後には終了時間を気にするようになりました。
そもそも高評価の方々は戦争映画を見たことはありますか?
実際の戦争でどのような事が起きてるか知っていますか?
銃で撃たれ、爆撃される。
でも血が出ない表現に疑問は持たないのですか?
そんな戦争があってたまるか。
私は戦争映画に映像美なんて求めない。
求めるのはリアルな描写とそれに見合った脚本だ。
この映画にはそれが一切無い。
最後に気になったのは主人公は無事にトイレに行けたのか位w
戦争の現実を切り取った映画
ダンケルクで起きた戦いで、負け戦になりそうな場面で兵士を助ける為に民間の船が救出に行く。空から海からの戦いが現実味を帯びて
思わず見入ってしまう。色々なドラマがあり飽きさせない映画でした。
クリストファーノーランが好き
むむむ。だからこそ最後まで寝ないで観れたのかもしれない。
戦争映画というより、脱出映画、生きて故郷に帰りたい!が伝わりました。
戦争映画によくある、脚吹っ飛ばされた、血が、ギャーなど一切なく。
空海陸で時間軸が違うので、それはクリストファーノーランの得意とする手法かと、もう一度、二度みたくなる。
メメントでこの映画どういう事‼️とハマり、監督知らずインセプションで感動して。
台詞もほぼなく名前もなく(ある人もいるよ)誰が誰かも少ししかわからず、
しかしもう一度見てみたいと思うのはトリックにハマってるのでしょうか。
クリストファーノーラン一度で感動したのは『インフェクション』。ダンケルク、本当に好き嫌いが分かれそうな作品。
もう一度ネタバレ見てから見たい作品。
そこがまたいいね😊👍
凄いが慣れる!
エキスポのバカでかいスクリーンで鑑賞。
ファーストカットで「でかっ!」
びっくりした。
しかし、10分くらいで慣れた。。
船の沈没とか、撮影大変だったろうな〜とは思う。
映画としては、なんにも心に残らなかった。
明日にはすっかり忘れているだろう。
戦争の実話を映画化という重いテーマながら良くも悪くもノーラン作品な...
戦争の実話を映画化という重いテーマながら良くも悪くもノーラン作品なんで軽く見れましたwwほぼ99%男しか出てこないので若人からじいちゃんまで色々な男前を楽しめるので良い。トムさん男前過ぎた✨
空軍パイロットはいい服着ててやはりエリートなんだな〜地べた這いずり回ってる兵卒とは扱いが違うのね。
生と死は紙一重!
遅ればせながら、IMAXで観た。彎曲した超特大画面と臨場感あふれる音声に酔いしれた。まぁ、ダンケルクの撤退作戦を描いている作品なので仕方ないが、戦争映画というより逃走映画だった。コリンズとファリアはスプリット・オブ・ファイアで戦っているし、ドーソン親子は民間人なのに、船を出した。桟橋、大空、海洋三箇所を時間をずらして描きながら、やはり基本は故国に帰ること。どうにかして、帰りの船に乗り込もうとしている。自分もトミーと一緒に逃げ惑っている気分になってくる。一瞬の間に夥しい死体が陸にも海にもあふれかえる。怖くてたまらない。卑怯者に見えるキリアン・マーフィーの気持ちもわからないでもない。『この世界の片隅に』が、庶民の戦争体験を追体験させる作品なら、これは兵士のそれを追体験させる映画と言えよう。英雄でも何でもない普通の人の戦争をCGを使わない圧倒的な映像で再現させたクリストファー・ノーラン監督に敬意を表したい。
「感覚」移入で感情に来る
登場人物が何を見て、聞いて、感じたのかが描かれる場面が多いので、意味がわかった瞬間に恐怖やらの自分の感情が湧いてきて、追い詰められる感がとってもリアルでした。
そういう細かい部分を見逃すと、途端に感情移入しにくくなるのかもしれませんが。
個人的には、いろいろ感じるところがあり、非常に見ごたえがありました。
観客の期待とノーランの作家性の微妙なズレ
まず、この映画、間違いなくIMAXの映像体験として素晴らしい。縦と横に巨大に広がるスクリーンに映った海と空、そしてそれと対照的に小さく中央に配置される人々。3DのIMAXですら感じたことのない、画面の中の世界の奥行と広さを感じる事が出来た。
音響もすばらしい。あんなに銃弾の「鉄に当たって砕けている」音にひやひやさせられたのは、初めてかもしれない。
ちなみに、ハンス・ジマ―の半分サウンドトラック、半分音響効果と言ってもいいような緊張感のある音楽は方向性は素晴らしいが、ちょっと画面を過剰に説明しすぎている嫌いがあるかな、と思った(今ここ盛り上がるところ!今ここ感動するとこ!みたいな盛り上げ方・・。)
さて、ここからが本題なのだけども、実はこの作品で少しもったいないなと思った点がある。それは時間を前後させる物語の語り方だ。
彼の出世作、メメント、あるいはインセプション、インターステラー同様、彼がやりたいのは「時間の操作」なんだと思う。映画だけが、時間を編集することが出来るメディアである。多分彼はそれこそが映画という表現の独自性だと考えている作家なんだろう。
で、じゃ果たして今回それが上手くいっているかというと・・。この話、全然普通の時間軸で語っても問題なかったのでは?
ノーランが素晴らしい映画作家であることに疑いはないが、彼の優れている点がその「時間を編集する巧さ」にあるとは実は私はあまり思っていない。
彼の優れている点とはやはり、映像のイメージのパワーだと思う。台詞が少なく映像だけで物語をシンプルに語っているダンケルクは、それだけで、彼の作品が十分に成り立つ事を証明している。だからこそ、この作品に関して言うと、不必要な時間軸の入れ替えは、映画のスケールと不釣り合いな小細工のように感じてしまうのだ。
私としては、ノーランにはダンケルクと同じ方向性で、スピルバーグが扱うような普通の題材、物語を正攻法で撮るような映画にチャレンジしてほしいと思う。(そういう意味で彼が007を撮る事に興味があるというのは納得だ。)
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