これは現在では、“回想シーンなどが無い短縮編集バージョン”に該当するもので、初めてのソフト化でアメリカ版VHSで発売されて以降、長年ずっとこちらのバージョンでしか観ることが出来ない状態が続いていました。
初公開当時劇場で複数回鑑賞歴があった日本劇場公開版については、元々“回想シーンを含むバージョン”であった事は間違い無く、当初より「ディレクターズ・カット」に相当するバージョンでのみ公開されていたものです。
映画人生でも最愛の部類に含まれる今作は、高額なアメリカ版ビデオで初回発売され際に(日本字幕版を待っておられず)喜び勇んで購入したのがこのバージョンでした。
「あのシーンが無いなんて、何かの間違いじゃ無いかっ!?」と衝撃を受け、打ちのめされました。
可成り後年になって『ディレクターズ・カット版』と称して、「元々の日本公開版」に準じたバージョンの鑑賞が叶うようになった際には感無量でした。
その際にも、輸入版ソフトでその存在を確認し、その後の国内発売タイミングは相当鈍く遅かったので、待ちきれずに高額な輸入版で先に入手してしまったものです。
先にあの“パイクとソーントンがそれぞれに過去を回想シーンを含むバージョン”で観たかどうかで、この作品に対する印象(感動)は全く違うものになってしまいますね。
『夕陽のギャングたち』の時にも同様に思いましたが、日本の映画ファン(昭和の時代の)って、けっこう恵まれていたんだなとの認識を深めた一件でした。
当然ですが、自身がこの作品を愛してやまないのは、作品配給について監督の意向の関与があったのかどうかなどは分かりませんが、日本公開版で初見して衝撃体験をしたからに他ならないと言う事は間違いなと断言します。
これらかつて盟友であった主人公らを隔てた、過去と現在での立場の違いの伏線となる、ハッキリとした描写があってこそ、終盤の意味合いはより感動的なものとなるのだから。
何度か繰り返して鑑賞する事でより深まるのは、この映画はただの暴力破壊に終始して自滅する無軌道な無法者達のような印象を表面的には受けつつ、その実日本の任侠物映画の仁義、仲間(義兄弟)意識、義理・人情、最後のお礼参りといったような、“最後には命に換えてもスジを通す”、“自身で過去にケジメをつける"といった事を基盤にした、所謂(男の) 美学が色濃く表れた作品に他ならないことを気付かされる事です。
ある意味、「多方はそうした解釈を理解できない」との考えから、この短縮(アメリカ公開?)版に至った可能性も考えられる事です。
当時のアメリカでの受け取られ方は「壮絶な暴力映画」的で、メディアの中には「Wild Bunch=暴力と訳されるべきではないか?」などの評論のされ方まであったようです。
“衝撃的なバイオレンス・アクション映画”と言う事で十分だったのかと。
そのような方達には「その(更に)向こう側に見えるもの」は見える事は無く終わったんでしょうね…..
参考までに、本邦での初公開当時のポスター等のキャッチ・コピーは、
「生きて帰れぬ男の修羅場
命散らして花咲かす
その名も高きワイルド・バンチ」
でしたから、つくづく上記のような感じを良く捉えているなぁ、と後になるにつれズシっと来ましたね…..
(本来は当然☆5ですが、短縮版としての評価の数字です)