熊井啓
映画監督・脚本家。長野県安曇野市出身。1953年、信州大学文理学部を卒業し上京、関川秀雄監督の誘いで「ひろしま」の助監督に。54年には難関を突破し日活撮影所に入社。久松静児、田坂具隆らに師事する。また、日活社内でシナリオ誌「麦」を編集・発行、脚本の執筆を始める。59年秋に結核で長期入院。
62年に同郷の教師・井口明子と結婚。64年に実在の事件を題材にした「帝銀事件 死刑囚」で監督デビュー。戦後日本を描いた2作目「日本列島」(65)で日本映画監督協会新人賞を受賞。68年には三船・石原プロ提携の超大作「黒部の太陽」を、五社協定違反や撮影事故などを乗り越え完成、年間動員の首位を記録。この頃「忍ぶ川」映画化を巡り、主演予定だった吉永小百合サイドとの確執が表面化する。
69年に日活を退社、ベルリン国際映画祭コンペ出品「地の群れ」(70)、構想10年「忍ぶ川」(72・モスクワ映画祭コンペ)、「サンダカン八番娼館 望郷」(74・アカデミー外国語映画賞ノミネート)など話題作を連発。86年「海と毒薬」でベルリン映画祭銀熊賞を、89年「千利休 本覚坊遺文」ではベネチア映画祭銀獅子賞を獲得。01年のベルリンでは「日本の黒い夏 冤罪」が特別招待され功労賞を受賞。03年には勲四等旭日小綬章を受章している。07年5月に自宅で倒れ、くも膜下出血で死去。享年76歳だった。
結核などの大病を経験、特に「忍ぶ川」ロケハン中に吐血し、大量輸血によって一命を取り留め、撮影時は病院から現場に通った。療養の実体験は「海と毒薬」などに活かされた。徹底した取材でも知られ「下山事件」では総裁の原寸大人形を実際の現場で轢断させ実証実験したという。