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古いしきたりで生きる共同体の中の性暴力、邪悪な精霊をテーマにしたペルー映画「少女はアンデスの星を見た」ティト・カタコラ監督インタビュー

2025年12月19日 11:00

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ペルーで農地改革が進んだ1980年代~1900年代が舞台
ペルーで農地改革が進んだ1980年代~1900年代が舞台
(C)2023 CINE AYMARA STUDIOS

1980年代のペルー・アンデス地域を舞台に、古いしきたりと差別意識を背景に起きた少女の悲劇を描く「少女はアンデスの星を見た」が12月20日公開を迎える。

2017年の長編デビュー作「アンデス、ふたりぼっち」が国内外で高く評価されたペルーのオスカル・カタコラ監督が長編第2作として制作を開始したが、本作撮影中に病気で急逝。本作を引き継ぎ完成させた、オスカルと長年コンビを組み映画制作を続けてきた叔父ティト・カタコラのインタビューが公開された。

ティト・カタコラ(左)とオスカル・カタコラ監督
ティト・カタコラ(左)とオスカル・カタコラ監督

「夜明けに輝く星」という意味を持つ「ヤナワラ」と名づけられた少女。母親は彼女を出産して亡くなり、父親も落雷で命を落とした。落雷のショックでヤナワラは言葉を発しなくなったが、雄大なアンデスの山々と動物たちに囲まれ、祖父エバリストの愛情のもと健やかに成長した。やがて思春期になったヤナワラに教育を受けさせたいと考えた祖父は、新任の教師に読み書きを教えてもらおうと、共同体唯一の小さな学校に彼女を連れていく。それは生活を豊かにする機会に思えたが、教師から受けた暴力により、さらなる悲劇が起こる。祖父は愛する孫娘を恐ろしい運命から救いたい一心で、ある決断を下す。

――これまで、オスカル・カタコラ監督と共同で制作されてきましたが、本作の企画はどのように立ち上がったのでしょうか?

私たちは常にチームを組んで仕事をしてきました、共同で、というより、コーエン兄弟のようなコンビでした。そのような形で、私たちはいくつかの映画作品を世に出しました。「少女はアンデスの星を見た」では、私たちはアンチャンチュのような邪悪な精霊というテーマに臨もうと考えました。というのは、私たちのアイマラ文化やアンデス文化の世界観には二元性という原則概念があって、私たちは守護精霊を持つ一方、悪い精霊も存在するからです。しかし、それを西洋的な悪魔や悪鬼と混同してはいけません。私たちの文化には、そのような概念はまったくありません。

画像3(C)2023 CINE AYMARA STUDIOS
――ペルーで本作を上映した時の反応はどうでしたか?

少女が受ける性暴力の方がより注目され、そのため、邪悪な精霊というテーマは一歩後退し、二次的なものになったとは思います。しかし、そのことで本作は、評論家や映画ファンにより広く受け入れられました。また、多様なテーマに挑戦する映画を研究対象としている大学などからは、大きな反響がありました。他方、先住民コミュニティでは、本作のインパクトはさほど大きくはなかった、なぜなら、彼らは現実を体験しているからです。彼らにとって、多くの場合、真実はフィクションを超えています。アンデスの農村地域において、本作のテーマは目新しいものではなく、自分たちが熟知している話なのです。

――主人公のヤナワラを演じた女性はどのように見つけられましたか?

私たちの作品はアイマラ語またはケチュア語で制作されるので、通常は(それら言語の)ネイティブの俳優を起用します。その意味で、私たちは俳優のキャスティングにはこだわりを持っています。「少女はアンデスの星を見た」の主演女優も、私たちはかなり前からあちこちで探し回りましたが、納得のいく候補を見つけられずにいました。さらに難しかったのは、アイマラのコミュニティに入り込むことでした。そこで私たちは、ハマチという名のフィールドプロデューサーを雇うことにしました。私たちが「逸材ハンター」と呼ぶ彼の使命はただ一つ、主役(ヤナワラ)を見つけること。そのために彼は各地の祭りや縁日、記念行事などに潜り込み、そしてついに、ある行事に母親の代理として伝統衣装をまとって参加していたルス・ディアナ・ママニという少女を見つけたのです。少女はハマチのオファーを受け入れてくれたので、私たちは彼女の両親を説得し、リハーサルを重ね、撮影に臨みました。

画像4(C)2023 CINE AYMARA STUDIOS
――モノクロという手法はとても印象的でしたが、なぜ、モノクロという手法を選ばれたのでしょうか?

本作の舞台は、ペルーで農地改革が進んだ1980年代~1900年代です。そこで私たちは往時の雰囲気を出すため、無声映画のようなモノクロと、あの画面サイズを選びました。また、本作では邪悪な精霊もテーマの一つだったので、どこか暗く、陰湿でひそやか、神秘的な雰囲気も必要でした。邪悪な精霊というのは、日常的なテーマではありませんから。さらに、ヤナワラは多くの悲劇に見舞われるので、(白黒にすることで)観客にはストーリーと、ひいては主人公の少女に、より集中してもらえると考えました。それは成功したと思います。もしフルカラーだったら、同じシーンでも、見る者の目線は空の色や太陽、木々の茂みなどに向いてしまうでしょう。

――本作撮影中にオスカル・カタコラ監督はこの世を去ることになりました。その悲しみをどのように乗り越えられましたか?

当然ながら、オスカルを失ったことは私たちにとって、特に家族にとって、非常に辛いことでした。私は、もう何もしたくない、と思ったことを覚えています。人が一瞬でこの世から消えてしまうものなら、人生において努力する意味があるのかとむなしくなったのです。それでも、私たちは全員で再びチームを組みました。そして私は、ある会議で制作チームに、なかでも優れた技術者でもある私の家族に、「これからどうしよう? 別の監督と契約しようか?」と問いました。皆の答えは一致していました。「別の監督とは仕事はできない、それでは映画の本質が失われてしまう」。そして、オスカルとともに仕事をしてきたのは私なのだから、私が監督すべきだと言ってくれたのです。私も内心ではそう思っていたので、監督を引き継ぎました。本作のビジュアルや音響に関するコンセプトはすべて理解していました。それを考えてきたのは、オスカルと私なのですから。唯一の問題は、それまでずっとオスカルと2人でやってきた構成や演出、編集を、私1人でしなければならないことでした。

画像5(C)2023 CINE AYMARA STUDIOS
――オスカル・カタコラ監督の撮影はどこまで進んでいましたか?

オスカルと一緒に撮れたのは、たった6シーンでした。幼少期のヤナワラの3シーンと、学校での3シーンです。脚本上は100シーンあったので、オスカルとともに撮れたのは、10%未満ということになります。

――その後、どのように完成に至ったのでしょうか?

そうですね、私が監督することになったので撮影のペースはずっと遅くなり、撮了まで2カ月以上かかりました、それが私のやり方だからです。私はウォン・カーウァイ監督と同様に流動的に撮影するので時間がかかるのです。引き続き編集も行い、さらには作品完成までのポストプロダクションにおける技術者への指示も、すべて私がしなければなりませんでした。

――本作はオスカル・カタコラ監督のオリジナル脚本ですが、オスカル・カタコラ監督の意向はどのくらいまで本編に反映されているのでしょうか?

オスカルと私は常にチームで仕事をしてきました、つまり、私たちは役割分担するのではなく、例えば私がプロデューサーのときも、私一人ではなくオスカルと一緒にやってきたし、脚本も監督もしかりでした。しかし、今回の「少女はアンデスの星を見た」の脚本は別で、その大部分はオスカルによるものです。それは私が同時に他の仕事も進めていたからで、また、脚本の進捗にも問題はなく修正の必要はほとんどなかったので、彼に任せていました。パーセンテージで言えばオスカルの寄与は70%でしょうか。他の作品では、私たち2人はほぼ同等に関与していましたが。

画像6(C)2023 CINE AYMARA STUDIOS
――オスカル・カタコラ監督とは甥と叔父という関係ですが、心に残る思い出はありますでしょうか?

叔父と甥というより、私にとっての彼は、映画の世界において幾多の戦いや苦難を共に乗り越えてきた兄弟です。ええ、彼は生来の芸術家だったと思います。対する私はより合理的で、だからお互いに補い合えたのでしょう。彼との思い出はたくさんあります。私とオスカルは、彼が10歳の時から亡くなるまで、夜昼を問わずいつも映画の話ばかりしていました。議論もたくさんしました。とても懐かしいです。「少女はアンデスの星を見た」という作品を彼に見てもらいたい、彼の論評を聞きたいです。彼は何と言うでしょうか?(彼が生きていたら)きっと2人でむさぼるようにこの作品をレビューし、議論を戦わせたでしょうが、それはもうありえません。

少女はアンデスの星を見た」は、12月20日から東京・新宿K’s cinemaほか全国順次公開。

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