西崎羽美監督「よそ者の会(2023)」+「よそ者の会(2025)」二本立て⼀週間限定上映決定! 新予告編も公開
2025年11月21日 18:00

西崎羽美監督「よそ者の会(2023)」+「よそ者の会(2025)」二本立て連続上映が、渋谷のユーロスペースにて2026年1月24日より一週間限定で実施されることが決定。あわせて新たな予告編も公開された。
西崎監督「よそ者の会(2023)」は、どこにいてもよそ者だと感じる者たちがひとつの場所に集まり、それぞれの秘密が交錯する様を描いたドラマ。主演は「ボクらのホームパーティー」の川野邉修一。共演は坂本彩音、比嘉光太郎、藤家⽮⿇⼑ら。藤原季節や武田梨奈がコンペティション部門の特別審査員を務めた第18回田辺・弁慶映画祭にてキネマイスター賞を受賞。そして、今年5月から6月にかけて開催された「田辺・弁慶映画祭セレクション2025」の 西崎監督WEEKにて、テアトル新宿で最終日に満席を記録し話題を呼んだ。また、大阪アジアン映画祭の第20回と第21回に二作連続で入選している。
ユーロスペースでの上映決定にあたり、西崎監督からのコメント、また各界から本作への応援コメントが寄せられている。
2023年に撮った「よそ者の会」を、さまざまな経緯を経て翌年の2024年にもう一度撮り直すことになりました。
一度完成した作品をあえてリメイクするという少し風変わりな試みを経て、気づけば「よそ者の会」は2023年から現在に至るまで、私の映画づくりの軸としてあり続けています。
この二つの作品は、私の映画人生を確かに前へと導いてくれた、かけがえのない存在です。
2025年5月、テアトル新宿で行った一日限りの二本立て上映は、ありがたいことに満席となり、多くの方とこの二つの「よそ者の会」を共有できたことが、何よりの喜びでした。
同じ会合を軸にしながらも、登場する人々も出来事も異なる二つの作品。
その間に流れる時間の重なりや、映像に滲む変化を感じながら、自由に楽しんでいただけたら嬉しいです。

僕らを寄せつけまいとするひいた画にたんぱくな語り口
触れれば破裂してしまうような緊張感
苦悩諦め反骨心、彼らが静かに放つ世界へのサインは他人事ではいられない苦しさで
よそ者たちがとても愛らしく映りました
映画はずっと、ゆるやかな緊張感に満ちている。もう忘れかけているが、きっと大学とはそういう場所なのだろう。
大学という場所について真剣に考えることは多分、学生として生きる、ある期間にしかできない。まさに今、その只中にいる監督の、大学という空間の隙間や歪み、愛おしさまでを見つめるまなざしが、唯一無二の切実で暴力の予感を孕んだ物語に昇華している。
自分は「よそ者」じゃないと思える人なんているんだろうか。あるいは「爆弾持って吹き飛ばしたい」なんて暗い願望を抱えずに生きられる人は?
だけどそれは今じゃない。それは希望でもあり、祈りでもあり、そして無期限の犯行予告でもある。「よそ者の会」はそういう映画である。
もっともらしさのためのカットや、オーバーな説明的芝居もない。無粋なアップもなく、抑制がききつつ確実なカットが重ねられる非常に端正な演出……と思いきや、平穏な顔をしたその中では、圧力鍋のように破壊衝動が張り詰めていた! なんとパンクな作品だろうか……。いつの間にかヒリヒリした思いで一瞬も画面から目が離せず、見終った後は沸々と得体のしれない感情が湧いてくる。観客の中に何かを仕掛ける、会話劇でありつつ、冷たく熱い、まるでテロのような傑作中編。必見!
モラトリアムを描いた映画は数多いが、「よそ者の会」が描いているのは、いつかは終わるはずだったモラトリアムがいつの間にか終わらないものになっているんじゃないかということだ。自分は何者でもない、どこにも所属できないという感覚は一生続く。就職したところで自分たちは就職という形の引きこもりを選び取っただけだ。「よそ者の会」に集まったのはそのことに鋭敏に気づいた者たちである。そんな彼らに「暴力」の問題が突きつけられる。今とりあえずの居場所である大学を吹き飛ばしたら…。シナリオ執筆当時、現役学生だった作者のリアルが、雰囲気だけに終わらない、エンタメ性をはらんだ設定を通して描かれていることに僕は感心した。ちなみに作者の卒論は長谷川和彦の『太陽を盗んだ男』である。

この空間が吹き飛んでしまえば、抱えたモラトリアムがさっぱり解決するのではと感じた瞬間が、かつて私にも存在した。よそ者である人々の間に共感を生むことで暗いトンネルから抜け出せるのだろうか。うまく言葉にできなくても、誰かに話したい想いを尊重して歩いていきたい。
社会からよそ者にされたと感じ、どうしようもない鬱屈や憤怒、破壊衝動を内に抱えて生きる男女の物語。しかしその爆発寸前の暴力性を、監督の西崎羽美は、徹底して端正な映画語法と静謐な音響設計、そして礼儀正しい会話と動作の積み重ねで炙り出していく。主題と方法論のこの対極性に、ぞくぞくせずにはいられない。
特別、何にも感じていないというような顔で、「よそ者の会」の人間は不満を語り合う。ぽつぽつと話す言葉の奥で、見えない憎悪を燻らせている。その思いがどれほどのものなのか、私たちには推し量れない。彼らにも量れないからこそ、彼らは「よそ者」である。その黒い感情の矛先をどうすればいいのか、ゆるゆると大学を彷徨って、ギリギリまで迷っている。本当に必要なものは凶器ではなかった。誰かのためにと動き出す時、ようやく迷いを断ち切れるのだ。
昭和からずっとあるものと令和の現在がこすれ合って生じる軋り(きしり)のようなものを西崎さんは発生させようとしているのかもしれない。もちろん西崎さんは昭和の人ではない。それでもここには(この映画には)異なる時間軸が重層的に存在しているような感触がある。
「よそ者」というのは、現在という時間からはじき出されて、いつでもなく、いつでもありうるような時間を生きる人と映画のことだろう。いま、そこで、軋りを立て始めた西崎さんの映画は、いずれは激しい衝突音を響かせてくれるだろう。

よそ者同士であったはずの彼らがよそ者ではいられなくなる関係性の変転が緊張感を生んでいく。
持続低音のような川野邉修一さんの芝居に引き込まれ、大学のありふれた階段教室を全く異なる空間に見せてしまう演出に瞠目しました。
器用な映画とはいえない。だが、人影の消えた大学キャンパスという「無」から「有」を生みだそうとした気概はこの時代に貴重なものだろう。とはいえ、高く跳ぶためにはまずは二本の足で大地をしっかりと踏みしめて立つ必要がある。その意味ではがらんどうの階段教室で、友達とも恋人ともいえない一組の男女が机の上を土足で歩きまわる物語上は無駄かもしれない固定のロング・ショットに、信ずるに足る何ものかを見た気がする。
“よそ者”たちの眼差しは、どこか虚ろなのである。それは「ファイト・クラブ」に近似した危うい思想を孕みながらも、彼らの信念が揮発して浮遊しているかのように感じさせる由縁だ。今作は校舎内という閉じた世界を描いているにも関わらず、テロリズムによって疑似家族的関係を導くような社会性が伴っている。その要因のひとつは、学生側ではなく清掃に従事する大人の側を主役にした点にあるのだろう。まるで社会的弱者など存在していないかのように黙殺する、悪しき潮流に抗う西崎羽美監督の姿勢がここにある。“よそ者の会”に賛同するような人々は静かなる憤怒と不満を抱えながら、今日もどこかで破壊による社会の再構築を夢見ているからだ。
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