「ブレット・トレイン」に出演しませんか? 予想外のチャレンジは1通のメールからはじまった【ハリウッドコラムvol.323】
2022年9月11日 16:00
ゴールデングローブ賞を主催するハリウッド外国人記者協会(HFPA)に所属する、米ロサンゼルス在住のフィルムメイカー/映画ジャーナリストの小西未来氏が、ハリウッドの最新情報をお届けします。
「ブレット・トレイン」に出演しませんか?
そんなメールを頂戴したのは、2020年の秋のことだ。当時はまだ大半の映画館が閉じていて、映画やドラマなどの映像制作に関しても労使間でコロナ禍の安全対策がまとまっていたものの、コスト増やさまざまな制限を理由に、完全に再開したとは言えない状態だった。そんななか、ほとんどの撮影がスタジオ内で完結する「ブレット・トレイン」が制作中であることは知っていた。
その「ブレット・トレイン」のセット取材のみならず、映画に出演できるという。たった1日の稼働だから端役であるのは確実だ。それでも、これまで何度となく撮影現場に招待されているものの、カメラの前に立つ機会を与えられたのは初めてのことだった。
この話がぼくのもとに来たのには、いくつかの偶然が重なっていると、勝手に分析している。「ブレット・トレイン」が日本を舞台にした物語なので、日本人の出演者を必要としている。だが、ほとんどがロサンゼルスで撮影されており、当時は日米間を簡単に行き来できる状態ではなかった(渡航前の検査に加えて、長期の自主隔離が必要だった)。おまけに端役であるため、撮影日がぎりぎりにならないと決まらない。つまり人気者であればあるほど、参加しづらい条件なのだ。
ぼくはろくに考えずに承諾した。どうせ群衆のなかの一人だろうし、コロナ禍の制作現場をこの目で見たかった。それに、この手の「おいしい」オファーは実現しないことのほうが多い。誰が言ったか知らないが、期待しなければ失望することもない。実際、延期が相次ぎ、そのまま年を越すことになった。
だが、2021年になるとすぐに、「ブレット・トレイン」の各部門からメールやテキストメッセージが飛び込んできた。宣伝部からはNDA(秘密保持契約書)への署名を求められ、新型コロナ担当から感染対策に関してZoomでレクチャーを受け、衣装アシスタントに身長・体重・足のサイズなどを聞かれた。衣装合わせが1月18日に決まると、その2日前に新型コロナの検査を受け、衣装合わせの日にも検査を受けた。
当時はまだ高齢者へのワクチン摂取がはじまったばかりで、アルファ株が猛威をふるっていた。そんななかでキャストやクルーに感染者が出てしまったら、制作を一定期間止めなくてはならなくなるので、膨大な赤字が発生してしまう。だからこそ、作品に関わる誰もが緊張感を共有していた。
でも、ぼくが緊張していたのは、コロナに感染するリスクに対してよりも、映画に出演することのほうだった。まさか本当に実現するとは。
出番は1月20日にやってきた。場所は、カルバーシティにあるソニー・ピクチャーズだ。実はぼくは近所に住んでいて、それもぼくがこの大役に選ばれた偶然のひとつだと思っている。当日も徒歩でスタジオ入りしたほどだ。
コロナ検査を受けると、控え室に通された。エキストラといえば大部屋のパイプ椅子と相場が決まっているが、ぼくには個人用のトレーラーが用意されていた。あまりの高待遇に、ますますびびってしまう。
入り時間は午後1時半だったが、出番まで時間があるというので、セット見学をさせてもらうことにした。巨大なサウンドステージのなかに、日本の駅や車両のセットが作られているのは圧巻で、日本語がそこかしこにあるので、里帰りしたような気分になった。なお、このときの様子は動画で撮らせてもらったので、詳しくは映画.comのYouTubeチャンネルをチェックしてもらいたい。
この日、現場にいたのはアーロン・テイラー=ジョンソンのみで、彼が演じるタンジェリンが、車両を歩きながら携帯電話で誰かと口論する場面が何度も撮られていた。
さて、気になるぼくの役柄は列車の乗務員役だ。床に落ちている空っぽのペットボトルを拾い、ゴミ箱に入れる。それが乗務員に課せられた役割だ。台詞はないし、誰かとのやりとりもない。映画を観た人なら分かると思うけど、このペットボトルは、プロット上で重要な小道具になっている。
こんな端役でも、プロの役者だったら、自分なりに肉付けをして、魅力的なものに昇華させていくのだろう。あるいは、爪痕を残すために、あれこれ知恵を絞るに違いない。
でも、ぼくにそんな心の余裕はなかった。ペットボトルを拾って、ゴミ箱に捨てる。普段だったら、何も考えなくても出来る動作だ。でも、カメラを向けられたとき、うまくできる自信がない。そして、乗務員がどういう気持ちでその行為を行うべきなのか、まったくアイデアが出てこない。
それなりに年を重ねているはずなのに、この場で求められている経験も知識もスキルも持ちあわせていないのだ。丸腰のまま最前線に送られてしまった憐れな新兵のような気分だった。
さらに悪いことに、ぼくの出番が最後になった。ちりとりを持ってセットに立ったぼくの視線の先には、15人ほどのクルーがこちらを見ている。午後9時をまわり、誰もが早く帰りたいと思っていることをぼくは知っていた。
それからのことはあまり記憶にない。デビッド・リーチ監督の演技指導を受けながら、3テイク撮ったあとに、「何か他に試したいことはあるかい?」と訊かれた。ぼくはしばらく考えたあと、正直に答えた。
「何度でもやりますが、これ以上のものは出てこないと思います」
クルーから笑いが漏れたのが、唯一の救いだった。かくして、人生において最初で(おそらく)最後の映画出演が終了した。
先日、完成作を見たのだが、ぼくの登場シーンはカットされていなかった。ただし、とても短いのでかなり注意して見ないと気付かないかもしれない。
当日は穴があったら入りたい気分だったが、いまでは貴重な機会を提供してくれたことを心から感謝している。なにより役者のみなさんにはこれまで以上に深い尊敬の念を抱くことになった。何事も経験だとつくづく思う。
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