悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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悪の先にあるのはだれかの幸せ
悪は存在しない
水が綺麗な自然豊かな山の中にある町に
とある芸能事務所がコロナの補助金目当てで
グランピング場をつくるのに目をつけて・・・
といった件はあるものの物語なんて結局どうでもいい。
作中でなにも解決しない
タイトルが悪は存在しない
その時点で鑑賞者はこの作中の登場人物(それ以外もか?)を悪として見れなくなる。
芸能事務所は自然をぶち壊して施設をつくろうとしてるがそもそも住人も自然を利用して壊して生活しててそこにいたはずの動物たちの居場所を奪っていったわけで
それぞれの視点で悪は変わるし
悪の先に幸せになってるひともいるわけで
で、ここまではいいんだけど
ラストがさラスト
鹿は人を襲わない
でも瀕死になってたりしたら襲うかも
または小鹿になにかあれば親鹿は襲ってくるかものという件があって
グランピング施設の建設予定地は鹿の住処らしくそこにつくったら鹿はどこへいく?
という主人公の問に芸能事務所の男は
「別のところに行けばいい」
と言ったんだけど
この後主人公は顔色変えたんだよな。
で、むすめが行方不明になってさがしだし
ラストシーンになるわけだけど
んーほんとわかんない
なぜ主人公はあんなことしたのか
わからなすぎて考察みてもわからない
物語の結果が動向、YES/NO必須みたいな作品ではないけど個人的に唐突すぎて
開いた口が塞がらない
結局は奥さん亡くなって(作中では言及なし)
寂しくて生きることどこか投げやりに?なってた?
(娘を迎えに行く時間はいつも忘れてて、支払いの時の金額も間違えてて、仲間と集まることすら忘れてるのは心ここに在らずってこと?)
とはいえラストシーンの行動に繋がるか?
といわれると繋がらない
悪ととらえられる行動には
その先に自分以外に幸せになる人がいるはずなのに最後の行動には幸せになるひとがいない
ほんとうにわからない
なにがいいたかったの?
途中まで結構、あーなんか妙を得てる感じで好きだったけど最後がほんとわけわかんなくて
余韻というか納得いかなくてモヤモヤ残る
低予算で作られた濱口の小品佳作
1 山里を舞台に、自然と共生する男と開発計画を巡る顛末を描く。
2 あらすじは次のとおり。豊富な水や木々が多様な生態系を育む山里。そこで自然と共生しながら娘と暮らす男が主人公。この地に観光施設の建設計画が持ち上がる。住民説明会で水源への廃水流入や施設の管理体制の不備が指摘される。会社は不完全な計画と認識しながらも住民から信頼されている主人公を籠絡して計画を進めようと近づく。そうした中、主人公の娘が行方不明となる。そして・・・。
3 本作では、里の恵みを活かした主人公や住民の暮らしぶりが丹念に描かれる。そして、山里の自然の点描が美しい。濱口は、そこに施設建設のストーリーを挟み込み、計画を推進する会社スタッフを狂言回しに使った。キャラクター設定も住民と社員とで対比させた。住民は朴訥で口下手なのに対し社員は打算的で饒舌。社内会議の場面ではあまりに戯画的過ぎて脱力した。主人公が演技経験のない素人であるだけに顔の表情やセリフが乏しく、抑揚のない喋りをしていたが本作のキャラクター設定で活かされた。
4 オリジナル脚本らしく終局の場面は予想外の展開を示し、濱口は解釈を観客に委ねた。行方不明だった娘は、主人公が彼女の立ち回り先を見込み、水辺に続く野原に横たわる姿を遠目で見つけた。そこに鹿のショットが写りこみ、彼は脳内処理により、銃弾を受け傷ついた鹿と遭遇した娘は助けようと近づき襲われたと結論づけた。
5 彼が娘に歩み寄る前に、同行していた男性社員をはだか締めで失神させた。何故なのか?その社員は言葉巧みに主人公に近づいたが観察眼の鋭い主人公は自分が里の自然を脅かす計画推進に利用されようとしていることを見抜いた。そして施設ができれば自然が破壊されるのは明らか。自然と共生して生きてきた主人公には受け入れ難いことであった。無謀な計画と非常識なスタッフを自然から排除しようとしたのではないだろうか?その落し前として、主人公は娘とともに水辺の先に歩を進めたように思える。
常識を疑った方がいい
映画とは一体何か。
物語や思想を語るものなのか、表現として映像、音楽、台本、演者が渾然一体となりイメージを提示するものなのか。
濱口監督の映画は過去作品から今作に至るまで後者だ。
唯一、「ドライブマイカー」は物語の起承転結があり異質だと思っている。
個人的には「ドライブマイカー」はあまり好きではない。
その意味で、今作は濱口監督の代表作になるのではないか。
そもそもこの作品が製作されたきっかけがある意味偶然であり、最も濱口監督らしい。
ドライブマイカーで音楽を担当した石橋英子がライブ用の映像制作を依頼したことがきっかけ。
その撮影過程でセリフを伴う映画製作を思いついたという。
映画作りとは脚本があり、キャスティングがありロケハンがありリハーサルがあり製作されるのが通常だから、この映画は映画として準備されていないのではないか、とこのきっかけを聞いて考える人が多いのではないかと思うが、逆である。
この思いつき、偶然こそが濱口監督の映画づくりだ。
だから、傑作が出来たのだ。
舞台は信州の架空の街「水挽町」。
人々は森に囲まれ、静かに生活している。
主人公の巧(大美賀均)は森で薪を割り、小川で水を汲み、娘の花(西川玲)と生活している。職業は自称便利屋。
そこに、東京の芸能事務所がこの町にグランピング施設を作るという知らせが舞い込む。
工事着工前の現地説明会では町の水源を汚染するずさんな計画が示され、説明会は紛糾する。
計画はコロナ禍で経営が苦しくなった芸能事務所が国の補助金を目当てにしたものだという。
何という俗っぽさ。意味のない自然破壊であるのは明らかだ。
そこで、タイトルの「悪は存在しない」に対して、この芸能事務所は明らかに「悪」ではないのかと思い当たる。
いや、この映画は「善」と「悪」、「聖」と「俗」といった単純な対立構図には当てはまらない。
むしろ、そうした常識の枠を外し映画を観たままに感じることを要求する。
冒頭の森を見上げた移動ショットに石橋英子の不穏で美しい音楽が重なりあうシーンが素晴らしい。
雪の残る信州の山村の静謐さ、森の木々に反射する陽光の神々しさ。
その中で永遠に続くのではないかと思える、巧の薪割りの長回しショット。
巧役の大美賀は役者ではなくスタッフの一人で、セリフは棒読みだ。
そうした美しいが単純なショットの連続や展開の無さ、演技の稚拙さは映画として退屈なものになりがちなのだが、なぜか、この世界に引き込まれてしまう。
濱口監督の手腕としか言いようがない。
結末は賛否両論、え、なぜそういう展開なのかと・・
「悪は存在しない」本当に?
常識では悪は存在する。ただそれは人間の価値観、決め事による悪に他ならない。
この映画は考えずに感じた方がいい。
ある河川の上流、長野らしいですが。 自然とともに暮らす人々、 グラ...
ある河川の上流、長野らしいですが。
自然とともに暮らす人々、
グランピング施設を作るという東京企業、
それぞれのサイクルで過ごしてゆく様子。
村社会独自の内輪意識・排他性のようなものを、持っている人もいそうですが
じつは、先祖土着の人など、そもそも居ない街だとか。
どう共存するかは、人々の意識に常にありそうにも見えて。
東京企業の側の担当者さんら、登場の仕方はいかにも都会の論理でしたが
会話が進んでゆくうちに、じつは人情味たっぷりに見えたり。
自然には厳しさも伴うこと、おらの郷里 (他県ですが山の麓で河川の上流、ここ数年は熊が町に降りてきて)からも類推しています。
映像と音の美しさ、優しさと不穏さが共生するような、
なんとも不思議な印象を抱きました。
「やり過ぎは良くない」
そもそもなぜ土地売買の契約ができたのか?
つまり自然豊かな場所ということなんだけど、途中で観客がモゾモゾし始めるくらい森のオープニングシーンが長い。またストーリーは明瞭だけど、特に主人公のラストの行動は分からなかった。
確かに、地域活性化とか振興事業とかいって都会から上から目線でやって来て、しばらく後に無責任に撤退、地元住民は泣き寝入り、という構図は許せない。(四国でそんな風なことがあったねー。)この開発業者は経営が上手くいっておらずコンサル(諸悪の根源)のアドバイスで田舎の土地開発をする、というエゴイストぶり。作品の中では地元の人向けの説明会で皆がはっきりと意見を言って問い詰めていたのが印象的で、それで開発する会社側が、この開発は一筋縄ではいかないということを思い知らされるが、そうでなかったら全てが始まってしまってから抗議しても手遅れになるのだろう。
映画では会社側として村に来た担当者が帰京してから会社のやり方に反発をする様子が描かれ、もしかしたら移住して来ちゃうかも?という感じである。安易過ぎると上手くいかないけどそれは本人次第で失敗するとは言い切れない。
主役の俳優さんが訥々と喋る棒読みタイプで、説明会の場で自分は「開拓サンセイ」と言った時、「開拓賛成」の立場なのかと思ったが、「開拓3世」なのだった。
釈然としなさを抱えながら
今日、夕方の回で鑑賞。釈然としない後味。
だけど、折角なので釈然としないまま書いてみる。
多くの方が言っているように、釈然としないのはあのラスト。
例えばシンプルに解釈すると、不条理なラストだけど、人間の思うままにならない自然を表している…とも言えるかもしれない。巧は手負いの鹿のメタファーで、開発側も住民側にも自分の都合があるだけで悪は存在しない・けれど、自分と子どもを守るために攻撃するしかなかったのかもしれない。
確かに最後の巧、雰囲気が鹿の化身というか野生動物っぽいし。予測不能な動物を見ているときの、「えっえっ…?」という戸惑いをこちらに抱かせてきた。
でもだからといって、「悪は存在しない」けど「手負いの鹿は攻撃する」を表すためにこんな乱暴とも思える演出、するかな…?
ラストの裏切られ方という点では、妻夫木聡が主演していた「悪人」を少し思い出した。
ただ悪人の場合は、主人公がラストの行動に至るまでの心情を想像させるような描写がそこまでにある。観客にショックを与える展開も、現実はロマンチックな物語ではなく厳しいのだ…と思わせる説得力があった。
この作品の場合は、ラストが現実的というより急に別のジャンルになってしまったようで、寓話的だ。
濱口監督の過去作「寝ても覚めても」も、私ははまれなかった。一番の理由はやはり「急に置いてかれた」感だったと思う。
人間の心情を描く物語だと思って、セリフまわしや振る舞いから努めて物語を読み取ろうと観ていると、あるシーンから急に不条理な力(スピリチュアルなような、幻想的なような)が発揮され、置いていかれてしまう。
推理小説だと思っていたら夢オチだったみたいな、「ずるいよー」感を持ってしまう。
でも、現実世界でも割り切れないことはいくらでもあるし、何でも解釈できると思う方が烏滸がましいんだろうな…。でもでも。
ひとまず今日の心境はこんなところ。またしばらくしたら感想が変わるかもしれないし、心の中にとっておきたい。
これで終わり!?の衝撃だった
期待度○鑑賞後の満足度○ 自然界に“善悪”は存在しない。だって”善悪”って人間がこの世界に出現してから作った概念だもの。
※2024.06.29. 2回目の鑑賞。《ユナイテッド・シネマ橿原》
○わざわざ十三まで観に行ったのに地元(奈良)でやるならそう言ってよ、とちょっとだけ言いたい。
○今回は、人間が主体の筈なのに、ここ(自然の中)は本来人間が存在してはいけない場所なのだ、というような不思議な感覚がした。
○人間様はこの世界では中心的な存在でありその他の存在は二次的なもの、人間様の都合で何とでも変えられるものという驕りを持っている。
野生の鹿の通り道が人間様の(欲望のための)計画の邪魔になるのなら人間様ではなく鹿が他所に行ったら良いとしか考えない。
-以下は1回目の鑑賞時の感想-
①監督が『ドライブ・マイ・カー』の監督だと、恥ずかしながら本作を観た後知りました。いやはや。
②かなり乱暴な色分けですが、『ドライブ・マイ・カー』が商業映画だとすれば、本作は初めから商業映画としては作られていないと思う。
『ドライブ・マイ・カー』がシネコンプレックで公開されたのに、本作は所謂アート系シアターでしか公開されていないのもその証左。
③自然界に“善悪”はなく、あるとすれば“バランス”(主人公?の「何でも屋」の台詞にもある)。
だから、その“バランス”を崩すものは罰せられる。
どう消化させるか
サラリーマンの頃、いつも感じていた葛藤を思い出した
コロナ補助金目当てでグランピング施設の着工を急ぐ芸能事務所に対し、この計画に抗う地元の人たちに共感した(みんなそうだと思う)が、一方で説明会の進行役という嫌な役回りを任された高橋の気持ちも理解できた。はじめは嫌な奴だとも思ったが、決して悪い人間ではない。クルマの中での女性社員とのやりとりには共感する部分もあった。管理人になろうとするのも、巧にアドバイザーになって欲しいとする提案も、何とかこの計画をうまく成し遂げたい(街にとっても)とする気持ちからのもので、もともと野心のある人間ではないので人を騙そうとか、自分の立場だけを考えてというものではない。高橋の発言に嘘はない。
しかし補助金ありきの薄っぺらなグランピング計画が出提案されるなかで静かな街に歪みが生ずる。本来あり得ないはずの手負いの鹿による惨劇が起きてしまう。おそらく、この計画が進んでいったとして歪みはますます大きくなっていくだろう。誰もが悪意を持ってなくても悪いことは起きてしまう。そのなかで悪人と叩かれるものも出てくる。
胡散臭いのは芸能事務所の社長であり、コンサルタントの男である。しかし彼らにしても自分の仕事を全うするなかで良かれと思うことをしているに過ぎない。利益を前提とした仕事、企業というものはそういうものなのだ。
社会の仕組みというものの一面を考えさせられると同時に、企業で働いていたときの心情、またさまざまな葛藤(社内での立場、取引先との関係、社会貢献や社会正義と企業の利益とのバランスなど)を思い出した。
静かな山間の町で・・・
濱口監督は「ハッピーアワー」を観たときからの注目の監督で、
封切が待ち遠しかった作品です。
イントロの林の中の樹々を下から撮り続ける映像は、ヴィム・ヴェンダース監督の「パーフェクトデイ」の主人公平山の夢のシーンを思い出しました。
どちらも禅的・哲学的無言の問いかけ?かと深読みしてしまいました。
話が進んで行く中、町に持ち上がったグランピング計画をきっかけに住民や業者とのいざこざを中心にして話が進んで行くのかと考えていたらそうでは無く、意外でしたね。
結末の代々そこで暮らす巧の娘・花が手負いの鹿に傷つけられてしまったところから、関わるそれぞれの人間の内心と結果を考えてみました。
花は手負いの鹿の危なさをどこまで知っていたのか?
芸能事務所の高橋は花の危険を感じ声を上げようとして、その高橋を止めようとして巧は高橋を抑え込み・・。児童館の先生は悪気無く花を一人で帰宅させてしまい・・。
それぞれが全く悪意無いままに行動していたのに結果は最悪になってしまった。
物事の結果だけ、表面だけを見ていては本質はわからないーーと。
目に見えないところに真実が有る。そう言うことが言いたかったのかしらね?
と考えたりしてます。観る人によって何を感じるかふり幅の広い作品ではないでしょうか。
これで終わりってことないよね~と思っていたら、まさかのEndにちょっと驚きました。
それも濱口監督らしいのでしょうか?
心を揺さぶる物語 確かにそうなのですが…
面白かった。心を揺さぶられました。確かに無関係ではいられないような気にもなってきました。でも、この感情はどこからくるのでしょうか?
美男も美女も登場しない。舞台の田舎町の登場人物全員が、どこにでもいそうな人たちばかりで、演技はとっても自然で、観ている自分自身が映像の町に溶け込んでしまう感じがした。本来異物であるはずの、グランピング建設の説明会の男女社員でさえ、最初こそ異物感はあったものの、やがて見た目も、思考も、感情の動きさえどこにでもいそうな善良な日本人代表みたいになってしまい、普通に感情移入できてしまう。そうい観点から考えると無関係ではいられないし、心を揺さぶられる物語となるのである。
ところがである。初めから、控えめな異彩を放って若干分かりにくい感を出していた、主人公なのだが、最後の場面で物凄い異彩を放ち、観客はまったく感情移入できなくなる。なんだよと言って倒れた、グランピング説明の男性社員のように。
監督のインタビューに自然災害は最悪のできごとだが、自然災害を人は悪とは呼ばないという意味の話があった。そうであるなら、悪は存在しないとは正鵠を突いた題名ということになる。自然を陶冶し、人間に落とし込むとこの映画のような表現になるのだろうと、私は強いて解釈し、もやもや感を残して、寝ることにする。
明日の朝には忘れていることを節に願うのみである。もやもや…
税金に頼る事業の胡散臭さ
ここの解説を読んだが、逆説的と書いてて笑った。逆説ではない。作中鹿の話が出てくる。追いやられた鹿は何処へ行く?都会の人間は「どこかへ行く」と無責任だ。ここが本質なんだと思う。彼は悪人ではないが、それを悪い事とも思ってない。鹿は比喩であって何にでも当てはまるだろう。日本人をないがしろにした移民問題や、自民党の裏金だってそうだ。
補助金目当てのグランピングにしたって、去年から問題になっている東京都のいわゆるColabo問題と一緒で当事者(映画では村人、Colabo問題では貧困女性自身)は関係なく税金目当ての事業にすぎない。電気代の再エネ賦課金の値段を上げるためのメガソーラーにしたって自然破壊をしているだけだ。でもそこに悪があるわけではない。ただの利己主義だ。個人の価値観、多様性なんて言ってる人で、そのことに疑問を挟むと反発する人達が一番やっかいなのだ。
物語りきる撮り手の責任。
面白いけど分からない
東京近郊の山間部にある町が舞台。
始まって暫くは美しい自然の中の生活が淡々と描かれる。ちょっと退屈になってきた頃に、山にキャンプ場を作る計画を企業が持ってきて話が動き始める。
計画通りにキャンプ場を作りたい企業と、不安にかられる町の住人、間に立たされる担当の社員2人。
ここからの展開が面白い。特に会話が秀悦だ。また、少し間延びした感じの編集が不安感や不信感を増していく。
展開や人物像が多層的になって、惹きつけられていく。
しかし、訪れるラストシーン。その意味が僕には分からなかった。良い悪い訳ではなく、自分の理解できる範疇を超えてしまった。意味が知りたい。興味が尽きない。
それも含めて、かなり面白かった一本。
森に見られてるって事か…?
#悪は存在しない
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