悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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このなんとも言えない濱口的後味(笑)
ドライブマイカーは本当に作り込まれた映画だった
反面
濱口監督こんなスタイルもするのねー!っていう
ワンカットワンカット、なんか分からないんだけど、退屈せずにみれてしまう感じ
濱口監督の絵は不思議なもんだねぇ
不安をあおってくる劇伴
さて、渋谷に行くのが嫌すぎて(苦笑)見て見ぬふりをしていたわけですが、やはり濱口監督作品を無視することはできずに公開からようやくの3週目、サービスデイにBunkamuraル・シネマ渋谷宮下へ。このシアターは初来館の私、渋谷TOEI時代も入ったことがなかったので、ちょっとドキドキですwなお、公開から時間が空きましたが、毎度の如く前情報なしで挑みます。いつも聴くラジオ番組の映画評も、このレビューをアップするまではオアズケです。
で、始まって早々に気が付く「何、この劇伴。。」何となくですが不安をあおってきます。なるほど、このレビューを書くのに読んだ情報でようやく気付いたのですが、この映画、音楽を担当する石橋英子さんとの共同企画だったのですね。兎に角、音楽が鳴り始めると「何か起こるのでは?」と不安を感じます。そもそも題名がこれですから何も起きないわけがないだろうと想像の相乗効果で最後まで目が離せません。そして後半に案の定「事」が起きるのですが、起きる少し前、物語り中でも一番緩くちょっと可笑しく劇場からも笑いが起きていたのに、、という意地悪な展開により一層のショックを感じます。
観終わって誰しもが考察したくなる終盤に起きるそのことは、その少し前の会話に鍵があることは誰しもが気づくと思いますが、考えれば考えるほど実はあれもこれもが伏線に思えてきます。どんな質問にも簡潔に答える巧(大美賀均)が明言しないことにどんな意味があるのか、しっかり鑑賞者に考えさせる余韻を残してくれています。そして、何といっても作品のベースになる話(グランピング場建設計画)自体が興味深く面白いし、思いのほか為になることも重要な点だと思います。これも後で知ったことですが、銀獅子賞以外に受賞している賞の種類・幅にもなるほど納得です。
キャストの何人かは「見たことあるけどお名前は…」という方もいらっしゃいますが(衝撃の最後でクレジットを確認できませんでしたが、丘みつ子さんがいらしたと思います)、いわゆる「有名な方」が出演されていません。そんな中でも高橋を演じる小坂竜士さん、滑稽で最高です。状況に応じて器用そうに振舞っていますが、実は往々にして脊髄反射している部分など案外身につまされますし、ついつい苦笑します。
かなり好みの作品で、踏ん切りをつけて渋谷に来た甲斐がありました。何ならもう一度観たいくらい。満足です。
鹿の通り道
濱口竜介監督はやはりリアルな現実を切り取るのと、ライブ感を演出するのが上手い。
緩慢なカメラの動きに、演者のなるべく抑揚を抑えたような淡々とした台詞回しが、これが特別な非日常ではなく、あくまでも日常の延長線上にあることを観る者に意識させる。
舞台は長野県の自然が豊かな高原の町。特に沢の水が直接飲めるぐらいに綺麗で、都会からの移住者も増えているらしい。
代々この地で暮らす巧は、薪を割ったり水を汲んだりしながら便利屋として生きる物知りな男だ。
ただ物忘れが激しい。
娘の花は好奇心旺盛、巧の迎えが遅いと一人で森に踏み入り探索をする。
ある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。
しかも計画を進めるのは畑違いの芸能事務所であり、町の一番の誇りである水源を汚染しかねない杜撰な計画でもあった。
まずこの住民説明会のシーンに引き込まれる。
計画の担当者である高橋と黛相手に住民が様々に異を唱えるのだが、まさにドキュメンタリーのようにリアルな対立を観ているように感じた。
巧たちはただ闇雲に反対するのではなく、しっかりと町にとっても財産となるような計画を立てるように彼らを促す。
しかし住民の意見をすべて聞き入れる余裕があるほど、芸能事務所側にも予算と時間があるわけではなかった。
しかもコロナ禍による行政からの補助金を得ているだけに、何としても計画を実行に移さなければいけない。
高橋と黛は社長に説得されて、再び巧のもとへ赴くことになる。
確かに住民を半分馬鹿にしたようなコンサルタントや社長の姿には悪意を感じる部分もある。
しかしこの映画のタイトルにもあるように、この作品には明確な悪は存在しない。
高橋と黛が移動中に仕事への不満や結婚観などを話すシーンが続くが、次第に観ているこちら側も彼らに共感を覚えるように誘導されているようだ。
彼らにも人生があり、信念があるのだ。
どうしても人間の目線で見ると、善であるとか悪であるとかを分けてしまいたくなるが、もっと大きな自然の流れの前ではどちらも些細な問題なのかもしれない。
手負いの鹿はやがて息絶えるように、自然の前では善も悪も関係ない。
ただそこに自然の流れに沿って生きる。
淡々と巧が薪を割るシーンが印象的だった。
簡単なようで薪割りは慣れない者には難しい。
そして巧が花を肩車しながら森の木々を説明する姿、そしてグランピング場の建設地が鹿の通り道であると淡々と話す姿が印象的だった。
通り道がなくなったら鹿はどこへ行けばいいのだろうか。
いつの間にか高橋と黛が巧の生活に取り込まれていく様もおかしかった。
さて、本来なら物語はグランピング場の計画についてどうお互いが歩み寄るのかを描きそうなものだが、事態は思わぬ展開を見せる。
花が下校中に行方不明になってしまったのだ。
冒頭にもあったが、狩猟による銃声が不穏な空気を感じさせる。
そして観る者を動揺させるような唐突で衝撃的なクライマックス。
なぜ花が倒れていたのか、説明はされない。
誤って銃に撃たれてしまったのか、それとも手負いの鹿に攻撃されてしまったのか。
それともすべては幻だったのか。
そして巧が思わず高橋の首を絞めてしまう理由も分からない。
これも何か大きな力によって導き出された結果なのだろう。
様々な疑問は残るものの、観終わった後の余韻が長く、カメラワークの秀逸さもあり、まるで大巨匠の作品を鑑賞したような充足感があった。
拓は、鹿だった。
自然な風と川のせせらぎ。
自然豊な高原に位置する長野県水挽町に住む住人達と、その高原にグランピング場を建設しようとする芸能事務所の話。
コロナ禍の影響で経営難になった芸能事務所が政府からの補助金を得ての計画…、住民説明会になるもグランピング施設内にある浄化槽位置が悪く、町の水源に汚水が流れるのではないかと問題に…。
分かりやすく書けば「マンション建設反対」、「太陽を奪うな!」的な、本作は町の水源を汚すな、施設を造っても管理体制が整ってない、20年に1度は起こる山火事が人の出入りが多くなるから頻度が上がるのでは?と問題が色々と、リアルでもある問題だけど私自身こういった問題に直面した事なくて、町の住人達の気持ちも分かるし、事務所側の言ってる都合のいい理由、人の出入りが多くなれば町も活性化しますよ!も何か分かるしで、こういった問題ってリアルでも「なるようにしかならない」と思う。
本作のストーリーは関係なしにあの高原、自然が良かったな~なんて、山道歩いて食べ歩き(陸ワサビ)とか、自然の水を生かしたうどん、薪割りとか、そんな描写が観てて少し癒されました。がっ!ラストの終わり方は何すか!?娘の花といい、事務所の高橋といい、どう解釈したら…。
花役の子は可愛くて将来有望、だから目の下の涙ボクロはズルいんだって!(笑)
ラスト不明の名作
わかるところとわからないところ
その地の掟を汚すことも、目撃することも憚られるのかもしれません
2024.5.13 京都シネマ
2023年の日本映画(106分、G)
ある田舎町に降りかかったグランピング場建設を巡る問題にて歪になる人間関係を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は濱口竜介
物語の舞台は、長野県の山奥にある水挽町
そこで先祖代々住む便利屋の巧(大美賀均)は、娘・花(西川玲)と二人暮らしをしていた
花は地元の小学校に通い、その送り迎えをしているが、巧はよく忘れてしまい、花は一人で森の中を寄り道しながら家に帰っていた
巧は友人の和夫(三浦博之)とその妻・佐知(菊池葉月)が経営しているうどん屋に水を運んだり、薪拾いをして、生活の糧を得ていた
ある日、彼らの村に、芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)がやってきた
彼らは、この村にグランピング場の建設を考えていて、そのための説明会を開くことになった
そこには区長をしている駿河(田村泰二郎)、血気盛んな坂本(鳥井雄人)、和夫と佐知なども参加する
一通りの説明が終わり、質疑応答の時間になるものの、問題は排水設備の設置場所と管理体制になって、まともな答えが出ないままだった
そこで、巧は「社長とコンサルを連れて出直さないと話にならない」というものの、高橋たちは「話を持ち帰ります」と濁すだけだった
話を持ち帰るものの、社長(長尾卓磨)とコンサル(宮田佳典)の方針が変わらず、さらに「巧を案内人にしよう」というアイデアが出て、高橋と黛は再び彼のもとを訪れることになった
巧は追い返すこともなく、和夫のうどん屋に連れて行ったり、日々の仕事を手伝わせたりする中で、彼らの真意を読み解こうとする
そんな折、花の迎えを忘れてしまった巧は、いつものように学校に行くものの、花はいつものように一人で帰宅したと言われてしまう
そこから花が行きそうな場所を探すものの、一向に花の姿は見つからず、防災放送が村中に鳴り響く中、花の搜索が始まってしまうのである
映画は、花が森の中を歩くシーンにて、木々を見上げているショットで始まり、ラストも同じような構図で描かれていく
その意味を探るよりも、ラストにおける「巧の暴力の意味」が物議を醸している内容となっていた
個人的な感想だと、「手負の鹿は守るために攻撃することがある」という前振りがあったので、巧の行動もそれに倣ったものになると思う
暴力の直前には、行方不明だった花の前に手負の鹿がいる、という構図になっていて、その直後の出来事だった
花は手負の鹿の方に歩いて行き、それを止めるような感じで高橋が動いたのだが、巧の行動はそれを制止しているようにも見える
おそらく鹿が花を攻撃したのではないかと思われる内容で、花がぐったりしている様子が描かれるのだが、これが「巧の暴力の後なのか先なのかはわからない」ように思える
すでに花が倒れていて、その原因が「手負の鹿」だと直感的に思った巧が見た幻のようにも思えるし、巧が高橋を攻撃している間にそれが起こった、とも取れる
この二つの可能性から見えてくるのは、「手負の鹿が攻撃することは自然の摂理であり、花はその禁忌を犯したから止めることはできない」というものだろう
高橋が助けるのを止めたかったという可能性がある一方で、花を失った悲しみから、その怒りを高橋にぶつけたようにも思える
手負の鹿=巧あるいは村という構図において、グランピングという「攻撃」から身を守ることの延長線上かもしれない
そう思うのは、高橋に巧を頼るように言ったのは区長で、便利屋だと言ったのも彼だったからだ
なので巧は、区長から高橋の相手をさせられている「真の意味」を実行したのかもしれない
当初はもっと別の方法でと考えていたと思うが、花のトラブルがあったので、衝動的に体が動いたのではないか、と感じた
いずれにせよ、観た人の数だけ解釈がある映画で、このように答えを明確にしない映画を好まない層もいる
だが、映画で描かれている情報をかき集めていけば、その村を守るためにできることは限られている
そう言った意味において、村人の思惑が絡んできているが、それすらも超えて、自然の摂理というものが働いている、ということなのではないか、と感じた
あくまでも個人的な解釈なので、それぞれが感じたことは大切にしてほしいと思う
ラストシーン、監督の勇気に感心した
ドキュメンタリーを見ているかのように引き込まれて、唐突にぶん投げるように終わるサディスティックなラストシーン。
劇場を最初に出てあとから出てくる観客をしばらく観察していたが、皆一様に困惑した顔だったのが面白かった。
自分が監督なら、批判が怖くてあんな風に客を突き放した終わり方は出来ない。
ラストの女の子(花)と手負いの鹿のシーンは、花が倒れている姿を見た巧の想像なのではと思った。だって大人が探している間中、ずっと鹿と見つめあってるわけないもんね。花が倒れている姿を見た瞬間に、巧はその理由を瞬時に想像した。
花は鹿に襲われた。そこに悪意は存在しない。自然の偶然の結果。
そして自然と社会の狭間の巧は、人間の都合で動いている(動かされている?)高橋を自然側の存在として排除しにかかったのだろうか。
しかし、その高橋を襲ったシーンでさえ、巧の想像である可能性があるしなあ。
大体、巧が娘の花に感心が無さすぎる。娘のお迎えを頻繁に忘れる?
人間に関心が薄いのだろうか。そのあたりが花のお母さんがいない原因になっているのか。
だとしたら花の失踪は父親に対するある種の復讐か。
そうするとラストシーンの高橋の存在は、「娘を守れなかった不甲斐ない父親の巧」のメタファーなのか。巧の想像の中で。
うん、わからん(笑)
初めて見る役者さんたちの、そこに生活しているとしか思えない演技。特に会社に命じられて主人公の巧を説得に行く車中の二人の会話は、セリフではなくアドリブではと思えるほど自然で好きだった。特に社員役の女優さん。カメラの前であんなに「普通」に演技できるのはすごいと思った。声だって全然張ってないしね。でもすごく魅力的なキャラクターだった。
自然
水は低いところに流れる
気持ちがザワザワする
山の自然の美しさや厳かさに合わせ、美しさの中にどこか不穏感のある音楽が印象的でした。
題名からのぼんやりとしたイメージもあり、不穏さを掻き立てる音楽もあり、何か不吉なことが起こるのかと終始ザワザワするような気持ちに。
山での穏やかな暮らし、都会の人間との交流など、一見自然と調和する生活を尊ぶようなストーリーにも見えましたが、音楽のためかどこか不穏感が拭えず。
都会から来た男が山の暮らしに傾倒する様子は、ただの現実逃避の薄っぺらい感じに見えますし。
死の気配を漂わせる描写もあり、自然の中での生活に幻想を抱くことを拒むようにも見えました。
ラストは、率直に訳が分からず。
え?という疑問と、子供がこういう結末になるのは避けて欲しかったが…、という感じです。
主人公は何故あんな行動に?と、モヤモヤと考えさせられます。
あれは都会の男に見られてはいけない場面だった、ということなのかとか。
鹿は神聖な動物というのを聞いたことがあるので、子供と神が遭遇している的な神聖な場面であったとか。
自然の摂理に従って死を受け入れるべきであり、それを邪魔してはならないとか。
又は、子供の命が神の元へ向かおうとしていたので、とっさに男の命を代わりに差し出そうとした、とか。
子供の命は救おうとするだろうという固定観念から、こんな風な考えも湧いてきましたが。
又は逆に、主人公は子供の迎えを忘れたりなど子供に対して素っ気ない様子もあったので、子供の死を望んだ、ということなのかとか。
題名の意味も、自然の摂理の中に悪は存在しない、悪も善もなく、死も自然の営みの一部である、というような意味合いなのだろうかとか。
と、色々と考えてもよく分からないので、また映画評や考察などを読んでみたいと思います。
なんにも語っていない
正直、久しぶりにお金を払ったことを後悔した映画。
もったいぶって意味ありげに見せてるだけで、深いことなんかなんにも語っていない映画でした。
『大切なのは自然保護と開発のバランスだ』とか『誰が悪者かは立場によって変わるものだ』とか、そりゃそうだろみたいな話ばっかりでした。
ラストも『ほら人ってわからないものでしょ?』って言ってるようにしか思えず。だから何?そんなありきたりのこと語って満足か?って思いました。
説明会の場面とかは自然でいいのはわかるし、リアリティがあるから素晴らしいっていう人もいるでしょうけど。
でも、リアルな人間の感情なんて、生きてりゃ接するじゃないですか。
それを演じてるのを見に、わざわざ映画館行って、お金払って、時間使う価値ある?って思っちゃうんですよね。
物語ることとか、訴えたいことがはっきりある映画のほうが好きです。
(ラストの解釈を見る側に委ねるのが嫌い、というわけではない)
映像と音楽は綺麗です。
自然との共存の難しさ
擬人化した自然がもたらす、予測不能な結末だと感じました
自然との共存しようとしても、時には地震などで命を落としてしまいます
自然は生態系のバランスを取るため、まったく悪くない人も殺してしまう。悪は存在しない、というのも、「悪い人」ではないということだと最後のシーンを見て、しばらく考えた後、思いました。なので演技が下手ではなく、なにものにも動じない自然を演じていたのですね
住民説明会までは眠たいのですが、途中から惹き込まれていきます
もう一度、観たいと思います
結果としての生死は重要ではない
濱口監督は2011年の震災時に在学していた東京藝術大学からの派遣スタッフとして現地に入り津波を体験した地元住民のインタビューを大量に撮影したそうで「自然(津波)は悪?じゃ自然界の一部である人間は?」というテーマは当時からずっと抱き続けていたのだろう。記者会見でタイトルについて「普段の生活の中で考えないようなことを考えさせてくれることを期待して」と述べているけれど、観客はあまりにも考えさせられ過ぎて困る。面白い映画であることは間違いないが悲しいかなこの制作規模では「自然と人間」を描くにはあまりにもスケールが小さくちゃちくて薪割り水汲み山菜摘み果ては動かぬ剥製の鹿ではとうてい山に生きる男としての説得力を得られるものではなく、実写映画を観るというよりはむしろ挿絵付きの小説を読んで映像を補完している感覚に近い。前作「ドライブ・マイ・カー」では「イタリア式本読み」と呼ばれる感情を込めない演技指導が話題となったが、今作はまさに主人公の巧(大美賀均)が100%棒読みの素人であるのに対し、自然を蹂躙しに東京からやってくる高橋(小坂竜士)はどちらかというと大きめの芝居でそれぞれの立場を反映し対立軸がはっきりして良かった。近づいているようで、親密さを増していくかのようで、その間の溝が埋まることはない。友人と一緒に観た後居酒屋に入りエンディングの解釈で議論するにふさわしい映画で監督はそれを狙っているという狡さ。でも答えはスリーパーをかまされた高橋が発した台詞に示されている通り「なんなんだ?!」
【"自覚無き悪は存在する。”長野県の架空の山麓の自然豊かな町を舞台に、大都会に住む人間の”自覚無き悪意ある業”によって起きた出来事を描いた作品。衝撃的なラストシーンは忘れ難い作品でもある。】
■巧(大森賀均:当初はスタッフとして参加していたそうである。)は娘の花(西川玲)と”長野県の山麓の自然の恵みと共に暮らしている。
コロナ禍で経営の苦しい芸能事務所が、政府の補助金目当てに、宅と花が住む町にグランビング場を作ろうとしたことから、父娘や町の人達の暮らしに不穏な空気が漂い始める。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
- 今作品は平穏な生活を送っていた人達のコミュニティに、大都会から来た人々が波風を起こす事で"様々なバランス"が崩れて行く様を描いている。-
・序盤は、巧が森の中に流れる小川で水を汲み、薪を割り、花と広葉樹、針葉樹が入り交ざる豊かな森の中を歩くシーンが、穏やかなトーンで映される。
ー だが、その中に後半キーになるショットや言葉がさり気無く含まれている。例えば、花が鹿の骨を見つけた時に巧が、
”半矢の鹿だろう。”と言ったり、清涼な水の流れを映し撮ったり。-
・そこに、東京の芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)が、グランビング場設置についての説明会を行いにやって来るが、浄化槽の位置や管理人が夜間いないなど、計画の不備を出席した町の人達に指摘され、這う這うの体で東京へ戻る。
二人は、コンサルの男と事務所の社長に住民に言われた様に、再度の説明会への出席を求めるが、軽くあしらわれ再び町へ戻るのである。
ー 高橋と黛の車中での会話から、彼らが行き詰まっている事が分かるが、二人の人生観の薄っぺらさが垣間見える。特に、”俺が管理人になろうか。”などと言っている高橋である。彼らの闖入が、平穏だった町にとっては”自覚無き悪”ではないか、と私は思ったのである。-
・高橋と黛は、社長に言われた通りに、巧を懐柔しようとするが軽くあしらわれつつ、巧は彼らを冒頭のシーンで、巧とうどん屋を営む男が汲んだ”清涼な水”を使ったうどんを御馳走するのである。
ー 巧の心は、良くは分からないが高橋と黛を嫌悪している様子はない。そして、花はいつものように、森の中を一人で歩いている。巧がいつも迎えが遅い為である。巧は高橋と黛と鹿の通り道でもある、グランビング場になるであろう、森を歩く。
そして、ここでもキーになる言葉が巧みの口から出る。”鹿は人を襲わない。但し、半矢の鹿は別だ。子が居たら尚更だ。”-
■衝撃的なラストシーンの私の解釈
・花が居なくなり町中で捜索をするシーン。徐々に暗くなる中、巧と高橋は花を探しに森に入る。探し続けた結果、漸く二人は花を見つけるが、花の前には”半矢の雄鹿”と”子鹿”がいる。
その姿を見た巧は、高橋の首を後ろから羽交い絞めにして彼を失神させる。その後高橋は泡を吹きながら少し動くがその後動かなくなる。
そして、アングルは血を出して倒れている花を映す。花が襲われたシーンは映されないが、巧が高橋の首を絞めた前であろうと推測する。
巧は、花が雄鹿に襲われた瞬間に、高橋を””半矢の都会の男”であり、彼らが来た為に自分が花を迎えに行く時間がいつもよりも更に遅れ、花が襲われた”と感じ、咄嗟に高橋の首を絞めたのだろうと、思った。
巧も又、”自覚無き悪”に一瞬、成ったのであろう。彼が説明会で語っていた”バランス”が崩れた瞬間でもある。
何度も書くが、これは私の解釈である。
因みに濱口監督は、このシーンに関して”解釈は観客に委ねる。”と言っている。そして、私は解釈を委ねられるのが、比較的好きである。
<ラスト、巧は花を両手で抱え、森の奥に消えていく。そして、冒頭明るく下からのアングルで映された森が、下からのアングルで暗く映されるのである。
今作の後半までの展開の面白さと、特にラストは迷宮的な仕上がりが印象的な作品である。>
<2024年5月12日 刈谷日劇にて鑑賞>
自然が主役級
ル・シネマ渋谷宮下で鑑賞🎥
冒頭のカメラを真上方向に向けて木々の枝を仰ぎながらズンズン進む映像から引き込まれた感じだった。普段、真上を見ながら自然の中を歩くことなど無いので、とても新鮮な風景に見えた。
カメラは信州の山村の自然を次々と切り取って、スクリーンに映される。バックでは音楽が流れ、「これは自然を描く映画だよ」と濱口監督が言っているような映画🌿🍃🦌
「きれいな水」が山村の人々にはとても大事な生活基盤であり、薪割りして火にくべるような生活も続けている自然と人間が上手に共存している村。
そんな村にグランピング場を作ろうとする会社の人間が、山村の人々に説明会を開くが、こてんぱんにやられる会社側の2人。彼らも会社に戻ってから再び山村を訪れた時には住民側に寄り添おうとする気持ちを持ち始めるのだが……といった流れで物語は進む。
あの清流で作ったうどんorそば、食べてみたい!😊
ラストは「えっ!」という驚きで、「その後どうなるの?」はスクリーンの霧の中🌪️🌪️🌪️
自然を映した映像が素晴らしく、濱口監督なかなかの佳作であった🎥✨
<映倫No.124282>
Untitled
タイトルがきっと今作の中で一番でかい意味を成してるんだろうなと予想しながら鑑賞。真っ昼間ですがほぼ満席でした。
序盤のゆったりと音楽に合わせて森の中を映す映像でまず画面に釘付けにさせられました。スロースタートな作品は苦手ですし、この時点で合わないかもって思う作品は多くあるんですが、今作は不思議と落ち着く〜となりました。音楽の力もかなり強かったです。
そこから森やその付近の町を映す描写になり、今作の主人公的ポジションの巧の普段の行動だったり、グランピング施設の説明会だったりと、展開が少しずつ動き出していく感じで、ちょっとした違和感がポツリポツリとありました(鹿を撃ったのはきっと出張してきた東出くんのはず…)。
田舎VS都会の構図のようになっていた住民会と芸能事務所の社員の話し合いは中々にスリリングでした。
計画書を示されてもどれもざっくりとしたもので、そりゃ住民も反対するよという内容には思わず住民と一緒に相槌を打っていました。
バランスを大切にというのには思わず納得してしまい、我慢もしなきゃならないし、たまには気持ちを発散させたりと、日常から大きな事業までやることなすことは一緒だよなと変に納得してしまいました。
都内に帰ってきてからの社長やお偉いさんの杜撰な対応はいかにもだなぁってなりました。計画性というか考えというのが浅はかで、完全にお金目当てなんだよなというのをうまいこと言葉で濁してる感じで居心地が悪かったです。
今作でほっこりしたのは高橋と黛の車内での会話シーンで、会社への不満をぶちまけたり、お互いの恋愛観を語ってみたり、田舎っていいよな〜ってなったりとまったりした時間が流れていて、この時ばかりは劇場も笑いが起こっていました。ここでもやはり車が出てくるんだなとニヤッとしていました。
高橋が薪割り気持ちいい〜とかここの管理人になろうかなっていうシーン。きっと現状の本心なんだとは思いますし、それこそ悪意なんて無いもんだとは思うんですが、どうしても実家がまぁまぁの田舎の身からすると、そんなに楽じゃないよ?と違和感が出てしまったのを巧は強烈に感じてしまったんだろうなと思いました。
町内の集まりであったセリフの「水は上から下に向かって流れる」というセリフが今作を象徴していたなと思いました。コロナ禍の給付金や補助金の行方、汚水は上の地域は良くても下に流れると生活に影響するなど、なるほどなーとゾクゾクする感覚がありました。
花を探しにいくシーンでも上流から下流へと探しにいっていたので、これぞ伏線の回収だなと思いました。
ラストシーン、これは捉え方が十人十色ってやつだと思います。誰しもが正解であって正解じゃないやつです。
個人的には自然にズカズカと入ってくる都会もんを巧が自分の手で成敗するという正義にも見えるんですが、いかにも身勝手で、でも防衛本能もはたらいてみたいなように見えて本当の悪とは思えない作りになってるのが本当に凄いなと思ってしまいました。
観ていたら急にぶん殴られた感覚で置いてけぼりにはされましたが、印象的すぎるラストの衝撃の方が強く、おもしれ〜ってゴワゴワした感情で劇場を後にしました。
個人的にですが、多分全員どこかしら悪いところ、発展したらクズな箇所があって、巧だって娘の事を何回も忘れている事は捉え方によっては悪だと思いましたし、花も何度も行くなっていうのに行くのは極端ですが学ばない悪だとも思いましたし、ここまできたらもう悪は存在しないよ!ブンナゲ!ってなってしまい、上手い作りだなぁってなりました。
棒読みの演技というか本読みの演技が濱口監督作品では特徴的なので、最初こそ違和感はありましたが、だんだんそのキャラクターの特徴や考え方が滲み出るようになっていき、そして感情が少しずつ乗っていくと人間味が出てきたのでそういう面でもこの演技は楽しめました。ただ他作品でもこの感じだったら浮いちゃうだろうなという人が何人かいたので、そういう面にも着目していきたいです。
ここまでタイトルに振り回される作品ってのは初めてでした。思っていたよりかは難しい作品ではありませんでしたが、それでもしっかり考え込んで不意を打たれてと忙しい映画でした。ちゃんと今作と向き合えるような人間になりたい。
鑑賞日 5/9
鑑賞時間 13:05〜14:55
座席 G-12
確かに悪は存在しないが犯罪はある。
子鹿を守るために親鹿は躊躇しないだろう。
相手が猟師であろうと少女であろうと。
環境を守るために全力で抵抗する人もいるだろう。
相手が親切で好意を持っていても。
そんな抵抗や反動は悪ではない。
正当防衛行為なのだ。
それがたとえ傷害以上の行為だとしても。
野山の自然の静寂な環境の中で何かが起こることは悪ではないが、人間社会環境から見れば犯罪となってしまう。
これを理不尽、不条理という人も居れば、言われる人もいる。
いつからか自然も社会環境の一部となったからか!?
毎週、山歩きをする者として自然の社会化は、
文明の高度化と比例する故に仕方ないことと諦めるより仕方ない。
要約すると、「無用の用」 なのか? 老子
ちと、違うなぁ…
(^_^)
悪は存在しない
劇場公開日:2024年4月26日 106分
「ドライブ・マイ・カー」でアカデミー国際長編映画賞、カンヌ国際映画祭脚本賞、「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞するなど国際的に高く評価される濱口竜介監督が、
カンヌ、ベルリンと並ぶ世界3大映画祭のひとつであるベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)受賞を果たした長編作品。
「ドライブ・マイ・カー」でもタッグを組んだ音楽家・シンガーソングライターの石橋英子と濱口監督による共同企画として誕生した。
自然豊かな高原に位置する長野県水挽町は、
東京からも近いため近年移住者が増加傾向にあり、ごく緩やかに発展している。
代々その地に暮らす巧は、娘の花とともに自然のサイクルに合わせた慎ましい生活を送っているが、ある時、家の近くでグランピング場の設営計画が持ち上がる。
それは、コロナ禍のあおりで経営難に陥った芸能事務所が、政府からの補助金を得て計画したものだった。
しかし、彼らが町の水源に汚水を流そうとしていることがわかったことから町内に動揺が広がり、巧たちの静かな生活にも思わぬ余波が及ぶことになる。
石橋がライブパフォーマンスのための映像を濱口監督に依頼したことから、プロジェクトがスタート。
その音楽ライブ用の映像を制作する過程で、1本の長編映画としての本作も誕生した。
2023年・第80回ベネチア国際映画祭では銀獅子賞(審査員大賞)を受賞したほか、映画祭本体とは別機関から授与される国際批評家連盟賞、映画企業特別賞、人・職場・環境賞の3つの独立賞も受賞した。
悪は存在しない
劇場公開日:2024年4月26日 106分
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