悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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"悪があるから善がある"と言うならば
あっ…!上から下へ流れる
東京組にキャラクター性を持たせることで、現代社会に生きる私たちの相手への配慮に欠けた無関心な言動=他ならぬ暴力を浮き彫りにしているようだった(そこの社長やコンサルが如何にもな権化だったが自分は"普通"と思っても)。そして、やはりそれらも個人の気付き次第で、"100も1から"といずれより多数へ流れていくのだろうか?
リアウィンドウから撮られた映像。そして、劇伴が途中でブツ切りされるのは勿論、様々な"音"も印象に残った。
あまり進んで喋るタイプでない、濱口監督らしい淡々飄々とした感じの主人公に、説明会シーンから東京組が入ってきて喋り会話量がどっと増える印象。飾られた写真でしか出てこない主人公の奥さんや明かされないバックグラウンド然り曖昧さがある一方で、東京組は車中シーンでベラベラと喋るし、何なら(少なくとも表面的には)主人公たちより彼らの方が共感性が高い描写がされていた。それはまるで自然と現代社会に汚染された個人(観客)という縮図のようだった。
あらすじになるようなメインのストーリーライン以外にも色々な要素を盛り込みながら、最後は観客に解釈を委ねるような曖昧なラストへと流れていく。例えば、この導入プロットで自分が作ったら、あのまま東京組が乗り込んできた当初の目的は果たされて、地元が大変なことになる…なんて表面をなぞっただけの薄っぺらなものになっていたかもしれない。けど、無論そんな想像からは違った。その中で、皆知らず知らずの内に暴力を振るっているということを考えさせられた。
思ったより断然笑えたし、自分の中でまだ咀嚼しきれておらず考える時間が必要だけど、すごい作品だなと感じる。
このなんとも言えない濱口的後味(笑)
不安をあおってくる劇伴
さて、渋谷に行くのが嫌すぎて(苦笑)見て見ぬふりをしていたわけですが、やはり濱口監督作品を無視することはできずに公開からようやくの3週目、サービスデイにBunkamuraル・シネマ渋谷宮下へ。このシアターは初来館の私、渋谷TOEI時代も入ったことがなかったので、ちょっとドキドキですwなお、公開から時間が空きましたが、毎度の如く前情報なしで挑みます。いつも聴くラジオ番組の映画評も、このレビューをアップするまではオアズケです。
で、始まって早々に気が付く「何、この劇伴。。」何となくですが不安をあおってきます。なるほど、このレビューを書くのに読んだ情報でようやく気付いたのですが、この映画、音楽を担当する石橋英子さんとの共同企画だったのですね。兎に角、音楽が鳴り始めると「何か起こるのでは?」と不安を感じます。そもそも題名がこれですから何も起きないわけがないだろうと想像の相乗効果で最後まで目が離せません。そして後半に案の定「事」が起きるのですが、起きる少し前、物語り中でも一番緩くちょっと可笑しく劇場からも笑いが起きていたのに、、という意地悪な展開により一層のショックを感じます。
観終わって誰しもが考察したくなる終盤に起きるそのことは、その少し前の会話に鍵があることは誰しもが気づくと思いますが、考えれば考えるほど実はあれもこれもが伏線に思えてきます。どんな質問にも簡潔に答える巧(大美賀均)が明言しないことにどんな意味があるのか、しっかり鑑賞者に考えさせる余韻を残してくれています。そして、何といっても作品のベースになる話(グランピング場建設計画)自体が興味深く面白いし、思いのほか為になることも重要な点だと思います。これも後で知ったことですが、銀獅子賞以外に受賞している賞の種類・幅にもなるほど納得です。
キャストの何人かは「見たことあるけどお名前は…」という方もいらっしゃいますが(衝撃の最後でクレジットを確認できませんでしたが、丘みつ子さんがいらしたと思います)、いわゆる「有名な方」が出演されていません。そんな中でも高橋を演じる小坂竜士さん、滑稽で最高です。状況に応じて器用そうに振舞っていますが、実は往々にして脊髄反射している部分など案外身につまされますし、ついつい苦笑します。
かなり好みの作品で、踏ん切りをつけて渋谷に来た甲斐がありました。何ならもう一度観たいくらい。満足です。
鹿の通り道
濱口竜介監督はやはりリアルな現実を切り取るのと、ライブ感を演出するのが上手い。
緩慢なカメラの動きに、演者のなるべく抑揚を抑えたような淡々とした台詞回しが、これが特別な非日常ではなく、あくまでも日常の延長線上にあることを観る者に意識させる。
舞台は長野県の自然が豊かな高原の町。特に沢の水が直接飲めるぐらいに綺麗で、都会からの移住者も増えているらしい。
代々この地で暮らす巧は、薪を割ったり水を汲んだりしながら便利屋として生きる物知りな男だ。
ただ物忘れが激しい。
娘の花は好奇心旺盛、巧の迎えが遅いと一人で森に踏み入り探索をする。
ある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。
しかも計画を進めるのは畑違いの芸能事務所であり、町の一番の誇りである水源を汚染しかねない杜撰な計画でもあった。
まずこの住民説明会のシーンに引き込まれる。
計画の担当者である高橋と黛相手に住民が様々に異を唱えるのだが、まさにドキュメンタリーのようにリアルな対立を観ているように感じた。
巧たちはただ闇雲に反対するのではなく、しっかりと町にとっても財産となるような計画を立てるように彼らを促す。
しかし住民の意見をすべて聞き入れる余裕があるほど、芸能事務所側にも予算と時間があるわけではなかった。
しかもコロナ禍による行政からの補助金を得ているだけに、何としても計画を実行に移さなければいけない。
高橋と黛は社長に説得されて、再び巧のもとへ赴くことになる。
確かに住民を半分馬鹿にしたようなコンサルタントや社長の姿には悪意を感じる部分もある。
しかしこの映画のタイトルにもあるように、この作品には明確な悪は存在しない。
高橋と黛が移動中に仕事への不満や結婚観などを話すシーンが続くが、次第に観ているこちら側も彼らに共感を覚えるように誘導されているようだ。
彼らにも人生があり、信念があるのだ。
どうしても人間の目線で見ると、善であるとか悪であるとかを分けてしまいたくなるが、もっと大きな自然の流れの前ではどちらも些細な問題なのかもしれない。
手負いの鹿はやがて息絶えるように、自然の前では善も悪も関係ない。
ただそこに自然の流れに沿って生きる。
淡々と巧が薪を割るシーンが印象的だった。
簡単なようで薪割りは慣れない者には難しい。
そして巧が花を肩車しながら森の木々を説明する姿、そしてグランピング場の建設地が鹿の通り道であると淡々と話す姿が印象的だった。
通り道がなくなったら鹿はどこへ行けばいいのだろうか。
いつの間にか高橋と黛が巧の生活に取り込まれていく様もおかしかった。
さて、本来なら物語はグランピング場の計画についてどうお互いが歩み寄るのかを描きそうなものだが、事態は思わぬ展開を見せる。
花が下校中に行方不明になってしまったのだ。
冒頭にもあったが、狩猟による銃声が不穏な空気を感じさせる。
そして観る者を動揺させるような唐突で衝撃的なクライマックス。
なぜ花が倒れていたのか、説明はされない。
誤って銃に撃たれてしまったのか、それとも手負いの鹿に攻撃されてしまったのか。
それともすべては幻だったのか。
そして巧が思わず高橋の首を絞めてしまう理由も分からない。
これも何か大きな力によって導き出された結果なのだろう。
様々な疑問は残るものの、観終わった後の余韻が長く、カメラワークの秀逸さもあり、まるで大巨匠の作品を鑑賞したような充足感があった。
拓は、鹿だった。
自然な風と川のせせらぎ。
自然豊な高原に位置する長野県水挽町に住む住人達と、その高原にグランピング場を建設しようとする芸能事務所の話。
コロナ禍の影響で経営難になった芸能事務所が政府からの補助金を得ての計画…、住民説明会になるもグランピング施設内にある浄化槽位置が悪く、町の水源に汚水が流れるのではないかと問題に…。
分かりやすく書けば「マンション建設反対」、「太陽を奪うな!」的な、本作は町の水源を汚すな、施設を造っても管理体制が整ってない、20年に1度は起こる山火事が人の出入りが多くなるから頻度が上がるのでは?と問題が色々と、リアルでもある問題だけど私自身こういった問題に直面した事なくて、町の住人達の気持ちも分かるし、事務所側の言ってる都合のいい理由、人の出入りが多くなれば町も活性化しますよ!も何か分かるしで、こういった問題ってリアルでも「なるようにしかならない」と思う。
本作のストーリーは関係なしにあの高原、自然が良かったな~なんて、山道歩いて食べ歩き(陸ワサビ)とか、自然の水を生かしたうどん、薪割りとか、そんな描写が観てて少し癒されました。がっ!ラストの終わり方は何すか!?娘の花といい、事務所の高橋といい、どう解釈したら…。
花役の子は可愛くて将来有望、だから目の下の涙ボクロはズルいんだって!(笑)
ラスト不明の名作
わかるところとわからないところ
その地の掟を汚すことも、目撃することも憚られるのかもしれません
2024.5.13 京都シネマ
2023年の日本映画(106分、G)
ある田舎町に降りかかったグランピング場建設を巡る問題にて歪になる人間関係を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は濱口竜介
物語の舞台は、長野県の山奥にある水挽町
そこで先祖代々住む便利屋の巧(大美賀均)は、娘・花(西川玲)と二人暮らしをしていた
花は地元の小学校に通い、その送り迎えをしているが、巧はよく忘れてしまい、花は一人で森の中を寄り道しながら家に帰っていた
巧は友人の和夫(三浦博之)とその妻・佐知(菊池葉月)が経営しているうどん屋に水を運んだり、薪拾いをして、生活の糧を得ていた
ある日、彼らの村に、芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)がやってきた
彼らは、この村にグランピング場の建設を考えていて、そのための説明会を開くことになった
そこには区長をしている駿河(田村泰二郎)、血気盛んな坂本(鳥井雄人)、和夫と佐知なども参加する
一通りの説明が終わり、質疑応答の時間になるものの、問題は排水設備の設置場所と管理体制になって、まともな答えが出ないままだった
そこで、巧は「社長とコンサルを連れて出直さないと話にならない」というものの、高橋たちは「話を持ち帰ります」と濁すだけだった
話を持ち帰るものの、社長(長尾卓磨)とコンサル(宮田佳典)の方針が変わらず、さらに「巧を案内人にしよう」というアイデアが出て、高橋と黛は再び彼のもとを訪れることになった
巧は追い返すこともなく、和夫のうどん屋に連れて行ったり、日々の仕事を手伝わせたりする中で、彼らの真意を読み解こうとする
そんな折、花の迎えを忘れてしまった巧は、いつものように学校に行くものの、花はいつものように一人で帰宅したと言われてしまう
そこから花が行きそうな場所を探すものの、一向に花の姿は見つからず、防災放送が村中に鳴り響く中、花の搜索が始まってしまうのである
映画は、花が森の中を歩くシーンにて、木々を見上げているショットで始まり、ラストも同じような構図で描かれていく
その意味を探るよりも、ラストにおける「巧の暴力の意味」が物議を醸している内容となっていた
個人的な感想だと、「手負の鹿は守るために攻撃することがある」という前振りがあったので、巧の行動もそれに倣ったものになると思う
暴力の直前には、行方不明だった花の前に手負の鹿がいる、という構図になっていて、その直後の出来事だった
花は手負の鹿の方に歩いて行き、それを止めるような感じで高橋が動いたのだが、巧の行動はそれを制止しているようにも見える
おそらく鹿が花を攻撃したのではないかと思われる内容で、花がぐったりしている様子が描かれるのだが、これが「巧の暴力の後なのか先なのかはわからない」ように思える
すでに花が倒れていて、その原因が「手負の鹿」だと直感的に思った巧が見た幻のようにも思えるし、巧が高橋を攻撃している間にそれが起こった、とも取れる
この二つの可能性から見えてくるのは、「手負の鹿が攻撃することは自然の摂理であり、花はその禁忌を犯したから止めることはできない」というものだろう
高橋が助けるのを止めたかったという可能性がある一方で、花を失った悲しみから、その怒りを高橋にぶつけたようにも思える
手負の鹿=巧あるいは村という構図において、グランピングという「攻撃」から身を守ることの延長線上かもしれない
そう思うのは、高橋に巧を頼るように言ったのは区長で、便利屋だと言ったのも彼だったからだ
なので巧は、区長から高橋の相手をさせられている「真の意味」を実行したのかもしれない
当初はもっと別の方法でと考えていたと思うが、花のトラブルがあったので、衝動的に体が動いたのではないか、と感じた
いずれにせよ、観た人の数だけ解釈がある映画で、このように答えを明確にしない映画を好まない層もいる
だが、映画で描かれている情報をかき集めていけば、その村を守るためにできることは限られている
そう言った意味において、村人の思惑が絡んできているが、それすらも超えて、自然の摂理というものが働いている、ということなのではないか、と感じた
あくまでも個人的な解釈なので、それぞれが感じたことは大切にしてほしいと思う
ラストシーン、監督の勇気に感心した
ドキュメンタリーを見ているかのように引き込まれて、唐突にぶん投げるように終わるサディスティックなラストシーン。
劇場を最初に出てあとから出てくる観客をしばらく観察していたが、皆一様に困惑した顔だったのが面白かった。
自分が監督なら、批判が怖くてあんな風に客を突き放した終わり方は出来ない。
ラストの女の子(花)と手負いの鹿のシーンは、花が倒れている姿を見た巧の想像なのではと思った。だって大人が探している間中、ずっと鹿と見つめあってるわけないもんね。花が倒れている姿を見た瞬間に、巧はその理由を瞬時に想像した。
花は鹿に襲われた。そこに悪意は存在しない。自然の偶然の結果。
そして自然と社会の狭間の巧は、人間の都合で動いている(動かされている?)高橋を自然側の存在として排除しにかかったのだろうか。
しかし、その高橋を襲ったシーンでさえ、巧の想像である可能性があるしなあ。
大体、巧が娘の花に感心が無さすぎる。娘のお迎えを頻繁に忘れる?
人間に関心が薄いのだろうか。そのあたりが花のお母さんがいない原因になっているのか。
だとしたら花の失踪は父親に対するある種の復讐か。
そうするとラストシーンの高橋の存在は、「娘を守れなかった不甲斐ない父親の巧」のメタファーなのか。巧の想像の中で。
うん、わからん(笑)
初めて見る役者さんたちの、そこに生活しているとしか思えない演技。特に会社に命じられて主人公の巧を説得に行く車中の二人の会話は、セリフではなくアドリブではと思えるほど自然で好きだった。特に社員役の女優さん。カメラの前であんなに「普通」に演技できるのはすごいと思った。声だって全然張ってないしね。でもすごく魅力的なキャラクターだった。
自然
水は低いところに流れる
気持ちがザワザワする
山の自然の美しさや厳かさに合わせ、美しさの中にどこか不穏感のある音楽が印象的でした。
題名からのぼんやりとしたイメージもあり、不穏さを掻き立てる音楽もあり、何か不吉なことが起こるのかと終始ザワザワするような気持ちに。
山での穏やかな暮らし、都会の人間との交流など、一見自然と調和する生活を尊ぶようなストーリーにも見えましたが、音楽のためかどこか不穏感が拭えず。
都会から来た男が山の暮らしに傾倒する様子は、ただの現実逃避の薄っぺらい感じに見えますし。
死の気配を漂わせる描写もあり、自然の中での生活に幻想を抱くことを拒むようにも見えました。
ラストは、率直に訳が分からず。
え?という疑問と、子供がこういう結末になるのは避けて欲しかったが…、という感じです。
主人公は何故あんな行動に?と、モヤモヤと考えさせられます。
あれは都会の男に見られてはいけない場面だった、ということなのかとか。
鹿は神聖な動物というのを聞いたことがあるので、子供と神が遭遇している的な神聖な場面であったとか。
自然の摂理に従って死を受け入れるべきであり、それを邪魔してはならないとか。
又は、子供の命が神の元へ向かおうとしていたので、とっさに男の命を代わりに差し出そうとした、とか。
子供の命は救おうとするだろうという固定観念から、こんな風な考えも湧いてきましたが。
又は逆に、主人公は子供の迎えを忘れたりなど子供に対して素っ気ない様子もあったので、子供の死を望んだ、ということなのかとか。
題名の意味も、自然の摂理の中に悪は存在しない、悪も善もなく、死も自然の営みの一部である、というような意味合いなのだろうかとか。
と、色々と考えてもよく分からないので、また映画評や考察などを読んでみたいと思います。
なんにも語っていない
正直、久しぶりにお金を払ったことを後悔した映画。
もったいぶって意味ありげに見せてるだけで、深いことなんかなんにも語っていない映画でした。
『大切なのは自然保護と開発のバランスだ』とか『誰が悪者かは立場によって変わるものだ』とか、そりゃそうだろみたいな話ばっかりでした。
ラストも『ほら人ってわからないものでしょ?』って言ってるようにしか思えず。だから何?そんなありきたりのこと語って満足か?って思いました。
説明会の場面とかは自然でいいのはわかるし、リアリティがあるから素晴らしいっていう人もいるでしょうけど。
でも、リアルな人間の感情なんて、生きてりゃ接するじゃないですか。
それを演じてるのを見に、わざわざ映画館行って、お金払って、時間使う価値ある?って思っちゃうんですよね。
物語ることとか、訴えたいことがはっきりある映画のほうが好きです。
(ラストの解釈を見る側に委ねるのが嫌い、というわけではない)
映像と音楽は綺麗です。
自然との共存の難しさ
擬人化した自然がもたらす、予測不能な結末だと感じました
自然との共存しようとしても、時には地震などで命を落としてしまいます
自然は生態系のバランスを取るため、まったく悪くない人も殺してしまう。悪は存在しない、というのも、「悪い人」ではないということだと最後のシーンを見て、しばらく考えた後、思いました。なので演技が下手ではなく、なにものにも動じない自然を演じていたのですね
住民説明会までは眠たいのですが、途中から惹き込まれていきます
もう一度、観たいと思います
結果としての生死は重要ではない
濱口監督は2011年の震災時に在学していた東京藝術大学からの派遣スタッフとして現地に入り津波を体験した地元住民のインタビューを大量に撮影したそうで「自然(津波)は悪?じゃ自然界の一部である人間は?」というテーマは当時からずっと抱き続けていたのだろう。記者会見でタイトルについて「普段の生活の中で考えないようなことを考えさせてくれることを期待して」と述べているけれど、観客はあまりにも考えさせられ過ぎて困る。面白い映画であることは間違いないが悲しいかなこの制作規模では「自然と人間」を描くにはあまりにもスケールが小さくちゃちくて薪割り水汲み山菜摘み果ては動かぬ剥製の鹿ではとうてい山に生きる男としての説得力を得られるものではなく、実写映画を観るというよりはむしろ挿絵付きの小説を読んで映像を補完している感覚に近い。前作「ドライブ・マイ・カー」では「イタリア式本読み」と呼ばれる感情を込めない演技指導が話題となったが、今作はまさに主人公の巧(大美賀均)が100%棒読みの素人であるのに対し、自然を蹂躙しに東京からやってくる高橋(小坂竜士)はどちらかというと大きめの芝居でそれぞれの立場を反映し対立軸がはっきりして良かった。近づいているようで、親密さを増していくかのようで、その間の溝が埋まることはない。友人と一緒に観た後居酒屋に入りエンディングの解釈で議論するにふさわしい映画で監督はそれを狙っているという狡さ。でも答えはスリーパーをかまされた高橋が発した台詞に示されている通り「なんなんだ?!」
【"自覚無き悪は存在する。”長野県の架空の山麓の自然豊かな町を舞台に、大都会に住む人間の”自覚無き悪意ある業”によって起きた出来事を描いた作品。衝撃的なラストシーンは忘れ難い作品でもある。】
■巧(大森賀均:当初はスタッフとして参加していたそうである。)は娘の花(西川玲)と”長野県の山麓の自然の恵みと共に暮らしている。
コロナ禍で経営の苦しい芸能事務所が、政府の補助金目当てに、宅と花が住む町にグランビング場を作ろうとしたことから、父娘や町の人達の暮らしに不穏な空気が漂い始める。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
- 今作品は平穏な生活を送っていた人達のコミュニティに、大都会から来た人々が波風を起こす事で"様々なバランス"が崩れて行く様を描いている。-
・序盤は、巧が森の中に流れる小川で水を汲み、薪を割り、花と広葉樹、針葉樹が入り交ざる豊かな森の中を歩くシーンが、穏やかなトーンで映される。
ー だが、その中に後半キーになるショットや言葉がさり気無く含まれている。例えば、花が鹿の骨を見つけた時に巧が、
”半矢の鹿だろう。”と言ったり、清涼な水の流れを映し撮ったり。-
・そこに、東京の芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)が、グランビング場設置についての説明会を行いにやって来るが、浄化槽の位置や管理人が夜間いないなど、計画の不備を出席した町の人達に指摘され、這う這うの体で東京へ戻る。
二人は、コンサルの男と事務所の社長に住民に言われた様に、再度の説明会への出席を求めるが、軽くあしらわれ再び町へ戻るのである。
ー 高橋と黛の車中での会話から、彼らが行き詰まっている事が分かるが、二人の人生観の薄っぺらさが垣間見える。特に、”俺が管理人になろうか。”などと言っている高橋である。彼らの闖入が、平穏だった町にとっては”自覚無き悪”ではないか、と私は思ったのである。-
・高橋と黛は、社長に言われた通りに、巧を懐柔しようとするが軽くあしらわれつつ、巧は彼らを冒頭のシーンで、巧とうどん屋を営む男が汲んだ”清涼な水”を使ったうどんを御馳走するのである。
ー 巧の心は、良くは分からないが高橋と黛を嫌悪している様子はない。そして、花はいつものように、森の中を一人で歩いている。巧がいつも迎えが遅い為である。巧は高橋と黛と鹿の通り道でもある、グランビング場になるであろう、森を歩く。
そして、ここでもキーになる言葉が巧みの口から出る。”鹿は人を襲わない。但し、半矢の鹿は別だ。子が居たら尚更だ。”-
■衝撃的なラストシーンの私の解釈
・花が居なくなり町中で捜索をするシーン。徐々に暗くなる中、巧と高橋は花を探しに森に入る。探し続けた結果、漸く二人は花を見つけるが、花の前には”半矢の雄鹿”と”子鹿”がいる。
その姿を見た巧は、高橋の首を後ろから羽交い絞めにして彼を失神させる。その後高橋は泡を吹きながら少し動くがその後動かなくなる。
そして、アングルは血を出して倒れている花を映す。花が襲われたシーンは映されないが、巧が高橋の首を絞めた前であろうと推測する。
巧は、花が雄鹿に襲われた瞬間に、高橋を””半矢の都会の男”であり、彼らが来た為に自分が花を迎えに行く時間がいつもよりも更に遅れ、花が襲われた”と感じ、咄嗟に高橋の首を絞めたのだろうと、思った。
巧も又、”自覚無き悪”に一瞬、成ったのであろう。彼が説明会で語っていた”バランス”が崩れた瞬間でもある。
何度も書くが、これは私の解釈である。
因みに濱口監督は、このシーンに関して”解釈は観客に委ねる。”と言っている。そして、私は解釈を委ねられるのが、比較的好きである。
<ラスト、巧は花を両手で抱え、森の奥に消えていく。そして、冒頭明るく下からのアングルで映された森が、下からのアングルで暗く映されるのである。
今作の後半までの展開の面白さと、特にラストは迷宮的な仕上がりが印象的な作品である。>
<2024年5月12日 刈谷日劇にて鑑賞>
自然が主役級
ル・シネマ渋谷宮下で鑑賞🎥
冒頭のカメラを真上方向に向けて木々の枝を仰ぎながらズンズン進む映像から引き込まれた感じだった。普段、真上を見ながら自然の中を歩くことなど無いので、とても新鮮な風景に見えた。
カメラは信州の山村の自然を次々と切り取って、スクリーンに映される。バックでは音楽が流れ、「これは自然を描く映画だよ」と濱口監督が言っているような映画🌿🍃🦌
「きれいな水」が山村の人々にはとても大事な生活基盤であり、薪割りして火にくべるような生活も続けている自然と人間が上手に共存している村。
そんな村にグランピング場を作ろうとする会社の人間が、山村の人々に説明会を開くが、こてんぱんにやられる会社側の2人。彼らも会社に戻ってから再び山村を訪れた時には住民側に寄り添おうとする気持ちを持ち始めるのだが……といった流れで物語は進む。
あの清流で作ったうどんorそば、食べてみたい!😊
ラストは「えっ!」という驚きで、「その後どうなるの?」はスクリーンの霧の中🌪️🌪️🌪️
自然を映した映像が素晴らしく、濱口監督なかなかの佳作であった🎥✨
<映倫No.124282>
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