悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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理解しがたい
『ドライブ・マイ・カー』にあった平板なセリフ読み合わせと同じような、淡々とした会話劇。
前半は状況・環境の説明を兼ねつつの日常セリフや、林、空、湖などを重ねていき、眠気を誘発。
後半は、テントなどの道具や食事を提供するホテルみたいなキャンプ(グランピング)場を、補助金狙いで村に作ろうとする芸能事務所と、村人たちの対立構造を描く。
建築許可は県や市が出すので、当事者である町が計画を聞くのが一番最後、着工間際で、説明会を開けばアリバイ成立という今の行政の不備を指摘する内容はよかった。
『悪は存在しない』というタイトルだが、グランピング場開発を企む、芸能事務所の社長とコンサルの二人には明らかな悪意てんこ盛りで、タイトルに偽りがないかどうなのよと思いつつ。
主人公・巧の唐突な最後の行動には、たしかに悪意は存在しなさそうなものの……ちょっと理解しがたく。
前向きに考えたら、考えるな感じろなA24系の亜種で、観る人間に意味を感じさせようとする意図があるのかもしれません。
しかし、私には驚かせるための意外性しか考えていないような、投げっぱなしの脚本に思えました。
なんで銀獅子賞だったんだろ?と思うくらい、尻切れ蜻蛉。
「わかりにくいことが芸術性」というなら、私は芸術がわからない人でいいです。
サブミッションの名手
映画祭の箔が付いているからか、有難がっている方が多いのに驚きました。
アート的な画をテンポのろく繋げば芸術風映画の出来上がり。濱口さんの映画は初見なのですが過去作もこんなもんなんですかね?去年の東京フィルメックスがこの手の映画ばかりでウンザリしたのですが、自分には本作も同列にしか見えませんでした。
とはいえ無名の俳優を使い、雰囲気で書いた第一稿をそのまま撮れ、それでも監督の名前で客を集められる、本当に素晴らしい事ですね。観客に向き合い、表現に腐心している名も無き監督たちが気の毒に思えます。
唯一の救いはチョークスリーパーで笑いが起こっていた事です。信者でない一般客もチャンと高い金を払って見に来ているんだな、とホッとしました。
濱口監督の空気感に共感できるか否か
自然と人間、環境問題、地域創生といった観点から見ると、見事に裏切られる。
流行りの社会課題解決の観点から見ても、芸能事務所がグランピング施設を作る計画など、そもそも眉唾もので、町議会で議決されるとは到底思えない。この非現実的な状況設定は、おそらく濱口監督の中では単なるお膳立ての材料にしか過ぎないことは容易に想像できる。
描きたかったのが現実問題である地域創生、村起こし等でないならば、本作の行方は混沌とする。
そもそもが石橋英子のライブ映像から派生した作品ということだが、あの木の枝を下から長回しした冒頭とラストのシーンを見ていると、現実問題とはリンクしない何か象徴的なものを表現しているようにも思える。
ドキュメンタリー映画監督の森達也氏は、「映像はレトリックよりも生理を伝えることに適性がある媒体なのだ」と言っている。「生理」という言葉で若干糸口が見えてくるような気がしてくる。おそらく濱口監督の「生理」の伝達とは、森氏が言うように、撮影する側の主観を焼き付けることで空気や濃度を生々しく伝えることなのかもしれない。
言ってみれば、濱口監督の「生理」によってもたらされた空気感に共感しない限り、本作は、村起こしのその後の展開がちっとも見えない尻切れトンボの作品と嘆くしかないのだろう。
明確なテーマを伝えるシンプルな話
説明会のシーンで議論された、ろ過装置配置位置の問題。
そこで先生と呼ばれる方が諭した、
『上で起きたことは下が割を食う』という話こそこの作品のテーマでしょう。
グランピングを建てようとする芸能事務所の社長やコンサルが取り合わないから、
末端の社員が村民と向き合う羽目になる。
狩猟(趣味)を楽しむ人がいる反面、
傷を負わせた獲物を仕留めきれずに逃すから
山中で朽ちる獲物がうまれる。
※狩では傷を負わせた際、しっかり仕留める義務が生じます
霧の立ち込める野原で、娘は鹿と見間違えられたのでしょう。
よくある誤発事故です。
そこで死んだ子鹿を守ろうとする怒りの矛先が、
資本社会の末端にいたあの社員なのではないでしょうか。
さすがにわからない
分からないのは全然いいんだけど、これ、創り手も分かってねえんじゃねえのかって感じがすんの。だから最後ぶん投げて終わりにしたんだろっていう。
もちろん、そんなことないと思うけど、そう観えるんだからしょうがないね。
最初の説明会まで長いんだよね。寝た。
たぶん水挽町の美しさを描いてたんじゃないかと思うけど、そこまで映像美しくなかったでしょ。
あの辺の美しさというか良さって、肌にあたる空気の感じとか、音が高い空に吸い上げられてしまったような感じとか、視覚より触覚、聴覚さらに嗅覚みたいなところにある気がすんの。
それを映像で表すって、難しいね。表せなかったら、その辺の山だし。
グランピング場の云々かんぬんは、「調べたんだな」って感じはあったね。だからどうした感もあるんだけど。
《悪は存在しない》ってことで、グランピング場を推し進める側にも色々あるんだよってことにしてるけど、これ推し進める側がハッキリ悪だろ。
本業のタレント事務所がうまくいかないからって、思いつきでグランピング場に手を出して補助金もらっちゃダメでしょ。
どんな理由があったって、地元の人を喰い物にしちゃ駄目。
地元の人も開拓三世で、自然破壊してきたことには変わりないからって理屈だけど、変わりないわけないだろ。田舎をナメてんのか。
その辺のヌルさが「最後にぶん投げやがった」っていう感覚につながるんだろうな。
最後はなんで都会から来た人を殺したんだろうね。
『お前が来たから』ってことなのか、殺したオジサンは実は森の精だったのか、あるいは鹿だったのか。
「これ、このあと事情説明してもグダグダするだけだから、ここでスパッと終わりがいいな」と思ったら終わりになったので、そこは良かったよ。
面白いは、面白いんだけど、少し腹立つところもある。
レビュー書いてみて、それは創り手側の田舎蔑視を感じてしまうところにあると気付いたよ。
解は存在しない
石橋英子という音楽家とのコラボレーションが本作の元になっているときいて、右脳で感じるべき感覚的な映画なのかなぁと“想像”しながら観たのだが、やはりこの濱口竜介がメガホンを握ると映画はどうしたって理屈っぽい左脳派作品に変わってしまう。長野県甲斐駒ヶ岳をのぞむ架空の村を舞台にした本作は、あらゆる意味における“境界”をテーマにしているらしい。
映画冒頭森の木々を下から見上げる長まわしの美しいショット。上からの真俯瞰ショットに見えるよう、空の部分を白くまるで雪原のように映し出しているのだ。村に持ち上がったグランピング建設計画の説明会で、浄化槽の設置場所が問題になる。下流一帯で湧水を利用している人々の生活に影響が出るというのだ。建設する側の芸能事務所職員が地域活性化のメリットを唱えると、区長の爺様は上流と下流のバランスが重要だと反論する。
じゃあ自然と都会、環境保護と地元経済活性化、上流と下流の“境界”はどこにあるのかを、濱口は我々に問いかけるのである。コロナ禍で大ダメージを受けた映画業界に対して政府が何の“補助金”を出さなかったことに対する不平も、本作の中で間接的に触れられているらしい。補助金のもらえる業界ともらえない業界の境界はどこにあるのか。さらにいうならば、補助金のもらえる映画とそうでない映画の境界について、濱口はおそらく観客に一考を促しているのだろう。
環境破壊と簡単にはいうけれど、本作に映し出される風景はけっして美しいものばかりではない。林道に横たわる小鹿の白骨死体、道路の脇に立ち並ぶ錆びだらけのバラック、異臭を放つ牛糞焼却場、グランピング設置に反対する住民だってもとを正せばみんな都会から移住してきたよそ者だ。営業担当2人も補助金目当ての建設計画には疑問を抱いており、根っからの悪人ではなさそうなのだ。
そのタウンミーティングでは綺麗事を並べていたタクミだって、家に帰れば娘のハナには「臭い」と足蹴にされるほど嫌われていたりするのだ。他人の目が届かないところでは人間(“だるまさん転んだ“”に興じる児童のごとく)何をしているか誰にも分からないのである。フロントガラスから見える水挽町の景色とリアワイドカメラの映像は、同じようにみえて実は全く異なった一面があることを監督は我々に伝えようとしているのではないか。
映画スタッフである素人役者に主人公の便利屋タクミを濱口が演じさせた理由も、プロとアマのちょうど中間を狙った計算づくのキャスティングであろう。どこまでが自然で、どこからが人工なのか。グランピングという双方いいとこ取りの中途半端な施設建設を中心にすえたシナリオも、決して“偶然”ではないのである。善と悪の境界が曖昧なように、ラスト濱口竜介は生と死の境界まで曖昧にぼかそうとする。冒頭シーンとリンクした暗い森は、上下のみならず360度すべての方向感覚を観客から奪い去ろうとしているかのようだ。人知の及ばない世界で確かな《解》を求めようとする我々の愚を笑いながら。
美しい映像と素敵な音楽は良かったけどストーリーが入って来なかった作品。 本年度ベスト級。
本作の監督の今まで観た作品が自分好みだったので鑑賞。
出だしの風景や音楽に期待値上がるも終わってみれば「?」の作品だった(笑)
長野県の自然に恵まれた町。
芸能事務所が補助金目当てでグランピング場の建設を計画。
町で説明会を行い町民からの不安を芸能事務所の高橋と黛が聞き、町民を納得させようとする展開。
本作はグランピング場がどうなるのか?
そんな作品だと思っていたけど全然違ってた(笑)
本作は会話を楽しむ作品って感じ。
高橋と黛の車内での会話が良かった。
過去に観た西島秀俊&三浦透子さんの車内での会話のシーンを思い出す。
過去作では車内でタバコを吸っていたのに本作ではタバコを吸わないシーンにニヤケる(笑)
終盤から予想の出来ない展開。
ラストの巧の行動が全くの謎。
観賞後、巧の行動を考えるも答えは出ず。
あそこは驚けば良いだけのシーンなのか?
気になるところ。
観賞後、ネタバレサイトを見てその理由に納得。
伏線を回収出来なかった自分が悔しい(笑)
うどん屋さんで食後に「体が暖まりました」って言うのは禁句だと言うことが勉強になりました( ´∀`)
人生ワースト1位かも
ゴダール気取りのタイトルから
始まって
既視感ありありのファーストショットからの5分で嫌な予感。
10分で映画館を出たくなり
うどん屋のシーンで1回だけ笑い
あの!ラストで怒り心頭に。
気取っていて
お客に気を使わせる
大仰なお芸術な映画、
凄まじくつまらなく
自分でも不思議なくらい
気に入らない。
高評価された方の
考察を拝読しても
何一つ全く共感できず…
監督のインタビューを読むと
尚更腹立たしく、
お好きな方すみません
この作品大嫌いです。
映像の構図とか巧みな表現が─
長い導入でしたけど、あの映像表現がこの作品を物語っていて、あれでかなり引き込まれた気がします。
この作品は映像で魅せていくのかなと思っていると、相変わらずの見事なスクリプトで相当笑わせてもらいました。
一筋縄では行かない問題を視点を変えながら語られていたので、こりゃあ話半ばで終わるなぁとは思ったけれど、予想外の帰結というか・・・何となくの雰囲気は醸し出してはいたけれど・・・正直そうならないでと思っていた終わりだったような・・・でも、あまりよく分かりませんでした。なので、あんな不明な感じならば、無理に劇的に終わらなくてもねぇー・・・なんて─
でもかなり楽しめました。
文句なし!観客に問いかける映画は素晴らしい!
文句なし!
濱口竜介監督作品はドライブ・マイ・カー、偶然と想像に続いて3作目だが今回の作品は一番好み。
明らかに今回の作品は作品を通じて、今の日本社会はこれでいいの?と観客に問いかけ、考えてもらう作品。そういう手できたかと唸らされた。
音楽の使い方も絶妙だし、緻密さを感じた。
ラストシーンは特に我々観客が問いかけられている気がした。
さすが、濱口監督。今年のベスト邦画作品候補にあげたい。
濱口竜介監督ファンの方はおすすめします。
自然に悪は存在しないが、人に悪は存在する 自然への謙虚さを忘れたとき、その報いは訪れる
何か悪いことが起きるのではないかと、ドキドキしながら観ているのは少し嫌なものです。
その顛末を見せるのが映画の一つのパターンだから。
(たまに、何も起きない平安の安らぎを見せるパターンもある。)
娘が一人で歩いて帰宅するのもどうかと思って観ていると、案の定行方不明に。
銃声が2発聞こえたのは、鹿が撃たれたのだろう。
帰宅途中、ぶらぶらしていた娘は、手負いの鹿と遭遇し、愛でるつもりで、不用意に触ろうとしていた。
そこで、娘を見つけた主人公は、一緒にいた高橋が声を出して鹿を驚かせ、娘に怪我させることが無いように、必死で羽交い絞めにして押さえつける。
その後、見ると鹿はおらず、娘が横たわっていた。
途方に暮れた男は娘を抱いて、去るのだった。
「悪は存在しない」とは、鹿のことか。
鹿が人を襲うのは悪意からではないから。
グランピング場開発で助成金を無理にでもせしめるのは悪である。
自らは出張らずに通り一遍のコンサルをして強引に進めるコンサルタントも悪。
自然の怖さも忘れ、つい娘を迎えに行くことを忘れてしまう父。
手負いの鹿は襲ってくることを、東京の人間には偉そうに説明する反面、娘には言って聞かせていない。
何をおいても最大限の努力で、子供の命を守るのが親の務めだ。
それを怠ることこそ、最大の悪だ。
説明会では、住民側に立ち、それでも自分たちも以前はよそ者だったと言いながら、いつしか謙虚な気持ちを忘れ、自然をわかった気でいた。
その報いがあったのだ。
最後?? 自然と作為がテーマかな。自然に圧倒させられた。 "バラン...
最後??
自然と作為がテーマかな。自然に圧倒させられた。
"バランスが大事""上で起こったことは必ず下に影響する"の台詞が印象的だった。
『ドライブ・マイ・カー』に続き耐久力を要しますが珍しいカメラの目線だったり単純に上映時間だったり比べたら見やすめ
トークショーのマニアックさよ😅
・主演、編集、撮影トークショー
善いか悪いかの映画ではないのかな
エンドロールを見終えてそんなふうに感じた。
ラストはよく分からなかったけど、私は悲しいなと思った。
反面、誰の立場だって一瞬で変わってしまう世界に自分も生きていて、そういうものだと分かって生きるなら
幾分かラクだなぁとも思った
侵略SFや怪奇映画のようでもある
自分のXがこの映画の褒め言葉で埋め尽くされてきたので早く見なければといそいそと観てきた。宮下町のBunkamuraはもとのBunkamuraより場内がデカいので笑い声も「偶然と想像」の時よりもデカく響いてたのが印象的。
そもそも石橋英子の音楽に映像をつける、ということから企画を出発できたのがラッキーだったのかもしれない。冒頭から神聖なる自然、謎多き親子、さらに正邪がよくわからない田舎の「寄せ集め」コミュニティと、そこに降って沸いた都会の芸能事務所が仕掛けるグランピング騒動。普通ならエゲツなく嫌味な都会人に対抗する善良な農民、みたいなことになるが、ここでは逆。都会からやってきた芸能プロチームが浅知恵でバカっぽくチャーミングで、逆に田舎の民に説得されてしまう。振り返ってもここまでは呪われた村的な侵略SFや怪奇映画でも見ているかなような居心地の悪い対話劇。
そして東京に戻って社長たちに叱咤され田舎に舞い戻ってくる意外にいい奴ら風の芸能事務所のふたりの車中会話がサービスパートなのかとも思えるような濱口監督の十八番のグルーブ感。ここはさすがという笑える展開なので、逆にここがこれだけに前後が不穏過ぎる。しかも結末も。。
ものすごく単純にみると、田舎をなめてやってきた都会人は田舎に住むストレンジャーズになめられ、しかしストレンジャーズもまた自分の住んでいる自然の奥のことなど何もわかっていない、ということで未知の終わりを迎える(正直よくわからないけど)
そして個人的に濱口竜介監督は面白いし、なんなら落語の名人みたいに面白いのだけど、Xでポストされてるような見たこととない褒め言葉が羅列するほどのものではないよなぁ、と正直思う。自分にとってはやっぱり黒沢清のほうが面白さは上な感じはある。
ラスト20分の変調
中盤までは長野県水挽町で暮らす人々と、そこにグランピング場を建設しようとする東京の芸能プロダクション社員との人間関係が中心に描かれる。その延長線でストーリーが進むと思いきや、終盤の20分で展開は大きく変化する。
芸能プロダクションの社長が煙草を吸うシーンや淡白すぎるエンドロールなど、面白い演出はいくつもある。また、作品を通して水挽町周辺の風景が美しく描写されているため、見応えは充分にある。
しかし、ラストシーンが唐突かつ衝撃的すぎるため、見終わった後はその意味を理解することにしか意識が向かなかった。
考察させるためだけのラスト?
最初の30分間は環境ムービーか?と思うほどの、自然と水汲み薪割り映像。自主制作映画か?と思うようなぶった切りの場面切替。ムビチケもない正規料金でこれはキツい、ランチ後腹一杯状態だったら間違いなく「落下の解剖学」のように寝てた。午前に見に来てまだ良かったと思ったところで、物語が動き出す。
コロナ禍での補助金欲しさにグランピング施設を作ろうとする芸能事務所と、計画が杜撰すぎるので検討し直すよう求める地元住民。漸く映画における対立軸が見え、それぞれの登場人物の背景も見えてきたところで、大事件が起こり、えっ?これで終わり?というぶん投げエンディング。
分かりやすくしろとは言わないし、観客に考察や解釈の幅を与えるのはありだと思うのだが、監督や脚本家は自らの中で、この人の行動はこういう理由、この人の結末はこうなっているという帰結を持っているのだろうか? もし監督の中にそれがなく、結末どうすればいいか分からなくなったから観客の解釈で、という投げ出しの作り方をしているとしたら、有名になったのを良いことに手抜きした駄作としか言いようがないし、見終わった直後の今はそのように見えてしまう。
友人は監督の傲慢さというか、偉そうさ、観客を見下してる感があるとすら言っていました。
以下ネタバレです。
※※※※※
濱口監督のエンディングに対する以下のコメント。
「ただ単にそれが起きた、ということが第一です。それを受け止めていただきたい。主人公の側にもいわゆる悪意は存在しないという解釈でいいと思います、たぶん(笑)」
「わかりやすい対立構造みたいなものがあって話が進むなか、主人公はずっと誰とも対立する立場にはいないんです。議論が紛糾する場面でも、実のところ中立的なことを言っています。そんなキャラクターの最後の行動が観客を驚かせるわけです」
この監督コメントからエンディングを勝手に考察すると、
・花は死んでいる
・死因は不明だが、鹿の角で刺されたり、銃で誤射されたような跡はない
・(鼻血が出ていることから)手負いの鹿に襲われ頭を強打するなどしたように思える(巧と高橋は実際は鹿を見ていない)
・巧は花の遺体を高橋に見せたくなくて高橋を襲った?
・巧が、見せたくなかった理由は不明(鹿は人を襲わないと断言しながらも、例外として手負いの鹿は人を襲うことがあるかもと話しているので、自分の見解が間違ったことを隠したいわけではない。また、そんな理由で死体を見せたくないと思うような男ではない)
・花を失った悲しみと怒りが暴発し単に目の前の高橋に向かって、首を絞めた?
・高橋は死んでいない(1度起き上がって再度倒れるが、死んでいるなら1度起き上がる描写は不要)
花が何らかの事故で死んだのは事実として、巧が高橋を襲う理由が分からず、監督も脚本家も自分たちの中で帰結はあるのか?と大いに疑問。
「聖なる鹿殺し」のように、高橋は花を取り返すための生け贄だという考察を拝見し、自然をないがしろにする高橋(鹿はどこか別のところに行くんじゃない?と軽く発言したり、薪割りを1本やっただけで1番スッキリした、管理人やろうかなと軽く言い出す)を受け入れるわけではない、だから花を返してくれという表れなのかとも考えてみたが、監督自身が中立的という巧の行動に、そこまで自然崇拝のバックグラウンドは見いだせない。
濱口監督は以下のように言う。
「彼自身が生きてきた人生と、あの瞬間の偶然みたいなものが、彼にああいう行動を取らせているんじゃないかと考えています。あの瞬間に、タイトルと物語の緊張関係がもっとも高まります。劇中の高橋のラストのセリフは観客の疑問でもあると思いますが、その答えは与えられることはなく、高橋も観客もなぜこうなったのか自問するしかない、という構造です」
濱口監督の「行動の前に感情があるわけではない」という棒読みメソッド、そして、上の「あの瞬間の偶然みたいなものが彼にああいう行動を取らせている」からすると、花が死んだ怒りを突発的に目の前の高橋にぶつけただけ?とすら思えてしまう。
高橋同様「何でだ?」と思わずにいられないし、観客は自問するしかないという構造を作り出すためだけに、うやむやにしているように見え、考察させるための投げ出し、話題作りのための投げ出しのようで好きになれない。監督自身の伝えたいことはないのだろうかと思ってしまいました。
タイトルが持つ意味を考えている…
観賞後ずっと、タイトルに込められた、濱口監督の真意を図りかねている。
自然そのものに悪は存在しないということか、社会で対立する人間のなかにも悪など存在しないということか。
山でしか生きられない生物にとって、人間は単なる「侵略者」でしかない。
昔から住んでいようが、新たに「仲間」に加わろうとするものであろうが、彼らからみれば同じ「エイリアン」に過ぎない。住民の環境云々はただの言い訳にすぎず、すでに「完成」されたコミュニティに加わろうとする新参者を排除する構図があるのみ。劇中のグランピング建設の説明会は、さながらケアサービスの施設建設に反対する近隣のマンション住民の構図と同じ。
海辺で生まれ育ち、山を多少なりともかじった身としては、山は恐ろしい存在だ。陽が沈み漆黒の闇に包まれた山中に取り残される恐怖は体験したものでないとわからない。
山に優しかろうが、汚す存在であろうが、関係なく、時として無慈悲に自然は牙をむく。悪い行いをしようが、善行を積もうが、自然の行為そのものに意味はなく、因果論の入る余地もない。
人々の対話を作品の中に重きをおいているところは、濱口監督らしい世界観。
たとえ解決に至らずとも、コスパ・タイパなどの効率世界の対局にあろうとも、人間が対話を重ねることの意味を考える。
最後の場面をどう理解したらいいのか。そもそも理解しようとすることが人間の傲慢さなのかもしれない。
最後の巧の行動の意味は?
「悪は存在しない」という題名からは、「悪なき殺人」と「熊は、いない」を連想させられましたが、無口な父親と無邪気な娘が大自然の中を彷徨うという話の内容からは「葬送のカーネーション」を連想。「葬送のカーネーション」は祖父と孫娘の物語でしたが、本作の花を演じた西川玲と、同作の孫娘役のムサを演じたデミル・パルスジャンは、いずれも鼻筋が通って目もパッチリした眉目秀麗な顔立ちにしてロングヘア。また衣装も花は青のダウンジャケットと帽子、 ムサは赤のダウンジャケットと帽子を着けていて、色こそ違え色が強調されていたので、国が違っても似ている人はいるものだと感心したところでした。
いずれにしても、「悪なき殺人」、「熊は、いない」、「葬送のカーネーション」と同様の”外国映画の雰囲気”を漂わせていた本作。冒頭でも「Evil Does Not Exist」と英語の題名のみ表示されていて、外国映画そのものという感じ。日本を舞台にして日本人が演じているから日本映画というカテゴリーには入るけれども、そのまま舞台を外国に移しても何ら違和感がないような作品でした。
お話の内容としては、信州諏訪地域の山間部に位置すると思われる”水挽町”(架空の町のようです)に、東京の芸能事務所がコロナ補助金目当てにグランピング施設を建設する計画が持ち上がり、その施設の汚水が水源に流れ込むということが発覚して地元住民がざわつくというものでした。面白かったのは、コロナ禍という現実の大問題を背景に、政府や自治体の補助金目当てに企業がなりふり構わぬ生き残り策を模索し、さらにそんな企業をアドバイスすることでコンサル料を稼ぐコンサルタントの存在など、実社会の生臭い”大人の事情”が物語の土台になっているため、物語世界全体に非常に高いリアリティが与えられていたというところでした。
また、グランピング施設建設の地元説明会を主催した芸能事務所側の高橋と黛が、地元住民たちの意見を聞いていくうちに逆に説得されて行き、芸能事務所からしたら木乃伊取りが木乃伊になる展開もカタルシスを感じられました。
そして”伏線の回収”という部分でも、遠くから聞こえる鹿猟の銃声、主人公の巧が物忘れをしがちで、娘の花のお迎えを何度も忘れていること、野生の鹿は基本的に人を襲わないが、手負いの鹿は襲うかもしれないという話、好奇心旺盛な花が、学童保育所から一人で山中の道なき道を歩いて帰っていることなど、どんな結末になるか大方予想でき、その通りになった時は、安心感すら覚えました。
ところが、です。最後の最後の巧の行動は全くもって私の理解の範疇を超えており、いまだに合点がいっていません。自然と向き合って自然の中で暮らす巧のこと、大自然を相手にする時に最も合理的な方法があの”裸締め”だったのか?それとも親子の関係に他人を介在させたくなかったから取った行動なのか?はたまた善悪と関係なく、時に理不尽とも思えるような牙を向く大自然のメタファーとして巧を使ったのか?
もう一度観れば理解できるならもう一度観たいんですが、理解できる自信がないというのがホントのところです。
自然の息遣いを感じられる音響、森にいるのかと錯覚させられる映像から、都会人のエゴ、さらにはそれに疑問を感じ揺れ動く高橋や黛の心情、地方の観光開発による地元住民の生活への影響の考察など、非常に興味深い作品だっただけに、やはりあの謎のエンディングがウラメシイと感じるところでした。
そんな訳で、本作の評価は★4とします。
全232件中、201~220件目を表示