「考察させるためだけのラスト?」悪は存在しない くまくまさんの映画レビュー(感想・評価)
考察させるためだけのラスト?
最初の30分間は環境ムービーか?と思うほどの、自然と水汲み薪割り映像。自主制作映画か?と思うようなぶった切りの場面切替。ムビチケもない正規料金でこれはキツい、ランチ後腹一杯状態だったら間違いなく「落下の解剖学」のように寝てた。午前に見に来てまだ良かったと思ったところで、物語が動き出す。
コロナ禍での補助金欲しさにグランピング施設を作ろうとする芸能事務所と、計画が杜撰すぎるので検討し直すよう求める地元住民。漸く映画における対立軸が見え、それぞれの登場人物の背景も見えてきたところで、大事件が起こり、えっ?これで終わり?というぶん投げエンディング。
分かりやすくしろとは言わないし、観客に考察や解釈の幅を与えるのはありだと思うのだが、監督や脚本家は自らの中で、この人の行動はこういう理由、この人の結末はこうなっているという帰結を持っているのだろうか? もし監督の中にそれがなく、結末どうすればいいか分からなくなったから観客の解釈で、という投げ出しの作り方をしているとしたら、有名になったのを良いことに手抜きした駄作としか言いようがないし、見終わった直後の今はそのように見えてしまう。
友人は監督の傲慢さというか、偉そうさ、観客を見下してる感があるとすら言っていました。
以下ネタバレです。
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濱口監督のエンディングに対する以下のコメント。
「ただ単にそれが起きた、ということが第一です。それを受け止めていただきたい。主人公の側にもいわゆる悪意は存在しないという解釈でいいと思います、たぶん(笑)」
「わかりやすい対立構造みたいなものがあって話が進むなか、主人公はずっと誰とも対立する立場にはいないんです。議論が紛糾する場面でも、実のところ中立的なことを言っています。そんなキャラクターの最後の行動が観客を驚かせるわけです」
この監督コメントからエンディングを勝手に考察すると、
・花は死んでいる
・死因は不明だが、鹿の角で刺されたり、銃で誤射されたような跡はない
・(鼻血が出ていることから)手負いの鹿に襲われ頭を強打するなどしたように思える(巧と高橋は実際は鹿を見ていない)
・巧は花の遺体を高橋に見せたくなくて高橋を襲った?
・巧が、見せたくなかった理由は不明(鹿は人を襲わないと断言しながらも、例外として手負いの鹿は人を襲うことがあるかもと話しているので、自分の見解が間違ったことを隠したいわけではない。また、そんな理由で死体を見せたくないと思うような男ではない)
・花を失った悲しみと怒りが暴発し単に目の前の高橋に向かって、首を絞めた?
・高橋は死んでいない(1度起き上がって再度倒れるが、死んでいるなら1度起き上がる描写は不要)
花が何らかの事故で死んだのは事実として、巧が高橋を襲う理由が分からず、監督も脚本家も自分たちの中で帰結はあるのか?と大いに疑問。
「聖なる鹿殺し」のように、高橋は花を取り返すための生け贄だという考察を拝見し、自然をないがしろにする高橋(鹿はどこか別のところに行くんじゃない?と軽く発言したり、薪割りを1本やっただけで1番スッキリした、管理人やろうかなと軽く言い出す)を受け入れるわけではない、だから花を返してくれという表れなのかとも考えてみたが、監督自身が中立的という巧の行動に、そこまで自然崇拝のバックグラウンドは見いだせない。
濱口監督は以下のように言う。
「彼自身が生きてきた人生と、あの瞬間の偶然みたいなものが、彼にああいう行動を取らせているんじゃないかと考えています。あの瞬間に、タイトルと物語の緊張関係がもっとも高まります。劇中の高橋のラストのセリフは観客の疑問でもあると思いますが、その答えは与えられることはなく、高橋も観客もなぜこうなったのか自問するしかない、という構造です」
濱口監督の「行動の前に感情があるわけではない」という棒読みメソッド、そして、上の「あの瞬間の偶然みたいなものが彼にああいう行動を取らせている」からすると、花が死んだ怒りを突発的に目の前の高橋にぶつけただけ?とすら思えてしまう。
高橋同様「何でだ?」と思わずにいられないし、観客は自問するしかないという構造を作り出すためだけに、うやむやにしているように見え、考察させるための投げ出し、話題作りのための投げ出しのようで好きになれない。監督自身の伝えたいことはないのだろうかと思ってしまいました。