悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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侵入者≒「他者」の受容と拒絶
石橋英子さんから濱口監督へライブパフォーマンス用映像の制作依頼がきっかけでつくられた本作。映像イメージの使用のみを想定してか、1ショットでのカメラワークや劇が実験/挑戦的で面白くて凄い。1ショットでの長回しは『親密さ』での明けの散歩シーンなどで印象的だが、強度がさらに強まっている。学童からの車の移動のショットとか、巧と花の山を歩くショットとか、巧と高橋の薪を割るショットとか凄すぎでしょ!!!本当にみているだけであっと驚かされる。役の練度がそのままカメラに撮られーつまり準備が凄いー、それをみるだけで十分面白いと思えるんです。
さて、本作は自然と人間の二項対立による濱口監督のエコロジー論が語られるのかと勝手に予測していたが全然違った。どのように〈私〉は侵入者≒「他者」を拒絶し、受け入れられるのかが主題系をなしているように思われる。菊池葉月さんや渋谷采郁さんがキャスティングされていることもあり、『ハッピーアワー』の主題系がリフレインされている印象だ。
その他者とは、まず主人公の巧らが生活する長野県・水挽町にグランピングを建設しようしている高橋と黛だ。二人は地域住民に対して説明会を開き、事業の推進を目指して説明をする。しかしその説明は、事業の正当化と利益のためであることが透けてみえて、地域住民の生活を考慮していない杜撰なものだ。地域住民は反発する。巧も計画の見直しを求める。しかしこの町も開拓地であり、地域住民も元はよそ者≒他者だ。もちろんこの計画に賛成の住民もいる。それなら解決は他者の拒絶ではない。拒絶と受容のバランスが問題なのだ。
バランスを失うと崩れる。崩れる運動の描写が『ハッピーアワー』でもされていることを指摘するのは蛇足であるが、高橋と黛はバランスを崩さないために、巧や水挽町の生活を知ろうとする。
他者の理解だ。巧の生活の一部となっている薪割りを高橋はしてみる。峰村夫妻が切り盛りしているうどん屋でご飯を食べてみる。うどんに使われる湧き水を汲んでみる。山に分け入ってみる。
高橋と黛は他者をさらに理解したように思える。それならば理解したものを東京に持ち帰って、グランピングの計画は改善されていくに違いない。地域住民も計画に納得して、「ハッピーアワー」が訪れる。
と、ならないのが本作の特異点である。濱口監督と石橋英子さんの二人が好きな映画がファスビンダーであることはパンフレットをみて知ったのだが、本作にはファスビンダー同様に不条理さがつきまとっている。
そんな数日の出来事で他者は理解できないし、グランピングの計画は社長とコンサル事業者といったさらなる他者によって問題は複雑であり、解決は困難だーさらに社会経済的な時間の有限さもあるー。〈私〉と他者が言葉を交わし合い、反省し合い、啓蒙されたら万事解決になるわけではない。理性的コミュニケーションの限界。徹底的な本読みによって、〈声〉を重視する濱口監督の作家性とは思えない展開だ。
さらに他者とは、〈私〉以外の誰かであると共に〈私〉の中にも他者性として存在するのではないか。そんな他者性の発露が巧にとって花の失踪事件だろう。
この事件は巧が迎えを忘れることが一つの原因ではあるが、彼の意志を超えた偶発的な出来事である。高橋も黛も原因には全く関係ない。しかし事件は起こってしまう。
花はみつかる。住民の必死な捜索が全く無意味で、巧が勝手にみつけたこともまた不条理極まりないのだがそれでもみつかる。しかし花はバランスを崩して死んでいるように思える。さらにそこから高橋への殺意と暴力に転化するのは全く理解不能だ。Quoi??? でもそれが他者性なんだと思う。巧は事件以前は殺意なんて全くなかったはずだ。けれど殺意は顕れた。行動に移された。他者とはそれだけ理解不能で不気味なものだ。
ではどのように〈私〉は侵入者≒「他者」を拒絶し、受け入れられるのか。その問いの答えは霧の靄へと姿を消す。グランピングの建設が進められるのかも分からない。花の死が事件か事故なのかも分からない。彼らの結末がどうなるのかも分からない。そもそもラストシーンは、物語世界で本当に起こったことかも分からない。全てが「判断不可能性」に開かれていて、悪の存在も判断がつかない。
つまりは私たち観賞者に問いが突きつけられているのだ。映されたイメージは何なのかと。「悪は存在しない」。このタイトルは結局のところ何なのだろう。思考が循環する。不気味な何かが私の中に澱んでいるのだけは分かる。
気づきや思索をもたらすストーリーテリング
人間とは不可思議な存在だ。こういう人物だろうと把握した次の瞬間、全く違う顔を覗かせることも多い。判で押したような悪人や善人は少なくとも本作には存在しないのだ。そもそもメインの父娘からして、どんな過去を持ってこの地へやってきたのか曖昧で、だからこそ我々は表情や言葉、調度品から懸命に理解しようとする。と同時に、グランピング場建設のためにやってきた男女にしても、車内のダイアローグで切々と胸の内を語り、最初の印象は刻々と覆っていく。人間とはかくも面白い生き物であり、変容の中にこそ本質があるのかもしれない。一方で、本作には自然環境や未来への視座も盛り込まれている。上から下へ流れるのは、水のみならず、時間も同じ。子供ら世代に豊かな環境を残せるか否かは今を生きる大人たちに委ねられた課題でもある。斬新なストーリーテリングでナチュラルな気づきや思索をもたらす作品として、ラストの謎も含めて、胸に深く刻まれた。
悪意はなくとも、悪いことは起こる
自然環境と開発、地元民とよそ者、野生動物と人間、消える子と探す親といった題材は、最近日本で公開されたものでは「ヨーロッパ新世紀」「理想郷」、少し前では「ラブレス」など外国映画でも時折描かれてきたものであり、問題意識と物語類型が国境を越えて共有されていることの表れだろうか。
映像は美しい。が、いくつかの長回しは冗長に感じられた。音楽家の石橋英子からライブ演奏時に流す映像を依頼されて企画が始まった映画であることと関係があるかもしれない。
ラスト近く、娘が置かれた状況を目にして、父親はある行動に出る。あの展開は、保護者としてのリアリティーよりも劇的効果が優先された純然たるフィクションだと感じた。ラストのインパクトを高く評価する向きも当然あるだろう。だが評者は、グランピング場計画をめぐるリアルな対立を興味深く追っていただけに、「えっ、それで終わらせちゃうの」と、何やら梯子を外されたような思いがしたのだった。
正直なところ見る人を選ぶ作品。ただ、流石のリアリティーで、ベネチア国際映画祭の銀獅子賞(審査員大賞)受賞は納得の佳作。
ベネチア国際映画祭やカンヌ国際映画、ベルリン国際映画祭の世界3大映画祭の受賞作は、見てみると割と「?」な映画が多い印象です。
本作も正直なところ、冒頭からイメージビデオのようで、「うわ~、これハズレの作品か」と思いながら見ていました。
ただ、濱口竜介監督の前作「偶然と想像」は脚本が面白く、本作をスルーするわけにもいかず見ていましたが、まさに会話劇となる説明会のシーンで盛り上がり、その後の展開も興味深く見ることができました。
セリフも素人のような感じが多く有名俳優もいない状態で、よくぞここまで作り込んだリアリティーを構築できたなと感心しました。
そもそもが音楽ライブ用の映像を制作するだけのはずが、緻密な構成によって106分の長編映画になったのも興味深いです。
まさに脚本と映像の両面で存在感を放ち、2023年・第80回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)を受賞したのも納得できる作品です。
シカに取り憑かれたヒゲ男
結論からいうと1980~90年代であったら、まあまあな映画という感じでした。ホン・サンス監督作品のほぼ全てよりはマシってくらい。
衝撃のラスト!といいますが単純に明確な結末から逃げているように思えました。根底にキリスト教が屹立するブレッソン映画のようにはいかないのは、織り込み済みなのだとは思いますが。石橋英子の持ち出し企画と知ったうえで元も子もない話をしますと、あのラストシーンに情緒的なBGMは不要。あれは本当に非常にダサいです。
まず、今やアニメ・漫画の分野で例えば前時代的なメロドラマであったとしても自分たちなりの倫理観を問い詰めつつ覚悟を持って明確な結論を示す時代にあっては、この映画に関して言えばトータルの力量が足りてないように見えました(観察者目線のカメラワーク、映像処理、アングル・レイアウトも監督本人が狙っているだろう以上に実に古典的)。
申し訳ございませんが、時代遅れのスノビズムを感じずにはいられませんでした。
また、「地方山間部」「シングルファザー」「芸能事務所による政府からの補助金目当てのグランピング建設計画」という舞台・題材の比較的安易に感じるセレクトが、あくまで明日の食事に困らないような都市生活者≒ブルジョア目線であり、町長のいう「水は上から下へ」論は、よもや自己言及ならば悪趣味です。悪趣味といえば、父親が娘の帰宅時間を二度も忘れてるのは、あれは意図的でしょう。銃声と前後して思い出すのも意図的。娘をあえて危険な状態に晒している。「悪」も存在しないかもしれませんが同時に親子の「愛」も存在しない、他人と意思疎通も難しいが何故かポーズだけは上手い、まあまあサイコパスな(シカに取り憑かれた?)父親の話といったところでしょう。
普通の物語にはしたくないし、あわよくば映画史に名を残したいという鼻息と姿勢は垣間見せつつ、説明セリフを極力排すが作劇をスムーズに進めるべく、意図的に登場人物はステロタイプ化されているというアンバランスさは、あの懐かしき平成初期にあまたあった自主制作映画を思わせます。
あえてテーマを単純に読み解くならば、「社会道徳」<「個人倫理」<「自然の摂理」ということなのでしょうか。
便利な背景と小道具、雰囲気作りに成り下がっている森の樹木だって生きている。今度は、シカが樹木にヤられる続編でもあるのかな?って、ほら、くだらないでしょう?
しかし、「作劇」としては面白くなる可能性が多々あっただけに非常に残念でした。監督は「作劇」ではなく「芸術」をとったのでしょう。この「芸術」がどういうわけか世界的に認められたわけですから、次回作は思いっきりお金を使って「芸術」が出来るであろう幸運は大変喜ばしいことだとは思います。
この映画に「悪」は存在しないかもしれないが、送り手の「悪趣味」と受け手の「嫌悪感」は確実に存在しました。
最後に大きなお世話だとは思いますが、作品タイトルをストレートに「グランピング建設予定地殺人(未遂)事件」とか「シカに取り憑かれたヒゲ男」とかにすれば、見方も変わるし分かりやすいし宣伝もしやすいしで、良いことづくめだったのでは?
何を伝えたかったのか
自然豊かな高原に暮らす住民たちと、グランピング施設建設を目論む東京の会社員。普通に考えれば対立構造になる二者だけれど、タイトルの通り、どちらも悪ではなく…
という展開に思えたけれど、ラスト10分で一変する。一体どうゆうことなのか?私には分かりませんでした…。
たっぷりと描かれる説明会や、東京の会社でのWEB会議、いずれもとても居た堪れないというか居心地が悪い場面が続き苦痛…。かといって後半のカタルシスになるような単純構造でもなく。
なかなか難解でした。配信だと耐えられなかったと思うので、映画館で観てよかったです。
この特に何も無い長回し
相米慎二やアンゲロプロスには文脈の変化があったり、忘れられない経験になるのだかが、濱口のものはただの冗長な間に思える。
人選や演技指導は的確だと思うから、彼の趣向が私には合わないということなのか。
濱口の映画は2度見たいと思えない。
何を見せられたんだ!?
**濱口竜介監督×記者サロン**
朝日新聞主催の対談動画「映画に偶然は存在しない」を見た後、『悪は存在しない』を鑑賞しました。
対談では、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』が『悪は存在しない』に重要な影響を与えているという話が出ました。『ミツバチのささやき』は、以前自分でもいささか熱が入りすぎたレビューを書いたくらい大好きな作品です。
確かに、この作品も全体的に彩度と明度が低く、緑も暗い。森の中での父と娘の関係、死の香り、駆けていく少女――いくつもの場面でオマージュのような要素を感じました。
対談の中で、視聴者からこんな質問がありました。
「公開初週に『悪は存在しない』を観に行って、すごく面白くて引き込まれたけれど、結局ぜんぜんわからなかった。ラストシーンは第1稿から決まってたんですか?」
この質問に対して濱口監督は、
「今回は本当に第1稿かどうかを多く聞かれましたが、第1稿から決めていて、作品全体が面白くなるように考えながら撮影しました」
という趣旨の回答をされました。
登壇者の石飛さん
「この"わからない"という話がありましたけれど、"わからない"けど面白い映画って確かにありますよね。観客の"わかる"・"わからない"について、作り手としてどう考えますか?」
濱口監督
「意味がわからないことがこんなに話題になるとは思ってなかったんです。自分が映画を観はじめた頃(1990年代)は、意味がよくわからない映画がたくさんあって、自分の好みなのかもしれませんがむしろそればっかりだったので」
この話を聞いて、きっとニュアンス的にわからないとか、抽象的すぎてわからないという類かな、なんて思ってたら、全然違った!
濱口監督はロベール・ブレッソン監督の作品を観て、「何を見せられたんだ!?」と衝撃を受けたと話していました。
その言葉、そのままお返しします!!
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濱口作品特有の役者や言葉遊び、やはりすごく面白い。長回しのシーンはほんとに長くて、失敗するはずないのにヒヤヒヤしながら観てしまいます(東京の2人がいる薪割りのシーンとか…)。役者さん達ほんとにすごい。
ただのエコロジカル話でないのは好感が持てましたし、高橋と黛の車のシーンとか、2人に対して完全に親しみが湧いてしまう。
そういうやるせなさ、あるある。
簡単にそう言っちゃうことも、あるある。
軽率でも憎めない。
自分も自然生活や自給自足に憧れるし、生きていく強さに尊敬しかないけれど、本当のところで自活していく覚悟はなくて。
そんなこともあって高橋に感情移入してしまう。
そうそう、ヨソモノ(外部の人間)は最初は受け入れてもらえなくて、時間が経つにつれ誠実さが見えてきて、本気で面構えが変わってきて、周りもそれに気付き出して、だんだんそんな風になっていくかな…
なんて、甘かった。
私自身が甘いんだよってぶん殴られた気持ちですし、他人とは良心が前提の付き合いの中で生きているんだな、という危うさを見せつけられて、言いようのない恐怖感に襲われました。
巧は安易なIターン希望を責めてあんな行動を起こしたのでは無いとは思いますが…鹿の通り道であることの会話は、やはり重要だったと思います。
ラストシーンの高橋について、行きは巧に着いていくままだったけれど、実際にあの森(山?)はどのくらい広いんだろう…スマホが通じる感じもしないし…
過去に山の暗闇を経験したことがあったので、その恐怖が蘇りました。
起き上がることがあっても、自力で帰れるの…?
みんなその後どうなったの…
こんなこと滅多にないのですが、帰りの夜道も怖くなりました。
胸に刻まれたのは確か。
星はいくつ付けていいのかわかりません。
有名な役者さんは出てこない
『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督の作品。
ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(審査員賞)を受賞したんですよね。
映画の内容はというと、前半は長野県の自然の描写が多く、移動しながら木々を移す映像が多々あった。
正直、何も起こらない序盤は眠かった。
すると、田舎町にグランピング施設建設の話が持ち上がる。
有名な役者さんは出てこない。
それは好印象。
理由はなんのイメージも持たずに見れるし、テレビに出てない良い役者はたくさんいると思うし。
演技をしていない淡々と話す感じが現実に近くて良い。
棒というか、現実世界は役者じゃなければ、こんな話し方だと思うし。
映像描写は好きな感じ。
低予算映画の邦画のくくりでいうと、昨年見た『J005311』みたいにめっちゃ良いとは感じなかった。
共感しなかったということ。
今見ると『J005311』はココで熱くレビューしています。。
良かったら見てみて!
それと子役の女の子の顔がめっちゃ大人びていた。
そこが体に対してアンバランスで違和感を感じた。
そしていろいろあって、衝撃のラスト。
衝撃というか理解できなかった。
見る人が判断するという事なんだろうけど?が多いラスト。
特にあのチョークスリーパーは理解できなかった。
私は彼は死ななかったんじゃないかと思う。
最後に立ち上がったし。。
ここにグランピング施設を作ったら災いが起きるという事、
それを娘の死とともに人間の行いへの報いとして死で表したのだろうと私は考えた。
あくまで私のこじつけである。
昨年見た『怪物』のラストぐらいだと、こじつけなくても理解できたが、ここまでくると中々自分の中で消化できない。
悪は、グランピング施設を作ろうとしてる会社であり、金儲けを考える社長だろう。
でもタイトルは『悪は存在しない』だし。。
考えさせますねー。
起承転結しないというか、昔のフランス映画のようなラスト。。
ハリウッド系ばかり見てると、見慣れないエンディングだと思う。
単純なハッピーエンドじゃないエンディング。。
芸術性が高い映画という事なんだろうと思うけど。。
『ドライブ・マイ・カー』は特に違和感なく見れてた。
カンヌやアカデミー賞を取ったんで、自由に映画を撮りたかったのかなと思う。
単純な娯楽作品ではないので、ある程度の覚悟は必要かも。
落下感の快楽
濃密な会話劇に強く惹きつけられてしがみついていると、最後に急に手を放されて飛行機から突き落とされた気分。
「えっ、何?」
「一体、あれはどういう事?」
と戸惑う内に飛行機は高く遠ざかって行きます。でも、その困惑と落下感の気持ちの良い事。映画という大空のスカイダイビングを堪能できました。鑑賞後に誰かと語り合いたいと思いが募る一方で、言葉にしないで一人で反芻したいとも思うのでした。
上映館はかなり少ない一方で、観客は初日から満席でした。長く広がれ。
木立のエンドロール
Evil Does Not Exist
長尺に描かれる辺境の日々の作業。そこに音楽はないが、頭に生活を植え付けられるよう。
(同様に)対比して、業者たちの人物像も長尺でしっかり描かれる。その後で背景が不明瞭なままなのは、むしろ住人たちの方だ。
車の後方映像、蕎麦屋の水汲み、それらは伏線回収として使われるだけ、本当に大切なのは幼稚園のお迎えの刻限。
失踪する命。お互いが権利を主張して、乾いた馴れ合いで腹を探り合っている間に。上流のやり取りが下流の足元を掬うように。
自然のことなら、既にもう皆が喰い合うようにして生きている。
失ったものに対して、その報復を受ける。そこに善悪は存在しない。
ベネチアで銀獅子賞ってことはゲージュツ映画かな?そしてあの結末。
OPで延々と見上げた森の映像を見せられた挙句に
主人公のおっさん、なんか台詞凄い棒読みですが大丈夫?
いきなり不安な幕開けの後は薪割りの長回しで
嫌な予感しかしないゲージュツ映画の匂いプンプン。
今度は特に状況説明なしに川で水を汲み車まで運ぶだけのシーン。
TVだったらこの時点でチャンネル変えてます。
前置きが長くてイライラさせる演出。
後に水汲みは蕎麦屋の拘りの水と判明しますがやはり不親切。
説明的台詞の多い邦画に慣れてしまった自分も悪いが。
さて一番の山場(?)グランピング施設開発業者の説明会。
このシーンが結構良くて監督の演出が入っていないのか
マジもん会議のライブ中継観ているみたいな感じ。
開発業者の男女2人の車内でのどうでも良い会話も妙なリアル感。
その後主人公のおっさんの娘が森で行方不明になり村人総出で
探す訳ですがここから結末が謎展開。開発業者のおっさんと
2人で探していたのに主人公が何の脈絡もなしにフルボッコ攻撃。
倒れたおっさん一度は起き上がるがまた倒れTHE END。
あれ?特に恨みないよね。それに色々問題解決していませんが?
観客に委ねる系のが苦手の人にはちょっとアレですが
意識高い映画ファンにはウケが良さそうなゲージュツ映画でした。
再見したらジワジワくるかもしれんが一週間限定だったので残念。
悪とくくる安易さ
自然を開拓して暮らしを営んできた町民と、利益優先のグランピング場建設を計画する都会人の明快な対立の中で、極めて理性的に振る舞う主人公。
町民と交渉しながらも、現状の生活に嫌気が差していた都会人一行は、主人公との交流を経て、田舎町での暮らしに感化されていく。
娘が行方不明となり、主人公の中に眠る独善的な思惑が、"自然"に実現する条件が整ったとき、それが実行されるお話。
ー
衝撃のラストについて個人的な感想。
異様なまでに娘の迎えの時間を忘れる、
娘の甘えより、環境を守る誓いのお絵描きを優先するといったあたりから、
主人公は妻なき今、心の底では娘を愛せていなかったのではないか?
と思いました。
自然の摂理によって起きた事故として、
娘を救わなかった目撃者を消し、
遭難の二次災害が起きてしまった悲劇として、
町民に語り継がれるように実行された。
娘が生還するか、都会の男が生還するか、
もしくは両者とも死ぬか。
それは自然の摂理に委ねた。
そんな独善的な行動の条件が整う瞬間を、
主人公は心のどこかで待ち続けていたのではないか。
そんな主人公の思惑がチラ見えしたときの、
ゾッっと感が忘れられない。
そこには主人公の抱える"弱さ"や"狡猾さ"、
自然を知り尽くした"賢さ"や"畏敬の念"もあるかもしれない。
それを単なる"悪意"とくくってしまうのは、
安易なのかもしれないと思いました。
人の心や物事というのはそう単純なものではないのに、理解しているつもりについなってしまうものだなぁ
ラストで突然置いてけぼりになり、ポカーンとしたままエンドロールへ🤣
大急ぎでパンフ読んだけど、まぁ解釈は視聴者に委ねられているのだろうよ。
良い余白だとは私は思わなかったけど。
とんでもない長回しと会話劇の面白さに、「濱口監督の映画だな〜」とはなった
説明会のシーンと薪割りのシーン、車内での会話シーンは好き!
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考察サイトや監督インタビューを読んで↓↓↓
突飛なラストに見えたけど、「些細なことの積み重ねが大きな結果を生む」「水は上から下へ流れる」「半矢の鹿」とかラストにつながるヒントは結構あったんだなぁと!
作品全体として登場人物みんな行動原理(?)が明確だったからこそ、ラストの主人公の行動の原因が見えなかったのにすごく違和感があって、「監督が作品にインパクト残すために主人公に変なことやらせた!」とか思ってしまったんだけど全然そういうことではなかったんだな〜🤣笑
主人公の行動の原因にまで考えが及ばず「どういう理由があろうと主人公の行動は許されんだろ」と短絡に思ってしまった自分に気づいたよ〜
住民たちに感情移入してたし、自分は住民たちがわの人間だと思ってたけど、自分もグランピング建設側の人間(上流の人間)になりうるんだということをひしひしと感じている🤔
人の心というのはそう単純なものではないのに、相手の心を理解して寄り添っているつもりについついなってしまうものだなぁ。下流の物事のことを理解して寄り添っているつもりのグランピング建設側(社長や高橋)のように。
この作品の真髄とういか、監督の描きたかったところってきっと、上記に書いたような人の心云々だけではなく自然の摂理や死についてだと思って、「監督の懐が深けぇな〜」(語彙不足による思考停止)と思ったよ😂
とか色々書いてこの作品や監督を理解したつもりになっている自分にもまた気づき…思考に言語化が追いつかねぇ!!
色々考えさせられて、監督はんぱねぇなと思いましたが、好きな作品だったか?と聞かれると、うーん。私の中でこの作品が長いこと生きていきそうな予感はします。
悪は存在しない(本当に?)
悪は存在しない、しかし暴力的な力(丸太を切るチェインソー、振り降ろされる斧、遠くの銃声)は存在している、そして何か決定的な暴力が起こる予感を常に抱えたまま物語が進む。
この予感だけで映画になってしまっているのが、とにかくすごい。
派手なアクションや凝ったストーリーなどもはや必要なくこんなスリリングで面白い作品ができてしまう。
悪とは何か、暴力とは悪ではないのか、わかりません!そのわからなさを楽しめます。
人が社会で生きるということ
タイミングが合ったので鑑賞してみた。
色々深読みしてしまいそうになるが、あの人物が実際のところサイコなだけ、という解釈も成り立つ。
或いは、自身の主張に執着し異論を許さないモンスター達の、現代社会の不寛容さのメタファーなのか。
田舎暮らし、一見良さそうに見えるけど、都心にはない闇があるな。人が社会で生きていくことの難しさをあらためて感じた。
「映画は娯楽と思うな」と。
おそらくそれぞれに意図はあるんだろう。ただ「上澄液だけ飲んでみて。後はよろしく」というような、荒削りという言葉すら生ぬるいくらい鑑賞者を放り出す感じがエグい。友人や家族と観る映画では無い。一人で、数回観て反芻して、ようやく「もしやこれでは」の領域に達することができるような怪作。(ただし何度も観たいというモチベーションは全く湧かない)
「醍醐味」と「不愉快」、「芸術」と「自己満足」の間に堂々と居座る映画。多忙で、映画を娯楽と思っている人は避けた方が良い。こういう作品があって良いが、予告編での期待との乖離が激しく、観る者を選ぶ。やたら長尺に引き伸ばしたシーンが多く、この110分の映画を観るくらいなら、自分自身の貴重な時間をもっと大切なことに使った方が良い。
最後はなんだったのだろうか
音楽良かった
棒読みのセリフの感じはとてもいい
最後のシーン
「鹿が人間を襲うのは手負の時」という前振りがあったので、あの鹿が花を襲った、ということ?
北欧の映画っぽい演出とストーリー
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