オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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『オッペンハイマー』でわかった僕がノーラン監督を苦手な理由
ようやく観れました!アカデミー賞総なめの話題作、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』。観たい観たいと、観なきゃ観なきゃと思い続けて、数ヶ月。期待値の高まりが激しすぎたせいかもしれないけれど、結果的には「やっぱり僕はノーラン監督が苦手だな…」と思ってしまった。
米国をはじめ全世界での公開から遅れること半年以上。唯一の被爆国である日本で、「原爆の父」とも呼ばれるオッペンハイマーの伝記映画が公開されること、あるいは公開されないことが大きな議論を巻き起こし、公開以前から話題を呼んでいたこの『オッペンハイマー』。蓋を開けてみれば日本国内でも興行収入は10億円を超え、3週連続で洋画1位を獲得するなどのヒット作となった。
上半期が終了した今日この頃、SNSで見かける「上半期ベスト」なるリストに『オッペンハイマー』が並べられることも少なくなく、そのヒットの背景には興行的な意味合い以外のものもあるのだろうと推察できる。
しかし、だ。
僕はこの作品の良さがまったくわからなかった…。
それは被爆国に住む人間として「広島」「長崎」の扱われ方に違和感や憤りを抱くといったようなものではなくて、シンプルに映画としての面白さ、映画としての表現といった視点で言っても、脆弱な作品に思われてならなかった。
この作品の基本構成としては、「核分裂」と章立てられたオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)への尋問(公聴会)のシーンと、「核融合」と章立てられた原子力委員長ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)への公聴会のシーンから成り立っている。
そのうえで、「核分裂」で描かれるオッペンハイマーの回想(供述)として戦前〜戦中の原爆開発の物語がカラーで描かれ、「核融合」で描かれるストローズの回想(供述)として戦後の水爆開発や原子力委員会の活動などがモノクロで描かれる。
ここで最初の疑問が頭にもたげるのだけれど、なぜこのような複雑な構造になったのだろう。
もっともらしい説明としては、時系列でオッペンハイマーの人生を描いていても、それはただの伝記であって(ノーランの目指す)エンタメではないという考え方だ。それはたしかに理解できる。オッペンハイマーという男の物語に、「公聴会」というカタチで舞台装置からして疑惑や疑念を投げかけることで、「原爆の父」という神話的な英雄(プロメテウス)を疑うという姿勢は悪くはないと思う。
※時系列で描いた伝記映画にも傑作は多いのだけれど。
ただそれにしても、本作では時系列がごちゃ混ぜにされすぎていはいないだろうか。それになぜ、より過去の話である「核分裂」がカラーで、新しい「核融合」がモノクロなのかもわからない。こちらもオッペンハイマーの目線か否かとか、もっともらしい説明ができなくはないけれど、そうまでして押し通したい演出なのかは甚だ疑問だ。
例えばではあるが、「オッペンハイマーの解説」「時系列や登場人物の整理」などの記事が多く掲載され人気を呼んでいるのも、この映画が必要以上に複雑であることの証拠ではないか。
そこで僕の頭に浮かぶのが、ノーラン監督らしい「インテリ主義」だ。ノーラン作品の多くが——その際たるものは「TENET」だけど——複雑な構造を読み解いていくことを要求し、その謎解き的な快楽にこそ映画の魅力を見出そうとしているような気がしてならない。
ノーラン監督作品の多くは「構造がわかった」「謎が解けた」というレベルの読後感しか与えないというのが個人的な印象で、だから僕はどうしてもノーランが好きになれない。ノーラン好きの友人たちに総スカンをくらうのだけれど、僕が唯一好きな作品は「ダンケルク」。なぜなら、あの作品には“心”が描かれているような気がするからだ。
そしてこの作品を観たあとに僕が感じたことも、「で、結局なにを伝えたかったんだっけ?」という感想だった。ノーランなりに、オッペンハイマーの苦悩やらストローズの独善やらを描こうとしているのかもしれないけれど、上述の複雑な構成ゆえに心情に寄り添っている余白がそこにない。「悩んでいます」「怒っています」という感情が貼り付けられた映像と演技が構成されていくだけ。少なくとも僕はそんなふうにこの作品を観てしまった。
当然SFやファンタジーに、精緻で奥深い感情表現など必要ではないという考え方もあると思うけれど、本作は「原爆の父」であるオッペンハイマーの物語。それこそ感情や反省を抜きにして「エンタメ」として昇華させてしまうことに、多少なりとも躊躇いは感じて欲しい。
そしてその軽薄さを上塗りするように、演出もまたチープだ。やたらうるさい爆発音や足音で無理やり盛り上げようとする、あるいは緊迫感を出そうとする、力業な音の世界。(前作まではもっと重厚で苦しいちゃんとした音世界だったと思うんですが…)
オッペンハイマーにフラッシュバックする原爆投下のイメージは、「とりあえず明るくしておけばいいだろう」という程度に白々しく光り続ける画面と、あまりにちゃちなケロイドの肌(しかも繰り返されるのはたった1人の女性)、リアルとは程遠い黒焦げになった遺体など、さすがにお粗末ではないかと感じてしまう。あの痛みのないチープなフラッシュバックで、オッペンハイマーが”ちゃんと悩まされている”とは到底思えない。
長々と文句を書いてきてしまったけれど、当然あくまでも僕個人の意見で、『オッペンハイマー』が大好きな人もいるだろうし、ノーラン監督に心酔する人もいるに違いない。それを理解できるほどには屹立していた作品だ。
この映画で僕がいいなと思ったところが1つある。
観賞していると、否が応でも「トリニティ作戦」の成功である種のカタルシスを感じ、映像のなかで歓喜する登場人物たちの胸中がわかるような瞬間がある。でも同時に、その成功が「広島」「長崎」に災禍をもたらし、オッペンハイマーの言葉を借りるなら「世界を滅ぼす」ということを私たちは知っている。
その矛盾した感情、ドラマとして感じさせられるカタルシスと、それを抑制しなければいけないと痛感する現実の理性とがせめぎ合う独特の映画体験がここにはあった。
オッペンハイマーの人物像、人生を描いた映画
原爆の父と言われたオッペンハイマーの人生の物語。
※日本人からの視点ではなく、完全に個人的な、
一人間としての視点でレビューすることをお許しください。
オッペンハイマーは
天才物理学者で語学も堪能。
天才科学者達を含むたくさんの人々を惹きつけてまとめるカリスマ性があり、
母国愛が強い人物。
驚いたのは、
オッペンハイマーは実験は苦手で精神的に不安定、
女性関係も淫らなところがある、友人をかばうような発言をする、など、
とても人間らしい人だったというところ。
完全に私の偏見だったが、
そういうプロジェクトに携わるような天才な人は
もっと、まるで心がないような精神の持ち主なのかと思っていたからだ。
ただ、人間らしく感情があるがゆえに
様々な葛藤や苦悩があり、その感情や思考と必死に向き合ったオッペンハイマーのストーリーが描かれている。
オッペンハイマーをはじめ
天才な科学者たちは先を見通す力がある。
作ったモノの先がどうなるかわかっていた。
オッペンハイマーは矛盾した現実その全てを受け入れ、覚悟をしていた。
覚悟をし、実際に受け入れ、必死に乗り越えていっていた。
精神的に弱いところがあったとは感じさせない、もの凄い強さだと感じた。
自分に正直でいることを貫いたオッペンハイマー。
彼を裏切るものもいたが、見てくれている人もいた。
そして最後、裏切られた水爆の父からの握手に笑顔で応えていた。
あの時の気持ちはどういう気持ちだったのだろうか。と考える。
この映画を観て
知識の危うさも感じた。
科学者として皆で原子力の可能性を発見して知識を深めていく場面。
科学者として知識を深めることが、ただ楽しくて好きだとして。
それが世の中の役に立てればと思う気持ちがあっても
人を殺める凶器を作り出してしまうことがある...
なんとも言えないジレンマ、胸が痛む。
そして国同士の争い。
国の中でも政治の派閥争い
同じプロジェクトの中でも妬みや恨み、派閥争いがある。
オッペンハイマーの社会的な立ち位置、さまざまな側面とそのドラマが描かれている。
人が集まれば派閥や争いがあるのは、
時代が変わろうが、国から自分の身近な場所でも、人間である以上変わらない、無くならないことなのか。
自分は関係ないと思っていても、知らず知らずのうちに派閥争いに巻き込まれる可能性がある。
色んな視点から、考えさせられることが沢山あり、とても複雑な感情に包まれた。
あっという間の3時間だった。
この映画を知ることがなければ、オッペンハイマーの存在を知ることも、もっと理解を深めたいと思うことはなかっただろう。
紛れもなく私の人生に影響を受けた。
もう一度観てまたレビューしたいと思う。
アメリカ視点で描く原爆は興味深い
日本でも公開されると知ったときは、絶対に行こうと決めていました。私が行った回は満席になり、ノーラン監督が愛されていることを実感しました。
被爆国の立場として複雑な気持ちになりながらも、原爆をアメリカ視点で描かれていたのが興味深かったです。中学では日本の観点から教わってきたので、米国は完全に敵として扱われていました。しかし、少し見方を変えるだけでも全然違う内容になるんだと感心しました。
オッペンハイマーは核兵器の恐ろしさを伝えることで、戦争を終わらせて平和な世界にしようとしました。ところが、事態を悪化させてしまったことで、周りから称賛されても彼が後悔する姿勢が伝わってきました。科学の力で世界を変えることができても、一度実行すると取り返しがつかなくなる危険性もあることを学びました。
そんな彼を演じたキリアン・マーフィは、悩み続ける科学者を当時の映像かと間違えそうなぐらい見事に再現できていました。ストローズを演じたダウニーJr.は、アイアンマンとは違った雰囲気が出ていて、彼の演技力にも驚きました。それと、二人からの視点を白黒とカラーでそれぞれ表現していたので、時系列がバラバラでもあまり混乱せずについていくことができました。
事前情報で聞いた通り、広島と長崎の被害を直接描いた場面はありませんでした(ラジオと台詞ぐらい)。だけど、これはオッペンハイマーの物語であることを忘れてはいけません。私としては、最低限のことに触れているだけでも十分だと思いました。
今回は池袋のIMAXで観たので、ノーラン監督の技術力が最大限に発揮された環境で鑑賞できました。正方形に近いサイズに広がる巨大な映像(一部シーン)と全身に響く音響効果によって、オッペンハイマーの心情とシンクロするような一体感がありました。他にも、核分裂の映像が流れているときは、原子の中に存在しているような不思議な感覚になりました。
上映時間は3時間と長尺でしたが、全然眠くならずに「こんなエピソードがあったのか!」と興味津々で観ることができました。日本公開をしてくれた配給のビターズエンドには感謝しかありません。
公開前から様々なニュースが飛び交っていますが、とりあえず一回観てから感想を述べてほしいです。原爆を新たな視点で知ることができるので、ぜひ多くの人に劇場で観てほしい映画になっています!
「原爆の父」と呼ばれたアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーの光と影とその生涯
原子爆弾の開発に成功し、「原爆の父」と呼ばれたアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーを題材に描いた歴史映画。第96回アカデミー賞7部門受賞の話題の映画が、満を辞して日本にて上映開始されました。
正直、日本人として観るのを躊躇わずにはいられない作品でしたが、意を決して鑑賞。広島、長崎の方々はこの映画、直視できるのでしょうか?観る前からいろんな感情が湧き起こる作品です。
ダイナマイトを発明したノーベルと同じで、結局は戦争の抑止力となることはなく、破壊力の大きな兵器として使用されることとなる原子爆弾(核兵器)。
科学者として、それを創ることは是か非か?
物語は、終始オッペンハイマーの心の苦悩と葛藤と共に進んでいきます。
たくさんの人のレビューのとおり、原爆投下時の描写が避けられていたのは賛否両論。この映画に対するANSER映画を日本人として誰かが作るべきだという意見も然り。日本人として、ただ黙って受け入れるだけで終わってはいけない気がします。このなんとも言えないモヤモヤ感を解消してくれる度肝を抜いたANSER作品の登場を待ちたいです。どなたかそこの新進気鋭の監督!頼みますよ!!唯一の被爆国からみた世界、史実と感情と未来への希望を混ぜ込んだ力強い作品を心よりお待ちしています。
戦後78年余り。
こんな恐るべき作品が大きな暴動もなく平和に映画館で上映される時代になったのを喜ぶべきなのかどうなのか…
まだ世界中では戦争が続いています。他人事ではないことを今一度肝に銘じないといけませんね。
山崎さんより宮崎さん
オレが本作に臨むにあたり、関心事として
・バーベンハイマーという社会現象
・アカデミー賞作品賞を貶したい
・公開延期
・あんまり好きではないノーラン
・オレ自身は被爆二世
さて鑑賞後どうだったかというと、結論からいうと、「ですよね」という。
「オッペンハイマー」
・
・
・
まず、大手が避けて、ビターズエンド配給について、確かに大金をはたいての「賭け」だとも思うが、作品賞確実、の予想もあって、発表後の公開という最大のメリットがあっての、「賭け」。「英断」とか、いやいや、商売ですよ、あなた。
ただ、初登場4位は正直ショックレベルの成績だとは思うが、見てみりゃ納得。
こりゃ大手は避けますよ。原爆どうのこうののリスクじゃないじゃん。よっぽど「パール・ハーバー」のほうが、「映画」として正しい。おまけに日本で大ヒット。(ふふふ)
自意識過剰、被害妄想のおっさんが、コミュ障の天才に逆切れして陥れようとするが、なんだかんだ(ここ、ほんとどうでもいい)で失敗する話。その天才が「原爆の父」だったから、ちょいと、本編真ん中辺に、爆発見せました、という映画。
よって、被爆二世のオレはこれを見て、こんなお話にするなら、オッペンハイマーじゃなくてよいじゃん、というだけで。がっかりとかそういうんじゃなくてそもそも「期待している」オレがバカだったということ。
内容わかってて元広島市長と高校生に「見当違いのもの」を試写にみせるのはどうかなあ。いくら商売でもさ。
この絶好のタイミングですら、「まず間違いなく」日本ではコケることになろうが、いやあー、ほんとネットは怖い。実際に映画を見ると、「バーベンハイマー」なる社会現象すら、フェイクに思えるほどだし、その現象が本物だったとしても、この映画を「バービー」と一緒に「見に「行った」だけ」に盛り上がったとしか思えない。
そして、ノーラン。相変わらず音響だけはもう病気のレベル。ノーランとビルヌーブとランティモスはもう、音響で吐き気がする。
ただ、「ゴジラ-1.0」の山崎さんが「日本がアンサー映画を作らないといけない」とノーランと意気投合したようで、それは結構な話だが、そういえば、飛行機を作ることが夢だが、大人になったら、美しい戦闘機を作らされた主人公の映画があったじゃないか。
「オッペンハイマー」をより娯楽に、よりメッセージ色が強い、(たとえジブリ効果あろうとも)日本で大ヒットした、ああ、オレが見たかったのは「風立ちぬ」だったんだ。
別にジブリファンでもないんだが、オレはこのタイミングで宮崎さんの本作の鑑賞コメントが聞きたいね。興味深い。
もちろん、ゴジラを進化させた山崎さんが、そのへんのニュアンス汲み取って、実は庵野sんじゃなく、山崎さん、というトリッキーな後継もアリなのかもしれない。
まあ、3人とも特別思い入れはないですけどね。
追記
ロバート・ダウニー.Jrの件
ノーランはひょっとしたら、大金を集められる存在だが、「アメリカの闇」をドストレートに描くことをせず、相当歩み寄って「原爆」「赤狩り」などをやんわり描くことにチャレンジしたと、思いっきりひいき目でみたとしても、Jrがあんなことになってしまうようでは、すべてが水の泡、もともと「闇」を描くことを避けた、関心がなかった、と思われてもしょうがない。
だから、アカデミー賞は面白い。
愚かな人間には過ぎたる兵器 ノーランがアメリカと人類に突きつけるメッセージ
量子力学が目覚ましい発展を見せた時代を生きた天才オッペンハイマー。同胞のユダヤ人を迫害するナチスが原爆開発をしており、彼が一目置く物理学者ハイゼンベルクがそれに関わっている。それに対抗する「ガジェット」開発への助力をアメリカが自らに望んでいる。そんな時代の要請が、内向的でナイーブな研究者だった彼を、カリスマで名だたる物理学者たちを率いるリーダーに変えた。
ナチスへの怒りと、彼らが先んじて原爆を実現することへの焦り、そして愛国心。そこには、物理学者としての知的探求心もきっとあっただろう。
それらの動機は、私欲とは距離をおいたある意味純粋なものである反面、完成したガジェットが現実に使われた結果もたらされる地獄絵図を見通す目を曇らせた。
第二次大戦後の安全保障に関する公聴会で、オッペンハイマーは言った。
「技術的に甘美なものを見つけたら、まずやってみる、それをどう使うかなどということは、成功した後の議論だ、と(科学者は)考えるものです」
しかし科学者には、特に原爆のような国策で開発したものに関しては、使い方を決める権限はない。一方、それを決める権力を持つ人間は、国家間の権謀術数や政治的駆け引きにまみれている。
この構図を考えた時、誰か原爆投下を止められる者がいただろうか、と思う。確かにオッペンハイマーはロスアラモスで科学者たちを牽引した。だが、仮に彼一人が開発を拒否したとして、アメリカという大国が大量破壊兵器を求め、テラーのような科学者たちがいる限り、多少時期が遅れることはあれ、止める道はなかったように思えてならない。
トリニティ実験の直前、ドイツが連合国軍に降伏した。オッペンハイマーはこの時点でグローヴスに、ロスアラモスの研究所を継続すべきでない旨の手紙を出した。「ヒトラーより先に原爆を持つ」ことを至上命令としてきたロスアラモスの科学者の中でも、敗色濃厚な日本への原爆投下の是非が論じられた。一部の科学者は原爆投下反対の署名を集めた。だが、研究所を去る者は誰一人いなかった。
戦後、オッペンハイマーが水爆開発に反対しだしたと見るや、国は赤狩りを口実に彼を排除した。ストローズの私怨だけではなく、ソ連の核開発の脅威がそこにあった。
物理学者の藤永茂氏は、著書「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」で、20年以上オッペンハイマーの記録を追い続けた末の答えとして「広島、長崎をもたらしたものは私たち人間である」と述べている。本作を観た私も、藤永氏に近い感想を持った。
確かにこの映画には、原爆投下後の広島や長崎の人々が晒された凄まじい災禍の描写はない。「被曝」の恐ろしさを知る私たち日本人の間で、描写不足との批判が上がるのも無理はない。
だが、人間が大量破壊兵器を持つことへの疑念を訴えるにあたり、さまざまな視点や切り口があることもまた表現のあるべき姿だと思う。ノーランは、圧倒的な兵器の力や大義がいかにして大量殺戮への罪悪感を覆い隠すか、その陥穽にあっけなくはまる人間の弱さや愚かさを描くことで警告を発している。強大すぎる兵器は、その存在自体が時代の趨勢を作る。それを平和裡に御する能力は、人間にはない。
オッペンハイマーが1965年にテレビ番組で回想とともに述べたバガバッド・ギーターの一節(「われ世界の破壊者たる死とならん」)は、ドキュメンタリーなどでよく引用され、彼を特別な人間のように印象付ける。しかし天才と言われた彼もその反面で、人並みの弱さと、原爆が正しい判断の元に管理されるという無邪気な幻想を持ったただの人間だったのだ。
ラストでアインシュタインが発する予言めいた台詞はノーラン監督の創作だ。設定上、この邂逅は1947年だが、その後1963年にオッペンハイマーがエンリコ・フェルミ賞を受賞した時の映像が重ねられる。アメリカはこの授賞によってオッペンハイマーの名誉回復を図ったが、その贖罪の姑息さを、アインシュタインの言葉を通じて監督は指摘しているように思えた。時代の都合でオッペンハイマーを理不尽に切り捨て、持ち上げるアメリカの勝手さも、本作は批判する。
ノーラン監督らしく、物語は時間軸を忙しなく切り替えながら進んでゆく。だが、オッペンハイマーに起きた出来事の時系列と、彼に接した主要な人物、それを演じる俳優の顔を予習しておけば、完全にとは言わないが比較的わかりやすく観られる作りになっている。ノーラン作品の中では親切な部類と言えるかもしれない。
上に書いた藤永氏の著作は、文庫で3冊ある原作よりもコンパクトにオッペンハイマーの生涯や人間関係を把握できるのでお勧めだ。映画の中でちらっと出てきた原子爆弾の構造、砲撃法・爆縮法の説明も図解付きで載っている。
IMAXフィルムの恩恵は、ロスアラモスの広大な風景などで感じたが、トリニティ実験のきのこ雲は、映像自体には正直期待したほどの恐ろしさがなかった。
遅れて到達する轟音と爆風、実験成功後に講堂でオッペンハイマーを賞賛する人々が踏み鳴らす足音がそれに重なる。胸を震わせる重低音が効果的だ。彼の視界でその風景が閃光に白飛びし、皮膚がめくれる女性が一瞬映る。日本人から見れば手ぬるく感じる被曝描写ではあるが、この女性をノーランの娘が演じたことに、彼のメッセージがあると信じたい。
科学者の苦悩を描く映画
原爆の成果を肯定的に描いているわけではない。数奇な巡り合わせで原爆を開発することになった科学者の苦悩を主観的に描こうと試みた作品だ。その意味で原爆についての映画かというと、微妙に違う。あくまで原爆を作った男についての映画だ。鑑賞する時にはそこを間違えない方がいい。
とはいえ、被爆国の日本でこの映画を見るというのは、どういうことかを考えざるをえない。被害が直接描かれないという批判は正当にあり得る。加害者の苦悩と被害者の被害とどちらが大切なのかということは問えるだろう。
ただ、映画を観るというのは、他者を知る良い機会にできる。アメリカで原爆開発をめぐってどんな議論があり、どんなプロセスを経て開発され、開発者は何を葛藤し、戦後どのような目にあったのかを知る機会は手放すべきではない。
ただ、個人的には原爆の被害がどのようなものかより突っ込んだ描写をした方が、オッペンハイマーの苦悩をより深く理解できる作品になったのではないかという気がする。スライドで被害報告を聞くオッペンハイマーの描写があったが、そこでスライドの内容を見せない選択でよかったのかどうか。
日本人なら、あのスライドの内容を想像可能だ。他の国の人々はどうなんだろうか。
原爆の表現よりも予備知識の有無で評価が分かれそうな「原子爆弾の父」に関する必見映画!
本作は「インターステラー」「インセプション」「TENET テネット」などの挑戦的な名作を生んだクリストファー・ノーラン監督作品です。
ただ、正直なところ見終わった際に「クリストファー・ノーランらしさ」は薄いと感じました。
一方で、クリストファー・ノーラン監督は、第二次世界大戦初期イギリス、ベルギー、カナダ、フランスの連合軍将兵が、フランスのダンケルク海岸でドイツ軍に包囲され撤退を余儀なくされる「ダンケルク」のような戦争史実を映像化する作品も作っています。
その意味では、本作は「ダンケルク」寄りの作風と言えますが、「原子爆弾」という未だに賛否の分かれる物を最初に作った中心人物オッペンハイマーを描き出すには3時間という尺をもってしても映像化の難しさを感じました。
1人の科学者の生涯を描き出すのさえ難しいのに、原爆を生み出したことへの苦悩や、原爆では飽き足らず、より破壊力が得られる「水爆」の開発を進めるアメリカ。それに反対するオッペンハイマー、など内容は盛りだくさんで登場人物も多くなっています。
本作は、ピュリッツァー賞受賞の書「オッペンハイマー」をベースに作られていますが、映画の物語の中核は、原爆投下で終わらせた第二次世界大戦の後からです。
ソ連との冷戦の時代へと突入し、水爆の開発に突き進んでいるアメリカにおいてオッペンハイマーが「共産主義国のスパイ」という疑いを持たれて聴聞会で責められているシーンから始まります。
この構図を利用したのがロバート・ダウニー・Jr.が演じる政治家ルイス・ストローズ。
彼は戦後にオッペンハイマーを、アインシュタインなどがいる「プリンストン高等研究所」の所長に抜擢しています。
そして、ルイス・ストローズに関する公聴会も、映画では並行して映し出されます。
これは、見ていると時間軸などが分かりにくいため、ルイス・ストローズの目線で描かれるシーンは「白黒」で表現するなど、「クリストファー・ノーランらしさ」も垣間見られます。
この効果もあり、助演のロバート・ダウニー・Jr.の存在感を際立たせる事に成功し、アカデミー賞で助演男優賞受賞にまで輝く結果になっています。
もちろんメインはオッペンハイマーで、聴聞会での自身の説明で、映像は大学生の時にイギリスのケンブリッジ大学に留学したシーンになります。
このような感じで過去が語られ、同時に公聴会も進んでいく構造になっています。
これらの現実の事象はかなり入り組んでいるので、それを3時間の映画で描き出すのは困難ですが、割と「シンプルで分かりやすく構成されている」と思います。
ただ、その結果、展開が早くならざるを得ず、いろんなディテールがバッサリと切られている面はあります。
象徴的なところは全般的に、通常の映画であれば、もう少し丁寧に説明があるシーンでも、本作ではバッサリと切ってあったりしていて、「こんなの文脈で明らかだよね?」「自分で考えてね」といった感じの、良くも悪くも「クリストファー・ノーランらしさ」があります(これの究極形が前作「TENET テネット」でしょう)。
また、唯一、原爆を投下された日本としては、日本の描写がない事が気になる人もいるでしょう。
これについては、「オッペンハイマーに降りかかる悪夢のような映像」として間接的に描かれていますし、尺を考えると仕方ない面もあるのかもしれません。
個人的には、せっかくの題材の作品なので、むしろアメリカ軍が原爆投下の予行演習として行なった、日本全土を巨大な実験場とした「パンプキン爆弾」の投下を描いてほしかったです。
1945年7月16日に、オッペンハイマーらが人類史上初の核実験「トリニティ」を成功させる描写はありますが、その直後の7月20日から始まった(長崎に投下された「ファットマン」と同じ重量・寸法で作られた)リハーサル用の模擬爆弾「パンプキン爆弾」を東京、福島、新潟、愛知などで合計49発の投下を行なっていたのです。
結果として1700人規模の死傷者を出していて、この史実も無視はできないものですが、これも尺を考えれば無理難題なのかもしれません。
しかも、もしこの「パンプキン爆弾」の投下を描くと、「マンハッタン計画」の責任者であるマット・デイモンが演じるレズリー・グローヴス中将が「原爆を落とすのは2回だけだ」と言い切っている描写に矛盾が生じます。(現実にはグローヴス中将は「8月17日か18日以降の、最初の晴れた日に、日本に原爆を投下できるように準備が整うはず」と、3発目の原爆が用意されているという書簡をアメリカ軍のトップに送っています)
本作は、基本的に過去をそのまま伝える映画。いわゆる「ネタバレ」が存在しない作品であり、知っておくべき史実を多数みつけることもできます。
例えば、そもそも「原爆は、ヒトラーが先導してドイツで作り上げられそうだったこと」。
そして、「アメリカの原爆はドイツを攻撃するために作られていたこと」などです。
さらには、日本は原爆の影響が強烈なため、原爆で話が止まっている人も少なくない気がしますが、アメリカやソ連は、原爆より破壊力が得られる「水爆」の開発を進めていた現実があるのです。
本作は、一見するとクリストファー・ノーラン監督以外でも作れそうですが、このネタを3時間で俯瞰して見せることを可能にしたのは、やはり「クリストファー・ノーランらしさ」があったからだと言えそうです。
そう考えると、第96回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞(キリアン・マーフィ)、助演男優賞(ロバート・ダウニー・Jr.)、編集賞、撮影賞、作曲賞の主要7部門での受賞を制したのも納得ですし、「ゼロベースで原爆を考えてみる良い機会を提供してくれている良質な作品」だと思います。
人類に委ねられ、思考を促す一作
原子爆弾を作り出した天才科学者の人物研究とも言うべき本作は、二つの時間軸を行き来しながら主人公の人となりを描き出す。カラー部分はいわば自分がどこへ向かうのか正確には予測し得ないまま突き進んでいく若き日の世界。対するモノクロ部分は決定的な出来事が起こった後、自らが何をもたらしたのかを知っている世界。同一人物の似て非なる二つの側面によって物語を組み立てたノーランの試みが実に興味深い。科学、政治、軍が歯車のように動き出し、止められなくなる構造が現代世界をも貫く刃のように胸をえぐる。そして一人称ならではの語り口で主観や内面を描きつつも、投下直後の研究所の様子に象徴される「実際に起こった場所から程遠い距離感」が刺のように刺さって抜けない。観賞後にのしかかるのは重く、答えのない複雑な思い。人類の限界や無力を感じたならきっとそれが始まりだ。これはあらゆる意味で観客に命題を突きつけ、思考を促す作品である。
映画作家ノーランのネクストレベル。
ちょっと偉そうな物言いになってしまうのだが、ノーラン、脚本の腕が上がったんじゃないか。いままではノーラン特有の理屈っぽさと、それを凌駕するロマンチスト気質がうまくブレンドされておらず、どこかチグハグな印象を受けることが多かった。しかしこの映画、相変わらず時系列は入り組んでいるものの、ひとつひとつのシーンに多層的なニュアンスがあって、次のシーンに繋がっていく推進力がある。3時間、初見ですべてを理解できなくとも、観客を否応なしに引き込む巧みさが備わっているのだ。
そして、原爆被害を直接見せなかったことに対してモヤモヤする気持ちはあるのだが、オッペンハイマーが原爆の衝撃を感覚的に理解してしまうシーン(ロスアラモスで科学者仲間を前にスピーチする場面)を、映像はもちろんだが音響の力を駆使して表現していて圧巻だった。確かにあの演出を成功させたら、それ以上の描写は説明のための説明になってしまうような気がする。IMAX云々よりも、音を浴びせられるような設備がある劇場で観るのが一番なんじゃないだろうか。
主観映像炸裂のノーラン映画に応える術は?
原子爆弾の開発に成功した理論物理学者、オッペンハイマーが、アメリカの国家戦略に巻き込まれていくプロセスを、クリストファー・ノーランは3つの時間軸を行き来しながら描いていく。時間軸への執着はこれまでも『メメント』『ダンケルク』『テネット』等でも見られた手法だが、今回は3時間の物語の中で主に16人、脇を入れると50人以上の実在の人物が入れ替わり立ち替わり現れて言葉を発するため、観客の動体視力が追いつかない。人にもよるだろうが、それでも集中力はギリギリ維持できる。
理由は、ノーランが徹底してオッペンハイマーの主観に観客も巻き込んで、彼を取り巻くカオスを彼の視点で体験できるように工夫しているから、だと思う。客観ではなく、主観。それは、オッペンハイマーをしばしば悩ませる何かがチラチラと発火し、爆発するような幻覚や、原爆投下後の惨劇のイメージに代表される。演じるキリアン・マーフィーのあまり他者に興味がなさそうな表情や、その割りにはいつも見開かれた青くて大きな瞳が、殺人兵器の製造に関わってしまった人間の虚しさと迷いをうまく表現している。それだけに、見ていて複雑な気持ちにもなるのだ。
オスカー受賞後にノーランと会談した山崎貴監督が言っていたように、このモヤモヤを解消する方法は、山崎監督でなくても、誰か日本人の監督が、日本人の視点で、改めて原爆を描くこと、それ以外にない気がする。
IMAXで体感することを推奨したいノーラン渾身の勝負作
まずは日本配給を買って出た中堅の配給会社ビターズ・エンドに感謝を表したい。原爆開発者の伝記映画でありながら広島・長崎の描写がないことや、映画「バービー」との抱き合わせキャンペーン“バーベンハイマー”をめぐるSNS上での騒動などがあり、日本の大手配給が米公開から4カ月以上沈黙するなか、米アカデミー賞ノミネート発表1カ月前の昨年12月にビターズ・エンドが配給を決めたのはまさに英断だった。広島・長崎の描写の不在については、オッペンハイマーの視点で描く物語だから当人が見ていない原爆投下を描かないというのも一理あるが、1億ドルもの巨費を投じて米国の製作会社が作る大作ゆえ米国市場での評価と興行的成功が重要視された(そのためネガティブな反応を引き起こしかねない原爆による凄惨な殺戮の描写はぼかされた)点も見過ごされるべきではないだろう。米国側の視点・史観に立った映画を日本人が観てさまざまな意見を持つのもまた当然で、健全な議論のきっかけになればいい。作品を見ずして賛否を論じるのは不毛でしかないが、日本公開されるおかげでそれは避けられた。
クリストファー・ノーランは映画館でなければ得られない鑑賞体験を提供することに人一倍こだわってきた監督で、そのための有力ツールであるIMAXの画角を効果的に使った映像も見所のひとつ。過去作の「ダンケルク」では縦方向の動きを見せるショット(戦闘機同士の空中戦や、船から海に飛び降りる兵士たちなど)で活用されていたが、本作でのIMAX映像はまた一味違う。オッペンハイマーに扮するキリアン・マーフィ(頬がこけるほど激ヤセして熱演)の顔を画面いっぱいに映し瞳や表情筋の微細な動きを透過して心理状態にまで肉薄するかのようなショットや、オッペンハイマーが物理学的真理を追求する思索のイメージ、原子爆弾が世界に連鎖的な破壊をもたらす悪夢のような空想を、観客はIMAXのスクリーンからまさに全身に浴びるように受け止めることになる。
オッペンハイマーによる視点がカラー映像、ロバート・ダウニー・Jr.が演じるルイス・ストローズなどオッペンハイマー以外の視点がモノクロ映像と使い分けられている点は、本作を直感的に理解しにくくしている要因の一つだ。これもまた、一度観て理解できるような単純な映画でなく、繰り返し鑑賞することで理解度が高まる奥深い作品を追求するノーラン監督の挑戦の途上なのだと感じる。
アカデミー賞7部門受賞に関して、視覚効果を巧みに使ったSF大作でヒットを連発した監督がのち史実や歴史的事件を題材にしたドラマ作品で作品賞などの受賞を果たすという流れでは、リドリー・スコット監督の「グラディエーター」、ジェームズ・キャメロン監督の「タイタニック」の先例にならうものであり、ノーラン監督もオッペンハイマーを題材に選んだ時点で当然意識し、オスカーを獲る勝負作として臨んだはず。そしてこのコースに沿う次なる最有力候補は現在「デューン 砂の惑星 PART2」が日本公開中のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督だろう。ヴィルヌーヴ監督の待機作については、「デューンPART2」にも出演しているゼンデイヤが主演で「クレオパトラ」が今年製作開始との報道も。必勝コースに乗って「クレオパトラ」で初受賞となるか、あるいはそれ以前にSF大作で獲得するのかも楽しみだ。
ノーラン監督と対談した山崎貴監督が、「日本が(「オッペンハイマー」への)返答の映画を作らねばならない」と宣言したという記事も興味深く読んだ。「ゴジラ-1.0」がアカデミー賞視覚効果賞を受賞したことで、山崎監督には国外の著名監督から視覚効果監督のオファーや、ハリウッド作品の監督としての依頼がきっと来るだろう。国際的な実績を積み、いつか日本側の視点で原爆を題材にした大作を世界に発信してくれたらと期待する。
Chilling You Can't Call It Sci-Fi
Nolan eerily evokes The Prestige's "Are you watching closely?" in a similarly themed story about a scientist trounced by his creation. As for historical accuracy, the film doesn't contradict anything in the Hiroshima Peace Museum and dispels common US myths such as that the Japanese were warned prior. The sound is the film's strongest game. The cosmos began with a bang and will end with one too.
米国版「大河ドラマ」
中盤過ぎの、原爆投下を喜ぶ米国人のシーンでは日本人として悲しみの涙と共に米国人への憎しみの感情が沸く事も有りましたが、それも「娯楽」の内として作品のクオリティの高さです。内容は成功を収めた男と、それに嫉妬する男の物語だと感じました。鑑賞中に色々な思いを感じながら、3時間という尺を感じぬ程に時間が過ぎて休日を有意義に過ごす事ができました。
醜いエゴが権力という形で現れるもの
野望と承認欲求が膨らんで、誰かの悪意に制御されるようになるまで。
共産党宣言の考え方は爆薬(それを生んだしそれ自体も)だと思った。それを科学に応用し、実現した頃には誰かに利用されていた。
序盤で示されたプリンストンでの挫折経験をコンプレックスに持っていたのか自信の影響力を拡大したいにつれ
戦争を止めるための戦争をして、研究と自己顕示の快楽に溺れていた感じだった
さいごまで権力争いだった
身の回りの危機管理に無頓着
クリストファーノーランの集大成。でもオスカーって程では···
聴聞会をストーリーの柱に据えた事で、専門用語が飛び交う内容でもだれることなく最後まで緊張感を持続出来た(そこはノーラン監督の構成の上手さ)
でもそのせいでテーマが見えにくくなった。
序盤は赤狩りと闘う科学者がテーマなのかと困惑したほど(終盤でやっと聴聞会の真意が分かる)
目的は戦争の早期終結でそのための原爆開発だった。
科学者としての純粋な探究心で大きな業績を成したが、その結果20万を超える日本人が死んだ。
描きたかったのは後悔か贖罪の念か、
人類はもう核兵器のない世界には戻れない。
「私は世界を滅ぼした」というオッペンハイマーのセリフには深い苦悩が感じられるが、ストーリー上その描き方は不十分。
水爆の開発に反対し続けたのは何故か?その問いにも答えていない。
科学は人類の進歩のために神が人間に与えた火。
でも強欲な大衆は果実のみを奪い、代償はオッペンハイマーが1人で背負う。
理由は誰よりも自分に正直だったから。
酔っ払いが吐くシーンは英雄扱いを受け入れられない心理の比喩。直接やると演出過剰だからエキストラに吐かせた。
原爆を開発し日本人を大勢殺したから英雄なのではない。
過ちに気付き、核兵器の拡散に歯止めをかけようと誠実に行動したから英雄なのだ。
その結果科学者としての地位を追われることになっても。
ヒーローの自己犠牲はダークナイトライジングでも描かれていたが、今作にも同様のテーマがあった。
また正確な時代考証にこだわったためか、一言二言の台詞のために出てくる人物が多すぎた。結果人物関係の把握が困難に。説明台詞も増え教科書映画的な側面が生まれた感は否めない。
キリアン・マーフィーとロバート・ダウニーJrの芝居が素晴らしかっただけに、もっと2人の関係に絞って描いても良かったと思う。
3時間あっという間の面白い映画だったけど、アカデミー賞を取るほどかというと、そこまでではない気がした。
わたしにはまだ早すぎたのかもしれない
広島にいくので鑑賞。
博士の愛した数式をイメージしていた。
原爆の父と呼ばれたアメリカの物理学者の生涯を描いた作品。
3時間もあったのね。
ちょっとわたしには難しく、序盤しかついていけず、
気づくと原爆が投下されていた。
時系列が交錯して、ついていけなかった…。
広島で、原爆投下後の悲惨な資料をたくさん見てきた。
アメリカで、原爆が良いように持ち上げられる中、
原爆を作り上げたオッペンハイマーが広島の実状を見て罪悪感を感じる。
なんというか…。
日本人でも日本人じゃなくても、人間には心があるのだから、
戦争相手とは言え、同じ人間だと思えば争いが少なくなるのではないのかな…。と…。
映画的にはほとんど寝たし、最後まで見れなかったし、
リピートも無いかな。
彼の生涯を知りたくなったときは、
ほかのことで知ろうかなと思います。
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難しい映画
やっと重い腰を上げて見ました。
原爆の父の伝記的な物語という事と、180分と言う時間で敬遠してました。
アメリカから見た原爆なので、まぁ日本人から見たらモヤっとする映画ではありますよね。広島・長崎への原爆投下もあっさり語られただけだし。
まぁ、終始オッペンハイマーの物語です。が、これまた難解ですねぇ。集中して見ないと迷子になります。しかも、ノーラン監督ですから相変わらずの時間軸あっちゃこっちゃです。
うーん、ついていけない。と思いながらも映画は終わってしまった。そして後にはなにも感情残らずです。面白いとか、ためになったとかも、日本として腹だたしいとかも、とにかく何も感じず終わりました。しかもつまらなくも無い。
ただただ、難しい映画でした。
長い!
流石に3時間は長いなぁ。
オッペンハイマーは知ってるけど、詳細は知らないし、まして晩年のゴタゴタは知らないのでチョット話しが飲み込めない。アメリカ人なら分かるんだろうけど。多分、日本人が信長とかのドラマで詳細省いても分かる様に。
原爆実験の時に(失敗しろや)と思ったのは、自分が日本人だからだろうな。
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