イノセンツのレビュー・感想・評価
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オレをそして娘をみて、おっさんは本作を見てこう思った。
もうとうに昔のことだが、オレが子供の時は、さすがに猫はないが、カエル、ザリガニは当たり前のように爆竹で破裂させていたし、近所の子供に平気で石をぶん投げていた。
それは、やはり環境によるもので、そういった行為は無垢とか無邪気とか、変に理由をつけたり、ましてや正当化するものではなく、程度こそあれ、生きていくうえでの通過点だったと今は思っている。
よく言われることだが、それを「イノセント」と呼ぶのは、子供ではなく、大人であり、もっというと、「そんな経験もしていないのに、想像の」ノスタルジーに浸る、ただの気持ち悪いオトナである。
そして子供を怖いというのも、あんた、子供だった時がないのか、と。
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「イノセンツ」
本作の興味深い点は、子供の「その無邪気な行為」を大人の空想で「超能力に置換させたらどうだろう」という点。
まあ、子供の時だって、「超能力があれば・・・」と思ったりしたこともあるだろう。念じてアイツの頭が破裂すればいいのに、とかね。
そういや、自分はダミアンだと信じて、トモダチの脳血管をぶち切ろうと念じたら、自分の鼻血が出たな。
はっはっは。
だからね、この映画、まどろっこしいのよ。音でドキドキさせなくても、そんなタメ、要らないよ。サっとやっちゃうからね。
で、自分が子供を持つようになって、娘のそういった兆候をみたりするのよ。
「ああ、そうだよね。」てね。
でも、娘は猫はおろか、カエルも殺さないだろう。
だって、カエルがいないから、というのは冗談で、カエルを殺すことを求められないから。
感情的にものを投げることはあるよ、だってその方法しか知らないんだから。
だから、この映画はそんな怖いとか、ましてや、子供の無邪気が怖いとかそんな見方をしてはだめなんだって。
オタクが、日本のマンガに惚れて、なんとか映画にしました、っていうね。そこから楽しまなきゃ嘘よ。ホラーでも、社会派スリラーでもなく、サイキックバトルギャグ映画でいいでしょう。
の割にギャグが足らない、ここぞという見せ場も、その路線で期待するから、勝手にやり過ぎみたいな期待も裏切られる。まあ、これはしょうがない。
ベンの意識が標的の窓に寄っていく「エンゼル・ハート」オマージュなところは好き。
追記
ラストは、姉ちゃんの手が止まる。
子供たちが陥る落とし穴は「狂気」ではない。
子供たちの静かなる内面模様に心掴まれる
北欧から届く映画には、日常を別の角度から、あるいは内側から提示するものが多い。この『イノセンツ』も子供たちのサイキックスリラーといえばそれまでだが、描写の端々に一筋縄ではいかない感覚が溢れ、序盤の「つねる」という子供ながらの小さな悪意を起点として、まだ右も左も分からない主人公たちの感情がいかに振り切れていくのか、期待させるし、不安にもさせる。「童夢」にインスピレーションを受けているだけあって、団地が舞台となのは当然であるし、やがて目覚める彼らの力は不可能を可能とし、希望にも、また暴走の火種にもなりうる。だがここで注目すべきは内面の描写であり、最初の「つねる」という行為がいかに変容していくのかという姉妹の関係性の成熟には心奪われるものがあった。興味深いのは、超能力をメタファーとして捉えると、子供をめぐる社会のあり方を描いた映画のようにも思えること。これまた北欧らしいなと感じ入った次第である。
毒親の子は毒
「子どもの可能性は無限大」
「若いから何でもできる」
大人を超える能力があっても、使い方次第で可能性はむしろマイナスになってしまう。
プラスに使えるのは、家庭で大切に扱われている人。ここでいうアナ。
一方マイナス方向に使ってしまうのがベン。あの生育環境なら無理もない。
家庭や社会で人は自分の都合で動かすことを否応なく学ばされている。
どちらもある意味純粋に、きちんと親の教育の成果が出ている。
高い能力を活かして可能性に変えられる子どもは、そこそこ恵まれた環境で育ってこそなのだ。
それは衣食住が賄えてるだけではなく、自分の意思が尊重されたり、感情を適切に受け止めてもらえたりするような経験ができるかどうかも大きい。
自分が誰にも尊重されていると思えなかったら、人のことなんて尊重できない。
そういう子の親も、他者から厚く歓迎されていない立場にいる。
移民、ワーキングプア、離婚、それによる孤立、職業的地位…。色々な要因が勢揃いする。
社会に精神的居場所のない親は、子どもにも精神的居場所をつくれない。
子どももいつか大人になる。
そういう子が集まる社会では、誰の居場所もつくられない社会ができあがる。
みんな自分の目先の都合を満たすことに奔走する。
映画の団地は日本にもありそうな光景だったが、大人の行動も共通している。
子どもは「社会を映す鏡」として、その鏡を見せたかった映画なのかもしれない。
数少ない大友原作の実写化、傑作!
蘇る子供時代の視点
タイトルに込められた無垢や無邪気さと表裏一体である残酷さ。
同じ子供の両側面を超能力というモチーフを使って描いている。
どんな場合でも、「大人は真意を知ろうとはしない」というような概念がこの作品の根底にあるように思う。
この作品は2023年のノルウェイの作品のようだが、昭和から平成にかけての日本のようでもある。
ベンジャミン
彼は母親から軽い虐待を受けているようだ。
彼のことをすべて否定する母親
それは虐待とネグレクトが合わさっている。
腹部に付いた大きなあざや小さな傷痕
外に出ると中学生からのいじめが待っているので、一人で秘密基地を作って遊んでいる。
この場所に引っ越して彼と友達になった主人公のイーダ
彼女が持つ「面白くないこと」は、姉のアナ
両親はアナにつきっきりで、自分たちの都合が悪くなるとすぐに姉の面倒を押し付けてくる。
アナは痛くても痛いと言えない。
だから腹いせに時々抓ってみる。
他人に姉と一緒にいるのを見られるのが嫌
子供はすべて知っていて、すべて思い通りにいかなくて、その事をわかろうとする大人が誰もいないこともわかっている。
でも、最上階の階段から猫を落とし、頭を踏んで殺す行為に、イーダは大きく気持ちが動かされた。
そこにあった気持ち悪さと、後追いの興味
ベンの不思議な力を見て純粋に凄いと思う。
テレキネシス
何だか懐かし言葉だ。
顔の肌が斑になっている女の子アイシャ
その顔立ちから感じる孤独
友だちもいないので一人で人形と遊ぶ。
アイシャはテレパシーが使えるが、それを特殊だとはとらえてない。
彼女は引っ越してきたアナの存在をテレパシーで知り、近づいてくる。
二人はテレパシーで会話する。
その様子に驚くイーダ
イーダはそんな能力はないものの、かなり利発だ。
真意を組み取ろうとしない大人に説明する無駄を理解している。
子供の見たこと感じたこと、それを表現しようとする拙い言葉に耳を貸さないから、「自分で決着をつけるしかない」のだろう。
やるか、やられるか
こどもにとって、それは、単純なこと
さて、
子供にも受け入れられる容量というものがある。
我慢の限界ともいえる。
大人は、勝手にそんなことは処理できるものだと思い込んでいるが、どうしても無理なことがあって、それがトラウマというようなものに変化するのだろうか。
私自身この作品を見て、私の中に今でもある心の嘆きの様なものを思い出した。
思い通りにならないことに対する憤り。
そのほとんどは運転中に起きるのだが、その原因をこの作品の中で思い出すことができた。
両親からの一方的な決め付け。
何もかも「お前が悪い」
この点において、ベンの気持ちがよくわかる。
せっかく似たような能力のある友達ができて楽しくテレパシーごっこで遊んでいたのに、イーダの心ない悪口によって、再生し始めていた心が大きく歪んでしまう。
「ベンはクソだ」
それは誰もがするくだらない子供の、気にしなくていいもののはずだった。
しかしベンにとってその言葉ほど傷つくものはなかったのだろう。
親友の裏切り
ベンの怒りでレベルアップしたテレキネシスだったが、同じようにアナもまたその技が使えた。
拮抗するパワーは、傍にあった大木を破壊した。
その歪みは、普段から少し気に入らない母親へと向けられる。
その歪んだ波動に気づくアイシャ、アナ、そしてイーダ
ベンの歪んだエネルギーはいじめっ子に向かう。
そしてアイシャへも
さて、、
ベンもイーダもアナもアイシャも、多くの子供たちも皆、両親や社会によって抑圧されている。
大げさな言い方かもしれないが、この作品の制作者はその事に気づいたのだろうか?
または自分自身が体験者だったのだろうか?
私もこの物語を見て、思わぬことを思い出してしまった。
いつも、自分がいったい何に反応していたのかがよくわかった。
押し付けられてきたことと、否定し続けられてきたこと
純粋だからこそ、残酷さに躊躇うこともないのだろう。
その残酷さの場所さえ与えられない場合、そのエネルギーはいったいどこに向かうのだろう?
この作品はすべての子供たちの視点を捉えている。
どんなに裕福でも、多少は感じる抑圧
個人的な気づきがあったことで気持ちが楽になった。
何十年ぶりかに当時の気持ちを思い出し、処理できた。
感謝です。
大友克洋先生のパクリ
X-MEN
おばけ団地かな?
共振
「ただ遊んでいただけ」とはイーダのセリフでしたけど…
サイキック・スリラーというか、ホラー系統の映画は、これまであまり観てこなかった評論子ではありますけれども(一人住まいの評論子は、夜中にトイレに行けなくなると困る)。
そういう意味では評論子の「受け止め」が浅いのかも知れないのですけれども。
以下は、あくまでも「そのレベルでの評論子のレビュー」ということで受け止めていただければと思います。
「子どもたちには、この結果について、あくまでも悪意はなかった」ということが、本作の邦題の謂(い)いなのでしょう。
ときに、アナとイーダの一家の今回の転居は、アナの新しいリハビリ施設(通所施設?)の関係だったようです。
両親からすると、アナの障害に、普段からあれこれと心を痛め、配慮を尽くしていた様子が窺われました。
評論子には。
反面、それは、イーダの様子からみると、彼女らの両親は、障害のあるアナを気にかけすぎて(それは一面ではやむを得なかったのかも知れませんけれども)、そのぶん、イーダに注ぐ愛情が十分には厚くはなかったようにも見受けられてしまいました。評論子には。
本作でのイーダの立ち居振る舞いから推し量って。
それゆえに、新しい土地では、イーダは、不可思議な能力を持つ(かのように見えた?)ベンに惹かれたのだろうとも思いました。
そして、そのことが、ベンの暴走(?)を経て、今回の子供同士のこの「結末」に起因したのであれば、それは、何とも切ないめぐり合わせと言わなければならないかとも思います。
サイキック・サスペンスというのが本作の露出ではありましたけれども。
片親の家庭であったように見受けられたベンも、母親からはあまり手厚い愛情を受けてはいなかったこととも相まって、親が子に注ぐ愛情の厚薄やそのあり方という点では、静かに訴えかけるものもあったのではないかと、評論子は思います。
評論子としてはその点を主として、いちおう良作としての評価としておきたいと思います。
(追記)
本作の監督が共同脚本を担当した前作は『わたしは最悪。』だったとか。
両作に共通するのは、人の心の奥底に潜(ひそ)む歪(ゆが)んだ情念みたいなものでしょうか。
そんな印象もありました。
評論子には。
う~ん、どーなんだろーね???
映画見てから、すぐに『童夢』ゲットして、初めて読んだけど、
大友さんって、ヤバいマンガ描いてる人だよね、ビビったわ!
(デビッド・リンチが撮るって話もあったらしいよ)
エスキル・フォクト監督がインタビューで堂々と
「誰にも気づかれないと思っていた」とか言ってるし、確信犯でしょ
この映画好きだったから、超残念なんだけど~
『童夢』に激似してるな~って思ったシーン
1.ブランコでのサイキック・バトル
(ブランコの鉄柱が壊れるとことかね)
2.ガクっとなって最期を表現するとこ
3.子供たちだけがサイキック・バトルに気づいてるとこ
(団地のベランダから、見てるんだよね)
4.PKで人を殺人犯にしちゃうとこ
5.お母さんに抱きついて甘えるとこ
もちろん、舞台がマンモス団地ってとこからしても、そうなんだよね
エンディングロールに、せめて原案『童夢』大友克洋とかあればいいけど、
無かったら、やっぱ確信犯だよね
オマージュとか言ってる人もいるけど、
ぶっちゃけ、ただのパクリじゃん?
『イノセンツ』ってタイトル、ギャグになっちゃってるし
映画もビジネスだから大人の事情もわかるけど、
バカな私でも、どーなんだろーって思うし
この監督の次回作は、期待しないし、観ないよね~
猫を傷つけるのはNO
判断力が的確でなく感情も制御出来ない子供達の世界のタダでさえ不安定...
子供たちの共鳴力
この映画の重要な登場人物である四人の子供たちは、特に心が純粋というわけではなく、他の子供たちと同じように善悪の両面を持っている。ただ世界を純粋に見ているような気はする。人間の嫌なところや暗黒面も。
障害のある子供や皮膚に疾患のある子供、母親に乱暴に扱われている子供や親に公平に扱われていないと感じている子供たちのほうが、大人より偏見や思い込みがないぶん純粋に人間を理解しているということなのかもしれない。
この映画の大人は頼りなく影が薄い。
映画の紹介記事では子供たちの遊びが狂気に変わっていく物語と書かれているが、違う気がする。
子供たちの不思議な力は、他人への共感力の強さから生まれている、この四人の子供たちは団地という小さな世界に押し込められているように見えて、他人の想いとか心の痛みを感じとることで、精神世界を広げている。
子供の泣き声をただうるさいとしか感じない人もいるけど、今でも子供の泣き声にある種の特別なエネルギーのようなものを感じている人はたくさんいる。
少年の痛みを純粋に受け止めてしまう他の子供たちは、ああいう形でしか少年の心の問題を解決できなかった、その強い哀しみが残る。
大人たちは純粋ではなくなったから、少年の痛みに気が付かないし、ただ狂気とか心の病と断じて理解した気になっている。
謎の力
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