キリエのうたのレビュー・感想・評価
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今もなお響き続けるあの歌声
この映画を観終わってしばらく経つが、今なお胸中で歌声が深く響き続けている。類稀なる歌声を持った少女が才能を開花させていく物語ならば、過去に幾つか観た覚えがある。しかし本作における「歌」のあり方はそれらとは根本的に違う。主人公には頼れる者が誰もいない。思いを口にすることすら困難だ。そんな孤独に生きることを余儀なくされた少女が、歌うことによってのみ、この世界と繋がり続けようとする。と同時にこれは彼女が自分でも意識せぬうちに一つの使命に身を捧げていく旅路でもあるかのようだ。言い換えるなら、祈り。大切な何かを忘れぬため、これまでもこれからも「共に歩いていること」を実感するために、彼女は今日も無心になって歌い続けるのだろう。こうした歌声の周りにいつの間にか多くの人たちが集まっていることの尊さ。その人生を記憶のタペストリーの如く伝える本作もまた、私たちに忘れてはいけない何かを強く思い起こさせてくれる。
過去作品と交差し、ループする“岩井俊二ワールド”
二人の少女、雪、地方の景色、誰かを想い佇む人物、人物の感情に寄り添うようなカメラワーク、自然光の多用、学校、制服、時空を超えた恋や友情、青春、手紙、同じ俳優や本物の歌姫の起用など、過去作品のキャラクターやシーン、設定やセリフ、物語、音楽を想起させる“岩井俊二ワールド”の記号が散りばめられています。
それらとつなぎ合わせて見ると、まるで岩井監督の頭の中のパラレルワールドがそれぞれの作品で交差し、ループしているようにも見えてきます。本作でも時代の空気をつかみとり、魂の救済を見つめ、小林武史の音楽とともに映像に昇華して、見る者の心と共振しようとしているのではないでしょうか。
もやっと。
岩井俊二監督作品のファンです。小林武史さんも好きです。
正直、主演の方の声と歌は好きです。が、
3時間が長く感じるほど内容がもやります。
2度目見たいと思える映画ではなかった。
広瀬すずさんの演技と存在がよくわからず
るかの足を引っ張る存在で
結婚詐欺をした金で恩着せがましく面倒を見て消えて平然と再現するあたり
気味が悪くて仕方ありません。
うちくる?としつこく中華料理を食べるシーンも
見ず知らずの女が(ダサい格好で怪しい)執拗に家に来いと言うのも気持ち悪いと声を出してしまったほど。
野外フェスを許可証とらずにする意味のわからないストーリーはリアルっちゃあリアルだけど
は?と不思議な気持ちでモヤモヤしました。
監督は女の子に歌を歌わせるのや、バレエ踊らせるのが好きなんですね。
内容的には可もなし不可もなし。 ただ3時間はちょっと長過ぎる。 ま...
震災で翻弄された人々?
広瀬すず違和感、若いのに老け役?
全編鑑賞したらわかった。
キリエ役アイナ•ジ•エンド、あまり知られていないからか、(私だけ?)観客を呼び込む為の広瀬すずだったと。
広瀬すずちゃん、アイナよりだいぶ年下なのに、1年先輩やら、マネージャーもどきやら、
なんかすずちゃん気の毒。
芸能界で生き残っていく為にはこういう仕事も
受けていかねばならないのか。
松村北斗泣いてばかりだし、
老けないので何歳かわからない。
学生服か私服で判断?
震災当日、キリエが妹を探している時、
なぜ泣く?キリエ走っていいのか?
キリエ姉妹出会えたのに、
妹だけ助かったのがわからない。
姉と妹二役だったので途中頭が混乱した😱
アイナの歌はいい、演技は?????
あまり喋ることができない役柄がちょうど良い。
広瀬すずちゃん気の毒な印象の作品、
詐欺師になって追われていたみたいだし。
岩井俊二監督ワールド
まるで推敲していないような荒々しい脚本、故に生が強く強く訴えてくる
やっぱり、これしかない。本作のタイトルは。
ストーリーとしては切ない一本ではあるのですけれども。
しかし、万感迫る物語に浸っているうちに、もはや手の施しようのない?涙腺脆弱症の評論子も、落涙はしませんでした。
素敵な歌声の歌がいっぱい散りばめられていたことも、作用として大きかったでしょうか。
ことほど左様に、歌は人を楽しませることには、間違いがないかとも思います。
ミュージカル大好きの評論子でもあってみすれば、なおさら。
音楽(ストリートミュージック)いっぱいの本作の…。そして希(きりえ)が路花から見ての唯一の肉親だったことを併せ考えれば、本作のタイトルは、やっぱりこれでなけれはならなかったのだろうとも思います。
評論子は。
過去と現在、人と人との関係性の機微という岩井監督の作品に通底するモチーフは本作でも健在であり、一人の女性の生き様(ざま)の切なさということでは、胸に万感の思いが染みわたるように思いますし、観終わって、たっぷりとした情感に浸ることのできる作品としても、同監督の手になる作品の例に洩れない一本たったとも思います。
十二分に佳作の評価を超える一本であったと思います。評論子は。
(追記)
本作のストリートからはほんの、ほんの脇筋なのですけれども。
しかし、路上フェスを開くなら、公園管理者の許可を取らなかったのは、どう考えてもNG でしょう。
(それに、場所の予約の連絡を入れた時点で、公園課?から許可申請の話が出たはず。予約もなしでの強行なら、他のイベントとかち合う可能性もあるので、それも「考えられへん」ところ。)
確かに煩雑な手続きでもありますし、そういうことには不馴れなストリートミュージシャンたちには尚更のことでしょう。
ストリートミュージックに理解があり、ボランティアで許可申請手続きを代理・代行してくれる行政書士は、どこかにいないものでしょうか。
(追記)
ちなみに、路上でのロケーションは、略々(ほぼほぼ)が「ゲリラ的敢行」と聞いたことがあります。
短時間で終わるので、無許可でも摘発されづらいという事情もあるようですし、映画を観た道路管理者(の職員)が気づいて連絡して来たということもないようです。
(道路を通行するシーンであれば、道路の自由利用の原則の適用範囲内ということもできそうですけれども。ただし、一時的にしろ、機材を道路敷内に据え付けるなら、間違いなく占用許可が必要。)
(追記)
<映画のことば>
最近に感動したことは…。
あなたの歌ですよ。
選挙が始まると放送される政見放送(Powered by NHK)では、歌を歌うことは禁止されているそうです。
歌を歌うことは、聴いている相手を楽しませることになるので、公職選挙法の適用上では選挙民に対する「饗応」に当たるということらしいのですけれども。
ことほど左様に「歌」というものが、いかに人の心を楽しませるものであることは、本作が鮮やかに描き出すところだとも思いますし、人の声が「楽器」として、いかに素晴らしいかも、本作は多くを語ると思います。
(追記)
本作の岩井俊二監督の手になる作品だけでなく、観たい作品は山ほどあり、観る時間が足りないことを、いつもいつも嘆いている評論子ではありますけれども。
同監督のどの作品にも共通している「観終わった後の、たっぷりとした情感」にまた浸りたくて…。
本作のレビューもまだ満足に書き上がらないというのに。なんと早々に、同監督の手になる別作品の『Love Letter』と『ラストレター』とを、地元のレンタル店から、とっととレンタルして来てしまった評論子でありました。
もはや病膏肓に入っていることには自覚症状もありますし、「何をかいわんや」というご批判は、申し開きもなく、甘んじて受けたいと思います。
「キリエ」にとっての幸せのかたちと、アイナさんの歌声
ここで当方がタイトルにしている「キリエ」は、路花のことです。
アイナさんは二人一役で、キリエと路花を演じています。
詳しくは、シンガーソングライターとして「Kyrie」を名乗っている路花が妹。回想シーンに登場する夏彦の恋人が路花の姉の希(キリエ)です。
希、路花、夏彦はそれぞれ震災を経験をし、路花に致っては大人になってイッコと再会しても尚様々な苦難が襲い掛かります。一見全員が不幸せで終わるように描かれていますが、ラストシーンを見て、路花だけは幸せの階段を登っているように思いました。
行き場のない感情に抗いながら少しずつ前に進もうとする登場人物達の姿がリアルでした。
アイナ・ジ・エンドさんは友人がBiSHさんの大ファンなので存じ上げていました。
友人が言っていたことではありますが、個性というのは誰かの好きであり苦手でもある、と。
確かにそうですよね。
でも自分は、上手い下手だけでその人を判断するよりも個性を見ていたいタイプの人間です。
この作品においては、路花の苦しみ、痛み、生きづらさから生まれる歌声が、アイナさんの個性と合っていたように思います。
岩井俊二の“勝手にしやがれ“
令和の今の時代にこんな歌に命を預ける歌手が存在していたのか?
メッセージソングというのとも少し違う。
ともかく衝撃的な歌手だった。
《悲しみの伝道師》
それを言うなら中島みゆきの方がもっと伝える力は数倍大きいが、
キリエ(アイナ・ジ・エンド)の歌はテクニックも普遍性もなく、
ただただ荒削りで生身の人間の飾りのない叫びと苦しみ、怒りを
歌う。
それは生理的で食べる行為、眠る行為、生きる行為・・・
と言った原始的なものである。
卑弥呼が歌うとしたら、
卑弥呼が舞うとしたら・・・
多分そんな原始的な感じ。
それは心に
過去の人生を生きて来た人間の
苦しみと痛みを思い出させる。
繊細で上品な岩井俊二監督の過去作とはかなり印象が異なる。
それはこの映画のミューズである《アイナ・ジ・エンド》の
歌声によるものだ。
剥き出しのその歌声は【死】より【生きたい・・・死にたくない生命】
に訴えかける。
震災で亡くなった人々の死にたくなかった叫び、
残された人々の慟哭に聞こえるのだ。
ある意味でアイナ・ジ・エンドは霊能者であり霊媒師である。
この映画は映画館の暗闇で173分集中して観ると絶対に評価が上がる。
とても残念だ。
2011年前後のキリエ(路花)の少女期。
両親・姉のキリエの震災死により孤児になる路花。
養護施設と帯広の高校生活を経て上京。
路上ミュージシャンとして姉の名前・キリエを名乗る。
震災の後、路花は歌う時以外には、
声を失う。
過去と現在が目まぐるしく行き来して、
キリエの友・イッコ(広瀬すず)との時間は
自由と憩いがある。
音楽映画。
そう呼べる筈なのに、路上音楽という制約のためか、
アイナ・ジ・エンドの歌の歌詞そして歌声が挑戦的で、
シャウトするエネルギー源は怒りであるから、
それに釣られて他の楽曲とBGNも
とてもバランスがブレて壊れている。
やたらとうるさくて感じる時間も多い。
いつもの岩井俊二作品の端正なフォルムの映画を観慣れてる私には
とても挑戦的で新鮮で、そして居心地が悪い。
それほどに岩井監督はアイナ・ジ・エンドに魂を奪われた。
語り部のように歌い、叫び。
軽い羽のように舞い。
哀しみを育み、空気を栄養にして、
妖精のような少女は岩井ワールドをアイナ・ジ色に
染めたのだった。
アイナ・ジ・エンドを愛でる映画。
テーマは何だったのか、もう分からない。
エンドロールの5分間は、
アイナ・ジ・エンドのMVでPVみたいだが、
この映画は岩井監督のターニング・ポイントになりました。
岩井俊二の「勝手にしゃがれ」or「気狂いピエロ」
ジャン・リュック・ゴダールのミューズ=アンナ・カリーナは、
岩井俊二にはアイナ・ジ・エンドらしい。
話の構成が分かりにくい
どうしても苦手だった
『キリエのうた』公開初日のレイトショーで見た後、一番大きなスクリ...
『キリエのうた』公開初日のレイトショーで見た後、一番大きなスクリーンと最良の音質を求めて新宿バルト9のスクリーン9で拝見。試写会で観た方の絶賛は把握しつつも、小説版を読んだ方の「覚悟して観ないと」との言葉等、ネタバレ忌避派なのに得てしまった事前情報から観るのをちょっと恐れてすらいましたが、冒頭から覆されました。広がる風景の美しさや風合い、話の間合いや速度から、この映画を好きになりそうと思った開始数分。3時間を経て日付が変わる頃、贖罪、天災、人生の理不尽…重い縦糸に編まれる物語の鑑賞後でありながら、松村北斗=夏彦の在り方に腹落ちしたことで深夜の映画館を出る足取りも軽く、心楽しくなりました。キリスト教の素養もないから「主よ憐れみたまえ」の意図は明確にはわからないし、次に観た時は泣くかもしれないし、憤るかもしれないけれど。今回は自らの”しでかしてしまった”事と災害に翻弄される夏彦の来し方を紐解き、キリエ(路花)とイッコ(真緒里)の関係性を微笑ましく見守り、キリエ(=路花)の音楽家としての成長を楽しむ3時間でした。さすがに岩井監督が砕身された音楽映画、パンフレットで監督の音に対する見識を拝見しましたが、これだけ音楽を中心にすえた作品でありながら台詞が聞き取れないことがなかったことに後から感心したものでした。
印象的だったのは夏彦の内面が語らずして自ずと表れていたこと。葛藤と同居するずるさや小賢しさ。誰もが持つ負の感情。自身のそれも、他人が隠し持つそれにも敏感で、それらを回避せずにきちんと見つめてきた人だからこその人物造形ではないかと勝手に想像し、素晴しいことだと思いました。
例えば友人に伴われて希が登場した瞬間からのぞく夏彦の打算。将来を期待されるプレッシャーこそあれ、恵まれたお坊ちゃまの「彼氏とかいるの?」と切り出したこずるさの迫真に膝を打ちました。希に迫られた時の優柔不断で受け身な「えー...」は秀逸*1)。希の事は好きではあるのだろうけれど、宗教的にも経済的にも女系という点でも、盂蘭盆会の光景から推し図れる潮見家とは圧倒的に異なる小塚家でのいたたまれなさ。幼い路花をかわいがっているし、外面よくそこに居るけれど「アーメン」とごく当り前に祈りを捧げる女性達の中での複雑な表情。駅での見え隠れする後悔。腹をくくったと口では言いながら「また電話するよ」に含まれた迷い。震災がなかったらその後あっさり希を捨てていたのでは、とさえ思えたり。普通の人間の内包する複雑さがありありと表れているように思いました。
希との関係性を語る上で欠かせなかった性的描写。高校生という前提もあるからでしょうが煽情的にならず、観た後読む派がうっかり開いてしまった小説版の1頁の描写よりあっさりとしていて品すらあるような。大阪で過去を語る表情も、最後に泣き崩れる様も、石巻へ走るシーンも、悲痛な心情は十分に伝わるけれど過剰にならない。様々な場面での、何か不思議なフィルターでもかけているかのように抑制の効いた感情の表出が私は好きです。
走るシーンは大変なご苦労だったと伺いました。かっこよく走るシーンも勿論よいですが、舞台挨拶で話題にのぼった「徐々に丸くなる背」のような、身体表現の的確さユニークさは松村北斗の強みだと思います。
抑制、品、身体表現と併せてもうひとつの重要で大好きな資質、巧まずして表れてしまうおかしみ。例えば「コメディーシチュエーションだった」と事前に伺って楽しみにしていた夏彦の登場シーンでの真緒里とのやりとりの何となく滲むそれ。これぞ松村北斗の夏彦、壮絶な人生でも100%の悲惨などあり得ないという微かな希望。この作品を深夜に1人で観ても嫌な後味がなかったのはこれらの北斗さんの特性のお陰かもしれませんし、松村北斗さんの作品を観ていくうえで私にはありがたいことです。
余談ですが岩井監督は脚好きなのでしょうか?夏彦のマンションのクローゼットから出てくる希、雪中の素足等、なかなか必要以上に脚を露出されているように思われ。監督自ら「ボクらの時代」で「オタク活動は仕事、職業選択はオタク故」と語っていらしたように、映画制作というのは一種の盲目的な愛好を形にするお仕事ではあろうかと思うのですが、例えば新海監督はご自分の作品の中のフェティッシュ要素にセルフツッコミしながら上手に足し引きされる方で、蜷川実花監督はフェティッシュ全開上等、それこそ制作意義とされているように思っていて、さて岩井監督についてはなんと評したらよいものでしょう(笑)
一部で物議を醸しているらしい罹災時の”服装”といい、波田目社長に襲われるシーンといい、アイナ・ジ・エンドさんにはその点でも初演技にしてなかなかの大変な役でしたでしょう。希の自分の欲求に素直で素朴でありながら強かな人物像が強烈で、路花の柔軟さや繊細さとの演じ分けは凄かった。一番好きだったのは高校生の路花が帯広の夏彦の家で1人別室で踊るシーンで、アイナさんの技術が路花の孤独を最大限に表現しているように思いました。路花の在り様も私がこの作品をファンタジーのようにうけとった要因と思うのですが、何よりイッコ=広瀬さんのファンタジー全振りが大きかった。素の真緒里の美しさ、結婚詐欺という生生しい犯罪、刺される末路もありながらのイッコの外連味の強さと非現実感。広瀬さんは常々”映画女優”だと思って拝見していたのですが、すごい存在感でした。逆の意味で、うっすら不精髭で日常生活をこなしながらも憔悴と後悔の果てに若いのに疲れが沁みついたような顔をさらし、美しく存在せずとも役柄を成立させた松村北斗も素晴しかった。お二人とも美しい外見故に不当に演技を割り引いて評価されがちだと思っていましたが、最早アイドル俳優とは誰にも言われないと思っています。
1) 以前松村北斗が演じた役の女性に翻弄される様(『恋なんて、本気でやってどうするの?』の柊麿、『一億円のさようなら』の若き日の鉄平など)を思い起こさせられたり。YouTubeやライブMCで見る松村北斗の、時々相手の出方の強さに気おされて「え…」となっておられる様を思い出してしまったり。
付記:ひとつだけ残念だったのは、バルト9の一番良い席で鑑賞した際、地震のシーンの映像ですっかり酔ってしまい、必死でカバンの中の吐気止め(映像酔いしやすいので常備(笑))探す後半。周りの方にも申し訳ないやら、情けないやら。同体質の方は睡眠を十分とって、万全の体調と酔い止めを握りしめて(あるいは先に飲んで)鑑賞される方がよいかもしれません。それだけ迫真ということですが。
美しくて切ない映画
歌がとにかく印象的な映画。歌姫アイナ・ジ・エンドのために作った映画かな。
キリエ、ルカ、夏彦、イッコそれぞれの存在感が素晴らしくてキャスティングが最高だった。この人達でなければこの世界観は作れなかったと思う。
いちばん泣けたのは夏彦がルカと再会して号泣するシーン。私の周りの席でもすすり泣きしてる人が多かった。夏彦だけがまだ恋人を亡くした(助けられなかった)震災の地獄から抜け出せていない。助けられなかった悲しさと共にそれを少しホッとする気持ちもあった情けなくてダメ男な自分をずっと許せず忘れられない夏彦が辛かったな…
松村北斗くん名演技だった。
レイプ未遂シーンと下着姿の長い長い地震のシーンはちょっと嫌だった。5回観に行って2回目からは目を閉じてその時間が過ぎ去るのを待っていた。
イッコの結末は可哀想だけど自業自得な気もした。生きる為に男達へやってきたことへの報い。
キリエの歌は最後イッコに聴こえていたのかな…それが知りたかった。
田舎の自然や真っ白な雪景色の美しさ、純粋でキラキラ眩しかった高校生時代…反する都会の大人のドロドロした闇の世界が真逆過ぎて切ない気持ちになった。
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