「グレイシーの意志の固さということでは、映画というものの表現力を目の当たりに見せつけられる」メイ・ディセンバー ゆれる真実 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
グレイシーの意志の固さということでは、映画というものの表現力を目の当たりに見せつけられる
<映画のことば>
私は無邪気なの。
昔から、ずっと。
ある意味、優れた資質よ。
〈映画のことば〉
「映画のためだ。大勢の人が観てちゃんと理解すれば、君がもっと楽になるかも知れない。」
「私が?」
「僕たち2人が。」
幾重にも折り重なった、複雑な人間関係の深淵を前に、その内面の深淵に何とか切り込もうとするエリザベスの執念にも目を見張りますし、自分の信念のためには(法を犯しても―
それは日本で言えば児童に対する不健全異性行為・不純異性交遊といった感じか?)自我を貫こうとするグレイシーの意志の固さも、観終わって、心に残ります。
「ふたりの関係は犯罪だったのか。ロマンスだったのか。当事者の心で追うか、よそ者の目で追うか」というトレーラーのうたい文句は、本作の、そういう核心を、ものの見事に射抜いていたとも、思いますし、「ゆれる真実」という本作のサブタイトルも、正鵠を射ていたと言うべきでしょう。
もともと、本作のタイトルの「メイ・ディセンバー」は「(結婚・恋愛で)親子ほど年齢の開きがある」を意味するスラングのようですけれども。
13歳の少年との間の子を獄中で出産したというグレイシーを演じたジュリアン・ムーアの演技の半端のないミステリアスさ。
そしてグレイシーという人物の内面の深淵に迫るエリザベスを演じたナタリー・ポートマンの演技が、グレイシーを演じたジュリアン・ムーアの演技のミステリアスさをいっそう引き立て、倍加させる―。
「お互いを引き立てる関係性」ということで言えば、それは、あたかも、シャーロック・ホームズと、ジョン・H・ワトソン博士との関係性
を見ているようかのように、評論子には思われました。
否、二人の関係性というよりは、ジョーやエリザベスの人生をも、まるで渦(うず)のように自らの人生に巻き込もうとでもするかのようなグレイシーの意志の強さは、ホームスのワトスンの程度にとどまるものではなく、驚愕を超えて、はるかに戦慄すら覚えるほどです。
観終わって、その名優ふたりの演技の表現力は心にずんと胸に響き、その表現力から「これぞ映画」と快哉を叫びたくなるような一本だったと、評論子は思います。
グレイシーの真意に迫ろうと切り込むエリザベスにしても、所詮は「他者を演ずること」を生業としているに過ぎない俳優と言ってしまえば、それだけのこと。
取材を通じて、エリザベスは何をどれほど得ることができたのか。どこまでグレイシーの真意に迫れたのか。
秀作だったと言って、間違いのない一本だったとも、評論子は思います。
【不健全性的行為】
不健全性的行為とは、「18歳未満の少年に健全育成上支障がある」と主張される性的行為を指す語。場合によって不純異性交遊、不純異性交際、性的逸脱行為などとも通称されることがある。これらの語は性的自由の制限を肯定する立場から使用されることもある。[hweblio]
不健全性的行為については、性的行為の結果に対して十分に責任を取ることが難しいとも予見される年少者が、適切でない場面において性交などを行うことについて、少年保護の観点から補導を行うという趣旨であるとの見解もある。
一方、刑法上は性的同意年齢が16歳であり、16歳以上の個人的な営みである性行為を、一方的に不純・純粋などと定義するのはおかしいとする批判が昔から存在している。
1990年代以降、雑誌やインターネットな様々なメディアを通して、文章や写真、動画などによる性的情報へのアクセスが容易になり、性風俗店も広域化した。少年・少女の性行為経験率も上昇しているとして、不健全性的行為を性感染症予防の観点から考察する論もある。[前同]