関心領域のレビュー・感想・評価
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この四字熟語に人間的なものが凝縮されている・・
はじめは、真っ黒な画面で変な音もするし、何事かと思ったら、いきなり平和なピクニックの家族の風景が写って驚きました。あれはなに?とつい考える作風でした。
平凡なお金持ちにみえて、本当に違和感があって、少しずつ謎解きのように全てがわかるのにはカタルシスがありました。
平凡な主婦たちの会話や、使用人の動作や、白い少女の林檎うめなど謎に満ちた映画でしたが、だんだん 事情と時代が分かって来ると戦慄しました。
主人公の男が、何かを川で拾って慌てて出る場面がもう・・心にきました。あんたが殺したんだろうがと叫びたくなりました。恐らくユダヤ人の骨ですね。遺灰は川に撒かれたのですね。しかし奥さんが口紅を迷わずに塗ったことがもう何とも言えないぐらいえげつない。
これが人間かも知れないと思った。
ずっと奥さんや夫はお風呂で念入りに洗っていますね。なんか因果応報というか・・。
本当に普通でシュールで滑稽でどうしようもない世界でしたね、
それからえげつないぐらい灰が庭に撒かれる場面もね。 あれってユダヤ人の遺灰だよね。
どうしてそんなことができるのかな。不浄と嫌っているのに灰になると大丈夫なのかな。
なんかわからない世界だなと思いました。
でも現実と重なるし心にグサッとなる映画でした。最後に膨大な靴と鞄が展示されているのをみて嗚呼と言いたくなりました。
現代版 フルメタル・ジャケット~新しい反戦映画の形~
ミッドサマーでお馴染みA24制作
監督は「記憶の棘」のジョナサン・グレイザー
「記憶の棘」はかなり前に見た映画ですが今でも鮮明に覚えていてニコール・キッドマンのショートヘアも印象的でしたが何より非現実的な情景が淡々と進み徐々に観客を恐怖に引き込む手法は本作でも受け継がれていると思います。
物語は第二次大戦中のアウシュビッツ収容所と壁を一枚挟んだお隣に住む収容所の所長とその家族の話ですがそれだけでは映画は終わりません。
本作同様にサム・メンデス監督(イギリス出身ユダヤ系)の「ジャーヘッド」やユダヤ系監督のスピルバーグの「シンドラーのリスト」とは異なる視点の戦争映画でありユダヤ系監督が自ら現在のイスラエルのガザ侵攻に対する痛烈な批判と差別、侵略、戦争。そしてそれを無関心に過ごす私達に向けられた作品にも思えました。
この監督の勇気にアカデミー賞以上の賞が贈られる事を願います。
「常に音の圧に襲われる」
暴力を音だけで表現した本作はS・キューブリックの「2001年宇宙の旅」張りに何も映らない真っ暗な映像から始まり音の強い圧がかかりその暗闇と音の時間の長さに観客は緊張に包まれます。
この音の異変は予備知識が無くても気が付く程、主人公達の生活の風景にもずっと付いて回り、常に鳴り響く不快な音は主人公達が住むお隣のアウシュビッツからの音だった事が映像の中で徐々に明かされる。この映画は105分ですが暴力を音だけで伝える作品だけに常に鳴り響く音の圧に耐える、例えるならばクラブでかなり強めのベースミュージックを聴き続ける様な忍耐力が必要でした。
「音に負けない痛烈なセリフ」
主人公の妻が笑いながらに放つ
「私はアウシュビッツの女王」メイドには八つ当たりで「お前なんて夫がすぐに灰にするわ」は映画で無かったら国際的問題になりかねないパンチラインだ。主人公に新しい焼却炉の提案をする営業マンの会話では、図面を元にユダヤ人を連続して焼却炉で処分出来るシステムについて淡々と語られ、
(主人公も電話でそれを採用する意向を示す電話シーンもある。)
主人公も「パン屑(焼却されたユダヤ人)から真珠や宝石」や主人公が子供を寝かしつける時のおとぎ話でも「魔女(ユダヤ人)を生きたまま暖炉で焼き殺した」など妻に負けない印象的なフレーズを連発するがそれがどれも淡々としていて、無感情なのだ。
これは同じ戦争映画の「地獄の黙示録」の「朝のナパーム弾の香りは最高だ!!」
のセリフや「フルメタル・ジャケット」で主人公の仲間が死んだベトナム兵で遊ぶシーンと同様、不快ながら自然に描写され戦争の当たり前を冷淡に演出しています。
「定点カメラ」
冷酷な話をする主人公達が無表情で記憶に薄いのもそのはず、殆ど人物の後を追ったりズームしたりとカメラの動きが無いから臨場感が生まれない。
主人公の子供達がはしゃぐシーンでもすぐ真上にユダヤ人が輸送される機関車の煙がもくもくと上がっている。主人公が釣りをし子供が遊ぶ川にはユダヤ人の灰が流される。普通の会話シーンでも処刑の際の銃声や悲鳴が聞こえるがそれも気にする事なく会話は進んで行く。あえての定点カメラの動きの無い映像は残虐な処刑をしている現場のすぐそこの人達の無関心の恐ろしさを際立たせる見事な手法だ。主人公の妻が誇りに思う生活だが娘が不安で寝れない、妻の母親が不気味過ぎて逃げ出すなどさり気ない皮肉も写している。
これはイスラエルのガザ侵攻やロシアのウクライナ侵攻で人が虐殺されても無関心な私達にも向けられている視点だとも思う。
「サーモグラフィ」
映画の途中、アニメーションの様なサーモグラフィを使ったシーンがある。
ここで登場するのが収容所の人達に善意で食材を運んでいた少女で実在の人物を描いたようだ。本作でも彼女は林檎を収容所の人達の為に埋めるなど、献身的なシーンがあり家やピアノ、着ているワンピースまで本人の物と言うのは驚き。
暗闇での隠密行動を現代の技術のサーモグラフィで写したのも斬新で目を引く。
本来であれば彼女はこの映画で光に照らされる唯一のヒーローであるはずが暗闇に映るダークヒーローと言うのも記憶に残る手法だ。
そんな彼女が収容所のユダヤ人が書いた楽譜を拾い上げピアノを弾く印象的なシーンがある。
ピアノの音だけで歌が無いはずなのだが本作では和訳の歌詞が表示される。実在したその悲しみに満ちた歌詞は是非、劇場で見て頂きたい。
映画は現在のアウシュビッツ、処刑されたユダヤ人の私物や靴が大量に積まれた映像でクライマックスを迎える事なく終わる。レビューで多くを語ったが、主人公の下らない営みや音や映像が凄いなどの要素一つ一つはどうでも良い話。
日本でもロシアのウクライナ侵攻は多くニュースや番組でも取り上げられるがイスラエル(ユダヤ人)によるガザ侵攻によるニュースは前者に比べ余り多くない。
日本も関東大震災で復興の為に、ユダヤ人の富豪から恐ろしい額のお金を借りた歴史もあり、アメリカ含む海外もイスラエルとパレスチナと言ったら利益的に影響力や大富豪が多いイスラエルと宜しくやるのが情勢的に正解だ。そんな中でユダヤ系の監督自らこの様な映画を作った事が一番重要で現に日本の私達にも届いているので立派な功績だと思う。
映画のラストが弱い、(良い意味で今風で良いと思う)反戦ならばストレートに描けば良かったと言う意見もあるかも知れないが、上記で述べた事情の中ではこれが最善だったのではとも思う。何の知識も無ければ、ハーケンクロイツの氷の飾り、虐殺されるユダヤ人のシーンも出て来ないのでナチス賛美映画、ホロコースト(ユダヤ人迫害)だけを訴える映画にも見て取れる。
これでも実際は多くのユダヤ人やそれを支持する著名人からも批判を受けている記事も目にしたので(映画関係者だけで1,000人)ストレートに作ったら公開すら危うかった可能性がある。昔から身を守りながら手法を変えて民衆に差別や反戦を訴えるアーティストは居た訳だけど今回はユダヤ系の人が世界で公開される映画を使ってガザ侵攻を否定している。映画業界から消されたり命を狙わられる危険性まで本人のリスクも相当高いはず。上記を除いても重低音含む音の厚みによる表現やサーモグラフィなど音も映像も進化した現代だから出来る表現であり、レビュータイトルの「フルメタル・ジャケット」は反戦映画では無いのですが本作を見て初めてキューブリック作品を見たあの「新しく、とんでも無い物に出会った」感覚を思い出し使わせて頂きました。作品自体の技法や映画に対する熱意もキューブリック作品に勝るとも劣らない俊作であると思います。
自分では戦争を止める事が出来ませんが、この作品を通じて戦争の愚かさを一人でも多くの記憶に棘が刺されば良いと心から願います。
アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた
人の背ほどの壁一枚を隔てて収容所の隣に暮らす家族。
広い家に家族や使用人、豪勢な庭や温室まで揃う一見理想的な暮らしをしている。
そこに暮らす全員が無関心でいるようで、収容所から受ける潜在的な影響が少しずつ見えてくる。
子供たちはスタンフォード監獄実験を思わせる描写が描かれ、妻の母親は(恐らく)異様な雰囲気に耐えられず手紙を置いて去る。
幸せに見える妻も執着と二面性が垣間見え、夫は着々と心を閉ざす。
映像が途切れても音声が続いたり、響くような音が漏れ出して消えるような演出が印象的。
視覚的に遮られても確かに届くその音に、作中の人物や観客の関心はどれほど作用するのか。
現代の収容所は観光地となり、淡々と清掃を行う姿が映される。
時を隔ててもその領域は確かにそこにある。
様式美と靴の生々しさ
ホロコーストをアートに描くことの是非はあるが、その様式美との対比で、最後の靴の生々しさが際だった。
庭園、家庭菜園、壁紙一つとっても、ドイツの一般的な美しい家庭はこうあらねばならないという硬直した強迫観念が感じられる。
関心を持つことが危険で、なんの得にもならないと思えば、人間は簡単に無関心でいられる。口では人権がなんだのといいながら、町のホームレスのことは“自業自得”だと簡単に切り捨ててしまうし、移民を犯罪に結びつけて排除しようとする。
それはこの当時のドイツ人が、ユダヤ人は劣等民族であったから排除しても仕方がないと考えていたことと、なんらかわらない。
この当時の一般的なドイツ国民の多くは、大量虐殺が行われているのを知らなかったという。それを知ったときは驚いたものです。当時のナチがヨーロッパの地の下にユダヤ人そのものの歴史と存在を封じ込めようとしていたのだなと…。そんなことはできやしないのに。
ヘス一家の多くは、塀の中に無関心でいるようで、影響は受けている。息子たちには暴力的な一面があるし、赤ん坊は泣きやまない。意識にあがってくる死や殺戮というおぞましいものを、意識的に無関心の領域に押し込めている。その強いストレスの中にいてさえ、自分の夢見た家庭だけが全てで、夫の心にさえ寄り添わない妻が一番強烈な自意識を持っている。なぜなら夢を叶えてくれたのはユダヤ人の死体だから、彼らの死に同情などするわけがない。
私の視力ではよく見えない席に座ってしまい痛恨のミスだったが、真夜中に長女はなにを置いていたのだろう。一回目のリンゴはわかりました。二回目がよくわからず。とにかく一家の中では長女が正面から「事実」に向き合った人間だったことはわかった。事実、のちにレジスタンス活動に加わったという。
実際に収容所とナチ将校の家が同じ壁を共有していたことは流石にないだろうけど、あえて狭い画(え)の空間に押し込めることで、舞台のような演出に感じられた。
見て見ぬ振りは誰でもできる。国がそういったから、仕事だから、みんなそうだったから、と責任転嫁できる。ヘス一家は特別残虐なのではない。
最後のルドルフは画面の中からお前もだぞ、とこちら側に問いかけている。
現代と何ら変わりない
世界で戦争、殺戮、差別が続いていることを横目で見ながら、いわゆる「豊かさ」を享受していると錯覚しているのは誰なのか。収容所の壁は、現代でいうメディアである。壁から音声が聞こえてくるが、自分事とは現代人は誰も感じてない。そして勘違いしてはいけない。収容所の壁の内側に生じていることが間違いだとは映画は語ってない。収容所の外側にいる現代人が、狂っていると喝破している。今日も食事が美味しいし、映画が楽しいが、きっと誰かの犠牲の上に成り立っているのでないか?最後の「嘔吐」は哲学者サルトルの、あの嘔吐だろうか?嘔吐できないのなら、なおさら問題である。
まったくの無関心
ただひたすらに日常
地獄と日常を隔てているのはこんなに薄い壁なのかと思わせられる映画
作中にでてくる家族は壁の向こうにまったくの無関心
音と映画のバランスが最高に不気味でとてももどかしくなりました
突然のラストシーンには考えさせられるものがありました
どんな気持ちになったか色んな人に聞きたくなる作品
上映開始前から気になっていた関心領域。
アカデミー賞の音響賞を受賞していることから、これは映画館で観たほうがいいよなと思いつつも、アウシュビッツ収容所の塀の外に住む所長家族の話ということは知っていたので、内容が内容なだけに鑑賞するタイミングをずっと見計らっていた。
やっとちょうどいい時間ができたので鑑賞してきた。
言葉に迷うが、映画館で鑑賞してよかった。映画館で鑑賞したからこそ、気づいたこと、思うことがあったからだ。
ネタバレ…?は一応ご注意を。
最後に個人的な疑問を綴るが、あくまでも個人の考えです。
■日常に溶け込む虐殺と人権侵害
・生活と虐殺が同時進行している日常
2階建ての広々とした邸宅。プール付きの庭。毎日手入れする植物。自慢の温室。かわいいペットの犬。理想の環境。
子どもの見送り。庭の手入れ。家族の団らん。夜には夫婦で思い出を語る。
視覚的には、綺麗で美しい、家族の日常が描かれている。
そんな中で、少し遠くから、昼夜問わず、発砲音、怒号、叫び声が聞こえる。
家族のちいさな赤ちゃんが泣いている声と同じ、当たり前の生活音や環境音でしかなく、誰が気に留めるでもない。
この映画は塀の外の話なので、塀の中の人たちが殺されたり、殴られたりする描写はない。
塀の外では、遠くから聞こえる銃声と叫び声が聞こえ、焼却炉の煙突から絶え間なく出る黒い煙が家の中から見え、夜はカーテンを閉めても外が炎で明るい、ということが日常。
それでも、見えていなくても、確実に塀の中では人が殴られ、殺され、焼却炉で焼かれている、ということも日常なのだ。
この生活音や環境音、映画館だったからしっかり聞こえたが、家で観たら気づけるかわからないかもしれない。それくらい、日常に溶け込んでいる。
家に泊りがけで泊まりに来たドイツ人のおばあちゃんは、立派な家や働き者の旦那と幸せに暮らしている娘の様子を見て安心していたようだったけど、この異常な環境に逃げ出した。無関心ではいられなかったのだろう。
・冒頭、音が止む時
音だけでいうと、冒頭から印象的だった。
映画の冒頭、こもった「ぼーーーーーーーー」という音と、金属に反響したような、何かの音が聞こえる。叫び声か、もがいている音かしっかり聞き取ることはできなかったけれど、間違いなく生き物の音。たぶん、人間。
少しすると、その何かの音が途切れる。また何かの音が少しする。音が、しなくなる。
ああ、命が奪われたんだな、とわかる場面。
冒頭から、かなりきつかった。
・世間話で当然のように話す人権侵害と略奪行為
私は、かなり歴史に疎く、知識がある方ではない。
それでも、ナチスドイツがユダヤ人をアウシュビッツ収容所で大量虐殺をしたことは当然知っていた。映画のテーマも、観る前から知っている。
それでも、ショックだったシーンがある。
所長の妻の母(おばあちゃんと呼ぶ)を家に招いた時、庭を歩きながらしていた世間話。
おばあちゃんは言う。(原文ママではなく、ニュアンス)
「この塀の中に知り合いがいるの。知り合いが塀の中に連れていかれるとき、私はあの人の家のカーテンが欲しかったのに、向かいの家に持っていかれてしまった。あのカーテン、気に入っていたのに。」
明らかにユダヤ人を人間だと思っていない描写だと衝撃的だった。
まず、知り合いが塀の中に行けばどうなるか知っているのにも関わらず、心配するでもない。ユダヤ人だから、収容所に連れていかれるのは当然なのだ。
百歩譲って、心配する言葉は出てこないとして、「この塀の中に知り合いがいるの。」の次に続く言葉が、「カーテンが欲しかったのに。」だ。異常としか言いようがない。
極めつけは、「気に入っていたのに。」
普通、気に入るというのは、自分のモノに対して湧く感情ではないだろうか。他人のモノに対して、気に入っていた、という感情が湧く…人を人だと思っていないから出てくる感情だと思う。
人権侵害と略奪が日常に落とし込まれ、よりリアルに身近に感じられて、ショックを受けた。
このシーンの他にも、衣類や日用品など、ユダヤ人から奪い取ったものを平然と使っている描写、命を奪ったあとの灰を肥料として撒く描写がある。
その他にも、大虐殺をしている施設の所長が子煩悩で動物好きだったり。良心から置かれたりんごの奪い合いでユダヤ人同士でも争いが起き、ナチスに殺されるという限界の状態だったり。
描写に対して感情を何度も書いたり消したりしながら考えたが、どう文字に書き起こせばいいかわからなかった。
話の流れとしては穏やかで、目に見えた大きな展開はない。
穏やかな日常から垣間見える戦争、虐殺、人権侵害に、ずっと胃が重たく、呼吸が浅くなる映画だった。
■関心と無関心
・日常生活への浸食
映画を観終わったあと、気持ちも足取りも重いまま帰ろうとしたところ、アンティークアクセサリーやヴィンテージ小物を売ってるお店があったので、ちょっと気分転換で寄っていこう、と思い眺めていたら、ユダヤ人から奪ったの中にはにこういうアクセサリーとか、綺麗なものたくさんあっただろうなと、全く関連性のない無駄な想像力が働いてしまい、一気に見れなくなってしまって、すぐにその場から離れた。
なんでこんなときだけ想像力が豊かなんだ…!普段浅はかなのに!
離れたあとも、車の音、人の話し声などの環境音に意識がいってしまって、暑い日なのに鳥肌が止まらなくて背筋がぞわぞわした。
ちょっと気持ち的にしんどかったので、音楽を聴きながら帰り、仕事をして意識をできるだけ逸らそうとした。
コロナになっても食欲旺盛でちょっと太ったくらいだが、鑑賞後は食欲が湧かなかった。
・どんな気持ちですか?
これから書き連ねることは、私個人の趣向で、皮肉ではなく単純な疑問で、マナーとか、ルールでもない。気分を害す人がいたらごめんなさい。
この映画を観る前にポップコーンを買って、鑑賞しながら食べていた前の席の人。白ワインを買ってきて、楽しそうに入ってきた男女。
映画中にスマホの通知音らしきバイブ音を何度も鳴らし、エンドロールになったら、即、スマホを開いた子連れの夫婦。(これはやめてほしい)
私としては食や酒が進む内容でも、鑑賞後にスマホが気になる内容でもないので、ちょっと驚きだった。
飲食に関しては映画館側からしたら私より単価が高いわけだから、絶対に彼らは悪くない。もしかしたら、買っちゃって後悔してるパターンだってあるかもしれない。
じゃあ、飲食をしなければ満足か?と言われればそういうわけでもないし、もっと言うならバックボーンにある歴史を前提として知っているべきだし、ちゃんと知識がある人からしたら、お前、この映画観て何理解した気になっちゃってんの?その解像度で食欲ないの?と言われても仕方ない。ど正論だと思う。
ただ、自分はしない思考、行為なので、何を思い、その行動を選んだのか、どんな気持ちなのか、知りたいと思ってしまった。
最後に、関心領域のHPにこんな文言があったので、引用を借りて締めたい。
スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わすなにげない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。その時に観客が感じるのは恐怖か、不安か、それとも無関心か? 壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と何かを書き留めておくことはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らの違いは?
意外にドラマ性のある、現在に反転して反復する、無関心領域の重要映画
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
映画を観始めた時は、アウシュビッツ強制収容所のルドルフ・ヘス所長(ルクリスティアン・フリーデルさん)家族の物語であり、題材的にこの家族に感情移入させない演出をしているように感じられ、ドラマ性を極端に省いた映画に最後までなるのではと思われました。
しかし意外にも、(背景に流れる収容所の銃声などの音以外に)所長とその子供が川遊びしている時に収容所で虐殺されたユダヤ人々の遺骨が流れて来たり、白黒の夜の場面でポーランド人の少女が夜の間にユダヤ人たちの昼間の労働場所にリンゴを配って歩いたり、所長家族の母親が収容所で何が行われているか察して屋敷を知らない間に離れたり、所長の妻ヘートヴィヒ・ヘス(サンドラ・ヒュラーさん)が収容所での虐殺を無視し続け田舎暮らしを必要以上に肯定したりなど、ギョッとする描写含めて、単調にならないドラマ性の描写が少なくない映画になっていると思われました。
またこの映画は、実際のアウシュビッツ強制収容所に隣接する家で撮影がされていて、その画面に迫る空気感もこの映画を決定的に恐ろしい映画にしていると思われました。
映画の題材自体は、余りに酷いナチス・ヒトラーによるユダヤ人虐殺であり、誰もが知るアウシュビッツ強制収容所に関する話ですが、虐殺の場面を直接は一切見せず、逆に淡々とした基調でその悲惨さを表現し切っている重要な作品だと思われました。
ただこの表現方法は正解でこの表現方法では最高点をたたき出していると思われながら、一方で映画としての傑作になるにはかなり難しい表現方法だとも思われ、今回の点数となりました。
ナチス・ヒトラーによってなされたユダヤ人の虐殺は、映画で描かれたとおりに当時の一般の多くの人々には無関心の領域だったと思われます。
そして、今作のユダヤ系のイギリス人であるジョナサン・グレイザー監督は、アメリカ・アカデミー賞の国際長編映画賞の受賞スピーチで、現在のイスラエルのガザの攻撃によるパレスチナ人々の犠牲を、ハマスによるテロの犠牲と共に触れています。
この映画『関心領域』は、当時のユダヤ人々の立場とは現在に反転する形で、ガザ地区やヨルダン川西岸地区にイスラエルのユダヤ人々に押し込められたパレスチナ人々への世界の「無関心領域」として、反復して照射されています。
この映画は、当時と現在の悲劇を、ねじれながら私達に見つめさせる、現在にとって重要な重い作品であるのは間違いないと思われています。
エンタメとしてホロコーストを"消費"することは許されるのか。
スティーブン・スピルバーグ監督は「シンドラーのリスト」で得た利益を全て寄付したと知り、彼がホロコーストでの出来事を映画産業におけるいち商品にしたくない揺るがぬ証拠だと思った。ホロコーストに限らず、映画によってショックを受けたり、忘れててはいけないよね、後世に伝え続けないといけないよね、他人事にしてはいけないよね、と我々は幾度も言ってきたであろう。その気持ち、いつまで続けられる?3歩歩けば明日の夕飯どうしよう、あの子にメールしようかななんて切り替えちゃってるかも。関心領域はそうはいかなかった。まさに核心をついていると思った。ここ最近、立て続けにナチス関係の映画を観ていたからちょうど興味があって、公開日に心待ちにしてた映画。ホロコーストを語るに欠かせない名作を観ずに観ていたら、いまいち味わえなかったと思う。収容所の設計図?について会議するシーン。「荷」というワードが出てきたから分かった。映画でよく出てきたので。
追記
第二次世界大戦のさなか、人はあんなにも異常が普通になってしまうものか?ユダヤ人に対する虐殺があんなにも、まるで「当たり前の儀式」みたいになっちゃう、させてしまう戦争の恐ろしさ。戦争の恐ろしさというよりかは指導者という存在の恐ろしさかな。確実にエスカレートしていたはずのヒトラーの主張に流れていくかのように賛同する民衆。徐々に、ゆっくりとそして着実に変化していく時代の流れ、その中に存在する「違和感」に我々は敏感でいないといけないと思う。戦争とまでは行かなくとも、少なからず形を変えて、必ず歴史は繰り返すと思う。
ココから作中のあるシーンについて言及。(ネタバレも何も無いけど予告以外の情報走りたくない方は以下、読まないでください)
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冒頭はながーい真っ暗な画面がしばらく続くシーンで始まる本作品だがそれに添えられたBGMが何とも不気味で斬新。。。A24らしさなのか…?とも思ったり。だが、そうでもしないと観客は惹き付けられないという監督の虚しい仮説からなのでしょうか。はたまた、ヒトラーの用いていた「沈黙」のメタファー的な要素を持っているのでしょうか。アカデミー賞音響部門を受賞しているのも疑問の余地はありませんね。
知ってて、これか!
最初は何も知らなくてただ無関心に暮らす一家の話なのかなぁと思ってました。
音は最初から煽り過ぎ。
始まってから画像が出るまでがかなり長いのでちょっとイラッとしちゃいました。
予告編の映像はやけに明るい感じだったので、違和感を感じましたね。わざと?
最初の湖での湖水浴場面。この水はヤバい水だと思っていたら、やっぱり。カヌーで川に水遊びに出かけた時に父親が川底で何かを拾って、慌てて子供たちと帰宅し、身体を必死に洗う場面。私にはあれはいわゆる喉仏(環椎:第1頸椎)に見えました。
歳の割に動態視力いい方だと思います。
むかしそういうクイズ番組ありましたけど、けっこう得意分野でした。
マジカル頭脳パワーです。
子どもたちが金歯で遊んでいるカットは目を疑いました。これはいかん。
最初、サンドラ·フラーはこの家の主婦ではなく、お手伝いさん役で、奥様の留守中にミンクの毛皮を試着してポーズとったり、口紅塗ってみただけだと思っておりました。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い····じゃないんですね~気持ちわるくないの?
旦那が転勤するのについて行かない妻。家が一番大事。庭の設計や植栽も自分でやったって言ってましたよね。女って家に付く猫みたいなもんだなぁと思いました。子育てにはいい環境だって主張するけど、こういうのを嘘も方便っていうのでしょうね。実際、そういう奥さん多いもん。でも、実家の母親(おばあちゃん)はわかっていたのにねぇ。親子でも違うもんですなぁ。
人間焼却炉の改良にどんどん熱心になってゆくのは、関心領域をサイエンスにずらすことで、殺人の罪悪感をちょっとだけ脇にそらすことができるからではないでしょうか。
オッペンハイマーもそうだったんでしょう。
英題は Zone of Interest でした。
関心領域だと Region とか Field かなと思いました。Zone だとついつい Sexy Zone の方、いやいや違います。「ゾーンに入った」みたいな意味がありますので、単に塀を隔てた区画の違いではないんでしょうね。そういう意味ではあの奥さんは完全にゾーンに入っていました。
赤外線暗視カメラの映像のような夜に外に出て行く娘のシーンが気持ち悪かった。
とても変わった映画で、カンヌ国際映画祭のグランプリ。 怪優サンドラ·フラーじゃないと勤まらない役だったとは思いますが、面白いかっていうと、悪趣味な映画でかなり眠くなりましたので、星はこのくらいです。
アウシュビッツ収容所のことはあまり知りませんが、映画で学んだことがほとんどです。
所長クラスだといろいろありますよねぇ。ああ、嫌だ嫌だ。
ヘス夫人の姿が映し出すもの
アウシュビッツに隣接するヘス所長宅は、鳥のさえずりが聞こえ、豊かな自然に恵まれ、個人の平和な生活を享受している家族がいる。そんな姿がドキュメンタリーのように描かれている。しかし、ヘスの妻へ―トヴィッヒが鏡の前で試着する毛皮のコートは、隣の収容所で虐殺されたユダヤ人の着ていたものであり、そのポケットに入っていた口紅は、そのコートの持ち主のものである。「無邪気にも」その毛皮を試着し、口紅を唇に塗る彼女の姿は、
今、パレスチナのガザで起きていること、すなわちイスラエル軍によるガザ攻撃で虐殺されたパレスチナ人の遺品を我がものにして笑い合うイスラエル兵と重なる。ガザで、人間が、子供が、女性が、毎日毎日、大量に虐殺され、飢餓死を強いられている。そのことを自分とは関係のない遠い所で起こっていることとして無関心に放置することは、まさにヘス夫人の姿ではないか。この映画を観てから、私自身が何の悪気もなくやっている日常の行動、勤めに行くための洋服を選んだり、お化粧をしたりといった行動1つ1つが、ヘス夫人のそれと重なり、グロテスクに思えてならなくなった。そして問いを突き付けられる。今、ガザで起きているイスラエルのパレスチナ人の虐殺に対し、言葉や行動を持って抗議の意思を表さない限り、ヘス夫人のやっていることと同じではないかと。グレイザー監督が、「関心領域」アカデミー賞授賞式のスピーチで、ガザでイスラエルの攻撃に苦しむパレスチナ人への注意喚起を述べたことを忘れてはならないと思う。
音響で恐怖と異常性を描き出す見事な作品
冒頭の真っ暗な状態で鳴り響く不穏な音。
まさに音の重要性を強調しているようなオープニングでした。
そこから場面が変わって、実に牧歌的な家族の姿が描かれるのですが、
徐々に違和感や異常性を観客は気づくことになります。
まずもってアウシュヴィッツに収容されているユダヤ人の持ち物と思しき物品を物色したり、
(ザンドラ・ヒュラー演じるヘートヴィヒは試着などもやっている)
高い壁の向こうにそびえる収容所から聞こえる銃声や悲鳴、そしてモクモクと煙が立ち上る煙突。
間違いなく壁の向こうでは残酷に人が殺されているわけで、
そこに一切の関心を持たないヘス一家。この一家は幸福を標榜しているんですね。
ただ、ヘートヴィヒのお母さんが泊まりにきて、逃げるように帰ったりする描写で
やっぱり普通の感覚だと、絶対いたくない場所だということがわかりますし、そりゃそうだろうと思います。
夫ルドルフの転勤が決まったと知ったときの妻、ヘートヴィヒの反応がもう恐怖でしかなかったです。
ずっとこの地(この家)にとどまりたいと強い意思を持つヘートヴィヒには、もう異常性しか感じられなかったです。
彼女が17歳の頃から夢見た生活が、このアウシュヴィッツの隣の立地での贅沢な生活だったのですね。
普通はとてもまともに暮らせる環境ではないのに・・・。
ラスト近くで、ルドルフが現代のアウシュヴィッツ博物館やガス室の清掃場面を見て、嘔吐する場面があるのですが、
やはり彼も異常を来していたのでしょうね。人間らしさを垣間見た気がしました。
ただ、ヘートヴィヒはモンスターだと思いますし、彼女を演じたザンドラ・ヒュラーの演技はすごすぎますね。
すごい迫力でした。
それにしても夜間にりんごを埋めて歩く少女を暗視カメラで映したシーンは、謎めいていて面白かったです。
善行をしている人が唯一描かれたシーンでした。
ぜひもう1度観たい!久しぶりにリピートしたい映画との出会いでした。
難しい芸術作品のよう
面白い面白くないで言ったら面白くはない
ずっと広角でそのくせ情報量の少ない平坦な画面、それに対比するような様々な声や銃声。
このようなギャップのある作品に初めて出会ったのでストレスに感じたのかも。
そういう意味では映画史に残る作品
啓発映画とは言い切れないと思う。
観察視点との意見も多いが、個人的には観察しているような気にはなれなかった。資料映像のような印象。
撮影技術や画面構成はかっこよかった
何年後かにもう一度見て印象が変わるかが楽しみ
鑑賞者のもつ知識や感性によって感想が変わるのは納得
日常の中の地獄を描く
『関心領域』は、アウシュヴィッツ強制収容所の所長ルドルフ・ヘスとその妻ヘートヴィヒをモデルにした物語で、これまでのナチス関連映画の中でもっとも衝撃的な作品の一つと言えるでしょう。
映画は、至って平凡な家庭生活の映像に、真っ赤な画面で血を想像させるシーンや、煙や灰をフィルムっぽいシャープな白黒映像で挿入し、観客に考えさせます。音の表現力も高く、不気味な空間を想像させる効果を生んでいます。映像に直接描かれないことで、観客の想像力を駆り立てる恐怖感は圧倒的です。
父親として、夫としてヘスの姿はどこにでもいる一般人と変わりありませんが、所長として短時間で数百のユダヤ人を虐殺するインフラを作り上げるその発想は戦慄させます。妻のヘートヴィヒは、ユダヤ人収容者から奪ったものの中から自分に最も価値のある毛皮コートを残します。彼女の赤ちゃんや夫に対する愛情は、表向きの形さえ整えれば良いという考えで、きれいな庭園を手入れし、好きな農業ができれば自分は幸せだという価値観は理解し難いものです。ヘートヴィヒのお母さんすらこの収容所の壁を隔てた平和な家庭環境から逃げ出しましたが、ヘートヴィヒの育った環境以上に、彼女の心の病は深刻です。彼らの子供がどのような人間になるのか、考えさせられました。
エンディングでは、ヘスの健康状態を医師に正常だと言われても、心理状態はかなり病んでいることが描かれ、その描写力は見事です。良い暮らしをしているヘス家は、誰もが心に食いしばっているとほのめかします。
この映画は、観客にそれぞれの関心領域がどのように多様であるかを示しつつ、見て見ぬふりをする心理がどれほど恐ろしいものか、平和ボケで良いのかを問いかけます。
怖くない怖さ
隣と全く関係ない平和生活だけを描いてるかと思いきや、しっかりとアウシュビッツの環境で生きること、を描いていた。ああこんな生活だったんだ、こんな価値観だったんだ、やっぱり蝕まれていったんだ、と飽きることなく世界に入りこめた。
昔ドイツに縁がありドイツ語をかじっていたこともあり、あ、その単語懐かしい、みたいな見方もできたからかも。
Unglaublich schoen!! (信じられないくらい素敵!)
落下の解剖学でもある意味無表情のまま感情演技をするサンドラヒュラーに強い印象残ったけど、今回もまた。
大家族やゲスト、使用人、大勢出てくるけど本当に隣を気にしていない、のは彼女演じる奥様ヘドウィグだけな気がする。もちろん彼女だって夢の生活を維持するためにそのフリ、をしているのかもしれないけど、周りは平気に見えても少しずつ変調をきたしている気がする。
ルドルフヘス一家は実在らしい。元となった小説では仮名だったのをあえて戻したらしい。最後は処刑されたとか。
遠くに音が聞こえる冒頭の真っ黒な画面、
ひどい反響音が鳴り響き心拍が早くなる赤い画面、
覗き穴のような一筋の光、
ルドルフが吐きながら降りていく階段の先の暗闇、
悲鳴にも聞こえるエンドロール、
段々エスカレートするシーンに不安感を煽り、精神が安定しない様子に同調しかかった。すごい演出だと思った。
見てみぬフリをしてしまったこと、それが怖くなり自分が自分でなくなりそうな感覚に陥ること、少しでもそんな経験をした人には自分ごと、に感じられる世界なのかも、と思った。
これが怖くないことこそが逆に怖いことなのかもしれない。
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<備忘: アウシュビッツでの生活>
殺された囚人の服や貴金属が回ってきて使用人にも配る、毛皮のコートや口紅は自分でゲット、子どもは誰かの金歯で遊ぶ。ナチが推進する「東方」での幸せ?を体現
川が黒く染まって、骨と遺灰?が流れてくると父ルドルフは慌てて娘たちを川から出させ、念入りに洗う
その遺灰はおそらく庭の肥料にも使われて、美しい庭園の花や野菜の養分となっている
毎夜繰り返される悲鳴と銃声と焼却炉の煙に、遊びに来た祖母は耐えられず帰る。娘も少しおかしくなって夜徘徊する
ポーランド人の使用人を見て、ユダヤ人を家の中に入れてるの?と聞く祖母。ユダヤ人は塀の向こう、これは現地民よ、と返す母。
イライラすると使用人に当たり散らし、贅沢させてやってるのに、灰にして撒くぞ、と脅す
でも娘は親に隠れてこっそり現地の男の子と恋仲に?
(と解釈したがよくわからない。ドイツ人同士だったかな)
ネガ画面で描かれる、夜中に囚人のためにりんごをこっそり隠しに行く少女。発見した楽譜とそれを弾いていたピアノ含め実話、実際の家らしい。
一度に400-500「の荷物」を処理でき、2台で循環することで「処理」の生産性を上げられる、と焼却炉?の売り込みにくる人たち。その権利を担保しようと特許申請を勧めるルドルフ。
一つの部屋に集まる人々を見て、ガスで一斉に殺せるかと考えてしまうルドルフ。
1日一万人以上の、ハンガリーの大型収容作戦に自分の名前がついた、戻れることになったと夜中に妻に電話するルドルフ。寝たい妻に話したい彼、どんな心持ちだったのか。
こわいこわい。
人間とは … かくも恐ろしきものなり
冒頭から流れる微妙に音程をずらした楽曲に限界を感じ始めた頃、実写映像となった。
アウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ヘスをクリスティアン・フリーデルが、妻ヘートヴィヒをザンドラ・ヒュラーが好演。
邸宅の隣で起きている事に家族が皆気付かないふりをし、平静を装い生活を続ける。
ヘスと同じ立場に置かれた時、自身はどう行動するのだろう。逃げ出す事は出来るかも知れないが、果たして反逆者となる事が出来るだろうか。
ヘスが絞首刑となる1947年4月16日の2ヶ月程前に、ヘス自身が拘置所で執筆した手記が、「 アウシュビッツ収容所 」という本になっている事を知り、早速図書館に予約しました。
彼が、私達に何を遺し何を伝えたかったのか、少しでも知りたい、そう思っています。
映画館での鑑賞
エンドロールで え!って声が出てしまった
玄人に言わせると凄いなのだろが
奥さんに何も言えない夫が単身赴任するってだけの映画じゃないか!
エンドロール始まった時に え!って声が出てしまった
もちろん映像美や横の収容所 隣に住む裕福な幹部の家族 アンバランスな一時なのだけど何も無さすぎる
A24映画はほとんど見ているがここまで何も起きなかった映画はない
嫌な映画だけど気になってしょうがない
映画全体の最初の印象としては、現代美術館で流しっぱなしにしているインスタレーションの映像をボーッと見ているような気分になって不謹慎にも気持ちよくなってちょっとウトウト。ほぼ全編を通して鳴っている「ゴーッ」という感じの音もいわゆるホワイトノイズ(空調の音とか、ジェット機のエンジン音)のようで心地よい(すみません)。
ただその音の中に不快な悲鳴や銃声らしき音が混じっていてそのたびに画面の状況に引き戻される。
よくよく見ると画面の中の様子も一見普通で平和に見えるが、まちがい探しの絵のように異質な部分が気になってくる。あれ、そう言えばなんであのメイド長靴洗ってんだ?とか、なんであのお母さん急に窓閉めたんだろう?とかいろいろ気になってくる。
そもそも関心領域というタイトルが絶妙で、個人的には視聴動機の半分はこれのせいだと言っていいくらい。
もちろん言葉自体はナチスドイツがつけた古いものだがたぶん「要監視区域」みたいなニュアンスであって、関心・無関心の関心とわざと曲解してみせたマーティン・エイミスはすごいなと思いました。
まさにヘス家の「関心領域」はヘス夫人ヘートヴィヒを中心に同心円状に広がっているが、基本的に無理やり自己暗示にかけてなんとかしようとしているので、子どもたちにはストレスが身体の不調として出てきているし、ヘス本人もアウシュビッツに帰れることになって喜んでいるにも関わらず、体が拒絶反応を起こしている。それから、ユダヤ人の灰や体に触れるとゴシゴシ洗うくせに、衣類や貴金属には平気で触れるのはなんか不浄観がバグってる感じで気持ち悪かった。
一見クールに見えるこの映画もジョナサン•グレイザー監督の熱い思いに裏打ちされていると思うと映画の見え方も自ずと変わってくる。
ラストシーンで未来を幻視したヘス。こっちを見て何も言わないけど「オレにとってはこれがベストの選択なんだ、なんか文句あるのか?おまえはどうなんだ?」と目で言っている。あっえーっと焦ってる間に、「おまえの答えなんか興味ねえ」と言わんばかりにさっさと階段を降りるヘス。
正直もう一度見るのは気が重い。でも見ていろいろ確認しないわけにもいかないそんな気分にさせる映画。
地味な画面が想像を掻き立てる「塀」の話
おそらくこの映画はアウシュビッツに強い関心がなければ理解が難しい。説明もなく、ドラマもなく、淡々と日常が写されているからだ。私も一見しただけでは消化できないエピソードも多く、自分の知識不足を感じた。
しかし、注意を払って見た部分は印象に強く残る。収容所の煙突から常に煙が出ていて、平和で裕福な家族の外では常に死体が燃やされ続けている。主人公であるルドルフ・ヘスのミーティングのシーンでは回転式焼却炉の話をしている。もう殺すことは日常であり、その処理をどうするかが目下の関心事。時折り、塀の外から脱走者の処刑の銃声や叫び声が聞こえてくる異常な環境でも、ヘスの妻は収容所という地獄から塀を挟んだ自宅を楽園であり、永遠に続くものと思ってる。転勤の可能性を告げられると感情を露わにして拒否する。妻の母が訪れるが、彼女はおそらく異常さを感知して突然帰省してしまう。別に妻の母も良識派な人間ではなく、ユダヤ人が使っていたカーテンを隣の人に奪われたと愚痴る程度には、当時の差別や収奪を当然のことと思っている。家の使用人もユダヤ人から収奪した衣類を配られると、一目散にお気に入りを選ぼうとする。一見すると何気ないシーンだが、アウシュビッツの存在が当然のことと捉えられている。一度、無関心を決めると人間は徹底して無関心を貫き、それが普通の人間なのだと印象づけられる。
時間が経過するにつれて、ドイツの状況は悪くなっているはずだが、画面からはまったくその状況は見えない。ヘスの家族はヒトラーによって幸福を得たのだから、ヒトラーに従えばずっと幸福であると信じているのだろうか。それともヒトラーが誤る可能性を考えなかったのだろうか。思考の外に関心を払うことはない。
後半、ヘスが嗚咽を繰り返し、現代の博物館化したアウシュビッツが映る。そこでのアウシュビッツも館員が掃除をしているシーンであり、これもまた、ありふれた日常である。これには感情を揺さぶられた。アウシュビッツの清掃員もまた悲惨な遺産や遺品を日常的なものをして扱わざるを得ない。仕事という性質にはそういう部分がある。関心領域が違う。本来ならとても強い関心があるだろうから、アウシュビッツに関わっているだろうに、どうしても仕事となると関心領域の外に置いてしまったように見える。
ルドルフ・ヘスの嗚咽が彼の良心なのか違和感なのか、精神的な不協和音からのものだとすると、彼はそれを隠すように自分の仕事と割り切って関心領域の外に置いて平静を保ってきた。その点ではアウシュビッツの清掃員もそうだし、この映画も見た私も普段はあらゆることを関心領域の外に置いている。そうじゃないと精神が保てないから。
映画は日常を徹底的に描くことで、異常を浮かび上がらせるものだった。当時のドイツ人は今こうしてみると異常であるが、私たちもまたアウシュビッツの塀をあらゆるところに作っているのではないかと感じた。
境界型の鉄槌
The Zone of Interest
展開が少ない映画だと聞いていたが(とんでもない)、作中では無数の「重要な」ことが起こっている。子供の成長、夜泣きの過酷さ、母は生活ぶりを見に来る、家族の大黒柱は栄転したが、家族は着いて来ずに体良く一人で追い払われている、そして出先において更なる昇進をして暗黒に沈む。
ヘートヴィヒが家を離れたくないのは
姉妹にお揃いの服を仕立てたように
一から時間をかけて設計し作り上げた庭、教育環境、そして周囲との関係性があるから、だけではない。壁の向こうの音は最早聞こえないものではない、むしろ常に耳の中に響き自分の優位性を再認識させてくれる。
無理やりボートに乗せられて泣き出す子供に人間の文化を感じる。しかし文化は、それぞれを大切にするどころか、まるで相手から奪い取るべきものと、宣言をしている。
人間味を残したサーモグラフィー、しかし自分の生活を捨てる気はない。
今となっては、ホロコーストを、「歴史」として扱うことを自然の摂理としている。
今も展示も壁と隔てて、内側を綺麗にしているだろう。
興味は展示としての関心領域に移っているだろう。
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