アステロイド・シティのレビュー・感想・評価
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1950年代のアメリカと演劇界の知識がないと解像度がだだ下がるハイコンテクスト作品
1955年のアメリカ、かつて隕石が落ちた田舎町「アステロイド・シティ」。隕石が落ちた日を祝う式典に、ジュニア宇宙科学賞の子供とその家族が招待される。そこに宇宙人が現れて……
そんな「新作劇」を紹介するテレビ番組、という入れ子構造の映画だ。物語は幕ごとに区切られ、アステロイド・シティのポップな色合いの場面の合間に、4:3のモノクロでテレビの司会者による解説が挟まれたり、舞台裏が描かれたりする。この司会者がカラーの劇中場面に一瞬登場したりと、メタ的表現も駆使される。
ウェス・アンダーソンの作風なのだろうが、登場人物が感情の起伏をあまり表情に出さない。それに加えて超ハイコンテクストな設定。この設定の背景にぴんとこなかった私のような観客は、感情移入を拒まれている気分になり、人物の挙動を淡々と追うだけになる。
低難易度で楽しめる部分としては、劇中劇部分のポップでかわいい色合い、いつもの豪華なキャスト、実はジェフ・ゴールドブラムだったらしい(舞台裏の場面でジェフは出ていたっけ? 見落としたかもしれない。宇宙人の衣装を身に着けて演技したらしいが)宇宙人の愛嬌ある動き、何となくおしゃれでツウな映画を観たというふんわりした満足感などだろうか。
私の隣の人は、いびきをかいて寝ていた。
パンフレットを読んだところ、主な登場人物にはそれぞれ実在の劇作家や俳優などのモデルがいるようだ。ウィレム・デフォー演じる演技講師(実在のモデルあり)が俳優たちに演技を教える場面は、当時のアクターズ・スタジオでのメソッド演技の講義をイメージしているという。ミッジを演じたメルセデス(スカーレット・ヨハンソン)のモデルは主にマリリン・モンロー(これだけは何となく分かった)、オーギーを演じたジョーンズ(ジェイソン・シュワルツマン)のモデルはジェームズ・ディーン(全く分からなかった)。などなど。
プロダクションノートを読んでも、「そうですか……」という感じである。
例えが適切かどうか分からないが、私のこの解像度の低さは、外国人(日本マニアを除く)が「銀魂」を読んだ状態に近いのではないか、とふと思った。
日本人は江戸時代に関しての歴史的事実の知識があり、元々イメージを持っているからこそ、そこからあえてずらした描写について本来の姿や言葉の表現とのギャップの面白さが直感的に分かるし、アレンジされた名前の登場人物についてもそのモデルについて、説明なしにすぐ連想できる。海外の人たちは、その辺は当然ピンとこないだろう(その辺抜きでも海外で受けていることもまた事実だが)。
それがハイコンテクストということで、設定に対して解像度の低い環境の人間が作品の評価をすることの難しさを生む部分だ。
ジェフ・ゴールドブラムは自らの役について「エイリアンはメタファーだ」と言っているが、あの町山智浩氏(持ち上げる意味ではありません)でさえ「何のメタファーかわからない」と降参状態である(いや、もしかしたらエイリアンの意味するところはアメリカ人でも分からないのかもしれないが)。
ただ、淡々とシュールな展開のひとつのパーツとして描かれる身近な人間の死(本作ではオーギーの妻)、それを受け止めるオーギーたち家族の姿に妙なリアリティを感じる瞬間があった。残された家族の日常は続いていき、子供は無邪気に悲しみを乗り越える。
アンダーソン監督は20代の時に両親を相次いで亡くしているそうだ。それを踏まえると、オーギーの妻を演じるはずだった女優(マーゴット・ロビー)の登場が何だか物悲しいファンタジーのようにも見える。
「時が全てを癒すなんてことはない、せいぜいバンドエイドさ」監督の実感がこもったオーギーの言葉には、何故か不思議と観ているこちらの心を慰めるような響きがあった。
At the Cinema with Wes
One reason to love Wes is that even if the film isn't necessarily a masterpiece one can at least enjoy the charming ditty of a colorful storybook tale with the dry humor acted by Wes' A-list friends. A tongue-in-cheek exploration of America's atom bomb nucleus, Wes keeps a simple story entertaining by giving equal time to its abundance of characters, as well as to the story's fictional writer.
50年代アメリカの明るさと不安さ
1950年代、「古き良きアメリカ」がまだ残っていた頃の架空の物語だ。全てはこの監督らしくカリカチュアされ、舞台となる町「アステロイド・シティ」は殺風景ながらもなんだか楽しげな雰囲気がある。本作は劇中劇のスタイルを採用している。この街で展開されるのは筋書きのある演劇で、その舞台裏をテレビ番組で紹介している。一種のメタフィクションだが、このスタイルであることが重要だ。
アステロイド・シティは隕石が落ちてそのクレーターを観光名所としてできた街だという。宇宙への憧れと科学信仰の強かった同時代を背景するかのように、街では天才の子どもたちに化学賞を授与するセレモニーが開催されている。その授賞式の最中に宇宙人が来訪して、町は軍隊によって封鎖されてしまう。科学をたたえ、宇宙に憧れるが、漠然とした不安が漂う時代でもあったのだろう。明るい作風に不穏な空気が漂い始める。
そうした科学の明るいイメージと宇宙への憧れも恐怖も、そしてあるいは原爆開発競争を助長した冷戦に対する不安も、世間はテレビというイメージ発信装置を通じて得てきた。カリカチュアされた演劇空間をテレビで見せるという複雑な物語構造は、50年代の「古き良きアメリカ」も科学への未来イメージも宇宙も、何もかもテレビというメディア空間がもたらした幻想だったのではないかと言っているようだ。楽しい映画だが、鋭い見解を内包した作品で、近年のウェス・アンダーソン作品の中でも特に好きだ。
理解しようとかいうおこがましい気持ちは捨てようと思う
正直、最初に観たときは何が何やらさっぱりわかっていなかった。スカヨハの役のモデルがマリリン・モンローであるとか、リー・ストラスバーグやエリア・カザンといった演劇界映画界の大物と思しきキャラが登場していることとか、そういう裏設定をあとから知って、ようやく多層的な構造が見えてきた。とはいえ「マラーの死」の再現シーンに気づいたところで作品の理解が深まるわけではなく、考えれば考えるほど答えが遠ざかるようで軽く遠い目になる。でもその一方で、コロナ禍における隔離生活や核兵器に象徴されるきな臭い世界情勢など、われわれを取り巻く負の現実への目配せは確かに伝わってくるので、ただ「しらんがな」とも言い切れない。近年のウェス・アンダーソン作品は監督のこだわりが細かすぎ、観客を振り落としにかかっているのではと疑いそうになるが、おそらく本人はやりたいことを突き詰めているだけなんじゃないか。こちらも理解しようだなんておこがましいことは思わず、ただ目の前のものを受け止めればいいと思えるいいキッカケになった。そもそも100%の理解なんて幻影の過ぎないのだから。
またひとつ風変わりで愛おしい作品が生まれた
そこは淡いパステルカラーで彩られたアメリカ南西部の町。何もない砂漠地帯に取り残されたかのようなこの地に、様々な目的に持った人々が集まってくる。冒頭で明かされることだが、本作は特殊な要素を持っている。それは一言でいうと「演劇」「舞台」という構造なのだけれど、思えばアンダーソン作品にはこういった表現手法が幾度となく顔を出す。加えて「天才マックス」では屁理屈な高校生役だったシュワルツマンが、あれからひと回りも二回りも歳を重ねたかのように3人の子供の父親役を演じ、さらに作中では各分野に秀でた天才少年少女が登場するなど、往年のアンダーソン作品のトレードマークが次々と登場。全体のテイストはとてもスローでいつもとだいぶ異なるものの、一方、中盤で起こる”ある出来事”は、胸の高揚とノスタルジーが最大値に振り切れて押し寄せてくるかのよう。こんな意表をついた掛け合わせを堪能できるのもアンダーソン作品ならではだ。
分からん
誰かしらをモデルとしてるであろう昔の劇制作
そしてその劇中劇
荒廃した昔ながらのアメリカの町(カーズの町みたいな
妻を亡くしたカメラマン、そしてその子供たち
車もスクラップされる
身近に核開発がなされている
宇宙人が訪れて町の人々は隔離される
なんらかの不穏な雰囲気、破滅の臭いを漂わせながらも、普段通りのウェスアンダーソン通りに淡々と話は進む
制作の現場の白黒のシーンでも、このテーマは何?芝居が分からない、なんて言ってる
宇宙人はメタファーだ、何の?、分からない、と
うーん、分からない、、、
眠らなければ目覚められない、なんてことをみんなで言い出す
うーん、分からない
良いところを探すなら、普段のウェスアンダーソン通りの演出と美術
宇宙人が再訪した時のカオスな感じ
くらい
インスタ映え映画NO1
全体的にパステルカラーでかわいい。原宿映画
オシャレ〜この町行きて〜って思ってたらいきなり原爆が映ってびっくりした
捨て猫拾うヤンキーのようなギャップがあった
宇宙人が出てくる映画で一番好きかも
他の作品は宇宙人がやってきたら「ぎゃーー!!緊急事態宣言!大統領の生放送!」ってリアクションになるけど、アステロイドシティでは終始「..え?」みたいな顔をしている
宇宙人も「..あっ…」みたいな挙動をしている。宇宙人史上一番面白いリアクションをしてた
お前は来た側なのになんでそんな驚いてるんだよ
好きな宇宙人第一位👽
さっぱり
断片的には笑える所が多いのだけど、ストーリー的にはさっぱり分からない。何が言いたいのか?
グランドブタペストホテルと同じ監督作品でこれも楽しめなかったので、頭が良くて理解出来る人には面白いのだろう。
ブタペスト同様、監督独特の撮り方・言い回しだったし、映像は全てポスターになれる程美しい色調でした!
「ウェス・アンダーソン流「マーズ・アタック!」リメイク映画 」
本作のウェス・アンダーソン監督は映画にとってストーリーはもう二の次、三の次!と考えてるみたいです…。本作に起承転結やドンパチシーンはありません。ストーリーを追うだけだと、なんにも起こらないので実に退屈な映画です。ではストーリー以外でどうやって観客を楽しませるか?そこにこの映画の仕掛けが詰まっています。
①設定の奇妙さと演劇やフィクションへの愛
まず本作は、現代演劇の制作過程を追うドキュメンタリーのテレビ番組という設定で、テレビ司会者が劇の脚本家を紹介するところから始まります。脚本家は俳優や制作陣に向けて書き上げた脚本の設定を説明します。その脚本を映像化したものがこの映画、という凝った設定です。TV→舞台劇→映画という3重の入れ子構造のメタフィクションという構造です。しかもTV司会者や俳優はこの3重構造を行ったり来たりします。
脚本家(エドワード・ノートン)と主役俳優(ジェイソン・シュワルツマン)は芸術家同士の相互理解とリスペクトを通り越して男同士の愛を交わしてしまいます。
オーディションに合格した舞台俳優たちは一同に集められコーチから洗脳のようなセッションを受けます。そういう演劇制作の舞台裏もチラ見させます。「登場人物の皆が人生で最も深く心地よい眠りにそっと誘われる」シーンを挿れたいと俳優たちに語る脚本家。眠りとは一人ひとりが現実を離れ、それぞれの夢を見るということであり、その間は脚本からも演出からも完全に自由な時間になるということです。俳優たちはてんでんばらばらに眠りのシーンを演じ始めます。さらに全員で“You can’t wake up if you don’t fall asleep”というセリフを大声で連呼。まるで俳優組合のデモのスローガンを聞いているみたい。「眠りに落ちなければ目を覚ますことはできない」というこのセリフはもちろん、睡眠と覚醒のバランスが大事だと言っています。睡眠だけでもダメだし、覚醒だけでもダメ。睡眠とは【夢、フィクション、演劇、映画、芸術、物語、心の栄養】。覚醒とは【現実、リアルワールド、政治、経済、軍事、コロナ、金銭】。コロナ禍の間、人は夢を見ることを忘れていたのではないか。現実ばかりにかまけて、フィクションをおろそかにしていたのではないか。そういう俳優たちからの告発と怨嗟の声に聞こえてきました。
脚本のテーマが理解できなくて自分の演技に悩んだ映画の主人公は途中でセットを抜け出し、舞台演劇の演出家(エイドリアン・ブロディ)に会いに行ってしまいます。そしてそれまで写真でしか登場しなかった死に別れた妻に再会します。彼女は今は別の舞台に出演中の女優です。
普通の映画監督は、「作り物をいかに現実っぽく見せるか」に一生懸命でした。現実が主でフィクションが従。アンダーソン監督はつねに「作り物であること」を主張してきます。現実っぽく見せようなんてさらさら思っておりません。創造主アンダーソン監督の脳内妄想の中で俳優たちも観客も右往左往することになります。
②隔絶された砂漠の町
外界と隔絶されたかのような砂漠の町が舞台です。そこにはダイナーとモーテルとガソリンスタンドが1件ずつ、あとは天文学研究所しかありません。外界と繋がれるはずの高速道路は永遠に工事中です。登場人物たちはこのなにもない町に集められ、外部との接触を絶たれ、しばらく共同生活を強いられます。まるで映画の撮影のスタッフたちみたいに。
③美術と色彩
いつも晴れた青い空、植物のない砂漠、そこにポップな色彩あふれる大道具と衣装が映えます。
④音楽
50年代のノスタルジーあふれる音楽は気楽さ満点。「マーズ・アタック」オマージュの「Indian Love Call」が流れるのも楽しい!この町に取り残された5人のジャグバンド(白人4名、黒人1名)たちの演奏も古すぎて逆に新鮮!
⑤キャスト
戦場カメラマンという設定の本作の主役がもしブラッド・ピットだったらどうなったでしょうか。ただの保守的なノスタルジー映画でしかなくなります。「古き良きアメリカ」という牧歌的な設定の映画の主役にジェイソン・シュワルツマンとジェイク・ライアンの二人を据えること。とまどいと言うか含羞というか、常にどうして僕はここにいるの?と言いたげな表情で屈託を抱えた風情の二人。さらに、舞台演出家役のエイドリアン・ブロディ。彼らの表情と演技は異化効果満点!
⑥間の悪さと気まずさ
吹き出すような笑いはありませんが、随所に「間の悪さと気まずさ」を強調する演出が散りばめられており、映画を退屈から救っています。死者の遺灰を雑に扱うギャグはコーエン兄弟オマージュでしょうか。主人公の男は義父(トム・ハンクス)と気まずい関係にあります。
⑦風変わりな天才少年少女
発明コンクール受賞者の5人(男児3、女児2)の天才中学生たち。思春期真っ只中の微妙な年頃です。彼らはスマホもゲームも持ちません。ではどうやって遊ぶか。車座になって有名人の名前を付け足していく記憶ゲーム。牧歌的というかなんというか。でも天才なのでゲームは延々と終わりません。
常に無謀なチャレンジを繰り返す天才児の男の子。父になぜそんな無茶をするのか問われた彼は、「チャレンジしないと自分の存在を認めてもらえないから」と答えます。「自己の存在への根本的は懐疑と不安」という哲学的なテーマがさらりと語られます。主役父子のどこか不安げな表情にもそのテーマがうかがえます。この映画がただのノスタルジー映画でないのは、このテーマと彼らの演技があるからだと思います。
⑧収拾つかない子どもたち
主役のオーギー・スティーンベックには「異能の天才」と呼ばれる長男のウッドロウの他に幼い3人の娘たちがいます。お姫様と呼ばれるより魔女やミイラと呼ばれたいみたいです。社会科見学のバス旅行にやって来たらしい10人の小学生(男児6名、女児4名、全員白人で黒人もヒスパニックもいない)も出てきます。変な言動を繰り広げ映画をかき回します。天才児たちも軍による情報統制を軽々と破って情報を漏洩させます。大人の思惑になど全く従いません。最高裁で勝つまで戦う覚悟はアッパレです。
⑨Boys meet girls
主役の父子はそれぞれ、異性と出会います。有名映画女優の設定の女性はDVやアルコールの問題を抱えているようですが詳細は語られません。小学生の引率の若い女性の先生はバンドマンのカウボーイと出会います。未婚少子化の時代になんとも微笑ましいシーンです。
⑩脱力感満載の宇宙人とUFO
宇宙人とUFOの造形にはなんのやる気も感じられません。凝りに凝ったその他の大道具や美術との対比が鮮やかです。
⑪ノスタルジーと能天気さ
映画の設定は1955年ですが、1969年生まれのウェス・アンダーソン監督にとって、自分が生まれるはるか以前の1955年という年、あるいはその頃の風俗文化はどう見えるのでしょうか。自分の両親が青春を過ごしたはずのgood old daysなのでしょう。
遊んでるみたいな警察のカーチェイス、人ごとみたいな原爆実験のキノコ雲、ほっそい無害そうな宇宙人、遊んでるみたいな軍隊…。この映画には人種の分断やポリコレや幼児性愛者やドラッグやAIや経済格差や米中対立など、現実のアメリカを覆う深刻な話題は一切出てきません。現実社会の汚さダメさへの強烈なダメ出し、それがこの映画の能天気さの理由なのではないでしょうか。もしかしたら選択しだいでは、こんなポップな世界がずっと続く未来があったのではないでしょうか。
本作では飛来した宇宙人に対して何をするかというと、写真を撮るだけ。撃鉄は起こしますが発砲はしません。「未来や未知のものに対する過剰な不安と安易な暴力が今の暗い世界を作ったんじゃないの?」という監督のメッセージではないでしょうか。1996年に公開されたマーズ・アタックは地球人たち(特に大人や権力者)の間抜けなパニックぶりを描いた大傑作でした。その裏返しのような本作の地球人たち(特に子どもたち)は賢く冷静。彼らはちょっと戸惑ったような顔をするだけで、クールにシニカルに母親の死や宇宙人という異常な現実を受け入れます。「お母さんはお星さまになりました」とか「時がすべてを癒す」とか「神様」とかそんなちゃちな大人の嘘は彼らに通用しません。彼らは科学の力で真実を探求し新しいテクノロジーを開発します。それを悪用するのは親たちです。
本作にサブタイトルを付けるとすれば「まったく何も起こらない宇宙人飛来!非パニック映画!」。「Indian Love Call」の挿入でも感じましたが、本作はウェス・アンダーソン流「マーズ・アタック!」リメイク映画です。ティム・バートンのこと大好きなんでしょうね、きっと。
メッセージの深さに気づきにくい
隕石が落ちた小さい街に訪れた人たちの話。
隕石がどうとか宇宙人がどうとかは
正直どうでもよくて、
映画やドラマの意義を見出すような作品でした。
アステロイドシティという物語は
劇中劇であり、劇中劇の作家、俳優の葛藤も
描かれていました。
正直一度観ただけでは全てを感じることは
凡人の僕には難しかったですが、
ウェス監督のポップな映像、
独自のカメラワークを楽しめたので良かったです。
特に今作は砂漠地帯の街が舞台だったので
彼の色遣いがよく映えてました。
解説サイトを見て気づきましたが、
50年代映画の要素が盛りだくさんみたいです。
西部劇、宇宙戦争、マリリンモンローなど。
それらをおさえて改めて観ると
また新しい発見があるかもしれません。
感性で見る映画?
同じ監督の「グランド・ブダペスト・ホテル」がすごく気に入ったので期待していた映画だが、あまり面白くはなかった。少なくとも「グランド...」は一応、普通に理解できるストーリーだったが、この映画は何を言っているのか全然わからない。
こういう不条理系の映画は、内容を分析したり意味づけをして楽しむ人か、あるいは、この不条理のセンスを感性で楽しめる人なら面白いのだろう。映像だけはよかった。
ユニークな設定、豪華なキャスト、地味なシナリオ
今夜(2024/05/10)観ました。
トム・ハンクスが好きなのでチェックしましたが、流し観が限界でした。先日観ようとして断念した『アド・アストラ』程ではありませんが、序盤から不可解な展開に食指が伸びません。
エイリアン侵略なら『マーズ・アタック』のが万倍面白いですし、ユニークな設定なら『バービー 』が遥かに優っています。
いずれにせよわざわざ映画館へ行って観に行く程の作品ではありません。
アマプラから観られるので試しに観てみてはいかがでしょう。ホンネはあまりお勧めはしません🙂↔️
砂漠と宇宙人
一度ではオモシロさが分らなかった
ので続けて二回目の鑑賞(吹替え)
架空の街アステロイド・シティを
劇にして三幕とエピローグ
そして幕あいもあって
物語が構成されてる
なかでも一番面おもしろいのは
宇宙人の下り…
宇宙人がカメラ目線のポーズをとる
宇宙人脚長のスタイルも
…可愛い♡
(アイドル並み)
隕石を取りに来て何故か
返しにくる
…謎です
個性豊かな人たちの
淡々とした会話がオモシロい
幕ごとのstory
アメリカの事情を取り入れて
遠くで核実験してたり
イロイロ盛り沢山
色彩は空色を基調として
計算されているのかな
何度か観るとまた違った
印象になるかも
映画というコンテンツは現実を伝えるためのメッセージなのだとわかる素敵な作品。
これはよかった。
本作は製作費35 億円、興行収入76 億円。ウェス・アンダーソン作品としては「グランド・ブダペスト・ホテル」(2014年)の276億円に次ぐ2番目の興行収入だそうだ。「グランド・ブダペスト・ホテル」は10年前の作品なので、その間に売り上げが積み上げられている可能性もある。そして、「グランド・ブダペスト・ホテル」は、展開が早く、なにも考えずに観ていても楽しかった。本作はなにも考えずに観ているとよくわからないと思う。そういう要素も興行収入の差につながっているのだろう。
ウェス・アンダーソンらしい画面作りはいつも通りだが、ストーリーは比較的淡々と進む。いろいろな出来事はあるのだが、起伏が少ない。
ただし、構造的にとても凝っていておもしろい。
大量の小ネタが盛り込んであり、映画やアメリカの歴史に詳しい人でないと全部はわからないと思う。
こう書くと、自分は理解できたかのように聞こえるかもしれないが、一部しか理解できなかったという意味だ。
その前提で話を続けると、構造的には下記のようになる。
・コンラッド・アープという劇作家が、新作劇「アステロイド・シティ」を作り上げていく創作過程を舞台裏から見ていく、というテレビ番組。これはモノクロ。
・その新作劇「アステロイド・シティ」の世界(1955年9月金曜の朝7時からはじまる)。これはカラー。
もう少し細かく書くと下記のようになる。
映画という虚構(①)の中で、コンラッド・アープという虚構の劇作家が作り上げた(②)、アステロイドシティという虚構の街(③)で起こる物語を描く。そこにいる人物は、カメラマンであったり笑わない喜劇女優だったりする。彼らはフィクション(④)を作り上げる人物だ。ありえないできごとがたくさん起こるが、フィクションだから良い。
というわけで、自分が発見できただけでも、少なくとも4段階の虚構が入れ子になっている。
1950年代のアメリカは豊かだった。
ただし、ネバダ核実験場では核実験が繰り返されており、55年はティーポット作戦というもので、2月から5月の間に14回行われている。本作でもその描写がある。
1945年に第二次世界大戦が終わって10年経っていたが、兵器の開発が終わるわけではない。それは今でも同じだ。
「オッペンハイマー」(2023年)、「デューン 砂の惑星 PART2」(2024年)のいずれも、核を描いている。ちなみに本作の「アステロイド・シティ」という町は作り物感があって、「マンハッタン計画」のために作られた「トリニティ実験場」も作られた町であることを思い出させた。
現代のアメリカにおいて核戦争への危機感というものは高まっているのだろうか。
いくつもの虚構を重ねていく構造はクリストファー・ノーランの「インセプション」(2010年)と類似しているが、本作はむしろ虚構の中に現実を認識する効果があるのだというメッセージがある。それは作中に出てくる「眠らなければ、目覚めることができない。」というセリフに象徴されている。
眠るということは夢を見るということだ。フロイトの精神分析によれば、夢で起こる出来事は現実の影響を受けている。夢を解釈することで現実を知ることができる。また、睡眠の次には目覚めるという行為がある。目覚めるというのは、肉体的な目覚めだけでなく、現実に気づくという目覚めという意味もある。
「眠らなければ、目覚めることができない。」というセリフには、映画というメディアが、人々の目覚めを促すことができるのだというメッセージがこめられているのだろう。
おもしろいのは、サム・メンデス「エンパイア・オブ・ライト」(2022年)、スピルバーグ「フェイブルマンズ」(2022年)など、同時期に「映画についての映画」がいくつも作られているということだ。
コロナにより映画産業はダメージを受けた。時代としても「分断」がキーワードになるなど、ネガティブな空気が世界を覆っていた。だからこそ映画という媒体の在り方を見直す流れがあったのではないだろうか。本作もその中の一つであり、映画ファンにも訴えかけるものがあったのだろう。
うわ苦手〜
不条理なシーンのつなぎ合わせ、可愛らしい配色、ウェス・アンダーソンの苦手なとこてんこ盛り。そういやこういう映画だったわコイツ。犬ヶ島でちょっと親近感湧いてしまったのでつい見てしまった自分を戒めたい。
うむ…ちょっと振り切り過ぎか…
ウェス・アンダーソンの世界観はとても好みなのだが、本作はちょっと振り切り過ぎな印象。
独特な雰囲気と色彩際立つ映像美は期待通りだったが、全体的には「グランド・ブダペスト・ホテル」には遠く及ばず。
単純なストーリーのはずなのに、いまひとつポイントがつかみにくい展開が物足りなさに拍車をかける。
まあ一言で言うならば、訳わからなかった、ってとこかな。
どこで感動すればいいの?
1度観ただけでは理解しがたい。
かといって2度見たいとは思わない。
この監督が好きな人や、
演劇や演劇作りに興味がある人だけが何度も見ればいい。
意味深長? いいえ意味不明!
いちいち説明を読まないと楽しめない映画なんて、私にはつまらない。説明を読んでも私には感動のかけらも見つからない。
絵画でいうところのキュビズムに似ている。
あの世界的に有名な絵画を「これこそ芸術だ」と、格好つけて(?)インテリぶって説明する人……。彼等には嫌悪感しか湧いてこない。彼等とは異なる次元、異なる世界で私は生きているのだろう。
この映画を素晴らしいと評価したい人はすればいいと思う。ただそれだけ。
映画であれ、絵画であれ、予備知識なし、説明なしで感動出来るもの。それが私にとっての良い映画であり、素敵な絵画である。
溢れる涙をこらえることの出来ない映画に出逢いたい。心揺さぶる映画こそ繰り返し見たい。人生は短いのだから。
ひたすら見辛い
ウェスアンダーソンが独善的になるといかにポップにならないかという見本です
説明不足がすぎます。「これはこういう意味があって」というのがあったとして、
知らねえわそんなん。大衆に向けて作るのが映画だろうが。説明を説明くさくなく説明してみせろや。それがいい映画だよ。
映像の素晴らしだけで30分みられてしまうだけに残念です。面白そう、だけど付き合いきれない、そんな感じの駄作です。
なにこの分断の嵐。
鈴木清順のように、枷の必要な監督なんだろうななんて思ってしまいました。
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