白鍵と黒鍵の間に : インタビュー
【インタビュー】池松壮亮&森田剛、“ノンシャラント”な語り合いで見えてきたもの
冨永昌敬監督が足かけ12年をかけて撮り上げた最新作「白鍵と黒鍵の間に」で、俳優の池松壮亮と森田剛が初共演を果たしている。即興が入り混じるジャズのセッションのような世界観を生きた池松と森田に話を聞いた。(取材・文/大塚史貴、写真/根田拓也)
原作は、現役のジャズミュージシャンでエッセイストでもある南博氏の「白鍵と黒鍵の間に -ジャズピアニスト・エレジー銀座編-」。ピアニストとして、キャバレーや高級クラブを渡り歩いた南氏の青春の日々を綴った回想録を、共同で脚本を手がけた冨永監督と高橋知由が大胆にアレンジ。南氏がモデルの主人公を“南”と“博”という2人の人物に分け、3年に及ぶタイムラインがメビウスの輪のように繋がる狂騒の一夜へと誘(いざな)ってくれる。
池松が1人2役で息吹を注いだうち、ひとりは才能に溢れながら夜の世界のしがらみに囚われて夢を見失ってしまったピアニストの南。もうひとりは、ジャズマンになりたいという夢に向かって邁進する若きロマンチストの博。このふたりの主人公が時にすれ違い、時にシンクロするカードの裏表のような関係を構築していく。一方の森田は、刑務所から出所したばかりのチンピラ“あいつ”を体現し、“寂しさ”を滲み出しながら危険な香りを放ってみせた。
映画は、昭和末期の夜の街・銀座が舞台。ジャズピアニスト志望の博(池松)が場末のキャバレーで“あいつ”からリクエストされた「ゴッドファーザー 愛のテーマ」を演奏するが、その曲が大きな災いを招くとは知る由もなかった。“あの曲”をリクエストしていいのは銀座界隈を牛耳るヤクザの熊野会長だけで、演奏を許されているのも会長お気に入りの敏腕ピアニスト、南(池松)だけだった。2人の運命はもつれ合い、多くのクセ者たちを巻き込みながら予測不可能な“一夜”を迎えることになる……。
今作をジャンルで括ることは容易ではない。ジャズを扱った音楽映画であるとともに、昭和レトロな空気をまとったファンタジー、コメディなどが満遍なくちりばめられている。本編中に「ノンシャラントに…」というセリフが何度となく登場するが、この「無頓着なさま」という意味を持つ言葉そのままに、池松と森田は冨永監督の描く世界に身を浸していった。俳優陣にとって、居心地の良い現場だったのでは? とうかがわせる生き生きとした表情が、本編で確認することができる。
■池松と森田の「一生忘れられない」二人三脚
池松「冨永作品の自由度、物語の自由度が非常に高いので、余計にはみ出さない程度に存分に可動域を広げていきたいと思っていました。三年一晩の話で、1人2役と言いつつ全て同一人物ですから、様々な遊び方がありました。驚きのあるもの、見たことがないものを常に探したいと思っています。俳優やスタッフにとって、とても豊かな現場でした」
森田「僕がクランクインした日に、『もうちょっとセリフのテンポをあげて欲しい』と言われ、そこに注意しながらやっていました。すごく自由だけど緊張感もあったので、現場で起こっていること全てを楽しむことができました」
9月に行われたプレミア上映会で、森田が「池松くんとの二人三脚は、一生忘れられない思い出になった」と振り返っている。この“二人三脚”をする設定は脚本にはなかったそうだが、冨永監督が「森田さんが作ってきた役柄が、予想以上に悲しみに溢れていた。二人三脚をさせてあげたくなった」と思い立ち、当日にシーンを追加したという。
池松は「「(二人三脚のために、森田と)脚をベルトで結ぶんですが、小道具さんが早めにセットしちゃって。早めに動けなくなってしまい、あのカットは割と何度もやり直したんですが、カットがかかっても森田さんが肩に組んだ手を離してくれなくて。前を見ながらボソッと『離さないよ』と言われて。ドキドキしました」と、撮影秘話を明かしている。
■森田が出演を決めたのは、池松の存在
森田が演じた“あいつ”は、狂言回しという表現が適切かは甚だ疑問が残るが、作品全体の理解者みたいな役割を果たしていることが、本編から見て取れる。
池松「悲しくて、切なくて、ファニーなキャラクターでしたが、主人公が見失っているもの、時代が見失っている本質を最初から最後まで語っています。主人公が人生の迷子になっているなか、『おまえには音楽があるんだ』ということを一貫して教えてくれています。ヤクザでありながら、この物語の中で誰よりも音楽を求めている……。そういうユーモラスと切実さ、艶っぽさを見事なバランスで演じられていて、本当にこの役を森田さんが演じて、それを間近で見られて良かったなと思っています」
照れ笑いを浮かべる森田は、今作の出演の決め手は池松にあったと言い切る。
森田「池松くんに会いたかったんです。僕はこれが好き、これが嫌いというのが偏ったタイプで、意外と自分で決め込んじゃうんですが、池松くんの芝居を見ているとドキドキするというか、目が離せなくなるんです。会ってみたいなあ……とずっと思っていたら、今回お話をいただいて実現しました。会ってみたら、その通りの人でした」
そして、目を見張ったシーンを「ピアノを弾いている池松くんの姿を見て、品を感じたんです」と明かす。「と同時に危険というか、バランスが揺れている感じがして……。『好きになっちゃったんだからしょうがないじゃん。それ以外に何があるの?』みたいに、ピュアでまっすぐな感じというのは、やっていて楽しかったですね」と池松を評する。
■それぞれの死生観
ひとつひとつ言葉を選びながら紡ぎ出す森田が、映画単独初主演を果たしたのは吉田恵輔監督作「ヒメアノ~ル」(2016)。サイコキラーの森田正一役を完全に生き切ったかと思えば、有村架純と共演した「前科者」では殺人の罪で服役後、更生の道をひたむきに歩みながら姿を消してしまう難役を説得力のある芝居で観る者を圧倒した。森田は、映画という表現手段をどうとらえているのだろうか。
森田「ある意味、自分にストレスを与えたいというか……。うまく伝えられなくて難しいんですが、生きていることと死ぬことを考えたとき、悪い意味ではなく、そういうバランスが芝居の現場に行くと僕の場合は保てるんです」
池松「それは、演じることの矛先が死に向かっているということですか?」
森田「うん。なんかね……」
――それは、年齢を重ねたことでそういう心境にいたったのですか? 「ヒメアノ~ル」の頃からそうだったんですか?
森田「これまで避けてきたんですよ。誰であれ、皆いつかは死ぬじゃないですか。死について、見て見ぬふりをして生きて来ちゃったんですね。そうやって考えたとき、生きること、どう前向きに生きるかって考えがちですが、同時にいかに死ぬか……を考えたとき、僕には芝居というものが必要だったんです。だから今回、池松くんみたいな人に出会えて芝居ができるというのは、すごく幸せなことでした」
■白鍵と黒鍵の間には一体何があるのか
筆者は、「白鍵と黒鍵の間に」という新作製作の報に触れ、このタイトルに妙な胸騒ぎを覚えた。白鍵と黒鍵の間に、一体何があるのだろうか……と。18世紀には、白と黒が反対だった時代があったという事実からも、なおのこと表裏一体といえるのではないだろうか。ふたりにも同じ疑問を投げかけてみた。「白鍵と黒鍵の間には何があると思いますか?」と。
森田「言葉に出来なかったり、伝えられなかったり、モヤモヤしたものがありそうな気はしますね」
池松「何にでも当てはまると思うんです。原作の南博さんがどういう意図でつけられたのかは分かりませんが、人生なのか、あるいは音楽があったのか……。もの凄く曖昧で感覚的で良いタイトルだと思いました。または白鍵と黒鍵を言い換えることもできます。人生の人生の間に、夢と現実の間に、今の時代でいうと破壊と再生の間に。いずれにしても間というもの、そこに何かがあること、白でも黒でもないグレーを享受すること、こんなはずじゃないという日々の中に、振り返ると人生そのものが浮かび上がってくるような、そんな気配があります」
■池松壮亮が語る分岐点
そして今作を見ていると、誰にでも避けて通ることができない分岐点があることを突き付けられる。ふたりにとって、表現者として目の当たりにした局面がどのようなものであったのかを聞いてみた。
森田「表現者として……と考えると、意外と難しいです。逆に普段の生活の方が、分岐点というか反省すべき点が浮かび上がってきます。
子どもに『お休みなさい』と言うときに、目を見る時間が少なかったかな……とか。もうちょっときちんと目を見てお休みって言えば良かったな……とか、そういうことですかね。今しかないですから、瞬間瞬間に感じますよね」
池松「割としょっちゅう、分岐点は訪れている気もするんです。毎作品に感じます。これまでも作品との出合い、そこでの人との出会いは全てが分岐点でした。日々の小さな分岐点の選択で人生が変わってしまうような気もしています。でも、そういうことも含めた人生のままならなさ、永遠に不完全ともいえる人生というものの隙間や分岐点を、その間に起こる沈黙や静寂を埋める力が音楽にはある。
ひとりじゃないと教えてくれるし、生きる活力をもらうことだって、気分を変えてくれることだってできる。そのことの豊かさ。人生には様々な局面が訪れますが、いつだって音楽がある、そして映画があるということ。そのことを、冨永さんの脚本から感じ取り、この感覚をどうにか演じたい、そして祝福できるような世界にしたいと思っていました」
相思相愛ぶりを確かめ合うやり取りから、死生観に至るまで話題が及び、先が読めないことも含めて「ノンシャラント」なひと時となった。池松と森田が次に作品世界で邂逅を果たすのはいつになるのか。どのような役どころであれ、芝居を通して再会を喜ぶ重厚な“セッション”が繰り広げられるはずだ。