碁盤斬りのレビュー・感想・評価
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草薙の演技と背景の雰囲気はいい
古典落語を基にしたストーリーだが、この噺はどうしても志ん朝の挙措が目に浮かんでしまう。高潔な武士を草薙が演じているが、なかなか鬼気迫る良い演技をしている。背景、音楽も日本映画らしさが出ていて楽しめるが、残念ながら脚本が少し甘い。終盤に娘を向かいに行った草薙が借りた50両はいつ返されたものなのか。いつの間にか草薙の手中にある。
それに一度は父に嫌疑をかけた男と夫婦になる娘も腑に落ちない。それほどまで心に想っていたのか、その描写もなく、ストーリーを落とすために夫婦に結びつけてエンディング、というやっつけ仕事感がある。そのあたりをもっと踏み込んだ脚本にしたら完成度は格段に上がったであろう。
このままだと志ん朝の噺の方がより響くだけである。
囲碁にもう少し詳しかったら…。
幼い頃、祖父から囲碁のことを教えられる機会があったのだが、自分には陣地を取るという概念が分からず、結局身に付かなかった。なので、本当はヒリヒリしているのであろう勝負の場面が、理解できないもどかしさもあって、全くの個人的な問題なのだが、少し引いた目線での鑑賞になってしまったかも。
例えば、萬屋が、柳田の正々堂々とした囲碁に感化され、商売の姿勢まで知らず知らずに変わってしまうところなどとても清々しいのだが、番頭に下世話な勘繰りを代表させて語らせるところや、弥吉の思慮の足りない言動などに引っかかってしまったのだ。
ただ、役者たちは良い。自分の融通の効かなさが周囲に迷惑をかけてきたことを自覚する柳田を、草彅剛が自然体で演じている。清原伽耶も、ファン目線の甘さもあるかもしれないが、父の血を引くお絹の清廉さを見事に演じていたと思う。
それにしても、父のために娘自ら置屋に自分の身を売りに行って50両を借り受け、しかもそこには碁が絡んでいるというのは、落語「文七元結」からのインスパイアかな…と思ったら、まさに「柳田格之進」という演目もあるそうな。それだけ、オーソドックスな設定ということなのかな?
キシダ斬り
ノワールな作風で知られる白石和彌監督がずっと撮りたがっていたという時代劇。落語の演目「柳田格之進」をベースにしたオリジナル脚本は、“白河の清き流にすみかねて...”をテーマにした現代日本にも通じる内容だ。清廉潔白であることが必ずしも周囲にいい影響を及ぼすとは限らない。“碁盤”に刻まれたます目のように白黒つけたがる几帳面な性格の柳田(草彅剛)が、“石の下”ならぬ“袖の下”を受け取るような(柳の如き)柔軟性も時には生きていく上で必要なのでは、と考えを改める(斬る)ストーリーになっている。裏金問題で揺れに揺れている現在の自民党政権を揶揄した内容とも言えるだろう。
一切株式や不動産投資物件を保有していないことを自慢していた鳩ならぬレイムダックこと岸田首相であるが、派閥解体と同時に四面楚歌で孤立、米国の後ろ楯を必要とした岸田は、結局ネオコンとウォール街の意のままに操られているバイ◯ン政権につけこまれ、大増税=一億総貧困という最悪の禁じ手に及んでしまったのである。清廉潔白な性格が災いし娘に貧乏生活を強いる結果となった柳田のように。かつてその柳田の告発によって藩の中枢から追い出されたという役人たちが、裏金議員と非難され派閥を解体された安倍派自民党議員と重なって見えた方も多かったのではないだろうか。
アメリカ次期大統領候補のハ◯スと同様無◯をさらけ出したネオリバタリアンもどきの小泉Jr.は問題外として、安倍派の復権をねらう保守高市と、アンチ安倍で徒党をくむ石破の一騎討ちになりそうな自民党総裁選挙。芸能人を呼ばなければ集会も閑古鳥だというヒラリーの妹分ハ◯スと、猫食いネタ→エプスタイン島事件→子供の人身売買→アドレノ◯ロム利権を公にしようとしているトランプとの間で現在戦われているアメリカ大統領選挙。生前立川談志が(バブリーな)“今の時代には合わない”として毛嫌いしていた演目を、あえてこの時代によみがえらせた白石和彌監督以下映画スタッフの慧眼を感じさせる一本なのだ。
50両の猫ババを囲碁友である両替屋の源兵衛(國村隼)に疑われた格之進、劇中、その娘お絹(清原果耶)が冤罪をはらすためキョンキョンが経営する売春宿に自ら身売りし金を工面するくだりが出てくる。それはまさに、臓器がほぼ出来上がっている妊娠9ヶ月までの中絶を推奨し、世界各国の紛争や貧困に介入、どさくさ紛れにいたいけな子供たちをいい値で買い取ったり誘拐したりして、性奴隷や臓器売買、はては脳内麻薬抽出のため子供の拉致監禁殺害へと及ぶ一大シンジケートの悪行を、揶揄していたとはいえないだろうか。
現代風の照明や安っぽいスタジオセット内で撮られている、(原作落語にはない)宿敵兵庫(斎藤工)とのクライマックスにおける殺陣などを見ていると、白石和彌が“小林正樹”というよりも“藤沢周平”をやりたかったことは明白である。しかしながら、日本の政治が、アメリカ的なコーポラティズムまたはその急先鋒であるネオリバタリアンどもの手に陥ってしまうのか、それとも、ある程度の柔軟性(裏金)を保ちながら安倍派保守陣営が復権しその防波堤となるのかの端境期にあるだけに、この映画時代劇風の現代劇ともいえるのである。
曲がった〜ことが大嫌い〜♪…
柳田様はそんな人。妻の死の真相を知ってからが一気に物語が急加速。草彅剛の演技も様変わりする。許されざる悪事を働いていた兵庫だが、柳田のせいで藩を追われた者たちへの言及は確かに分からないでもない。袖の下を貰っていたのは自業自得だが程度の問題かと。ラストは柳田はその者たちに掛け軸売った金を渡しに旅に出たのだろうか。碁盤斬りって、そのままの意味だったか。清廉潔白の人はある意味怖い。しかし、一時でも娘を売り飛ばすような真似は腑に落ちない
復讐劇
全く期待しないでアマプラ配信でやってたので何気なく観た。
いや、面白かった!
時代劇はあまり好きではないが、これは面白かった。
やっぱり復讐劇は王道で面白い!
意地悪い質屋が囲碁の強い侍と出会って
良い人になっていく展開も良い。
でも、ただ一つ納得いかない展開がある。
それはラスト!
いくら好きだったとはいえ、父親を盗人扱いして、
しかもそのせいで、自分が売春婦にまでさせられた男と
その後、結婚するなんて!絶対にありえないでしょ!
絶対に納得出来ない!!この親子、馬鹿なの!?と思った。
普通そんな人、信じられないし、許せないでしょう!?
観ていて「そんな馬鹿な!?ありえないだろ!」と
大きな声を出して突っ込んでしまった。
いくらなんでも美談にし過ぎ!
最後の最後で興醒めしました。
でも、全体的には良く出来た作品だと思います。
期待度○鑑賞後の満足度△ 囲碁の好きな人は分からないが、映画としては何だかなぁという出来である。良い部分も有るのだか全体として不細工。演出や脚本にも問題があるが最大の戦犯は草彅剛のミスキャスト。
①草彅剛は大部分の出演作品では好演である。しかし、本作では侍役が全く似合わない。表情も台詞も違和感だらけである。
だから、柳田格之進が結局どういう人物なのか全く見えてこない。
ついでに言うと、斎藤工も現代性が前面に出過ぎて全く侍に見えない。殺陣も下手(一応剣道をしていたので分かる)。
もし、演出の意図が新しい侍像を描くことにあったのなら、申し訳ないが全くの失敗。
②後付けで知ったが、元々は落語の話との事。そう言えば、クライマックスで源兵衛と弥吉とが互いに「自分の首を切ってくれ」と掛け合うシーンはそれらしい味が出ていたが、突然そういう流れになったような演出でチグハグ感が目立つ。
お絹を吉原に迎えに行ったところから弥吉との祝言のシーンで、“ああ、人情話だったんだ”と思ったら最後は「木枯し紋次郎」みたいで、余韻を残したかったのかも知れないが、蛇足みたいにしか感じられなかった。
③万事こんな感じ。
映画にいろいろな要素を盛り込むのはよろしい。コミカルなシーン、心暖まるシーン、緊張感あるシーン、悲劇的なシーン、怖いシーン、静かなシーン、アクションシーン等々、それらの要素が、ジグソーパズルのように全てのピースがピタッと嵌まって一つの絵が完成されるように、一つ一つの要素が個々の役割を際立てつつお互いを引き立て合いながらハーモニーとなり、全体として均衡が取れてかつ豊潤な映画となれば言うことがない。
それが、本作は未完成なジグソーパズルみたいな感じ。
④最初は裏長屋に住む何か曰くありげな浪人(柳田格之進)と、その世話をしつつ反物の繕いなどで生活を支える健気な娘(お絹)。
時代劇にはよくある設定で始まる。まあ、導入部として無難。
よくある設定ではあるが、明るく健気な娘という在り来りな人物設定ながら、清原果耶の佇まい・存在感は父親役の草彅剛の違和感を補って余りある。
武士の娘らしい凛としたところ、ちょっとしたことでは揺るがない芯の強さを持ちながら明るく心がキレイで誰からも好かれる、守ってあげたいと思わせる健気さを同時に表現して、相変わらずその人物造形の上手さに唸らされる。
最後まで安定感のある演技と存在感で映画を支えている。
贔屓し過ぎかも知れないが、この映画を救っている三大要因の一つは彼女である。
やがて、
柳田の「真っ直ぐさ加減」
「碁敵(ごがたき)は憎さも憎し懐かしし」という川柳があります。
「笠碁」という落語の枕によく使われますけれども。
普段は好敵手だけに、いったんケンカ状態になると収拾がつかなくなるが、そこは同好の士の間柄のこと、蟠(わだかま)りが解ければ、また元の鞘(さや)に戻ることのできる間柄でもあるのですけれども。
相手側の荒唐無稽な言いがかりも、無視して相手にしないことではなく、(どんなに困難であっても)相手の言い分を是として受け止めたうえで、その言い分が「言いがかり」だった場合のペナルティを厳しく設定する―。
それが本作の柳田の「真っ直ぐさ加減」というものだったのでしょうか。
本作の主演の草彅剛といえば、評論子的には、どうしてもミッドナイトスワンの凪紗の印象を拭えないのですけれども。
しかし、本作は、草彅剛にとっても(初演ではないようですけれども)時代劇俳優としての新境地といえるのかも知れません。
そして、これまた時代劇では新境地を拓いたという白石和彌監督が、「武士の体面」やその土壌となっている「武家社会」など、相変わらず鋭い視点で(そろそろ時代から浮きつつある?)世相を捉えている点は、『日本で一番悪い奴ら』などの現代ものの作品と変わらない一本でもあったと思います。
つまり、50両の冤罪をかけられた時、「やっていないものはやっていない」と突っぱねるのがふつうの感覚なのだろうと思われます。
(別作品「シャイロックの子供たち」で、横領の嫌疑をかけられた女性行員に、その上司の係長は「やっていないなら、もう泣くな。胸を張っていろ。」とも声をかけています。)
しかし、「嫌疑をかけられただけでも、末代までの恥さらし」と受け止める武士道は、もう既に、この当時においても、世間の感覚との間にははズレが生じてきていたのかも知れません。
そこにも思いを致すと、本作は、充分に佳作としての評価に価する一本だったとも思います。
(追記)
柳田から50両を受け取ったときの弥吉の約束どおり源兵衛・弥吉の首を刎(は)ねる代わりに(源兵衛自慢の)碁盤を切ったのは、単に武士として、いくら約束とはいえ、身分違いの町人に過ぎない)源兵衛・弥吉の首を刎ねることが躊躇(ためら)われた故でしょうか。それとも、源兵衛・弥吉の庇(かば)い合いの心根の美しさに、思わず手元が狂ったものなのか。
柳田の真意を推測させるようなシーンもなく、その点は(本作の構成上は)不明ということにはなっているのではありますけれども。
もし、前者であるとするならば、いかに碁打ち仲間として気心を通じた仲であっても、柳田は源兵衛を、その程度の身分としか見ていなかったことにもなりそうです。
(評論子としては、柳田の真意は前者であって、本作としては、そこに士農工商という当時の身分制社会を暗喩したと受け止める印象がより強いようにも思われます。)
(追記)
柳田が梶木に申し入れた仇討ち(決闘)が、囲碁の勝負だったことは、面白いと思いました。評論子は。
もちろん、それは囲碁をモチーフに展開してきた本作のストーリーとしては「展開上の都合」という、オトナ的な理由もあったのだとは思いますけれども。
しかし、梶木は足が不自由で歩行は杖に頼っている身。
「いざ尋常に勝負、勝負」ということでお互いに抜刀するなら、柳田が圧倒的に有利なことは明らかで、それで梶木の首を討ち取っても、本当の意味では仇討ちを果たしたことにはならないというのが、柳田の本意だったのだと思いました。評論子は。
むしろ彦根藩に無双の打ち手としての誉れ高い梶木には、彼の得手の囲碁での勝負を挑む―。
柳田の正義感の「真っ直ぐさ加減」というものは、そんなところからも窺い知ることができるのでしょう。
時代劇はまだまだ描ける
白石和彌監督が撮る初の時代劇と言う事で俄然注目していた作品が愈々公開。濡れ衣を着せられて藩を追われ、娘と二人暮らしの浪人が、得意の囲碁をきっかけに復讐に立ち上がる物語です。
久しぶりに「楷書の映画」を観たと感じました。メリハリの効いた物語、固定カメラでしっかり見せる映像、チャンバラ場面は抑制的な演出、草彅剛さん・清原果耶さん・國村準さん・そして斎藤工さんそれぞれの個性が際立つ俳優陣。特に、斎藤工さんのクズな男が見せるクズなりの道理が魅力を放ちました。そうした舞台には時代劇が最適だったんでしょうね。21世紀にだって描ける、描くべき時代劇はまだまだあるのです。
ただ、格之進の葛藤をもう少し丁寧に見せて欲しいという場面が幾つかあったのが残念でした。でも、現行で129分の作品では仕方ないかな。
碁に魅せられた人々の物語
今、最も脂が乗った監督の一人、白石和彌監督による初時代劇ゆえに、細部に至るまで神経が行き届いた本格時代劇に仕上がっています。
時代劇は現代のファンタジーです。その時代に生きた人はいないので、自由に創作できる一方、観客に如何にもそれらしい空気感を感じさせる設えと人情の機微が無ければ、却って違和感ばかりが浮き上がり、訳の分からない白けた寸劇になってしまいます。
本作は、昼間でも明るさを抑えた光の加減が作品を通じて絶妙でした。室内シーンが多いために全体に仄暗い中での明と暗、光と陰、それぞれの微妙なコントラストが、ドラマの雰囲気と共に主人公と娘の倹しい日常を漂わせていました。
薄汚れて狭苦しい江戸の長屋、整然として広々とした大店、艶めかしく賑やかな遊郭、大勢の出入りの出来る怪しい侠客の屋敷が、美術・装飾スタッフによってリアルに再現され、観客を自然に時代の中に誘ってくれます。
元々は落語が原作ですが、映画では話を膨らませ、タイトルにある“碁盤斬り”は生かしつつも、草彅剛扮する柳田格之進とその娘役の清原果那による復讐劇を核に置き換えた建付けにしています。前半は親子の住む江戸長屋での平穏な、一面では退屈な日常が淡々と進み、BGMもややユーモラスで軽妙な曲調でしたが、過去の事実の真相が分かった後は短調の物悲しい曲調となり、舞台が広がりストーリーが急展開していく後半は、重苦しい曲調のままにドラマの空気を覆い尽くしていました。
前半は会話が主体だけに人物の寄せアップのカットがやたらと多く、やや閉口します。主人公が無表情無感情、ひたすら冷静な理性の人としての日々の暮らしを送りアクションもないため、引いて撮ると何ら面白みのない映像になるからでしょう。その反動で一気にドラマが動く後半は、柳田格之進の表情は怒りと悲しみに満ち、常に動き回ります。
前半の平穏さがあったゆえに、この感情と言動の落差は大いに観客を惹き付けます。
悪が際立てば際立つほどに、この憎悪への共感は増すのですが、斎藤工扮する悪役には嫌悪感を催すほどの非道ぶりは見えず、寧ろ本来の優男からのしなやかさすら感じられ不完全燃焼感が残ります。ただ殺陣には及第点をあげられそうです。
“碁”が本作を一貫するテーマであり、碁に魅せられた人々による、可笑しくも哀しい物語となっていますが、とはいえ碁が何らかの伏線や布石にはならず、碁の棋譜がドラマのキーになるわけでもありません。
個人的には、仇敵との最終決着を碁で決めるというのは、二人は真剣でしたが、嘗ての熱血少年マンガでの決着シーンとオーバーラップして思わず苦笑してしまいました。
草彅さんに惹かれました!
珠玉の時代劇
「青春18×2」の清原果耶さんに惹かれて
見たかった動機はタイトル通り
時代劇は好きだし評価が高いし見ない理由は無かったかな
草薙さんの演技に不安があったのだが大好きな國村さんがしっかり
草薙さんの演技を助けていてくれて、まずまずの及第点でした
ただ、物語へののめり込み度でいうとところどころ引っ掛かりがあって
素直に入り込めなかったのが残念
守銭奴な萬屋の旦那があっさりいい人になっちゃう点
その旦那さんが、50両の置き場所を思い出せない点
斎藤工の「悪役」が全然悪人に見えない点(悪人の貫禄がない)
旦那さんの跡継ぎ?がなぜ知り得た情報をすぐに皆と共有(特に旦那さん)しないのか
そもそも、柳田格之進の生きざま、言動をあれだけ見せつけられていて
(旦那さんの生きざまにまですぐに影響を与えるほどなのに)
なぜ、あっさりと盗人の疑いを本人に向けるのか
まぁ、細かい事なのでいちいち気にしなければいいのだが
見ていてそんなところが引っかかってしまって、自分自身でこの作品を
つまらなくしてしまったかもしれない
囲碁のことは全く分からないのだが、スクリーン上で展開する勝負の展開は
わかる人にとってはさらに面白さが加わるのだろうか
囲碁、ちょっとやってみたくなった
廉直の果て
◉もう、腹を切らせてやれ
観賞後の情報で「柳田格之進」と言う人情噺があることを知りました。それとちょいと前に、「廉直」と言う言葉の意味=「行いが潔白で正直なこと」を改めて知っていました。
廉直を痛いほど感じさせる武士である格之進と、健気な娘の清貧な暮らしが軸となって、物語は進む。囲碁にも滲み出る(ルールは知らないのですが)格之進の生真面目な人柄が縁となって、萬屋源兵衛との交流が生まれる。
しかし耐え難い二つの憤怒が、廉直の士を襲う。一つは脱藩の原因となった横領の濡れ衣は実は柴田兵庫の策謀であり、更に格之進の妻を辱めていたと言う事実。もう一つは萬屋の50両をくすねたと言う冤罪。憤死に値するような、正に奇跡のような不運。
もはや格之進は腹を切るしかあるまい! と言いたくなる、このシーンまでが話の前段となる。草彅剛の演じる格之進は、硬度は高いけれど脆い金属を感じさせるような「堅物」であり、恥辱には耐えきれそうにはなかったのですが。
◉見た目も気持ち良いサゲ
柴田兵庫の断罪に至る追跡行は、苦しく熱く進められて、終盤は賭碁の鉄火場(市村正親)と置き屋(小泉今日子)での、二つの浪花節を挿入した後に、いよいよ本作の見せ場である首切りのシーンへ。商人の主従が私の首を、いや、私目の首をと争ううちに、段々と首が直線に並ぶ。ならば二つとも頂こうと、一声叫んだ格之進が碁盤を叩き斬る。
ここで私は既に心地良い可笑しさに取り込まれていました。ここまでの格之進に対して、堅物であると同時に、脆さ=優しさみたいなものも感じていたのです。それで決着のつけ方にも信頼感を抱いていました。柴田兵庫の首は落としても、商人二人の首は落とさない。二人の首と重々しい碁盤を一瞬等価値にしたサゲは、見た目も含めて鮮やか。
◉独りよがりの正義と、半端な悪
それで改めて、意地を通した格之進もエラいけど、もっとエラいのは清水の舞台から身を投げ打って、父を動かした健気な娘だよね…と、すっかり感動したのですが、やはり、やや引っ掛かりはありました。
一つは、彦根藩時代の格之進が正義を振るう強権的な人間で、人を苦境に落とすほどあったならば、それを例えば追憶の形とかで表して欲しかったです。藩時代の話は囲碁の勝負と冤罪のみだったと思います。草彅剛と回りを囲む俳優陣の秀逸な演技によって、堅物の醸し出す心惹かれる性格が前面に現れ過ぎて、人たちを苦しめるぐらい融通がきかない人間の感じはしなかったのです。
もう一つは柴田兵庫の中途半端な悪。実は格之進の正義によって苦境に陥った人々を救うために、色々と画策していたとか、格之進の妻との不倫も力づくではなく、成り行きだったとか、それを後出しで言われてもね。
結びは幸せな娘の姿を眼裏に刻みながら出奔する格之進。こう言う話の運びならば、「正義だけが道ではない」ことを身に沁みた格之進が、それを乗り越える姿も見たかったのです。
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