「時代劇に見た新しさ」碁盤斬り R41さんの映画レビュー(感想・評価)
時代劇に見た新しさ
この物語は抑揚があり、当時の日本人の考え方に焦点をあてていて面白い。
ただ、それを「考え方」と一括りにするにはいささか「?」が残る。
無鉄砲で顧みずな性格や、一本気で考え方を曲げないとか、この物語のように清廉潔白を心情に生きているのが当時の人々なのかもしれないが、「いざ、仇討ちに」出発した直後にあらぬ嫌疑をかけられたことでいったん自宅に戻ってくるというシーンは首を傾げたくなった。
お絹も「仇討ちに出ていったのに、なんでおかしな問題を抱えて戻ってきたの?」と、突っ込みたくなっただろう。
また、期限直前の門仕舞いと、そこで晴れた嫌疑だったが、どう考えても優先順位はお絹だろう。
娘をないがしろにしてまでゲンベエに文句を言いに行くことが、この時代の考え方、行動の仕方なのだろうか?
当時の考え方を散りばめていたのは、柳田の行動が正当なものだというための伏線なのか?
頭で理解しつつも、このあたりがどうしても悶々と残ってしまう。
さて、
柳田の清廉潔白という一途な思考が碁に表現され、それを知ったゲンベエが彼の美しい心に魅了され、萬屋ケチベエというあだ名を体で表したような人格がまるで別人へとなった。
それはあたかもいいことのように思えたが、こと藩においてのそれは、家臣たちへの重しとなり、結果多くの家臣が路頭に迷うことになった。
敵役の柴田は口先だったが狩野探幽の掛け軸を売り払い、それを家臣たちへ配り生活の足しにした。
この言葉が柳田の心に大きく変化をもたらした。
そもそも柳田は、ゲンベエと碁を打っている最中に訪ねてきた家臣から柴田のことを聞かされ、腹の中が煮えくり返ってしまう。
それが碁に現れ、ゲンベエが思わず「いけません」と言ってしまう。
大きな心の乱れ
それは明らかに清廉潔白を欠いたことだったが、そもそも大きく心が乱れてしまうほど柳田は未熟だったと感じた。
ただそれは当時の思考
妻の仇を討つことこそ、武士の務め
正しいことは常に時代によって変化する
あの時代の価値観は現代の価値観とは違う。
時代劇の難しさ。
さて、
すべてがうまくいった。
ご縁があり、お絹はヤキチと結ばれる。
祝言の2次会だろうか、ゲンベエは柳田にあの日の決着をつけようと持ちかける。
ところが柳田は姿を消した。
柳田が、
ゲンベエとヤキチの首を切る直前、刀は首の代わりに碁盤を切った。
冒頭、貸し玉半年分の請求 お湯も沸かせないほど身の回りのことができない柳田
時間をかけて彫る印鑑も二分にしかならない。
そんな食べてゆくのも困窮した生活をお絹にも強いてきた。
掛け軸を売って生活費にすることは、殿に対する謀反
今までは考えもしなかった事だったが、時に頑なな心よりも方便の方がいいのかもしれない。
彼の中の優先順位が入れ替わろうとする。
刀をすでに振りかぶったとき、柳田にはそのようなことが多々目に浮かんだのだろう。
二人を切れば、萬屋が廃れる。
それはまた不幸を作り出すことになる。
もしかしたら俺(柳田)は、自分の折れないこの思考の所為で皆を不幸にしてきたのか?
このように思ったのだろう。
同時に、お絹に貧乏生活をさせ続けた元凶の碁に終止符を打とうと考えたのだろう。
碁との決別
考え方を改めてもなお、決めたことは決して譲らない。
だから碁を持ち掛けられたとき席を立ったのだろう。
直角にしか曲がれない侍の思考
ようやく娘を嫁に出し、一人また次の場所へと旅立った。
従来ありがちな仇討ちと何かを足したものに、
そこに碁というものをさらに付け加えることで、一瞬の判断で斬ったりする反射的な時代劇の概念を、少し考えてから行動するという概念にしている。
どっちがいいのか考えてから行動する。
会社の考え、教育、人は誰でも何らかのドグマや信じていることによって行動しているが、おそらくそれらは使える場面と使えない場面がある。
出来事が起き、反射的に思った判断はこの場面では正しいのかどうか?
少し考えてから行動しても遅くはないのだろう。
この部分は素晴らしい教えとして受け取りたい。
新しい概念を持った時代劇 面白かった。