「“おわい”のおきく…せかいは“あい”ではなく“おわい”で満ちている…」せかいのおきく もーさんさんの映画レビュー(感想・評価)
“おわい”のおきく…せかいは“あい”ではなく“おわい”で満ちている…
①肥溜めの蓋を開けるところから始まるなんて確かに前代未聞の時代劇。
②「おわい屋」と元武家の娘の恋なんて本当は有り得ない話だけれども、それを不自然に感じさせないのがやはり黒木華の佇まい(特に横顔の額から顎への線が美しい)と演技力。
『ヴィレッジ』などで無駄遣いしてほしくないものだ。
③映画だから臭いはないのの、もし臭いが付いていたら一部分を除いてずっと“おわい(人糞)”の臭いが漂っていただろう。これは、そういう世界で生きていた人達の話。
④私は奈良の農村で育ったから、子供の頃は普通に畑の中に肥溜めがあったし、目の前で落ちた人も見た(あれは悲惨)。
畑も当然肥料として肥を撒いていたし(映画の中とは言え久しぶりに見たわ)、そういう畑で育った野菜を洗って食べていたし。
でも勿論臭いものは臭いので、傍を通るときは鼻をつまんで息を止めていたし、なるべくその光景を見ないようにしていた。
⑥ただ循環型社会を目指して人糞を肥料にしていたのではなく、それが当たり前だったから。だって人糞て畑にとって栄養あるんだもの。
江戸時代は循環型社会でエコ社会だったとよく言われているけど、単に鎖国をしていたから外国から物が入ってこないので物を大事にしないといけないしリサイクルをせずにいられなかっただけ。
“おわい(人糞)”もエコというより先に述べたように畑の肥として有用だったから。
⑦子供の頃、勉強をサボると父親から“そんなことなら将来はバキュームカーの運転手にしかなれないぞ”とよく言われたもの。
今から思うと随分酷い言いようだし、ホント私の父親ってバイアスだらけの田舎の人だったと思うけど、ある意味それを反面教師として今の私があるとも思う。
⑧ただ、それでも子供心に「おわい屋」さんを少し歪んだ目で見ていたことも確か。
人間は物を食べれば100%吸収出来ないから当然排泄物が出る。
それを処理してくれない人がいないと劇中にあったように世界は人糞まみれになる。
「おわい屋」さんに限らないけれども、人が穢いと思う仕事をする人が世の中には必要なのだ、と気付いたのは恥ずかしながら自分も仕事をし出してから。
日本古代は水洗だったけど(今の水洗とは違って河に流すだけだった)人口増加に下水設備が追い付かないのが原因で藤原京や平城京からあんなに早く遷都しないといけなかったらしいし。
⑨だから、上で述べたことと矛盾するけれど、今の感覚だからそう思うけれども、江戸時代は社会に必要不可欠なものだったから「おわい屋」も現代で思うほど穢い稼業ども思われなかったのかも。
忠次も他に幾らでも仕事がありそうなのに意外とスッと「おわい屋」になったし。
それでも歴史のリアリティーを重視すると身分差別の厳しい江戸時代で最早武家ではないにしても元武家の娘が「おわい屋」を好きになったりするのは有り得ないと思われずにいられないし(そもそも武家社会には自由恋愛なんて無かったし)、それを言えば矢亮や忠次の話す言葉もほぼ現代語で若い世代に観て貰う為かも知れないがどうしても違和感が残る。
江戸時代の庶民が「青春」という言葉を知っていたか、という疑問も残るし。
⑩それでも、江戸時代という窮屈な社会(現代人が勝手にそう思っているだけで当時の庶民はそれが当たり前だと思っていたでしょうけど)を背景に、「どんな人間・職業にも役割がある」「身分を超えた恋愛があっても良い」「やがて来たる新しい時代(何せ年号は安政・万延ですから)に向かって走っていく若者たち(ラスト、そういうことでしょう?)」という理想を描いているところにこの映画が映画たる所以があるように思う。
⑪ともかく、歩き去っていく忠次の足音を障子越しに聴くおきく(黒木華)の表情が素晴らしい。
この表情を観るだけでもこの映画を観る価値があるというものだ。