怪物のレビュー・感想・評価
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アスペクト
物事の側面は、それを見る断面によって違って見える。
「真実はいつもひとつ」と、同時に他のスクリーンで上映していた作品の主人公は言うけど、ひとつなのは「事実」であって「真実」は見る角度によって違うのだよ…お子様にはわからないか…。
というのを坂元さんは脚本にした。この脚本は周り回って是枝監督の元に届いた。教授が印象的なスコアを付けた。
観客席の感情は、最初安藤サクラ演じる母親に、次に瑛太演じる先生に移入していっただろう。だけど最後のパート、子供(達)に気持ちを持って行けた?物語を俯瞰する、客観的な鳥瞰的な視点を得て、気持ちの遣り場に困らなかった?母親は悪くない、先生は悪くない。無論、子供(等)も。「怪物だ~れだ?」…なるほど。
最初は怪物探しをしていたが…
一見明るい教室でも、目元、口元、その人の影や仕草でおどろおどろしさや不安を強調する是枝監督の最新作。
ネタバレなしであらすじを語るのであれば、前半は一人息子の異変から怪物の登場で徐々に生気が抜けていく、さながら完成した塗り絵から色が抜かれていき、ふちどりした白紙の絵に戻っていくように虚しくなっていく。そして終盤に明かされるそれぞれの心情によって色を僅かに取り戻す。白紙の塗り絵には新しくニ色が入り完成する。分かりにくい言い回しかと思いますが、観たい後押しになれれば幸いです。
このタイプの映画は見る人によって見解はもちろん違うのだけれど、テンポが早く注目して欲しい部分が明確ですっきりと観れる仕上がりでおすすめです。
そして本当の怪物は自分の後ろの席で、何故というタイミングでくすくすしていた男性なのかも知れない…
怪物って言うけどあまりにも…
観てて、思ってたのは、「我々は何らかの選択を常にしている」って、最近よく聞く言葉。
人って、もともとそんな健康なひとばかりいない。みんな闇の部分もある。その一人一人が、ちょっとずつズレて、そしてそれがまた、変なふうに引っかかって、途方もないズレになっていく、みたいに思った。
怪物かあ…、、自分から見たら相手は怪物、
分かり合えなければそういうことなのかも。
しかし、子どもを学校行かせてる頃のことを思い出すと、コレあまりにも日常なんじゃない?って思えるような映画でした。改めてそういう世の中なのが怖いよね。
ホラーでも何でもない。そこが怖いのよ。
何とか、ならないもんですかね、今の世の中って。
すみません。適当にまとめたみたいになっちゃって。
ズレをね、いいズレ方してく、というか、一つ一つの選択がいかに大事か、って言ってもそんなうまくいくもんじゃないけど。でもその違いが大きいんだろうな。
「怪物」とは
怪物とは何だ?怪物とは誰だ?
社会?学校?世論?人間関係?校長?教師?生徒?友達?親?こども?
何が真実・正義で、何が嘘・間違いなのかは当事者同士しか分からない。他人(部外者)がそのときの感情や憶測で物事を判断するのは、「誤解」に近いものであり、「お門違い」だと考えた。
また、1つ1つのシーンの切り取り方・挿入の仕方・順番、カメラワーク、セリフなどとても秀逸だと感じた。
様々なことを考えさせられる良い機会となった。
おとなの事情で小学校を守った校長先生。
是枝監督は、こどもの自然な演技を引き出すのがうまいという印象がある。この作品は、是枝監督の脚本ではないようだが、今までになくこどもたちの演技が印象深かった。湊と依里の友情物語のような話は、最近の映画では見たことがないので新鮮であった。火事が起こった時を起点に、「母親の視点」「教師の視点」「こどもの視点」と三部構成になっているのもとても効果的だと思った。それは立場や見方が違えば、物事が違った意味を持つという単純なことだが、この作品においては、おとなの世界とこどもの世界の対比を鮮やかに描く効果がある。おとなになると守るべきものが増える。他から攻撃されることも多いが攻撃する手段も身に着けている。「思い込み」や「一方的な正義」にとらわれると、相手を激しく攻撃して収集がつかなくなることはよくある。母親が息子が学校で不当な扱いを受けていると思って教師に抗議したり、教師が表面的な事実しか見えなくて、生徒の親をモンスターペアレント扱いしたり、こどもを不公平に扱ったりする。そして何か事が起きるとマスコミが興味本位で書き立てて当人を傷つける。また、「体面」が重視されるため、取り繕ったり、嘘を平気でついたりする。それがおとなの世界とも言えよう。それに比べてこどもの世界は狭いだけにしがらみが少なくて単純だ。湊と依里はおとなたちの思惑に振り回されているが、自分たちの世界をしっかり守っているように見える。湊の依里に対する、恋心にも似た好意が健気であり共感できる。おとなたちが誰かを「怪物」扱いして誤った方向に向かっているのに、こどもたちは傷つきながらも人間的に正しいふるまいをしている。そんなおとなとこどもの世界をつなげているのが校長先生のように見えてきて、田中裕子の演技が印象的であった。
「万引き家族」と同様に、分かりやすい内容ではないので、解釈は見た人にお任せしますという感じである。個人的にはとても面白かった。
幸せの定義
・母親の視点で見る我が子と学校
・担任先生の視点で見る教え子と学校
・子供の視点で見る同級生と大人
(※校長の視点が少し入るが)
世界線は一緒でも視点に寄って相対する人間像が丸っきり違う脚本の妙。
正直、冒頭からの展開に何やら気持ち悪さを感じ、自分の生きた世界とを鑑みながらも私は3つの視点が交差した瞬間に「あぁおぞましい世界の視点がこの世には多い」と改めて見せ付けられた終末に納得した。
観る人によっては真実とも事実とも捉えられない難解なドラマと思われるが、至って単純な人間愛の物語。
世間の常識的幸せ、個人が思う幸せ。
校長を演じる田中さんの言葉が意味する以上に私の心を刺した。
人となりに正解なんてものはないし全てを理解し合うことは出来ないが、一緒に考え生きていくしかない。
ただ坂元さんと是枝監督の共通すべき"怪物"は直ぐ側に潜んでいると教えてくれた。
今や日本だけじゃ無い?映画界の話題監督&映画作品…。
と言うだけ有って、ソウは容易(タヤス)くレヴューを書き込んではいけない気がしたのも確かだし…
内容も深くて,ソウ,レヴューを書くに当たって、色んな解説等を見てると色んな作品に対しての捉(トラエ)え方を見受けたのも確かで有り、そっち方面の展開かぁ〜(死語の世界かぁ⁉︎)とそう考えると,色んな幅広い観方が出来る! 最初に映した場面から話が遡(サカノボ)って,そうなる理由が後から映す映像に寄って理由が解る!と言うのも好きな感じである,とか…。
色んな捉え方が出来ると言う事だけでも私には堪らない処でもある。がしかし,率直に「映画作品として面白かったですか?」と聞かれた処で「最高でした!」と答える事は,返事に窮する処だとも言わざるを得ない!,
まっ,賛否両論が出る事自体が映画の世界の醍醐味?だからこそ鑑賞側の好き勝手に言っちゃってる私でも有る訳だが…。
かいぶつはだれ?
序盤はへんなテンポの映画だなと思っていたら、まぁ仕掛けのある作品でした。
「かいぶつ、だーれだ?」この言葉自体がミスリードなんですね。
怪物はだれもが心のうちに抱えて増幅させるもの。起こった事象をだれもが自分の見え方で価値観で解釈し、イメージを増幅していくわけです。
麦野早織は学校がおかしいと声を荒げ、息子の湊の担任教師・保利のことが怪物じみて見えてくる。
その保利からは、湊がいじめをしているのではないかと疑い、得体のしれない怖さを感じる。
そして、湊は同級生の依里が不思議な存在だと思いながらも仲良くなっていく。
まるでプリズム。誰の目からどのように見るかで、なにが怪物なのか変わってくるんですね。
冒頭のビル家事が象徴的です。だれが放火したのか、ビル周辺でだれがなにをしていたのか。それぞれの人物の見方で変わってくるわけです。当事者なのか傍観者なのかでも違う。本当のことすらわからない。
子役は相変わらずのすばらしさでしたね。
特に湊と依里が仲良くなっていく過程がすばらしかった。片方ずつ靴を履いて、ケンケンしながら帰る場面なんか、ずっと見ていたいと思ってしまった。
湊が依里を好きかもしれないという感情が芽生えたところもまさに演技。セリフなしで愛情なのだと、観客をハッとさせないといけないわけで、しっかり演技で見せている。友情ではなく愛情なのだと。すごいこと。
音は全編、大事なところで鳴っていました。坂本龍一の曲もちろん、不穏な管楽器の音が学校で響いているのも象徴的でした。これは湊と校長先生がイヤなことは楽器を吹いて吐き出すと話していたんですね。
田中裕子が演じる、校長先生も不気味でしたね。ひたすら謝り続ける。子どもを憎んでいるのかもしれない。孫殺しの犯人とも受け取れる。しかしそれもなにもかも偏見でしかなかったのかもしれないんです。
そう観客すら他人事ではいられない。第1幕で穿った見方をして誰が怪物なのか疑い続ける。第2幕でも偏見が覆された体験をしているのに、真の悪を見つけようとする。違うんです。この悪を見つけようとする行為自体が、怪物を生み出すんです。
このバイアスがなければ、2人はもっと素直に周りに話せたかもしれない。母親に先生に。そのチャンスは間違いなくあったけれど、大人がつぶしてしまった。だから2人は追い込まれ、嵐の中を逃避行せざるを得なかった。2人だけの世界へ行かなければ、2人の思いをさらけ出せなかった。
是枝裕和、坂元裕二の2人の仕掛け、味わってみることをおすすめします。
自分の中に潜んでいる怪物性に気付かされました…
公開前から何かと話題になっていた本作ですが、内容については全くの予備知識無しで観ることが出来ました。
色んな視点から語られる真実。
それぞれの立場にたてば全てが真実。
その中で、勝手に犯人を決めつけている自分…。
あぁ…怖っ!
ラストシーンですが、三途の川を越えて、二人はようやく望み通りの新しい人生へと歩み出す…と希望に満ちた解釈をしたのですが、どうでしょうか?…っちゅーても死んでるんですが(笑)
あの火事は対岸の火事ではなかった
湊かなえさんの「告白」を思い出しました。物語は全く違いますが、親、先生、生徒の視点によって見方がガラリと変わって反転する立場に、足場が崩れるような不安定な気持ち悪さを感じた。本当の事実は誰だったのかといえば、この物語でいえは主人公たる二人の少年になると思う。怪物って誰だろう?じゃなくて、そもそも怪物を探している側が「怪物」じゃないと何故言い切れるのだろうか?冒頭の火事は、対岸の火事ではなかったということ。
また、校長先生の言った「幸せとは~」に悲しさがあるけれど、ほんの少しのあたたかい視線も感じるのは、私のただの願望だろうか。最後の二人の少年の姿も同じく、そうであって欲しいと願わずにはいられない。
これもまたきっと、独りよがりなんだと思う。
それぞれの・・・
長野県諏訪湖にほど近い小学校。 クリーニング店で働くシングルマザー...
長野県諏訪湖にほど近い小学校。
クリーニング店で働くシングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)は、ある日、5年生のひとり息子・湊(黒川想矢)がいじめに遭っているのではないかとの疑念を抱く。
幾日か経た後、その疑念は確信にかわり、いじめの主体は教師にあるように思えた早織は、学校へクレームを入れに訪れた。
そこでは、担任教師の保利(永山瑛太)のみならず、校長先生(田中裕子)も死んだような眼をして、頭を下げるだけだった・・・
そして、、担任の保利からはなぜこのような事態になったのかはまるで理解ができないままで、保利の眼では湊を虐待したことなど一度もなかったとしか思えなかった・・・
といったところからはじまる物語で、母親・早織と担任教師・保利からみた事態の顛末はまるで異なっている・・・というのが映画の導入部。
いや、導入部と書いたけれど、ここまでで1時間以上経過している。
それぞれの視点からの事態は、様相が異なっており、いわゆる黒澤明監督『羅生門』的でもある。
で、大人ふたりの視点からの物語のあとに少年の視点の物語がつづられるわけで、早織の息子・湊と彼の友人・依里(柊木陽太)の物語が本編のメイン。
ここで映画かれる物語は、かつてならば「奇妙な」と形容される類の友情譚なのだけれど、現代の価値観からいえばそれほど奇妙でもない。
依里は、ある種のギフテッドのような才能があるのだけれど、周囲との同調性はなく、なかんずく中性的な魅力にあふれている。
(ギフテッド的才能なのはわかりづらく、観ている間はある種の発達障害にも感じられました)
さて、そんな依里だから周囲の男子生徒(男子だけなのは、よく見るとわかる)からは疎外されて、いじめの対象になっているのだが、本人は唯々諾々、馬耳東風、そんな馬鹿なことには当事者でありながら我関せず。
そんな依里に好意を抱いていく湊の物語として、一本の独立した映画でもよかったのではないかしらん、と思った次第。
思春期前夜の少年の恋愛とも友情ともつかない物語を、映画は、『銀河鉄道の夜』『スタンド・バイ・ミー』のモチーフも用いて描いていきます。
坂本龍一の音楽と相まって、切ない感じが醸し出されてきます。
さらに、依里少年の無邪気さが、意図的な邪気はないのだけど、すべてが善意ではないという感じで、妙に大人以上に大人びていて不気味なところも魅力なのだが・・・
で、個人的に評価が悩ましいと感じたのは、前半の大人ふたりの視点をわざわざ切り出してみせる必要があったのかどうか、というところ。
たしかに、ものごとは一面的でなく、みた人によってそれぞれの受け捉え方はかわり、真実とは遠ざかっているのかもしれませんが、後半の少年たちの物語と比べると、なんだか図式的になっているような感じがしないでもない。
また、後半の少年たちの物語に、校長先生の視点がはいっているもの、観ている方を混乱させます。
(組織のなかで、虚(嘘)をとおして、自分を守ろうとする身という共通点はあるものの。また、校長先生と少年ふたりが同じコインの表裏というにしては、なにかコンテキスト的には弱い感じもするわけで。)
ということで、ラストシーンも含めて傑出したシーンもあるのだけれど、どこか「ヌエ的な映画」という感じを拭い去ることができず、もろ手を挙げて評価するところまではいかなかったです。
なお、ヌエというのは「猿の顔、狸の胴体、虎の手足、尾は蛇」という日本の昔の架空の動物ですが、ま、その実、レッサーパンダだよね、という動物学者もいるようです。
ははは、レッサーパンダ。
湊くんと依里くんのようでかわいいね。
怪物は内に潜む
人は「自分の見たいモノしか見ない」現代的なテーマ
お話そのものは多くのメディアで紹介されているので
多くは触れませんが、色んな方の考察で語られているように
所謂「羅生門形式」
同じ一つの事実でも、それを見る者によって
全く違う印象になってしまう。
と言う作りの映画。
カンヌ映画祭でクィア・パルム賞を受賞したので
LGBTQに興味が有る無しで偏った味方をされなければ良いのですが〜
LGBTQの話はもちろん重要な要素ではあるけど
そこがメインではなくて、
この投稿のタイトルの様に
「人は自分の見たいモノしか見ない」
現在のネット社会の大きな問題であると同時に
人間の普遍的な部分なのでしょうね。
ネットの無かった時代にも
「人の口に戸は立てられない」とか
「人の噂も75日」とか言われるように
中途半端な情報と思い込みっていうのは
時に人の人生を狂わせることもある。
そう言う諸々の人間の愚かさこそが
「怪物」
なのかな〜〜と思ったりしました。
で、月に8回ほど映画館で映画を観る
中途半端な映画好きとしては
考察のしがいのある映画でしたね。
ストレートではなく意味深な場面の多い映画であり
正直、そこはミスリードでしょ!と
突っ込みたくなる(苦笑)場面もあるのですが、
そこも含めてなかなかに楽しめました。
一回の鑑賞では消化しきれない映画なので
時間が合えばもう一度観たいです。
昨年の流行語だったか?
「〇〇らしいよ〜 知らんけど〜〜」
って言うのあったのですが
私、これ、全然笑えない!!
「知らんのなら言うな!!」ってなってしまう。
人間の間違った思い込みと
情報の垂れ流しの罪深さよね〜〜。
兎に角見応えがあります。
映画館で全集中でご覧下さい!!
想像で
補う「余白」が、たくさんある作品。
映像がヒントで、多くは語られず、
ピアノの音色に翻弄され、導かれ、癒される。
出来事の「結果」から
(良くないことばかり)考えてしまって
心拍数が上がる。
でもそれは「大人側」の
短絡的で断片的なもの。
「子ども達」は、大人に「気をつかい」、
嘘をつく。
事実を隠し、
自分を、大切なものを守ろうとするのは
大人も子どもも同じで、、
そうすると、
したたかで、嘘つきで
裏表のある人達ばかりが
生き残ってしまう、、
あの子は、家業を手伝うよい子、?
「優しさ」を見逃さず、守るには、、?
正直で、噓が下手な、不器用な人達を、、
「ナマケモノ」の特性を身に付けて
大人になったのが、保利先生なのでは、?
、罵倒に鈍感過ぎる、
「耐える」ことに慣れ過ぎてる?
彼は何故、キャリー、?
時々映る、川と湖、、?
「ポニョ」「スタンドバイミー」
「リバーズ・エッジ」も見え隠れ
「みんな、病んでる
必死で生きてる」
人も物事も、
多面的で複雑なことを
心して、
大人のフィルターが濁りがち
なことを、認めて、、
子ども達の「逞しさ」を信じたい、と思った。
誰もが手にするもの 誰かが手にするもの
ヒトは誰もが安心して暮らせる世界を目指した結果、誰もが生きづらい世界になりました。何故かな?。大人が生きづらい世界にいる子供たちには、どんな現実と未来が用意されたかな?。
こういう映画が創られたこと、こういう映画が評価されることに、戸惑いを禁じ得ません。つまり、誰もが手に入れるものより、誰かが手に入れるものに、ヒトは共感することになります。校長先生の謂うところの、どうでもいいものに、ヒトは惹かれるわけです。きっと私もね。そんな私が手に入れたものは、かなり怪しい物みたい。
何とかしようとする大人達が造る、何ともならない世界。無邪気に他者を破壊する、壊れた子供。そのまま大人になった、壊れた大人に気を遣いながら、壊れないようにもがく子供。その狭間で何とか足掻く親。皆様は、誰に共感できます?。
時系列の組み方が絶妙ですね。まず御見物に、?を想起させて、シャッフルした時間で御見物に、!を届ける。やはり脚本の勝利でしょう。「パルプ フィクション」を彷彿とさせます。ただ私としては、こと無かれ世界のラスボスとして、怪物級のオーラを放つ田中裕子に、何か賞あげたいなー。
私、是枝氏の映画を総て観たわけではないですが、ちょっと変わったかな?。これまで、どん詰まりの先にある、光のようなものを描く映画が多かった気がしますが、本作は、さらにその先まで突き抜けちゃった感が…。
未来を生きる子供たちに、私達は何を遺すの?。
皆様の歩む先に、出発の音が、聞こえますように…。
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