すべての夜を思いだす : 映画評論・批評
2024年2月27日更新
2024年3月2日よりユーロスペースほかにてロードショー
まちと記憶の多層性、生と死の多元性を、女性3人の一日を通して表出させたミニマルな群像劇
1992年生まれの清原惟監督は、東京藝大大学院の修了制作で撮った初長編「わたしたちの家」(2017)で、ふたつの家族の物語が一軒の家で同時進行する“平行世界”を構築し、PFFアワード2017グランプリ、ベルリン国際映画祭フォーラム部門上映など国内外で高く評価された。同作について清原監督が文芸誌に寄せた文章で、バッハの「フーガ」を聴いていたとき、複数の独立した主旋律が互いに影響しあってひとつの音楽になる形式から映画の構造の着想を得たと明かしている。そしてこの長編第2作「すべての夜を思いだす」は、舞台を一軒家から自らが幼少期を過ごした多摩ニュータウンへと拡張し、フーガ的ストーリーテリングも女性3人の主要人物を配して一層豊かに発展させたものと言えるだろう。
誕生日の朝にまっさらなスニーカーをおろした四十代の知珠(兵藤公美)は、求職のためハローワークを訪ねた後、友人からの転居通知を頼りに不案内なニュータウンをさまようことに。三十代のガス検針員の早苗(大場みなみ)は、担当地域の移動中に捜索願が出されていた高齢男性を見つけ、過去と現在の記憶が混濁するその老人を自宅まで送り届けようとする。この街で生まれ育った大学生の夏(見上愛)は、いつも近くにいた友人・大の一回忌の今日、共通の友人・文と共に3人で冬の花火をした夜のことを思い出す。
古い団地やタウンハウスが立ち並ぶニュータウンを、徒歩や自転車、路線バスで移動する知珠、早苗、夏。3人は見知らぬ他人同士だが、遊歩道や団地の共有部を歩いたり、公園で過ごしたりする際にすれ違い、ほんのひととき“見る・見られる”ささやかな関係を結ぶ。公園でひとりダンスをする夏を遠くから見かけた知珠が、身体の動きを真似て踊り出すシーンなどは、まさにふたつの旋律が重なり合ってハーモニーを奏でるフーガ的魅力が端的に表れた秀逸な場面だ。丘陵地に造成され歩車分離の都市計画により遊歩道と車道が異なる高さで並走し交差する、多摩ニュータウンならではの多層構造もまた、主要人物らの物語がすれ違い一瞬交わる群像劇の舞台として有機的に機能している。
空間的なレイヤーだけでなく、場所に結びついた記憶の層もまた繰り返し言及される。東京都埋蔵文化財センターを訪れた夏と文は、この地で出土した土器や土偶を見ながら、数千年も前の人々の暮らしと記憶に思いを馳せる。早苗は写真店で働く彼氏の職場で、1980~90年代に撮影された誕生日パーティのアナログビデオをデジタル映像に変換する作業のモニターを眺めながら、幼い頃近所で見つけて結局飼えなかった野良猫をめぐる思い出を語り出す。
この場面で彼氏が「その猫と暮らした早苗さんもどこかにいると思うんだよな」とつぶやくが、「わたしたちの家」の平行世界とも呼応する示唆的な言葉だ。早苗が日中に老人に付き添って行き着いた住宅は、現在誰も住んでいない空き家だと判明するが、再度訪問した際にはガスメーターが動いていて玄関先には鉢植えのラベンダーが咲いていた。あの高齢男性の妻が実は別世界で暮らしていて、多元宇宙が交錯したファンタジックな瞬間だったのかという想像を喚起させもする。
知珠の誕生日と夏の友人・大の命日が重ねられたように、まちには無数の生と死の記憶が積み重なり、地層のように埋もれていく。「すべての夜を思いだす」は実在する多摩ニュータウンを舞台にしているが、前述の空き家のエピソードのようにリアリズムから逸脱した形而上的な要素も含む。地域住民の記憶を資料などから掘り起こし、監督自身の思索と空想を加えて再構築した本作は、清原版の“脳内多摩ニュータウン”と言えるかもしれない。知珠が暮らすアパートのキッチンの窓をとらえた序盤のショットで、ガラスのボウルに小さく収まって見えるニュータウンの遠景が、この映画内に創造された平行世界を象徴しているかのようだ。
(高森郁哉)