バビロンのレビュー・感想・評価
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Movie Magic!
「ララランド」のラストは「巴里のアメリカ人」、今回はまんま「雨に唄えば」。ジーン・ケリーファンとしてはうれしいけど、長くない? よかったけど。
ラスト近く、劇場で「雨に唄えば」を観ている人たち、老いも若きも男も女も子供たちも、みんながしあわせ。
映画愛に溢れたとても良い題材なんだから、「雨に唄えば」みたいなみんなが楽しめるような作品にしてくれれば良かったのに。排泄物や子供に見せられないとこカットすれば2時間くらいに収まるだろうに。それじゃ面白くないのかな。
あまりにも映画ファン受け狙ってるというか、面白かったけど観客3人しかいなくて心配。
タイトルが出るまでのパーティの狂乱はそれはそれで興奮したけど、撮影風景が面白かったなぁ。
ピーター・ボクダノビッチの「ニッケル・オデオン」が観たくなった。
チャゼル節
チャゼル作品らしい怒涛のたたみかけ
カオスに次ぐカオス
チャゼル作品は
綺麗事をやらないからリアル
どこまでもアナログ
だから心にくるものがある
チャゼル監督の奥さんもいい役で出ていたのが嬉しい
音楽もララランドのコード使っていた気がする
やりたいことやったんだろうなって映画だった
ラストはアツかった、、俳優陣も音楽も最高だった
翌日もバビロンに引っ張られている
これまでのチャゼル作品にもあった狂気と情熱
これが映画の歴史なんだよと突きつけてきて
敬意も感じて作品を通して昇華している
考えれば考えるほど愛
大衆へと降る古代都市
Babylon
主要4キャラクター達は皆、映画に対しては誠実に向き合い、真摯な仕事をしている。
時代に合わせ、変わっていくことは意味のないことか。
記者は、流行の移り変わりは、何かが悪いわけではないという。冒頭の酒池肉林は、後に違う形で姿を再度見せることになる。
成長と時代と共に価値観は変わるが、最終的には、皆正しく幸せになりたかったように思える。
マニーは、ネリーに対してずっと誠実でいた。本人からしてみれば、愛しているので当然か?その現実のシーンが、映画の錚々たる名シーンに包まれている。映画文化だけでなく、それを愛する大衆の生活を讃えたエンディングに、ジャックの強調した娯楽の重要性が重なっていく。
生き方が下手なネリーに感情移入しました。
<ラ・ラ・ランド>が面白くなかったので、大して期待していなかったが、予想外に大変ドキドキさせられました。ローリング・トウェンティーから世界大恐慌、禁酒法時代に入る前までの古き良き時代を描いた映画。この映画で地に足を着いた生き方をしたのは、ゲスなハリウッドセレブに、たった一度の映画出演で決別したシドニー、くだらないハリウッド人種と思いながら、上手に渡り歩いたアンダーグラウンドの女王フェイ、日の当たらない場所で
ゴキブリのように生き残る、ゴシップ屋のエリノアの3人でした。対照的に映画を愛してやまない大スターのジヤック、貧しかった子供の頃から成功を夢見てのし上がろうとしたネリーとマニーの挫折が痛々しかった。デ-トリッヒをモデルしたと思われる、退廃美が、魅力的ですね。
シドニ-は目の前の大金に躍らされせず、ミュージシャンの道に戻ったのは、本質を見極める能力ある本物でした。フェイはマイノリティーとしての苦しみを越え、欧米で翻訳者としての再チャンスを掴むため、旅立った強く賢く冷静沈着な魅惑的な女性でした。こうして中国系アメリカ人の成功は、人一倍努力して、今があるんてすね。
ジヤックが普段はあんな破壊的な生活をしているのに、映画にたいしての情熱が真面目で凄くて驚きました。いくつもの語学をマスターして、大スタ-になっただけありますね。ト-キ-に夢と期待を抱いていたのに裏切られ、忘れられたスタ-になるよりも、忘れえねスタ-として終幕を迎えたのは、哀しくせつなかったです。
機転と気配りができるマニ-と、場が読めない破滅的でコンプレックスだらけのネリ-は、性格は正反対だが、貧しさから抜け出そうとする気持ちだけが、惹かれていたんですね。ネリ-は、上辺だけ上品ぶったハリウッドセレブリティに、嫌気して本音をぶちまけた、か弱くデリケートな痛々しい女性でした。一方、貧しいながらも良識ある家庭で育ったと思われるマニ-ですが、ネリ-に振り回されなければ、成功してたかもと思いました。しかし、ハリウッドは一寸先は闇の世界なので、平凡だが堅実で良識のある世界に早々に戻って良かったです。
それにしても,あの時代に女性監督がいたのですね。ト-キ-の初頭時代は演技と音楽とセリフが同時撮影で、失敗すれば何度も撮り直しなんて、大変な時代でした。この映画に引き込まれたのは特に、ネリ-の悲痛な叫びを体当たりで演じたマ-ゴットと、ジャックの胸がしめつけられるような、心に突き刺さる、演技描写のブラッドが素晴らしかったからです。
ラストで、夢の世界で生き残るのは壮絶だなと、重々しい気持ちになりました。
時代に流されず、夢を見過ぎず、自分を見失わずに生きようと教訓になった映画でした。
監督の映画愛が伝わる!もしやニューシネマパラダイスオマージュしてる?
最初のタイトル出るまで割と長いwwごめんなさい、ちょっとそこ寝ちゃいましたww
けど!その後は!ワクワクしたし、ドキドキしたし、監督の映画大好きが伝わって泣けました!
カメラが無くて調達してなんとか夕焼けのシーン(逆によかった)が撮れるところとか、ゴシップ誌の編集の女性が「あなたの作品は未来に残る」的なこというシーンとか(ま、ありがちなセリフなんですが、コレが案外響きました)映画好きにはたまらないシーン満載でした
そしてー!あのマフィアのボス的な白塗りの人、トビー・マグワイアだったのー!?やっぱりー?マジかー!!!
そしてそしてラストの映画見るシーンもしかしてニューシネマパラダイス、オマージュしてます?私はすごく感じてさらに泣けてしまったのですけど!!
当時の映画が好きならば
ブラピ主演かと思いきや群像劇で、ネリー>マニー>ジャック>シドニー>その他といった比重。
全体として『時代』を描いているというのは分かるが、人物、舞台裏、歴史などなど多様に扱いすぎ。
芯になる部分がない上に最後にバイオレンス要素まであり、ごった煮に感じる。
実際どうだったかは知らないが、すぐ脇で同時並行的に撮影が行われるシーンは面白かった。
脇でオーケストラが演奏してたのに、無声映画だったのは驚いたが。
また、その後トーキーに移ってからの環境の変化も興味深い。
しかし、冒頭の乱交パーティや8テイク丸々見せるなど冗長なシーンも多いし、後半ダレる。
そこからテーマや結論が広がるわけでもないので、ジャックとエリノアの対話が着地点でよかった。
個人的にはネリーは最高でした。
チャンスを掴んだ演技の説得力、艶かしいダンス、イカれ具合、闇に消える後ろ姿。。
新聞の片隅の小さな記事で死亡が伝えられる最期も悲哀を感じた。
映画(特に旧いもの)に詳しい方はもっと楽しめるのでしょう。
学の浅い自分には、業界裏のお仕事ものか、ネリーあるいはシドニーが単独主演の方が面白そう。
デイミアン・チャゼルが「ニューシネマパラダイス」を撮ったら、こうなった。的な。
「サイレント」から「トーキー」への変遷期モノです。「Babylon」は「神の門 → パラマウントのゲート」を指しているのか、「混乱」という聖書の解釈からのタイトルなのかは不明ですが。どっちも合ってるよなぁ、って思います。
冒頭の、乱痴気パーティー・シーンの迫力ですよ。ものすごい数の人物が動き回るセットの中で、更に動き回るマニーとネリーと、それを追いかけるカメラ。混乱の中を、流れるように、人の合間を縫うように移動するマニー。これ、どういう演出?どうやって撮った?って驚かされます。
チャゼルらしい、ち密な作りこみはさすがだよ、って感じるし、物語にも惹き込まれる部分はあるんです。満足度も高いです。というか、シンプルに面白いです。なんといっても、金かかってるし、超豪華キャストだし。
でも、なんか、物足りなさがあるんですよ。
まぁ。あれですかね。オチが、というかラストが「ニューシネマパラダイス」過ぎだからでしょうか。設定が「雨に歌えば」過ぎだからでしょうか。またまたハリウッドでブラピとマーゴットだからでしょうか。なんか上手く言えないw
とにかく、見て損はないハリウッド大作、ではあると思いましたが。
やっぱり、ワタクシ的には、安っぽさや駄目さの残るチャンガラ映画が好きみたいです。
いずれにしても、この作品のマーゴットは最高です。マーゴットの演じるシーンの演出も最高です。暗闇に消えていくネリーのシーンなんて、最高すぎます。
良かった。
けど、期待値以上でも以下でもないと言う。
この内容で、優等生的な終わり方が物足りなかったりするけれど。
と。
物足りなさの理由が分かったわw
もしやアカデミー賞への当てつけ?
ラ・ラ・ランドでハリウッドに媚びたが作品賞を逃した監督がまたハリウッドの映画かと思わせられますが、ハリウッドドリームを見せてくれたラ・ラ・ランドに対し今度はハリウッドの現実を見せてくれたとでも言おうか。
上映時間3時間越え、RRRやアバターと違ってこの手のジャンルに3時間は内容が相当面白い物でないとだれてしまう。
実際劇中の主人公が映画館で寝てしまうのだが同じ気持ちである。
無声映画では売れっ子だったスターがトーキーになって落ちぶれていく、自らクソ作品と呼び、自分の落ち目を作品の所為にするがそうではない。
時代は移り変わるもので作品や演者が悪いわけでない。でもそんな作品でも映画というものは後世に伝わり、見るものを魅了する。
そしてラストには数々の映画がフラッシュバックされる。
その作品群だが、およそアカデミー賞とは無縁な作品が映し出されるように思える。
いくらクソと言われる作品や退屈で寝てしまう作品、
映画賞などにも選考されない作品でもそれらを何がしろにしてはいけないし、むしろそれらの作品の方が後世に伝わって愛されていくのでは無いかというメッセージでは無いのだろうか。
突拍子もない解釈をしてみました。
ゴー クレイジー、ノー リグレッツ
巷では賛否両論と聞いた本作。3時間だし、期待値低めで鑑賞したのが良かったのか、個人的にはシンプルに観て損は無かったかなと思いました。ヘビとの格闘シーンとか、くどく冗長なシーンはいくつか見受けられましたが、役者の演技と重厚な音楽と、迸る熱量みたいなのがそれらを上回って退屈はしませんでした。
しかしホントにあんな狂乱してた時代があったとは。でも時代なんてそんなもので、今から振り返ったら平成もロクな時代じゃなかったなんて思ったり。
時代のうねりに呑まれていくと分かっていても、その中で刹那的に輝く人たちの快楽と哀愁は伝わりました。
私には無理だった
とにかく汚すぎるシーンが多い
私は潔癖症ではないけど
吐き気がしそうだった
男性器を模したものが何度も表現され
大便、小便、精液、吐瀉物、血液、
いろんな人が被って汚物まみれになる
クスリをやり、そこら中でセックスする
生きたネズミを食べるところを見て興奮する
戦前のアメリカ映画界は本当にあんなだったの?
あれを観て面白いと言うなら
私には無理だ
それなのに
主人公4人は汚物を一切被らない
セックスシーンもない
胸も出さないお尻すら出さない
どうして?
面白いと思ったのは
前半の映画を撮っているシーン
サイレント時代は撮影中現場で静かにしなくてよかったから余計にエネルギッシュさが溢れていた
最後のジュラシックパークやアバターからの様々な映像
意味不明
面白いと言う人と
面白くないと言う人にわかれているそうだ
それはそれで興味深い
流れゆく映画業界の価値観
え、やりすぎじゃない?とまず思った。
序盤のとんでもパーティからただならぬ映画であることは実感した。
無声時代に人気があったジャックやネリーもトーキー映画で多少の成功を収めたマニーも時代にのまれて成功と挫折を味わいまくっている姿に痛いほど感情移入できた。
自分がいける!と思った映画や演技が時代の流れの中で笑われ評価を失う様が酷すぎた。
そんな目まぐるしく変化するハリウッドで自分の実力による成功の実感、確かな人生観なしに生き残っていくのは本当に難しいんだろうなあと思った。
あっさり別の女性と家庭を持つマニーの未来が、ララランドであっさり別の男と家庭を持ったミアとなんだか似ているようにも思えた。
長い!…けど
最初の感想はやっぱり長い!ですw
ただ、それを感じさせない程の熱演。
思わず見入ってしまうほど。
トーキー映画への切り替え時期、それぞれの想いがあったり、華やかな面、薄暗い面がそれぞれ描かれていており、内容としては興味深いものではありました。
成功する者もいれば、時代の流れに乗れず落ちていく者。
ある意味自分の想いを貫く者。
様々な、人達が絡み合い、時代が流れていく様が見えます。
まぁこういう映画なので、好き嫌いは分かれそうですね。
パーティシーンや撮影シーンなど派手なところもあるのですが、ストーリ的な面白さ、ワクワクするような事はあまり無いかな。
意欲作では有るが「バビロン」という題名が惹起する毒気が足らないのと最後が甘い。
①途中から、これは「裏『雨に唄えば』だな」と思っていたが、最後に本当に『雨に唄えば』が出てきたのにはちょっと驚いた(+ちょっとエヘン!)
②「ハリウッド・バビロン」という本がある。
本当の意味でのハリウッドの黄金期である1920年代~1950年代(本作の背景と重なる)、表向きは“夢の工場”であったハリウッドの裏がいかに背徳と退廃とにまみれていたかを描いた所謂一種の暴露本ではあるが、特に1920年代のハリウッドの裏側が如何に乱れていたか、乱痴気騒ぎや酒池肉林で爛れていたかを描いた辺りを本作は冒頭のパーティーシーンで上手く描写・再現している。デブの俳優がセックスプレイの挙げ句、端役女優を死なせてしまう件(くだり)は実際にあった事件を下敷きにしているし、余りにスキャンダルが続くので1930年代にハリウッドに風紀取締組織が出来たくらい。
ブラッド・ピット演じるジャック・コンラッドは、監督によるとダグラス・フェアバンクスやジョン・ギルバート(声が高過ぎてトーキーに移行するときに人気が落ちて自殺した)をモデルに造形したと言っているし、ネリーはジョーン・クロフォードをモデルにしたのではないかと私は思うし、レディ・フェイはサイレント時代の人気スターだった中国系女優アンナ・メイ・ウォンをモデルにしているのも一目瞭然(因みに日本人の早川雪州もサイレント時代のハリウッドスター)。
女性映画コラムニストのエレノアは、映画スターの生殺与奪を左右したとも言われるルエラ・パーソンズがモデルだろうし、当時はいなかった筈の女性監督も登場する(アリス・ギイへのオマージュ?)。
他にも実在のハリウッドスターの名も頻繁に登場して、黄金期のハリウッド映画が好きな私としてはその虚実混じった世界は楽しめた。
③カメラの調達が何とか間に合って落日寸前に撮影が出来たシーン、ネリーがその扇情的なダンス(ジョーン・クロフォードだね)といつでも涙を流せる演技で見事代役を務める撮影シーンも映画好きとしてはたまらない。
が、ここまでの熱量は確かに凄かったのに、あとはだんだん熱量が落ちていく。
④本作の中心プロットとしてはサイレント映画の大スターだったジャック・コンラッドが過去のスターとして没落していく姿と、映画界に夢を求めた二人の若者が夢を叶えた後堕ちていく姿を平行して描きながら“映画”というものを描くことだと思う。
(観る前は、第一次世界大戦で疲弊した欧州を抜いてアメリカが世界の大国として躍り出て繁栄を極めたローリングトゥエンティであり、映画というものが大衆文化として確立し映画スターがセレブとなった狂乱の1920年代を舞台にした映画だとてっきり思っていたが、トーキーを経て1952年―『雨に唄えば』が公開された年―までが描かれるとは思わなかった。)
ブラッド・ピット扮するジャック・コンラッドは映画スターというものの神話性と通俗性とを表裏一体で体現している存在として描かれているけれども、最後に自殺するところは余りに予定調和的過ぎて面白味がない。
マーゴット・ギター扮するネリーがセックスシンボルとしてスターダムにのしあがった後転落する様も(転落するところは、ジョーン・クロフォードではなくクララ・ボウがモデル?)これまた在り来たりの流れ。
マーゴット・ギターも『アイ、トーニャ』や『ワンス・アポンナ・タイム・イン・ハリウッド』では良かったのに、最近は似たような内容のない役ばかりでどうかな、と思う。
マーニー役をメキシコの俳優に演じさせた意味もあまりよく分からないし。
⑤懐かしいところでは、ルーカス・ハースがかなりオッサンになって登場。
妹のジュリア・ロバーツと違ってすっかりB級映画専門になってしまったエリック・ロバーツがネリーの父親役で久々にA級映画に出演。
⑥ハチャメチャでも退廃的な映像なら良いのだが、象の脱糞シーンに始まってネズミを生きたまま食べたりとか汚いシーンが散見されるのにもやや辟易。
上流階級のパーティーでネリーが料理を食い散らかした後噴水のようにゲロを吐くシーンは(どんだけ食うてんね)『エクソシスト』のパロディ?
⑦ハリウッドを再訪したマーニーが偶々入った映画館で上映されていたのがなんと『雨に唄えば』。その中のサイレントからトーキーに移行したときの撮影所のドタバタを描いたシーン(『雨に唄えば』を観てもらえば分かりますが、かなり笑えます)を観て、かって自分が映画界で働いていた時のこと、サイレントからトーキーに移行した時の大変だったこと(そう言えば、ジャックから『ジャズ・シンガー』を観るようにNYまで観にいったのはマーニーでしたね)(本作では7テイクでやっと録り終えたシーンを丁寧に描いていたが最後にスタッフが死んでしまったことで笑うに笑えない苦いエピソードになってしまった)を回想して涙ぐむところは、本来であればしみじみと胸を打つシーンになる筈なのだろうが、『ニューシネマ・パラダイス』『カイロの紫のバラ』のパクりかい、という思いが先立ってしまった。
⑧根本には“映画愛”があるのだとは感じるが、1950年代まで引っ張ったことで映画が間延びしてしまった。3時間長の尺にする必要があったのかも疑問。
1920年代のハリウッド草創期の狂乱を描くに留めた方が映画としてカッチリとしたものになったように思う。
享楽の終わり
TC PREMIUM THEATERで鑑賞(Dolby-ATMOS・字幕)。
冒頭から中盤はまさに享楽の宴。劇伴の強烈なビートが当時の時代の空気感を鮮烈に浮かび上がらせていました。
後は栄枯盛衰の物語。トーキー映画の台頭により、サイレント映画のスターたちは時代遅れの存在になっていき…
マーゴット・ロビーの演技に魅せられました。奔放なセックス・シンボルを体当たりで演じ、その大胆さは後の破局をも連想させ、いざその瞬間の虚しさはなんともやるせない…
トビー・マグワイアも出色。ほんの少しの出番でしたが、これまでのイメージを覆すイカれ具合で、メイクや汚い歯、喋り方に至るまで、徹底された役づくりに舌を巻きました。
ハリウッド・バビロンの栄華と崩壊を叙事詩的に描いた本作の勢いは、3時間と云う長丁場を感じさせない凄まじさ。
トーキーの登場が発端になる展開は「悪魔の手毬唄」を想起させ、時代の変化が齎した悲劇がとにかく切なかったです。
しかし、時代が何度移り変わろうとも、彼らの栄光はしっかりとフィルムに焼きつけられている。その姿は作品の中に永遠に残り続け、観る者の心に夢の火を灯していく。
その中の誰かが新たな時代を担い、映画文化を形づくっているのだと、映画会社の枠を越えた名作のシーンをコラージュして見せることで示しているラストシーンが印象的でした。
こうして歴史がつくられていく…
[余談]
ラストに登場した映画が「雨に唄えば」だったのが面白いなと思いました。同作は未見ですが、確かサイレントからトーキーに移行する時期に、時代の波に乗った俳優の成功を描いたミュージカルのはず。本作とは真逆の視点から同じ時代を活写した映画を印象的に使った趣向に痺れました。
至極のブラックユーモア
「ラ・ラ・ランド」「ファーストマン」のデイミアン・チャゼルの新作。「狂乱の20年代」と呼ばれ、アメリカの文化・芸術が大きく花開き、映画が一大産業に成長した時代のハリウッドを舞台に、サイレントからトーキーへと移り変わる映画業界を描いた作品。
大物俳優、新人女優、新人スタッフ、ジャズトランペッターの4人のメインキャストのエピソードを通してハリウッドの栄枯盛衰を物語るのですが、それぞれのエピソードのブラックユーモアがほんとに面白い。
舞台は「古き良きアメリカ」なのですが、決して当時を懐かしむような話ではなく、メッセージ性が強い映画ですね。「映画は何のため、誰のために作るのか」「時代の変化には抗えない」「ポリコレ、ホワイト化」。1920年代を舞台としながら、現代に通じる価値観の変化を訴える作品です。
感じたのは、クリエイターは時代の流れに逆らったり、適応するなんて出来ない。一度スポットライトを浴びてしまえば、捨てられるか、去るかしか選択肢はない。ただ、一つ確実に言えるのは、作品は残る、ということだけ。クリエイターはそれで良いが我々はどうすべきか?考えさせられます。
すごく面白いです。ただ、とても悪趣味な表現なので「観る人を選ぶ」かも。ほんとに卑猥で、グロくて、不条理な笑いなので、腹を抱えながら笑うか、終始不愉快になるか、です。しかも3時間近い作品なのでね〜、同伴者は慎重にお選びください。
考えてみたら『ラ・ラ・ランド』『セッション』でこの監督終わり?
監督や俳優の名前で売ろうとする映画に良いものは無い。それが今回の教訓。音楽はラ・ラ・ランドのアレンジ。映像はCGは少なめだろうが、タランティーノへのリスペクトで新鮮味はないし、タランティーノを超えていない。超えているとすれば、下品な所だけ。また、その下品行為が何を意味するのか?最後まで分からなかった。
1920年代後半から1930年代の狂乱の映画界の話としているが、こう言った独特のキャラクターがいたから、狂乱であったわけではない。経済がそう言った経済だったと高校の世界史で教えてもらえるはずだ。トーキーになって、それまでの俳優達が翻弄させられた逸話(雨に唄えば)は、昔の映画にも沢山描かれている。出し尽くされた感はある。映画の流れは、日本の『キネマの天地』の様な下品で騒がしい場面から、突然『雨に唄えば』を登場させ、『ニュー・シネマ・パラダイス』になって、最後に『2001年宇宙の旅』になる。気持ちは分からないでもないが、この流れでは、エキセントリック過ぎて、この監督の映画に対する愛が全く感じられない。音楽は良いと思うが!前述の通り『ラ・ラ・ランド』のアレンジだし、JAZZぽい音楽も1930年代とは思えない。
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