「意欲作では有るが「バビロン」という題名が惹起する毒気が足らないのと最後が甘い。」バビロン もーさんさんの映画レビュー(感想・評価)
意欲作では有るが「バビロン」という題名が惹起する毒気が足らないのと最後が甘い。
①途中から、これは「裏『雨に唄えば』だな」と思っていたが、最後に本当に『雨に唄えば』が出てきたのにはちょっと驚いた(+ちょっとエヘン!)
②「ハリウッド・バビロン」という本がある。
本当の意味でのハリウッドの黄金期である1920年代~1950年代(本作の背景と重なる)、表向きは“夢の工場”であったハリウッドの裏がいかに背徳と退廃とにまみれていたかを描いた所謂一種の暴露本ではあるが、特に1920年代のハリウッドの裏側が如何に乱れていたか、乱痴気騒ぎや酒池肉林で爛れていたかを描いた辺りを本作は冒頭のパーティーシーンで上手く描写・再現している。デブの俳優がセックスプレイの挙げ句、端役女優を死なせてしまう件(くだり)は実際にあった事件を下敷きにしているし、余りにスキャンダルが続くので1930年代にハリウッドに風紀取締組織が出来たくらい。
ブラッド・ピット演じるジャック・コンラッドは、監督によるとダグラス・フェアバンクスやジョン・ギルバート(声が高過ぎてトーキーに移行するときに人気が落ちて自殺した)をモデルに造形したと言っているし、ネリーはジョーン・クロフォードをモデルにしたのではないかと私は思うし、レディ・フェイはサイレント時代の人気スターだった中国系女優アンナ・メイ・ウォンをモデルにしているのも一目瞭然(因みに日本人の早川雪州もサイレント時代のハリウッドスター)。
女性映画コラムニストのエレノアは、映画スターの生殺与奪を左右したとも言われるルエラ・パーソンズがモデルだろうし、当時はいなかった筈の女性監督も登場する(アリス・ギイへのオマージュ?)。
他にも実在のハリウッドスターの名も頻繁に登場して、黄金期のハリウッド映画が好きな私としてはその虚実混じった世界は楽しめた。
③カメラの調達が何とか間に合って落日寸前に撮影が出来たシーン、ネリーがその扇情的なダンス(ジョーン・クロフォードだね)といつでも涙を流せる演技で見事代役を務める撮影シーンも映画好きとしてはたまらない。
が、ここまでの熱量は確かに凄かったのに、あとはだんだん熱量が落ちていく。
④本作の中心プロットとしてはサイレント映画の大スターだったジャック・コンラッドが過去のスターとして没落していく姿と、映画界に夢を求めた二人の若者が夢を叶えた後堕ちていく姿を平行して描きながら“映画”というものを描くことだと思う。
(観る前は、第一次世界大戦で疲弊した欧州を抜いてアメリカが世界の大国として躍り出て繁栄を極めたローリングトゥエンティであり、映画というものが大衆文化として確立し映画スターがセレブとなった狂乱の1920年代を舞台にした映画だとてっきり思っていたが、トーキーを経て1952年―『雨に唄えば』が公開された年―までが描かれるとは思わなかった。)
ブラッド・ピット扮するジャック・コンラッドは映画スターというものの神話性と通俗性とを表裏一体で体現している存在として描かれているけれども、最後に自殺するところは余りに予定調和的過ぎて面白味がない。
マーゴット・ギター扮するネリーがセックスシンボルとしてスターダムにのしあがった後転落する様も(転落するところは、ジョーン・クロフォードではなくクララ・ボウがモデル?)これまた在り来たりの流れ。
マーゴット・ギターも『アイ、トーニャ』や『ワンス・アポンナ・タイム・イン・ハリウッド』では良かったのに、最近は似たような内容のない役ばかりでどうかな、と思う。
マーニー役をメキシコの俳優に演じさせた意味もあまりよく分からないし。
⑤懐かしいところでは、ルーカス・ハースがかなりオッサンになって登場。
妹のジュリア・ロバーツと違ってすっかりB級映画専門になってしまったエリック・ロバーツがネリーの父親役で久々にA級映画に出演。
⑥ハチャメチャでも退廃的な映像なら良いのだが、象の脱糞シーンに始まってネズミを生きたまま食べたりとか汚いシーンが散見されるのにもやや辟易。
上流階級のパーティーでネリーが料理を食い散らかした後噴水のようにゲロを吐くシーンは(どんだけ食うてんね)『エクソシスト』のパロディ?
⑦ハリウッドを再訪したマーニーが偶々入った映画館で上映されていたのがなんと『雨に唄えば』。その中のサイレントからトーキーに移行したときの撮影所のドタバタを描いたシーン(『雨に唄えば』を観てもらえば分かりますが、かなり笑えます)を観て、かって自分が映画界で働いていた時のこと、サイレントからトーキーに移行した時の大変だったこと(そう言えば、ジャックから『ジャズ・シンガー』を観るようにNYまで観にいったのはマーニーでしたね)(本作では7テイクでやっと録り終えたシーンを丁寧に描いていたが最後にスタッフが死んでしまったことで笑うに笑えない苦いエピソードになってしまった)を回想して涙ぐむところは、本来であればしみじみと胸を打つシーンになる筈なのだろうが、『ニューシネマ・パラダイス』『カイロの紫のバラ』のパクりかい、という思いが先立ってしまった。
⑧根本には“映画愛”があるのだとは感じるが、1950年代まで引っ張ったことで映画が間延びしてしまった。3時間長の尺にする必要があったのかも疑問。
1920年代のハリウッド草創期の狂乱を描くに留めた方が映画としてカッチリとしたものになったように思う。