正欲のレビュー・感想・評価
全374件中、261~280件目を表示
作劇は「怪物」に及ばない
自分は水フェチでもないし、毎日死にたくもないが、学校には馴染なかったし、そこそこ生きづらい学生時代だったので、共感できる事は多い。ただ、夏月(新垣結衣)と佐々木(磯村勇斗)が、唯一無二の相手と「結ばれた」以降はまさに『惚気』。小児性愛と勘違いされる件は蛇足にも思えたが、「いなくならないよ」という言葉で締めるには必要な展開には感じた
人間が社会を作る以上、生きづらい少数者が生じるのは必然。無論、ひとりも取り零さない社会が理想だけど、最大公約数をとる上で取り零しは生じてしまうもの。自分は非喫煙者なので、快適な社会になりつつあるが、同僚の喫煙者に不満は絶えない。一見踏iみ込んだテーマにもみえるが、人種・宗教・同性愛・オタクなど、マイノリティの苦悩は擦り倒されている。個人的には「怪物」の方が、全体的な作劇も生きづらさの表現も、数段上な気がする。
特に気になった2点を別記する。特に気になった2点を別記する。
🚰
①水フェチへのネガキャン映画?
水流や水しぶきに性的興奮を覚える者の生きづらさが主題となるが、その感覚は分かるようで分からない。佐々木佳道に至っては生きる望みすらない。ただ、水流で逝けるならそんなお手軽な事ないじゃん。小児性愛者のように被害者を生まない性癖なので、何を隠すことがある? 性癖を共有出来ない事が生きづらいのは、水猥談がしたいから? SNSで繋がり易い時代。ネット上で猥談なんてし放題な気もする。
本作ではSNS友達を作った結果、小児性愛者に疑われてしまうが、そんな事本当に起きる?下着フェチとか制服フェチが犯罪に手を染めやすいイメージはあるが、水フェチは小児性愛と親和性があるのだろうか? あるいは、何かにフェティシズムを示すものは、同時に犯罪性があるフェティシズムも保有しやすいのだろうか? もしそうでないなら、本作は水フェチに対する、かなりなネガティブキャンペーンにみえる。
🚰
②対比する検事が正しくも幸せにも見えない
ストーリーの構図として、寺井検事(稲垣吾郎)は典型的な社会人であるべきに思える。少なくとも序盤くらいは、彼が一般的な幸せを謳歌する描写が欲しかった。無論、子育てで問題を抱える実情や、不登校の息子への不寛容さが徐々に明かされてもいい。ただ、本作では、朝食を一人で食べていたり、木で鼻を括った出来損ないの正論しか言わない登場の時点で変わり者にみえた。その後も、一瞬たりとも彼が正しくも幸せにも見えなかった。なので、夏月や佐々木との対立構図が成立しえなかった。町山智浩さんが強調していたラストの対決も、全く成立していない、監督も同じ演出意図なら、失敗作にしか感じない。
神戸八重子役の東野絢香さん
私自身、50を過ぎて自分の「醒(さ)め」をしみじみと感じています。もちろん、まだまだ欲がなくなることはありませんが、そのために何かを犠牲にするほど夢中になれることは殆どないような気がします。むしろ自分の惰性的な言動に嫌気が差すことはありますけど。
承認欲求だって勿論ないわけではなく、例えば映画のレビューだって共感を頂けるのはうれしいのです。しかし、そのためにフォローを返して「期待する」ことなどはしたくないので、(映画.comで)フォローしてくださっている方、フォローを返さずごめんなさい。
また、最近は言葉だけが独り歩きし、下手をしたら都合の良い解釈や上っ面で偽善とも取られかねない「現代的な考え方」が鼻につくことがあります。この作品でも扱われる「ダイバーシティ(多様性)」もその一つです。
例えば、一昔前までは「オタク」や「マニア」はネガティブな印象が強かったはずですが、昨今ではむしろ一目置かれる(この言葉に、「一目置く側」に対する欺瞞性も含んでいますが)存在となっており、SNS等で注目を集めるなどもはや、その「目的」すら曖昧になっているのではと疑わしいものさえあります。
とは言え、私は間違いなく「旧人類」にカテゴライズされる世代になりましたし、時代は絶えず変化していくわけで「老害」志向は抑え込む必要もあり、なおさらにひっそりと生きていく必要があると感じます。
さてさて、いつになったら作品のレビューになるのやらなので急展開ですが、
岸善幸監督、この方の作品に共通して感じる「愚直」とすら感じるキャラクター演出は、最初こそ取っつきにくさを感じるのですが、作品が進むにつれ心を奪われます。そして、この手の題材の場合、その問題意識を訴えたいばかりに、安易に対立構造を設定することで、単純で両極端に見えてしまうことがありますが、本作はその辺のバランスが振れ幅が大きいわりに実に絶妙です。さらに朝井リョウ作品の「妙(みょう)」と言える群像劇を巧妙な編集で違和感なく仕上げています。
そしてキャスティング、言うまでもなく皆さん素晴らしいのですが、まずは新垣結衣さん。私、この方に対する印象は殆ど持ち合わせなてなかったのですが、今作、特にセリフのない「表情による演技」が素晴らしいですね。言うまでもなくお美しいのですが、一見そう見えないキャラクター描写に、桐生夏月という人物に対する現実味を感じさせてくれます。
さらに、驚きの演技は神戸八重子役の東野絢香さんですね。実際、まだまだ落としどころが想像できずに半信半疑な中盤、東野さん演じる八重子の怒涛の言動の連続に心奪われ、何ならメインパートを喰う勢いに凄まじいものを感じます。
正直、内容的には共感できる部分が多くありませんが、どこにも否定する要素はなく、まさにダイバーシティな見方で判断するとこの上なく巧くまとまった良作だと言える作品だと思います。一見の価値あり。
なかなか辛かったですね。 癖ってどうにもならないことなんどけど そ...
なかなか辛かったですね。
癖ってどうにもならないことなんどけど
それが犯罪に繋がるものはダメだし。
ダメだけど生きてる以上どこかでその欲を満たさないと
どうにも生きていけないわけだし。
悪いことする人は利己的に快楽を求めることに
走ってしまうけど、主人公達は
自分の癖はどこかおかしくこの世の中の普通とは
違うことをしっかり自覚してて。
自覚した上で装ったり我慢したりひっそりと
死ぬために生きてるような感じで。
救われたと、誰にも迷惑もかけずに
自分達を否定せずに生活する生き方を見つけたと
思ったのに、やり切れないです。
それと自分が普段何気なく目にしてるもの
日常にあるものが実はそういう意味を持ってる、というか
一部の人たちにそういう場にされてる現実に驚愕しました。
実際あるのでしょうか。純粋な子供達や人たちに
自分らの私利私欲を乗っけてくる場合があるんですね。
怖いな、と感じました。
月並みな感想ですが、役者の皆さん
どなたもすごく良かったです。浮いてる人無し。
もっと尖ってても
かなり期待していましたが、踏み込めていない印象。
でも東野絢香さんの演技は抜群によかったし、楽しめました。
フェチなのですが、趣味嗜好を理解できるできないは少なくとも誰しもがあるはずです。水で性的興奮をすることがどのように孤立を生むのか、全くわかりませんでした。また夏月(新垣結衣)と佐々木(磯村勇斗)の中で性的接触は重要だと私は認識していました。特に夏月は、オープニングの自慰行為や佐々木宅の電気が消えた瞬間に鉢植えを窓に投げるほどの嫉妬と喪失感だったのですから。
これが疑似家族になって、初めて受け入れるシーンはかなり重要な転換点と期待していましたが、ぼやかされたようなほのぼのシーンで残念でした。間口を広くするために、あんな感じになったのでしょうか。
一方、東野絢香演じる神戸八重子の男性恐怖症の葛藤は理解できましたし、男性に対しての身の乗り出し方はこっちも手に力が入るぐらい見事でした。
また上記2組のテーマは似ているんですが、稲垣吾郎演じる寺井啓喜の家族がそこまでの話かと疑問でした。水と同様、子供がなぜ孤立しているかが抜け落ちているので、寺井だけではなく奥さんにも要因(片付けするよりパックしながらレトルト、若い男性を昼間に入れる、明らかに父親に畏怖しているのに無理やり言わせる等、結構無責任な酷い描き方)がありそうで、オチが少し空振った印象に。
原作小説で補完しないとダメなのかな。
濡れたガッキー
前半がちょっとくどくて退屈しましたが、物語が動き出す中盤以降からはどんどん面白くなりました。孤独だった夏月が、理解しあえる人に出会えて良かったです。
やはり人って誰もが心の繋がりを求めているものなんですよね。
水の映像には何も感じませんが、水に濡れたガッキーには心奪われました。
だから何なの?
水フェチ(そんなものがあるのは知らなかったし、罪悪感で隠すほどのものでもないと思うが)、男性恐怖症、不登校など、社会的マイノリティを描いた作品。
地味だが、俳優たちの丁寧な演技で退屈はしなかった。
この映画が、ダイバーシティ(多様性)を主張しているのは分かるが、見終わって、だから何なの? と、逆に問い返したくなった。
みな宇宙人=異星人!
家庭にいても、外出しても、会社でも、学校でも、周りは全て宇宙人に見える。いや逆だ。自分が宇宙人に見えているのかもしれない。宇宙人は異星人の意味で使用している。
違和感ばかりのこの世の中。
それが創発を産む。
崩壊に向かう宇宙を遅らせているのが創発=人間というわけか。
良い映画だった。
子供に睨まれるよ
この映画を理解できない
普通の性欲しか持ち合わせていない
あなたもわたしも
子供に殺意のある目で睨まれます
ガッキーはやはり華のある役を演じて欲しい
でないと星野源との結婚生活が
つまらなそうに見えてしまうもの
そんな断片的な感想しか出てこないのです
多様性礼賛の胡散臭さを暴く傑作
映画「正欲」を観ました(ネタバレ少しあり)
性欲の発音で正欲。
正しい欲って何?
という話です。
ここに出てくる標準から外れた性欲は「水フェチ」です。
見ている私は、そこでつまづきます。
噴水やら、水しぶき、壊れた蛇口、滝を見て、登場人物たちは何やら喜びを感じているらしい。
ただ、それが性的なエクスタシーであることはすぐには観客には伝わらない。
そしてそのような性癖を登場人物ははひた隠しにします。
ポイントは、彼らは生身の人間には何も感じないこと。
彼らは誰からも理解されないだろうという理由のみで、生きる意味を失いかけています。
ただ外からは、ただ水遊びの好きな大人たちにしか見えません。
まだ観客にはその苦しみは本当には伝わらない。
…
そしてもう一つの物語が絡みます。
不登校の子を抱えた夫婦。
不登校の小学生と母は学校に通わないでも生き生きと生きて行ける道を何とか探ろうと試行錯誤をします。
しかし検事である父は世間の常識を振りかざしてその試みを否定します。
父のいうことは至極真っ当なのです。
…
そして水フェチの主人公たちは、あるわかりやい性的逸脱の事件に巻き込まれて逮捕されてしまいます。
先の検事の父と、水フェチの主人公たちはここで接点ができます。
主人公たちはそこで自らの本当の性的指向を無視されるのです。
実はそこで主人公たちの覚醒と生きる意味が立ち上がります。
最後に最も真っ当であった検事の父が、最も人生が阻害された人物であることが浮かび上がるのです。
もうすごすぎ!
多様性礼賛の胡散臭さの奥をえぐり出す傑作だと思います。
原作は、朝井リョウ
台詞が素晴らしい。
必見です。
追伸
私がみた全ての映画の中で最も美しいセックスシーンがあります。
泣けますよ〜。
観る前の自分には戻れない
ポスターのこの大仰なコピーと不釣り合いな地味な内容。
序盤の新垣結衣のプチオ◯ニーのシーンがほぼ唯一の過激シーン。
あとは歪んだ価値観の登場人物たちが延々と自身の拗らせぶりを披歴しているだけ。
抑揚がなく、何処までも平坦な流れは却って疲れる。
ただ、稲垣吾郎は抜群に良かった。
特に目で心の機微を表すところなどは、こんなに演技が上手かったのか、と認識を新たにするのに充分だった。
ガッキーの卵焼き食べたいな
多様性を広く認める社会は一見少数派にとって住みやすように見える。しかしその寛容性に甘えて或いは悪用して逸脱行為を正当化しようとする者達がいて,違法行為を咎めると差別主義者のレッテルを貼られたり,作中で描かれているように単なる水好きの筈が巻き込まれて性犯罪者扱いされたりする。そして最終的には当の少数派が損をするという皮肉。
また,検事夫婦やガッキー家族のやり取りをみていると,多様性許容を要求することと規範・因習遵守を求めることのどちらが理不尽なのか分からなくなってしまう。
作品が解決策を明示しているわけではないし評者にもわからないが,とりあえず,変わり者に興味を持ってみる,ぐらいから始めてみるか。
ガッキーの目の死に方で「渇水」の磯村(と生田)を思い出した。
誰かのせいにすればいいのか?
フェチっていうもののヴァリエーションを理解できないとね。しかし「普通」でいられないが「普通」のフリをして耐え続けている登場人物たちの群像。そこに共感できるか、というのが作品への鑑賞アプローチの重要ポイントとなる。原作を読んではいないので、本作の是非を断ずる資格は無いが(多分)、そんな特殊な嗜好の人々だらけなのか?この世の中は!という点で背筋が凍る。それがある意味、綺麗ごとな単語で「ダイバーシティ」と呼んで<異常の隠蔽>されていることが現実世界の姿だ、ということらしいので、絶望する。
たぶん普通じゃない趣味嗜好を持つ側の者ですが
寺井検事の言うことは、間違いではないんじゃないかと思います。
人間の皮を被った悪魔も実際おりますし、
学校には行くべきと思ってます。
どんな理由で学校に行きたくない、については触れてませんでしたが、
「趣味嗜好が違う人」(夏月たち側)と
「義務教育を受けない」は
ちょっと話の構成としてレベルが違う気がします。
普通じゃない自分に苦しむ人と
普通じゃない自分たちに酔う人の違いを感じました。
寺井検事、
決めつけも多く、マイノリティを刺激する発言は多々みられましたし、
終盤の嫌疑に関しては「おいおいっ」て思いましたが。
私事になりますが、
「ある物」が異常に好きになってしまうフェチです。
詳しくはここには書けないのですが、
小4の時に、それに気がつき、
(寺井の息子と同じ年齢)
自分はおかしいのではないかと悩みました。
大人になったら、無くなると思ってましたが、今も続いております。
墓場まで持っていくつもりです。
フェチだということで誰に迷惑をかけてる訳でもなく、
指弾されることではないと思います。
たぶん、カミングアウトしても「別にそんなに後ろめたさを感じる程のものではないでしょ」と思われるかも知れませんが、問題はそこではないのです。
肉体そのものよりも、その対象物に性的興奮を感じてしまう事実が、恥ずかしくて知られたくないのです。
内容によっては弱みになって搾取される危険だってあるかも知れません。
カミングアウトされた側ならどう返していいかわからないず気まずくなると思います。
それに誰かに話したところで、自分の煩悩は消えないこともわかってます。
そんなリスクを背負うぐらいなら、黙っていた方が良いと思います。
劇中の夏月も佳道も大也も、そうなんじゃないかな、と観てました。
とはいえ、同じ趣味嗜好の人に出会うと嬉しいです。私も、ネットで見つけた時は嬉しかったです。佳道たちのように、交流しようとしたことはありませんでしたが。
「観る前の自分には戻れない」が、この映画のキャッチフレーズでしたが、鑑賞後も自分の中では変化はありません。
ただ、フェチについて改めて考える機会になりました。
意外だった。
予告やHPをみてダークめの、観た後残る系の作品かなと思っていたが違いました。
ずっと目が離せなかった。面白かった。
面白いけれど心震わすとか、そうゆうものではなく。
サブタイトルは煽りすぎかもしれないけれど、なるほど。というかんじ。
ざっくりいえば、みんなちがってみんないい的な。
だからこそラストは悲しかったー
そんなの。。。と。
ゴローさんは嫌なヤツ。カチコチ頭のおじさん。
新垣さんとのシーンがコントラストがあり印象的だった。
東野さんが個人的に一番かわいそうに感じた。
何が普通で、何が異常なのか
朝井リョウの原作は未読。登場人物を一人一人章立てした群像劇が、一つの事件に収斂されていく。
様々な場面で多様性が謳われている現代社会で、一般に広く認められる多様性と、「あり得ない」と思われる多様性があるのではないか、そもそも何が普通で、何が異常なのか、といった一種の思考実験を迫られるような作品。
普通であることを当たり前に受け入れる人たちと、異常であることを自覚し、それを押し隠す人たち。夏月がふと漏らす「地球に留学してるみたい」という感覚は、社会で生きづらさを感じる人たち共通のものかもしれない。夏月と佳道の疑似セックスは、普通の人たちが行う行為が、冷静に見ると異様なものであることを感じさせる。
夏月役のガッキーが実質の主役。冒頭の水に浸されるシーンから、おっと思わせ、内面が窺い知れない無表情、検事との対決シーンでの目力など、これまでのイメージを覆す好演。佳道役の磯村勇斗は、注目作には常に出ている感じ。検事役の稲垣吾郎は、もっと冷酷でもよかった。普通と異常の繋ぎ役とも言える山田真歩と東野絢香の演技も印象深い。
ただし、映画としての完成度はどうかというと、微妙なところ。そもそもこの題材を映像作品にすることは難しかっただろう。それでも「水フェチ」なので水浴びシーンが画になるが、これが「匂いフェチ」だったらどうしていただろう。
いろいろな人がいる
横浜に暮らす検事の寺井啓喜は、不登校になった息子の教育方針をめぐり妻と衝突していた。
広島のショッピングモールで契約社員として働きながら実家で代わり映えのない日々を過ごす桐生夏月は、中学の時に転校していった佐々木佳道が地元に戻ってきたことを知り飲み会で再会をはたした。
大学のダンスサークルに所属する諸橋大也は準ミスターに選ばれるほどの容姿だが、誰にも心を開かないで過ごしてきた。
学園祭実行委員としてダイバーシティフェスを企画した神戸八重子は、大也のダンスサークルに出演を依頼した。
何ら関連の無さそうな人達が絡み合っていく話。
検察官が家では妻や子供の意見を聞かずこうあるべきと押し付けたり、容姿に自信のない女性がイケメンに告白したり、イケメンは女に興味なかったり、いろんな人がいる、という事なのだろう。
久々にガッキーをスクリーンで観たが、役柄なのだろうが、覇気がなかった。
こんなガッキー観たくない。
星野源との結婚生活はうまくいってるのかと気になってしまう。
そんな感想。
稲垣吾郎含めその他の出演者には全く興味を持たず、そんな偏った見方をしてました。
「多様性」は便利な言葉。まぶすだけで暴論さえソフトに変化させる免罪符
本年7月11日の「トランスジェンダー職員の女性トイレ利用制限」についての
あるいは10月25日の「性別変更の手術要件」についての最高裁判決からも分かるように、
この国での「LGBT」への見方も随分と変化か起きているよう。
とは言え、それは「LGBT」に対して、との
あくまでも括弧付きの事柄であって、それ以外についてはどうにも心もとない。
いみじくも作中で「多様性」について語られるように、
ある人の嗜好や思考を100%理解することは不可能なのに、
それを耳障りの良い言葉で軽く括ってしまっている。
また、「LGBT」についても、今でこそ追い風は吹いているものの、
いつ逆風に変わるかは判らぬのは、過去の歴史からも明らかだろう。
タイトルにある「正」が「性」でないのは、
言葉遊びではなく、人の欲望の対象は様々なことの象徴。
勿論、犯罪に結び付く欲望はあり得ないにしろ
個々人の興味の対象は、それこそ多様であって良い。
男女が結婚し、子を多く産むことのみが生産的との
ステレオタイプな思考は、頭が凝り固まった意見。
映画化された四本の『朝井リョウ』作品
〔桐島、部活やめるってよ(2012年)〕
〔何者(2016年)〕
〔チア男子!!(2019年)〕
〔少女は卒業しない(2023年)〕
は、何れも群像劇。
そして今回もそれは例外ではない。
登場する主要な三人
『桐生夏月(新垣結衣)』『佐々木佳道(磯村勇斗)』『諸橋大也(佐藤寛太)』は
共に無機物である「水」に並々ならぬ興味を示す。
他の人とは異なる嗜好を認識し、
それ故に生きづらささえ感じる。
その対極に検事の『寺井(稲垣吾郎)』が居る。
彼は我々の右代表であり、世間的な常識を体現する存在。
が、時として自己の独善的な意見だけを押し付ける煙たい人物、
直近で言われる正義と正義のぶつかり合いを見せられているような。
この二つの属性は
理解し合えることは
たぶん無い。
会話はどこまでも平行線で、
良識派には多数ではない好みを持つ人のことは理解不能だろう。
建前として「多様性」を口にはするものの、
それはあくまでも世間的にはやっているからとの
自分を理解のある風に見せる方便でしかないのだ。
過去作とは違う横顔を見せる『新垣結衣』は印象的。
生々しく、時として底知れぬ暗ささえ感じさせる。
これは新たな境地と言えば良いのか、
それとも・・・・。
全374件中、261~280件目を表示