福田村事件のレビュー・感想・評価
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前半はNTR、後半はモテと非モテの話
関東大震災後の混乱時期に、野田で起きた殺人事件がモチーフ。朝鮮人と間違えられた行商人が9名惨殺された話で、詳しくはWikipediaで。
前半は、ひたすらに寝取られ(NTR)の話。朝鮮帰りのインポの元教師と田中麗奈の夫婦が主役。この二人がインポ先生の地元の野田に戻るところから話が始まり、汽車のなかでシベリア出兵で旦那を亡くした未亡人と出会う。
シベリア未亡人は実は利根川の渡し船の船頭と出来ている(NTR①)。で、船頭とソリの合わない百姓の家では、舅の柄本明が息子の嫁と出来ている(NTR②)。インポ先生に愛想を尽かした田中麗奈は船頭と船の上でNTR③をやっているところを、インポ先生とシベリア未亡人に見られて、前半NTRパートが終了。
このままインポ先生とシベリア未亡人のNTR④をやっていると「福田村NTR事案」となってしまうので、慌てて朝鮮人差別や被差別部落や社会主義運動と関東大震災にご登場頂き、水道橋博士が日本刀を振り回して大団円、って映画です。個人的にはインポ先生とシベリア未亡人の「豆腐」の先の話が気になります!
田中麗奈は良い女優だと思うのですが、どうも年相応の役に恵まれませんね。シベリア未亡人の元水曜のカンパネルラのコムアイは良いですね〜、「エロくない壇蜜」と言われていますが、充分に艶っぽい。
全般的に舞台を観ているような、大仰な演技ですね。ラストの乱闘も大きく声を張り上げるだけで、惨殺シーンをどう観せたいのかがよくわからなかったです。
私はNTR映画として観ましたが、あえて後半を考察すると、、、
なぜ村人は行商人を惨殺したのかって部分は、インテリへの反感、なのかな?と思いました。村長にしろ、警官にしろ、新聞記者にしろ「帽子を被っている」インテリ連中と、ほっかむりの村人とでは、野田と讃岐と同様に会話が成り立たない、ってこと。在郷軍人会は徴兵で帽子を被せられているものの、非インテリ側なんですかね。
それを現代に当てはまると、イケメン・美人と非モテ。ラストで行商人を守る連中はみんな「モテ」の役者ですね。船頭、インポ先生、田中麗奈、カンパネルラのNTR4人衆が庇い、水道橋博士以下の非モテ衆が槍で突き刺す。
明治大正はインテリ、令和となりモテが世の中の中心である、ってことかな〜と。
フィクションであるから
水道橋博士のXをフォローしていて、
「宣伝大使を務める」
とあったので、
さぞ感銘を受けたのかと思ったら、
出演してんのかいっ‼️
しかも劇中一番の悪役として‼️
そしてへっぴり腰て🤣
博士は先の選挙で当選し議員となったが、
病気に拠り議員辞職。
その病気の所為では無いが、
良くも悪くも堅苦しかった😅
多少フィクションとは言え、
こんな事件あったんですね。
無知でした。
それ以前に、
妄言流布の震災直後の東京の惨状は、
ともすれば震災の犠牲より、
煽動による殺人の方が多かったのかも、
とすら思わされる。
所謂“アカ”狩も行われていたとは😱
大正時代の話とは言え、
妙に性愛描写が多くてちとゲンナリ😩
久々にモテモテの東出くん😜
田中麗奈はさておき、
もう1人はコムアイだったのか⁉️
元水曜日のカンパネラのボーカルです😳
大正時代の話だからなのか、
女性陣の没個性感が際立つ。
そして、クライマックス。
某レビュワーの方も仰られたが、
自分があの場面にいたら、
さてどの立場だったろうか❓
やはり名もなき農民で、
竹槍で追いかけ回していたのではないか。
下手すれば殺される。
そんな状況で大勢に歯向かう勇気は無い😭
コレが日本人なのか⁉️
愕然とした😓
村長が記者に返した言葉が、
その当時、
果ては今の日本にも通ずる、
全てを表している。
もう少し面白く観せられるのではないか❓
と、今後の森監督、
並びに脚本家たちに淡く期待。
ヒトという動物の醜悪さが上手く描かれている
ダンサー・イン・ザ・ダーク(私にとっては、美しかったけど吐き気がするほど辛くて心にガッツリ残っちゃった。次は観ない。)みたいなトラウマ映画じゃないと良いな、と思いつつ、田舎の単館上映映画館へ。
平日の日中にも関わらず、50人ほどの観客が!普段は多くて4〜5人しか入っていない劇場なのでビックリ!年齢層はとっても高くて、平均70才くらいかな(私が一人で平均年齢を下げている感じ)。
誰が出演しているのかとか全然リサーチせずに観たので、好きな有名俳優さんがたくさん出ていたのが意外でした。
動物種としての「ヒト」の凶暴性や醜悪さが上手く描かれているなと思いました。
終盤の演技が心に残っています。アメ売りの少女の「私の名前はー」のシーン、頭領の「朝鮮人なら殺してもー」のシーン、学ぶことが好きな子の「私はなんのためにー」のシーン、村長の「私は止めたんだー」のシーン、亡くなった仲間の名前を言うシーンなど、どれも良かったです。
私は、子どもの頃から社会が大の苦手で、特に歴史なんて大嫌いだったので受験は倫理政経で乗り切った根っからの理系なんですが、最近、子どもが受験用にお風呂に年表を貼っているので歴史年表を見る機会が増え、「ヒトの歴史って常に戦ってるなぁ。2000年以上も常に殺し合い戦い続けているなんて、DNAから好戦的で攻撃的な生き物なんだろうなぁ」と思っていた今日この頃。
この映画でも、ヒトという生き物がもつ「理性」や「論理的に思考できる力」や「温かな愛情や思いやり」というような〝正の側面〟が、同じヒトという生き物がもつ「原始的な不安や恐怖、強い怒り等の情動にあらがえない性質」「攻撃性や好戦性」「社会性の暴走」などの〝負の側面〟にあっさりと押し流されてしまうという、ヒトの歴史の原理を上手く表現しているな、と感じました。
記者が事件を客観的な事実として書き残そうとしているのが唯一の希望なのかな。
最後はどうまとめるのかな、と期待しつつ観ましたが、結局、逮捕された村人は恩赦で釈放され、被害者側は以後事件を語らないという史実のみが語られ(それはそれで事実としての重みがあって良いんですが)、ヒトという種の〝救いのなさ〟みたいなものが、ポツンと心に残りました。
起きたこと自体は重要なんだけれども
劇映画としては微妙だった。なんちゅうかnhkとか日曜の夜とかにテレビで流れてそうなドラマ。
『七人の侍』や、『山椒大夫』に出てくる百姓たちは百姓にしか見えなくて、本筋には関係ない、演じてる役者のことなんか考えてしまう暇も無かったんだけどもな。現代の役者が演じる一昔前の人々は、コスプレっていうと言い過ぎなんだけども、頑張って寄せに行ってるけど、やっぱりズレてる感じがしてしまう。それは多分、演技の巧拙ではなくて、ある程度年月が経つと、時代感が鈍ってしまって、当時のリアリティを演出するのが難しくなる、ということなのかもしれない。
あとは細かいところで「自分には合わないな」と何度も感じてしまった。セリフとか、カットのつなぎ。映画のリズム。
東出君が演じてる役が、本人の過去を想起させるような中々に意味深な役だった。
現代日本への警鐘
森監督の現代の日本社会に対する、警鐘というか怒りの発露? 映画としての外型は、説明的な演出など、制作予算も少なかった事だろうから・・イマイチな点も無くもないですが・・。取り上げたテーマ、伝えたい事、中身は素晴らしい映画だと思います。
無責任で理念を失った新聞メディア、システム、お上に盲従し、威を借り多勢を傘に着る暴力的な輩達、声をあげず傍観する烏合の衆。 顧すれば、政治に忖度するマスメディア、SNSやヤフコメに群がる暴力的かつ卑怯な輩たち・・。社会的な発言につきまとう冷笑・・。日本は事件から何も変わってないのではと??突きつけられた。
殺人を犯した人々、恩赦を受けたようですが・・その後はどうなったのでしょう?その子孫は? 震災の時に多くの朝鮮人の命を奪った、普通の人たちは、その後の人生をどう歩んだのだろう?
何でもない、普通の人間、隣のおじさん、おばさんが、お墨付きをもらうと、平気で残酷なことを犯してしまう・・普段隠している残忍性を発露してしまう・・ネット社会にも通じるところがあって怖い。
事件が起きたのは神社の境内なのだけれど、日本の神道、神社、もしくはお寺もかも・・は、そういう倫理にもとる行為の歯止めにはならなかったのか? 今は・・?もともと、倫理は説いてないのか?
人物像がややステレオタイプ
関東大震災秘話とも言うべき悲劇を描いていて見応えは充分。
ただ、人物の描き方がややステレオタイプに感じる。
監督は「普通の人が豹変する恐ろしさを描きたい」と言っておられたが、映画の中で凶行に走るのは、普段から「ネトウヨ」的言辞を弄する連中や、性格に難のあるような人物ばかり。
逆に、冷静で普段から内省的であったり開明的な人物は虐殺を止めようとする。
これでは「普通の人が豹変する」のでは無く、普段から問題の多い人物が事件を起こしているようにしか見えない。
普段勇ましいことを言っておきながらいざとなったら怖くて逃げ出す人物や、普段から開明的な人物が疑心暗鬼で凶行に走る姿を描くべきだったと思う。
その意味で、犠牲者の薬売りがペテンをしたり、夫の帰りを待ちわびるおとなしい若妻が凶行の先鞭をつけるところは良かった。
また、正義感溢れる女性新聞記者が登場するが、周りの混沌ぶりに比べ、浮いた存在になっているように感じた。
被災者の中には邦人・鮮人の区別無く火事場泥棒を働いた者も実際居たのだから、朝鮮人暴動を否定する彼女の前に、実際に悪事を働いて捕まった朝鮮人を一人でも登場させ、『もしかして暴動説は本当だったのか?』『自警団は必要なのか?』と迷わせ、悩み傷つきながらも彼女自身の体験を通じて暴動がデマであることに辿り着けば、人物造形に深みが出たと思う。
映画では「報道の正義」を振りかざし、最初からおのれの信念に一片の疑念も持たない純粋さに危うさを感じてしまった。
映画を見る限り、登場人物の善悪が明瞭過ぎるのが気になった。
とはいえ力作だし、「朝鮮人大虐殺は無かった」なる言説が大手を振り、「私人逮捕」YouTuberが閲覧数を稼いだりする昨今、必見の映画だと思う。
私たちの《望》
日本人なら、誰もが知りたがらないアレ。アレを映像化した挙げ句、商業映画として興行する根性に、驚きと敬意を捧げます。誰の解説かは覚えてないですが、何故、今、アレが映像化されたと思います?。
先日、とあるクニの公共ニュースで、アメリカ国防総省のそばで、爆破事件があったと云う報道がリリース。実はこれ、ネットにアップされた一つのフェイク画像に騙された結果の誤報です。
問題のフェイク画像が、フェイクとバレるまで、30分かかったそうです。その間に、9.11の再来を恐れる心理は、世界を駆け巡り、件のフェイク画像を、ガチのニュースに昇華してしまったようです。
素人がフェイクとリアルを判別するのは、まず、不可能とのこと。AIを活用したフェイク判別システムを開発しているそうですが、いずれその判別システムを悪用したフェイクが、生成されることでしょう。
誤報に躍らされるのは、福田村の村人さんだけか?。何かに恐れを抱くヒト達が、何かのきっかけで、集団心理を暴発させるのは、過去の出来事なのか?。皆様は、どうお考えです?。
マイクラってゲームありますね。何を考えているのか分からない村人さんが、多数登場します。プレイヤーは、主人公としてバーチャルな世界で、いろいろ遊べますが、リアルな世界では、私達のほうが、村人さんのような…。
以上、映画を観る前に、予備知識だけで書きました。つまり、私のレビューは、レビューとしてフェイク。皆様、気付きました?。
この映画の評価は、確実に割れますね。
クニに蔓延する不安と猜疑心
疑心暗鬼はデマとなり 世を駆ける
粛清される民族と思想
大本営におもねる報道機関
傍観する罪なきヒトの罪
やがて訪れる 軍靴の響き
その代償として降り注ぐ 黒い雨
この事件、教科書に載ってたいたような気がするのですが、テストで点数化されなかった歴史です。
私達は歴史から何を学んだの?。
私達に《望》があるとすれば、それはどんな形なの?。
私達は、私達の《望》を自ら抹殺していませんか?。
その答えを、皆様に託します。託すだけで傍観する私もまた、罪人のようですが…。
今の私には、流れに身を任せる小舟すら、ないのだから…。
「ルワンダの涙」
社会的不安×集団心理=虐殺とくれば、この映画。
ところで、当時の福田村を覆っていた不安と恐怖の正体って、何だったのでしょう。そしてその不安の種は、今、何処にいるのでしょう。併せご覧下さい。
理不尽に亡くなった人たちがいたのだから、差別を減らそうと語りかけら...
理不尽に亡くなった人たちがいたのだから、差別を減らそうと語りかけられているこの時代で生まれたこの命でその人たちの分まで生きようと思った。
目を逸らしちゃいけない
史実をきちんと認めるという意味でも、自分の(あるいは人間の)弱さを見つめるという意味でも、目を逸らしちゃいけない。
史実を認めないことが強さであるみたいな風潮もある中で、史実を無かったことにするのではなく史実から多くを学ぶ姿勢を保ちたい。
あなたは福田村の村民にならない自信はありますか?
朝鮮人やったら殺してもええんかっ!
森達也監督のはじめての劇映画ということで期待していた作品。
100年前の関東大震災後の混乱に乗じて行われた惨劇。
埋もれていた事実を今、劇映画の形で伝えるということはとても大切で有意義なことだと思う。
客観的な視点を入れたかったんだろうが、朝鮮から帰国した澤田夫妻(井浦新、田中麗奈)を中心に持ってきたことが上手く活かされていないように思った。
柄本明やカトウシンスケのシーンなど、詰め込みすぎ。もっと瑛太率いる讃岐の薬売りたちや新聞記者、朝鮮人の飴売りの娘に絞った方が良かったように思う。
あと加害者になる側を演じた水道橋博士や松浦祐也は決して悪くはなかったが、瑛太や東出昌大と同じレベルの役者さんに演じさせた方がよかったのでは。(敢えて彼らなんだろうとは思いますが)
ラストの惨劇、太鼓の音楽が興奮を煽って凄まじく、
かつてないほどの恐怖(いろんな恐怖)に胸が締め付けられた。
このシーン以外の音楽(ピアノ)はあまりよくなかったのと、音声、音響が酷くて台詞が聞き取れないシーンが多く、足音や物を置く音などがまるで「雨に唄えば」のサイレントからトーキーに変わった撮影現場のドタバタみたいに大きな音で、残念だった。
(翌日に今敏監督の「パーフェクト・ブルー」を観た、音楽、音の効果が素晴らしかった。)
森達也監督にはこれからも劇映画を撮り続けてほしいです。
失われる個人
食らった。恐ろしい程に。
終わってすぐ席を離れることは出来ず、帰り際もスマホを一切触ることなく、ただひたすらに落ち込んでいた。この事件を知らなかった自分、100年後の今も変わっていない現実、そして日本で起こったという事実が、悔しくて悔しくてたまらなくなり、胸が張り裂けると同時に涙と震えが止まらなかった。
被害者、なんて可哀想なんだ。
加害者は最低だな。
事件の概要だけ聞けば、そう思うのも仕方ない。だが、そう思うこと自体、このような事件を生み出した原因なのではないか。この映画は、被害者側ではなく加害者側をメインに話が進んでいくため、上記の感想は抱かない。文字だけ、見た目だけ、噂話だけから物事を判断する。結局、現代を生きる我々も、100年前と何も変わっていない。本作を見てそれを実感した時、酷く自分とこの社会を恥じた。周りが言うことは全て正しい。同調圧力と多数派意見の尊重という、個人が無視される世の中は、いつから生まれてしまったのだろうか。
誰かを馬鹿にしたり、蔑んだり、虐げたりすることで、自分の気持ちを落ち着かせる。「自分は、あの人よりは上だ。」第三者目線でこれらの様子を見ていると、なんて酷いことをするんだと罵りたくなるが、じゃあこのようなことを100%自分はしていないかと聞かれると、悲しいことに言いきれない。命の重さは皆平等なはずなのに、鮮人だからと当たり前に暴力を振るうし、都合の悪いことには目を逸らし、自身を正当化しようとする。100%そんなことはしない、善人になれとは言わない。この映画に出てくる登場人物だって、皆完璧では無い。だが、正しいことを正しい、間違っていることを間違っていると言えなくなれば、この事件をもう一度繰り返してもおかしくないはずだ。
男性陣の演技が傷跡に水を垂らしたように痛く、染みる。井浦新の噛み締めるような丁寧な口調からは、重く苦しい過去が見えてくるし、瑛太の明るさには、"家族"を抱える責任感が伝わる。でも1人、異彩を放っている。そう、東出昌大。彼の勢いが止まらない。2023年のノンフィクション劇映画は東出昌大主演の「Winny」一択だろうと思っていたが、本作が超してきた。女性たちの体当たりな演技も心をえぐる。もう、見てられないほどに。
劇中、福田村は常に哀しく寂しい空気が流れる。
沈黙が流れたり、怒号が聞こえたり。そんな村なのに、鮮人の噂話や団の結成となると物凄く盛り上がる。人の不幸は蜜の味。攻撃が動力となっている。「昔はこんなことがあったんだ」で片付けていいのだろうか。
とんでもないメッセージが込められた作品です。上映館は少ないし、公開から3週間経っているので上映終了となる映画館も多いとは思いますが、是非とも多くの方に見て頂きたい。「何も変わっていない」ということに、異常なまでの恐怖を覚えてしまいます。しばらく立ち直れないほど胸糞の悪い映画(事件)ですが、この事実に目を背けず、体感して欲しい。今年1位です。この衝撃を、ぜひ劇場で。
日本の映画業界にとってエポックメイキング
ドキュメンタリー畑の森達也監督が初めて手掛けた劇映画。若松プロ一派の荒井晴彦、井上淳一、白石和彌との対談で、森監督が意外にもドラマ好きで、彼らと共にこの作品の企画を進めていることを知って、大いに注目、期待していた。
観終わった感想としては、とにもかくにも、このような題材が劇映画として作られ、興行として成立したことは、日本の映画業界にとってエポックメイキングだということ。名のある役者陣が顔を揃え、一般の映画館で公開され、お客さんを集めているというのが、いかにすごいことか。いわゆる「放送禁止用語」がこれだけ交わされる作品は今ではないだろう。
荒井晴彦的な男女の性愛シーンあり、ジャーナリストの葛藤を描くシーンありと、アンバランスな感じはあるし、主人公夫妻の過去を台詞で語らせるところなど、冗長な部分もあるが、とにかく物事を一面的でなく、重層的に描きたいという作者の想いがわかる。その行き着く先が「集団と個」の問題なのだろう。
役者陣は、端役も含めてよく頑張っていた。中でも、東出昌大が印象的。敵役が水道橋博士とは気付かなかった。柄本明の家族のエピソードは、なくてもよかったかな。
この作品が関東大震災から100年を迎えた今年に世に出て、ロングラン上映されていることは奇跡的と言えるが、森監督がインタビューで語っているように、ナチスや奴隷制を描く劇映画がジャンル映画としてあまたあるように、日本の歴史を真摯に描く劇映画もこれから続いていくことを期待したい。
集団心理は恐ろしい
史実を元にした作品は、やはり見ておきたい。映画で歴史を学ぶ一番大切なことかもしれない。商業映画として大ヒット上映とはならないだろうが、見ておくべき作品だと思った。
もちろん、現代は100年前の状況とは違うが、現代における同様の狂気はあるのだろう。
あの狂気は人間が本質的に持っているのか。目を塞いでいいものではない。
重苦しい映画だったが、関東大震災の頃に起きた「福田村事件」を教訓にして、学ぶべきことが多い。
評判は様々有るけれど、まずは自分の目で確かめましょう!
地元ではミニシアター上映で座席が少なく連日満席状態が続き追加上映も。森監督にとって初の劇映画になるがドキュメンタリー映画を撮ってきているからか、ふっとドキュメンタリー映像を観ている感覚になることもまま有った。
100年の長い間、重い蓋をしてきた千葉県福田村でおきた村人たちによる殺人事件。
1923年9月6日たまたま四国讃岐から行商に訪れていた一行15人のうちの9人(幼児や妊婦も含む)が虐殺されてしまった。「自分たちは四国から来た」とどれだけ訴えてもまったく聞き入れられず集団で襲い掛かられる。この事実が100年間歴史の闇に葬られていたという。
行商団の親方が「鮮人なら殺していいんか」の言葉は何にでも置き換えることが出来てしまう。「被差別部落出身の人たち」「社会主義者たち」「様々な障害がある人たち」など社会的に弱い立場に置かれている人たちやマイノリティーな人たちにに刃が向けられてしまう現実。
どこにでも居る普通の村人たち、国家権力に寄りかかる在郷軍人や自警団、警察、中立的良心的な村長や朝鮮から戻ってきた夫妻、政府に阿る新聞社、それに抗う新聞社社員etc様々な立場の人間がいても大きな波が起きてしまうと止めようがないと言う恐ろしい現実を見せつかられた。真実でないことでも多勢の力で捻じ曲げられてしまうことは何時の時代でも起こりうる事。
集団で襲い掛かる場面を観ながらこの時自分はどこに立っているんだろうか?と考えさせられた。私は弱いから、心の中では「違う」「やめろ」と思っていても大勢の中の一人になってしまっていただろうなと思う。
少しでも正気でいるためには常に「なぜ?」「これで良いのか?」「どうしたい?」と自問自答し続けて暮らして行かなければいけないと改めて考えさせられた。
この作品は観て良かったと思うし、観るべき1本だと私は思う。
森監督「福田村事件」を映画化していただいてありがとうございます。
正義感と集団の恐ろしさ
この映画がなければ、この事件があったこと自体を生涯知ることはなかったでしょう。
私は散々ホロコーストの映画を観て、アメリカの黒人奴隷がまかり通っていた時代の映画を観て、その残酷さを嘆いていたのに、こんなに近くで起きていた、歪んだ正義感と集団心理によって引き起こされた残酷な事件を知らなかったのです。
もうそのこと自体が恐ろしいです。
一触即発の雰囲気の中にあっても、冷静に待てと言う人、その人を知っていると言う人、止める人がいるのに止められなくなっていく様子がとてもリアルで、瑛太が放った「朝鮮人なら良いのか」という、中でも際立って冷静で中立で公平な言葉が沁みました。
しかしだからこそ夫を亡くしたと勘違いして絶望の中にいた女性が我を忘れ振り下ろしてしまった凶器が、その狂気がとても悲しかった。
あの言葉が結果、引き金となってしまった演出はとても光っていました。
村長さんがもっと頼りになったら…
あそこで扇子なんて出さなかったら…
新聞に事実が掲載されていたなら…
あとからならいくらでも、ことが起きなくて済んだ可能性を言えるのに、渦中の人は止まらない。
現代ではネットの中で私的制裁や私人逮捕などで暴走している人がたくさんいます。
これも含め一番タチが悪いのは、本人が「正しい」「正義」「何かのため」と信じていることです。
自戒も込めて、正しい情報を得ること、自分の正義感だけで突き進まないこと、冷静さを失わないことの大切さを痛感させられました。
ラストにかけての事件の部分はものすごく不快なシーンでしたが、この事実を広めたことと、メッセージが素晴らしい作品でした。
ラスト直前までは面白い!
全体として、丁寧に市井の人々の暮らしを描いている。
村人の心理は度々グラついていきながら、震災によって一気に決壊してしまう。それは戦時中の日本国民全体に言えることだっただろう。
人々に生まれた不安心が膨れ上がり、行商の団体を追い詰めていくシークエンスには息を呑むほどだった。
しかし、この映画はラストになればなるほど安っぽい。劇作家の首をはねるシーンで少し生まれた違和感が、村人の虐殺時に確信へと変わった。
アホみたいな血しぶき。どう見ても刺してない竹槍。腰の入ってねえ袈裟斬り。映画制作陣はここがいちばん重要なシーンだと気づいていないのだろうか。虐殺が見るも無惨なものであるからこそ、観客に思考を促すのである。チープな映像では現実感が生まれない、なんてことは言うまでもない事のはずだ。
加えて、新聞記者の脚本もありきたりすぎる。新聞の果たすべき役割を訴える女性記者を、我々はあと何度見ればいいのだろうか。
それでも"望"あれと
盛り込み過ぎのきらいはあるが、"良薬口に苦し"を地で行く様な作品。暫く前にNHKスペシャルでも扱われていた題材で、その時も"朝鮮贔屓だ"みたいな事を騒ぎ立てる残念な輩がそこかしこにいたが、事はそんなに単純でもなく。そういう意味では"盛り込み過ぎ"にも意味があったのだろう。個人的には子供の時分から"部落"に関わりがあったりしたので、そちらの方に感情移入してしまいました。
事件は過去だが今向き合うべき佳作
関東大震災という当時未曾有の大惨事において混乱のドサクサに紛れて起こった惨劇。
事件当時より遥かに情報伝達が早い現代であるからといって過去の事件としてただ胸を痛めて鑑賞すればいいという作品ではない。
物語は最初から閉鎖的な村社会、差別、暴力を、登場人物達は映画だからと綺麗な言葉ではなく直接的な言葉で表現しあっている。雑な言葉を使わせてもらえばひたすら胸糞が悪い。
この映画において加害者は少なくとも映画の中では普通の人だ。赤ちゃんや幼児まで殺してしまうような異常性を最初から剥き出しにしてるような人物は1人もいない。しかし一度殺戮が始まると相手が子供だろうが何度も竹槍を突き刺す。普段何気なく暮らす我々にそうならないという絶対的な何かが果たしてあるのだろうか。
私はこの作品に1番戦慄したのはそこである。
理性が感情を抑えることができないのではないかという不安である。
永山瑛太さん演じる新助にノイローゼ気味の女性が棒で無機質に殴り、新助は絶命。これで日常は壊れてしまい後は不安、不審の波に流されて大量惨殺。穏健派の村長も何も言葉を発せられない。ただ雑な暴力への本能的な恐怖。これを抑えられる理性が本当にあるのだろうか。
惨劇の直接的、間接的となった災害、デマ、差別、世相、そして集団心理。これらは全て現代においても当時と何ら変わらない危険性を伴っている。だからこそ他人事ではなく自分が加害者にも被害者にもなり得る可能性を感じながら鑑賞しなければならない。
また起こるとも知れない昔の話
滅入るとわかってて観てやっぱり滅入る
関東大震災直後、社会撹乱のあらぬ疑いをかけられて、各地の自警団によるリンチで在日朝鮮人が命を落とす
千葉県の福田村では、香川の薬売りの行商団も聞き慣れない方言のためにそうと見做されて惨殺される
日本人が巻き込まれたから事件化した、というのがまた何ともいかれてる、にわかには信じ難い、ほんの100年前のわが国の価値観の話
でもこういう、これまで共に普通に過ごしてた隣人をいきなり殺戮する出来事って世界中で起こってきたわけで
世間一般の総意として悪とされるものを、安全な場所から気が済むまで叩きまくる最近のノリも根っこは同じじゃないかな
全く日本人ってのは忖度しすぎだろ。
予告編は観てなかったし、実際にこんな事件があった事も知らなかったのでビックリ。
100年前の大正時代の話で、関東大震災が発生。あれ?この前、朝ドラで観た日だ。頭の中に神木君出てきちゃったよ〜。
当時の日本って軍事帝国。自分たちが暴力を振るうので、相手からも暴力を受けると確信してるんだろな。だからって、地震で起きた火事が朝鮮人の放火だって流言がとびかって、それを信じた奴らが朝鮮人を虐殺したんだ。しかも軍隊や警察じゃなく、住民の自警団が!?調べてみたら、なんと6000名以上らしい。こんな事実があるから今だに韓国では反日思想が無くならないんだな。分かる〜!
この話、井浦新演じる澤田が韓国から帰国して農業を始めるんだけど、何か重い物を抱えてる感じで、夫婦がモヤモヤ。何を抱えてるかは回収できたけど、何故、奥さんとアレができなくなったかは分からないままでした、モヤッ。だからって奥さん!?
永山瑛太演じる沼部は四国の讃岐の薬売りで、仲間と一緒に関東へ出稼ぎに来ている。えっ!讃岐の方言が日本人ではないって関東人に判断される。そんなバカな!?おかげで朝鮮人として殺されちゃう9人。げっ!酷い展開だ。やった奴らは自分達を守る為という正義感で行動している。本当に朝鮮人ってだけで殺していいのか?当時の日本人酷いな。
電話もラジオも無い時代、社会的情報は新聞しか無い。だからこそ新聞社は国に忖度している。部長の判断、仕方ないよな。
想像してたよりずっと重い展開。後半、結構ウルウルしちゃった。朝鮮飴を食べたくなっちゃった。今の時代だからこそ、皆さんに観て欲しい作品です。よかった〜。
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