ザリガニの鳴くところのレビュー・感想・評価
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本当の私
カロライナの美しい湿地の地面や沼地の水面に近いアングルの画面は、人間がこの神秘に満ちた自然界から追放された存在なのだと感じさせる。
自然には善悪はない
時に弱者が強者を葬ることを湿地は知っている
人間が忘れてしまった生き抜く力と自然界のルールを観察しその一部として生活しつつ、人間界の価値観とも縁を切ることもできないカイアのアイデンティティは、彼女が人生を語る中で揺らぎから確信を深めていく。
そして、自らの生命を全うするために必要なことを選別していく。
サスペンスとしては伏線がたっぷりばら撒かれているし、ラブストーリーとしては王道だし、法廷ドラマとしてもオーソドックスな展開である。これらは全て人間界のロジックで駆動している場面である。
その場面のサブチャンネルで静かに確実に起動している自然界のロジックの気配は、身震いするぐらい残酷だが力強い生命、人生への讃歌も聴こえる。
何度もいう。
自然に善悪などないのだ。
そして善悪を分ける境界線は思っているより曖昧だ。
そして自然界は人間が思うよりも強かである。
原作者とその家族の“闇の奥”が、映画に影を投げかける
米南東部ノースカロライナ州の湿地帯、高さ十数メートルの見晴らし台近くで、金持ちの青年チェイスが変死体で発見される。青年と関わりのあった“湿地の娘”カイアが殺人の容疑者として逮捕される。彼女に不利な状況証拠と証言。本当にカイアが殺したのか、それともほかに真犯人が? あるいは転落による事故死の可能性は?
鑑賞して、カイアのユニークなキャラクター造形とストーリーの独創性に、この物語を書いたのはどんな人なのかと興味をそそられた。原作は2018年に発表された小説で、著者は1949年生まれ、出版当時60代後半の作家・動物学者のディーリア・オーウェンズ。米南東部ジョージア州の自然に囲まれた環境で育ち、生き物に興味を持つようになりジョージア大学で生物学を学んだというから、まずカイアのキャラクターに彼女の生い立ちが一部投影されたのは明らかだ。
ディーリアと共に同大学で生物学を学んだのが、後に結婚するマーク(彼にとっては再婚で、連れ子のクリストファーがいた)。研究者カップルという点から、カイアと親しくなるテイトのキャラクターにマークの一面が反映されたと推測できる。
オーウェンズ夫妻は1970年代半ばにアフリカに移住し、野生動物の研究と保護の仕事に携わった。ボツワナのカラハリ砂漠での日々の回顧録が、ディーリアの作家としての第1作になった。1990年代に夫妻はザンビアに移り、密猟の取り締まりに関わることになる。
話が怪しくなってくるのはここから。マークは現地の男たちを雇って偵察隊を組織し、暴力的な言動で隊員たちを鍛えた。そして隊員らは、密猟者を発見すると問答無用で射殺したと伝えられている。「地獄の黙示録」の元ネタであるコンラッドの小説「闇の奥」を思わせるような展開ではないか。1996年には米ABCニュースが「死のゲーム : マーク・オーウェンズとディーリア」と題した報道番組を放送したが、映像には密猟者が射殺される瞬間も収められていた。発砲した者は複数いたようだが、この殺害にマークの息子クリストファーが関わっていたのではないかと疑われている。また、射殺した密猟者の遺体はヘリコプターで運ばれ、沼地に落とされたという証言もある。死体は動物に食べられ、殺人の証拠が消えるというのだ。小説「ザリガニの鳴くところ」の発表後、高所から落下した死体、自然によって消される証拠といった類似点を指摘する声もあったらしい。
ディーリアは関与を否定している(その後マークとは離婚した)が、クリストファーは親元を離れてから近所の家の飼い犬を銃で撃ち殺したり、暴行事件を起こしたりしたと伝えられており、相当やばい人物であるのは間違いなさそう。となると、作品中のカイアの父親やチェイスの暴力的な傾向は、マークとクリストファーの暗い一面を反映させた可能性も十分考えられる。
ディーリア、元夫、義理の息子が抱えた闇が本作に投影されたのだとすれば、その独創性を手放しで評価する気にはなれないのだった。
自然に善悪はない
自然と調和して生きる人の姿をミステリーとともに描いた秀作。自然の世界に善悪はない、ただ生きる知恵があるだけというセリフは象徴的だ。ミステリーということは殺人事件が起きるということだが、殺人という概念も、差別や偏見というものも、人間特有の善悪の基準なくしては生まれない。人生の大半を自然の摂理の中で生きてきた女性は、人間社会でいかに裁かれるのか、人間の法理と自然の摂理、両方を等価なものとして提示しているのが本作のユニークな点で、ヒューマニズムの外側に開かれている物語だ。
家父長的なものに抗うフェミニズムを描いた作品として理解するのもいい。だが、そういう家父長的なものもそれに対するフェミニズムも、所詮は人間の社会のものでしかない。生きる知恵があるだけの自然の摂理はそれよりも大きい。アメリカ映画でそういう感覚を描く作品は少ない。大変貴重な作品だと思う。
ミステリアスな語り口がいざなう先にあるもの
面白い物語構造と幾つもの顔を持つ作品だ。沼地で孤独に暮らす少女のたくましい成長モノかと思えば、事故か他殺かをめぐるサスペンス及び裁判モノでもあり、はたまたラブストーリーが絡んだかと思うと、人々の”偏見”もまた『アラバマ物語』的なテーマとなって浮上してくる。この南部の物語を『ハッシュパピー』の脚本家が脚色しているのも面白いところだ。人は臭いものに蓋でもするかのようにレッテルを貼りたがる。そして、ある種の非情な人間たちは社会的な”死角”において特定の人を縛り付け、虐げる。この映画の見どころはその逆境を本作ならではのミステリアスな語り口で超越するところであり、感情豊かでありながら手の内を見せないエドガー・ジョーンズの佇まいをはじめ、演出のペースや美術、ストラザーンの厚みのある演技も効いている。偏見に満ちた世の中を糾弾しつつも、これはむしろ一人の女性が自らの力で己を解き放つ物語だと私は受け止めた。
ミステリーヒューマンロマンス
両親にも兄弟にも置き去りにされ6歳から湿地で一人自然を相手に生き延びてきたカイア。その強さとは裏腹に孤独という弱点が潜んでいた。
独りになりたくないからといって好きでもない相手と付き合うカイアの危なっかしさ。テイトに一度裏切られた事を根に持つしつこさ。カイアは美人で頭も良いがしたたかで執念深い。
ミステリー感は少なく感じた
Netflixで鑑賞。
湿地や海辺等の自然の情景を見るだけでも、やはり大スクリーンで見たかった。
出ていく母よ、兄よ、暴力父に耐えられず家を出るならカイアを連れていけー。ちょっと「DOGMAN」を見た時と似たような気持ちになりましたよ。
街の人々からは湿地の娘(Marsh girl )と蔑まれ、教育も受けられず孤独で悲惨な日々を送る、そんなカイアも人との接触があるが、やはり寄ってくるのは男。何も起きない訳がないー。
人里離れて暮らすこの類の話は、救いの手が延べられても、自分が慣れ親しんだ環境に身を置き続けるパターンが多いように思う。ジャンルは違うが昔見た「エメラルド・フォレスト」もそんな感じ。(街では暮らせない)
カイアを育み、生きる術を見つけた湿地が彼女の生きる場所。
自然界の在り方が彼女に染み込んでいる。それが、やっぱり!?…というラストにも活かされ、うまく構成された物語と思いました。
*****
自転車に乗るかのようにボートで移動する人々の様は、そうそう見る機会がないので興味深かったです。
原題:Where The Crawdads Sing
調査中の謎
良質なミステリー&ヒューマンドラマ
湿地は死を理解している
だから彼女は湿地になった。死を悲劇にしないし、罪にもしない。どんな生き物も生存の為に奮闘する。
これがこの映画が1番伝えたかった事だと思う。幼い頃から父親がDVをする家庭で育ち、崩壊。愛する人にも裏切られ慰めの様に現れた男は父親を彷彿とさせるノンデリカシーなDV男。
裁判で弁護士が言ったことは正解だ。裁判にあたり、湿地の娘と偏見の目で見るのではなく公平な態度で接する事が必要だ。だが、きっとチェイスを殺したのは…。
私も未だに正解が分からない。同じ女性として、性犯罪との戦い方が。未遂なら警察に突き出す事は出来ないし、女である以上力では勝てない。恐怖は一生付き纏う。彼女が湿地になったのは湿地は死を悲劇にしないし罪にもしないから。共感性が高い人は心が痛む映画だと思う。
裏切りと絶望だらけのカイアの人生が、最後は希望で終われて良かった。彼女のいる場所、ザリガニの鳴くところで。
湿地で孤独に生きる少女が殺人事件の容疑者となり、過去と現在が交錯し...
独特の余韻
綺麗なロケーションが救い
彼女を彼女たらしめたもの
タイトルとオープニングからは全く想像がつかない展開の法廷サスペンス。
主人公のモノローグと自然の映像をバックに過去から現在までを静かに回想していくが、どこかずっと緊張感を持ったまま見続けた。
彼を殺したのは誰か?一度伏線となるようなシーンがあった(初めて2人が櫓に登って足場を見たとき)。私はこのときから、主人公カイアに疑いの目を向けていた。
しかし、徐々に明かされる彼女の過去と法廷で明かされる事実から、彼女への疑いが小さくなっていくのを感じていた。
彼女は疑わしい。動機もある。しかし、客観的な、決定的な証拠がない。
判決がどちらに転ぶかわからない状況の中で、弁護士がとった最後の戦術は、「偏見を捨て、事実で判断してほしい」という陪審員と傍聴者への訴えであった。後から振り返ってみると、したたかなカイアの描いた戦術に弁護士がまんまと乗せられたということであろう。
衝撃のラストシーンはしかし、彼女が犯人であったという告白ではないように思う。ただ、被害者が身につけていた物を彼女が持っていたというだけである。
彼女は罪を犯したのか?それとも濡れ衣を着せられただけなのか?真実を知るのは彼女だけ。
我々は、彼女の生い立ち、境遇に同情しつつも最後に裏切られたような複雑な気分になる。
一体、私たちは何を見せられたのか・・・
彼女を彼女たらしめたものは、何か?
うっそうとして人を寄せ付けない湿地帯の自然、美しき植物や生物、彼女を捨てた家族へのの複雑な思い、社会の偏見への憎しみ、カイトとの愛、雑貨店の黒人夫婦の暖かさ、そして被害者チェイス・・・
言葉で表現しようとしても、捉えきれない。
湿地帯のように、捉えようとすると飲み込まれていく。
大好きな自然に囲まれた暮らしを取り戻した彼女の後半生は幸せだったのだろうか?誰も彼女の心の内を知ることはできない。
いいようのない思いが残る。
シンプルな生活
彼女のルールはごくごくシンプルだ
それは生き抜くこと
それにしても彼女は美しすぎる
何十年も前のターザンぐらいに美しい
きっとそれも勝手に刷り込まれたイメージなのだろうな
彼女に生き抜く方法を教えてくれるのは目の前の大自然
自然はごくごくシンプルに教えてくれる
悪い言い方をすれば目の前の邪魔者は排除する
そこには善も悪もない、命のやり取りも後腐れない
人と違って不純な欲求がないからだろうな
人よりもとうぜん昆虫や動物が先にこの世にいる
彼らがその世界で命のやり取りをしている
人は理由が何にせよ殺してはいけない
いつから? どこの国でも?
戦国時代は平気で殺してた
平安時代はどうやらそうでは無かったらしい
やはり人は欲によって動き殺し奪う生き物なのか
生物は知恵がつくとろくでもないのだな〜
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