これがSFだと気づくときに驚愕が走る。
まずそこがこの作品の面白さだろう。
地球最後の終末世界
20年遅れで的中したノストラダムスの大予言
物語そのものが、父の死によって兄弟3人が実家で暮らし始めるというものだが、当初から二人姉妹の映像が、何故か3人姉妹に変わっている謎に意識が集中してしまう。
当然ヒューマンドラマだと思ってしまう。
さて、
音
彼女は末っ子で姉たちとは歳も12歳ほど違いがある。
彼女の朝の日課がジョギング
ある日小学生の姉妹と出会う。
それはかつての彩音と花音
あの映像は一体何だったのだろうか?
彼女の夢だったのだろうか?
それとも終末期に何かが起きたのだろうか?
その後、
世界の終わり会と名乗る酒飲みサークルの仲間になるが、その会に遅れて到着した時、集団自殺をしていた光景にオロオロになってしまう。
これでこの物語が何を言っているのかはっきりとわかった。
ここで驚愕した。
登場人物は皆、もう数日で終わってしまうこの世界で、何もできないままいつも通りを過ごしながら生きていたのだ。
彼女は死んでいる仲間たちを見て走って逃げる。
そしてその途中、気づけば「夏」になっていた。
途中で倒れて見た夢
そこで出会った姉妹
それは、幼い時に家出をした彩音と花音だった。
さて、
この物語の3姉妹の名前に入っている「音」は何を意味するのだろうか?
最後に彼女たちは迫りくる巨大な隕石を浜辺で見ながら、音に関するあらゆるものを挙げてゆく遊びをする。
それはしりとりのようなものだが、音がしなければならない。
3人の共通点の「音」
やがてそれも出尽くし「もうすぐだね」という。
朝日 隕石 波の音 そしてエンドロール
この世界で起きていることは、ノストラダムスの大予言が20年差で的中したことが判明し、人々は各地に10年ほど隠れることのできるシェルターを作って逃げ込んでいた。
しかし、お金のないものは購入できず、相馬は家族を守るためにシェルターのある場所を花音から聞き出すことが目的だった。
相馬は警備員に射殺されたのだろう。
シェルターを奪おうとする者も必死になっている。
音は、
この終末に来て死んだ父と、転がり込んできた腹違いの姉妹たちによって、自分自身というものを再発見したのだろう。
終末論は、古くから姉妹たちの興味の対象だった。
最初は外れたが、実はそれは20年後にやってきた。
音の興味は終末には全くなく、どこかよそよそしくなってしまう姉たちとの生活の方にある。
この作品のテーマは「現実逃避」だろうか?
様々なモチーフを散りばめながら、現実逃避を描いている。
彩音は、
シェルターの設計をしているが、何故自分たちにシェルターを用意しなかったのだろう?
目の前で仲間が殺され、それは1度ではない異常事態が続いている。
もうすでに警察組織は機能していないのだろう。
それでもその仕事を放棄しないことで、結局相馬も死んでしまった。
それが姉妹喧嘩になる。
音が喧嘩する二人を見て「普通だね。何も変わらない」と言って泣いたのは、終末が間近に迫ってきた心境で、普通ではないが、その事がかえって音が自分を取り戻すきっかけとなった。
その時小さな隕石が庭に落下するが、その前に聞こえてきた音は「遠い雷鳴」にも似ていた。
タイトルには、これから始まる序曲のような意味があるのだろうか?
それを平仮名表記によって恐怖を象徴しているのだろうか?
タイトルだけ見ればそれは、どこか他人事のようだ。
しかし作品では、シェルターを奪おうとする人々の行動が「とおく」を表しているような気がした。
それはつまり心理だ。
恐れと不安と何とかして助かりたい思い。
それをまだ遠くに感じている姉妹たち。
映画の割と最初の方で、花音が音に「若くして死ぬことをどう思う?」と尋ねるが、音は「大げさ」という。
現実的ではないことに対する逃避心理が彼女に働いているようだ。
しかし最後は浜辺でその様子を見届ける決意をした。
そこにあったのが朝日。
日常だ。
この現実がどうなろうと、私たち3人は「大丈夫」なのだ。
ありのまま、そのままでいれば、それ以上望むことなど何もない。
SFに驚愕しながらも、その時が来ればきっと彼女たちの心境こそが最強なのかもしれない。