あちらにいる鬼のレビュー・感想・評価
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煩悩を捨てたら、家族になっていた。
普通の不倫が「みはる」の出家によって、家族のような絆に変わる。
瀬戸内寂聴でなければあり得ない、
そんな映画でした。
長内みはる(瀬戸内寂聴=寺島しのぶ)
白木篤郎(井上光晴=豊川悦司)
その妻・白木笙子(広末涼子)
夫と妻と愛人の《三角関係》
そんな平凡な関係が、深い慈しみと人間愛の物語になる。
瀬戸内寂聴さんはテレビや講演などでお馴染みの、サバサバした
愛情溢れるお人柄で、多くの女性から圧倒的な支持を集めた女性です。
私は特別な思い入れはないのですが、
女が剃髪して出家して仏門に入る。
並大抵の覚悟ではありません。
全ての煩悩を捨てる。
まず第一に男を断つ。
それはきっと、みはるが愛し続ければ、白木篤郎の家庭は壊れて、
妻と子供は、夫を父親をなくすことになる。
みはるは出家して寂光となり、笙子の家庭を守ったのでしょうね。
そして荒ぶる心を、悩める女性の応援や啓蒙に尽くして、
瀬戸内寂聴に成長させた。
作家の篤郎役の豊川悦司は、とても優しい魅力的な男性でしたね。
自分のせいで女を捨てて出家するみはるが不憫でならないのです。
剃髪した寂光にかける言葉と眼差し。
妻と鰻を食べながら咽び泣くシーン。
(昔からスクリーンで涙ぐむ男に弱い私です)
トヨエツ、色っぽい!!
寺島しのぶは自らの長い髪をスッパリと剃り落とす。
覚悟を決めて、実際に剃髪したら、新たな次元の演技に
昇華したと言います。
やはり演技に対する向かい方は、寺島しのぶと安藤さくらは別格。
(東西の両横綱と呼ばせてください)
そして夫の小説家・白木篤郎の女遊びを許してまったく怒らない妻役の
広末涼子。
清純な美しさそのまま歳を重ねて、臈たけた女性に変わりました。
「あちらにいる鬼」
みはる側から見たら、笙子が鬼。
笙子側から見たら、みはるが鬼。
母親も妻も、怖いから値打ちがある。
鬼の手の内で転がされてるのが、オトコ!!
この映画の原作を書いたのが井上光晴の娘の井上荒野。
瀬戸内寂聴とは父の死後も親交があったという。
剃髪した後の寺島しのぶは瀬戸内寂聴にしか見えなかった。
広末はかわいい
確かに
寺島眞秀の母でございます。よろちくびー!
2022年映画館鑑賞68作品目
11月27日(日)チネラビィータ
スタンプ招待券0円
原作未読
『ロマン子クラブ・エッチがいっぱい』『ヴァイブレータ』『機関車先生』『雷桜』『軽蔑』『きいろいゾウ』『ストロボ・エッジ』『オオカミ少女と黒王子 』『彼女の人生は間違いじゃない』『ノイズ』の廣木隆一
脚本は『湯殿山麓呪い村』『ヴァイブレータ』『共喰い』『海を感じる時』『この国の空』『火口のふたり』の荒井晴彦
瀬戸内寂聴をモデルにした不倫劇
60年代前半から70年代前半そして飛んで90年代前半
瀬戸内寂聴の作品は読んだことはない
出家前に不倫した作家さんで政治的発言がネットメディアによく取り上げらていた印象しかない
共感はできないがわりと楽しめた
長くは感じなかった
ヤフコメ民やゴシップ系週刊誌と違い不道徳な人間なのでわりとこういう作品は楽しめる
白木篤郎のプレイボーイぶりは男の中の男
リスペクトはしないが男らしい男といえる
そういえば無政府主義者の大杉栄もモテモテだった
そういうタイプが女を惹きつけるんだろう
そんなパパは娘から「ちち」と呼ばれてるがちょっとだけ違和感
R15ということもありそれなりの濡れ場はある
寺島しのぶ乳首発見
まだ幼い梨園の息子がいるのによくやるなあ
外国人の夫も寛大
本当に坊主頭になるのも圧巻
コメディーならCGでも良いがそこは官能映画
寺島しのぶはそんな半端なことはしない
広末涼子の演技を怪演などと絶賛する人もいるようだが特にそれは感じなかった
いつも通りの広末涼子で少なくとも『おくりびと』から特に進歩していない
広末涼子のポテンシャルに笙子というキャラがうまくハマった形
むしろ笙子役に広末涼子を抜擢したキャスティング担当者を褒めたい
女優の顔のアップが比較的多い気がする
特に初子の見舞いに行った笙子のシーンでの蓮仏と広末が印象的
ラストでタクシーに乗る寂光のシーンもとても良い
それにしてもステマかよと思うくらいウイスキーが劇中によく登場した
文壇といえばウイスキーなのか
角瓶なんて買うもんかと思ったがついついトリスハイボール缶を買ってしまった
朝日新聞が絡んでいるせいか日本特有の左翼っぽい生臭さを感じたが結局虚言癖というオチは胸のすく思いがしたのは正直なところ
あと長内みはる(寂光)じゃなくて瀬戸内晴美(寂聴)で良いんじゃないの?
なんでそんな中途半端なことするの?
木村拓哉が御台場ゴム長で綾瀬はるかが淡姫なんて嫌でしょ
白木と不倫の末に出家する小説家の長内みはるに寺島しのぶ
女にだらしない小説家の白木篤郎に豊川悦司
夫の度重なる不貞行為に耐え忍ぶ篤郎の妻・白木笙子に広末涼子
みはるが福岡の家庭を捨てて駆け落ちした相手で二度別れることなる小桧山真二に高良健吾
住宅建設会社社長の秦に村上淳
篤郎の元愛人で入院中の坂口初子に蓮佛美沙子
作家の世話をする新城に宇野祥平
篤郎の祖母・白木サカに丘みつ子
クラブのママに山田キヌヲ
古舘寛治やしゅはまはるみも出ていた気がする
ダブル主演を完全に喰っていたのが、広末涼子の怪演でした。
映画のモデルの井上光晴は、単なる左巻き、かつ、生まれながらの大嘘つきで、女なんて便所だとしか思っていない、くっだらない人間。
ま、典型的なサイコパスですな。
そいつが何をトチ狂ったか瀬戸内寂聴とデキてしまうわけですが、この二人が惹かれ合う理由は、まったく理解不能でした。
もしかしたら、井上自身は、「公衆便所をまた一個ゲット」のつもりで口説いただけかも知れません。観ている側に、そのような危惧を感じさせるほど、理解不能でした。
というわけで、寺島にも豊川にも同感はできませんが、そもそもそういうストーリーを楽しむ映画ではないのだと思います。
この映画の凄さは、豊川の女房役を演じた広末涼子の怪演でした。
セリフを極限まで省略し、代わりに顔の表情によって観客に感情を伝えるという手法。
広末の顔の演技たるや、まさに鳥肌モノで、何も言わなくても観客に感情がヒシヒシと伝わって来るのです。
こういう鳥肌経験がこれでもかと全編に組み込まれている作品なので、観客としては、こりゃ、たまりませんなーというしかありませんでした。
豊川悦司も、いろいろ達者な顔芸を見せてくれてはいるのですけどね。
やはり広末の演技が数段上だ。
ほんとうに驚きました。
酒にこだわることに何の意味がある?
結局…
キレイすぎ
エロが足りない
心の中の鬼
鬼とは何か。人としての情けを欠く存在か。欲望、嫉妬、見栄、軽蔑もまた人の心に棲む鬼。愛欲におぼれ、周囲を傷つけてもなお止められない、どうしようもない人の性(さが)か。と書いてはみたものの、そういう強い情念を持ち合わせない自分には、もう想像を超えた世界です。っつーか、SF!?(と、「窓辺にて」の水木君なら叫ぶでしょう)
寂光のモデルの瀬戸内晴美さんの小説は、新聞の連載をちらっと読んだだけです。けっこう生々しくて、新聞に載せて大丈夫なの?と思いました。途中読んでないんですが、最後に出家する人物が居ました。
本作で瀬戸内さんの出家に至る心情が知れるかと思ったら、原作はなんと不倫相手の娘さん(これも作家の性)なので映画では詳しく触れてはいませんが、ご本人に取材して書いた小説だそうです。
死ぬしか別れる方法が無いから、生きたまま死ぬ事にしたというみはる。
出家してもまだ俗世への未練が断ち切れずにもがく寂光。
でも、モデルの寂聴さんのその強さと弱さが、人々に愛され、慕われたのかもしれません。
噓をつかずにはいられない、という人間は確かにいて、それこそ何の得にもならない噓が次から次へと口から出てくるんです。寂しい人です。
広末涼子さんの、多くを語らない演技にゾクリとしました。夫の浮気相手の未練を受け止めて、静かに涙を流します。寺島しのぶさんの“動”と広末さんの”静”の演技が見どころです。
ウィスキーうまそうに飲まれる
60年代、70年代を生きてなかったので
起こったことは断片的にわかれど、その頃の営みや個々の心情はわかっていないことが多かった
けど
当時を再現したセットや服装、家具、食器がとても可愛らしかった。
人の色恋の話かと思えば、これは人生であり、社会性が問われる現代では
非常識と囃し立てられ、破綻しているようにも思えるのだが、とても豊かに思えた。
ドラマティックでは無く淡々としたようだが、手や瞳、髪を洗う指先から
伝わる機微がくるものがあった
役者ってスゴイ。
映画終わりボクはウィスキーを飲みたかった。
家に帰り、ウィスキーは無かった。
日本酒があったので買ってきたスルメをお供に酒を呑む
今日はイイ映画を良い時に観たとボクは思う。
トヨエツ脚長くて、かっこよすぎじゃない?ねえ
余韻の残る映画 鬼は何かを考察してみた
主人公で作家のみはる(寺島しのぶ)が篤郎に出会い、不適切な関係を描いていく物語です。
中盤までは、不倫の肉体関係の描写が多く微妙でしたが、終盤に盛り返した印象が残りました。
結局、「鬼」は「みはるの篤郎に対する恋心」と感じました。出家しても忘れることが出来ない不適切な関係の恋心。
別視点から考えると、「篤郎のみはるに対する恋心」ともとれます。最後の方の篤郎がウナギを食べている時に顔をくしゃくしゃにした涙。
また、笙子にとっても心の中では、みはるが鬼のような存在ともとれますね。
タクシーに乗った時のみはるの涙に心を動かされ、余韻が残りました。
タイトルなし(ネタバレ)
1966年、昭和も40年代に入ったころのこと。
人気女流作家の長内みはる(寺島しのぶ)は、地方講先で少し年若い作家・白木篤郎(豊川悦司)と知り合う。
すぐに男女の関係になったふたりだったが、白木は女にだらしない性格で、これまで幾人の女性と男女の仲になり、相手を自殺に追い込むこともあったが、本人には、それはそれでしかたがないこと、といった風情。
白木には妻も子どももあるのだが・・・
さて、一方、白木の妻・笙子(広末涼子)もそんな夫の行状は知り尽くしているが、かといってことを荒げるわけでもない。
どうしようもない白木を挟んで、奇妙な三角関係ができるのだが・・・
といった物語で、荒井晴彦が得意とするダメダメ男を中心とした男女の別れるも離れるもできない物語で、とにかく白木のダメっぷりが常軌を逸している。
常軌を逸している(常識の範囲に収まらない)描写は、白木がはじめて長内の自宅を訪れるシーンで描かれており、長内の内縁の夫がいない隙に上がり、応接間の椅子で諾も得ず靴下を脱ぐところに描かれている。
このあたり、荒井晴彦の脚本に書かれているのだろうが、ダメっぷりの行動として、秀逸である。
さらに、演じる豊川悦司も、もうダメ男ぶりが板についてきたようで、あぁ、ダメ男ぉ、とため息が出てしまいます。
それに惹かれる長内も、いわば肉食艶食系なので、ふたりの与太話は馬鹿らしくなってしまいます。
寺島しのぶも7,結構、グズグズ煮崩れた豆腐みたいな役も多いしね。
とはいえ、これが馬鹿らしくアホらしくみえることが男女関係を描く上では重要なのでよろしいんですが・・・
さすがにふたりの描写が続くと辟易です。
で、この映画の見どころは、そんなふたりではなく、白木の妻・笙子。
そんなダメダメ夫の行状はすべて知りつつも、どうにもこうにもこの男でないとダメ、という感じ出ています。
うまく分析できないのですが、白木のことをかわいいと思っているのか、かわいそうとおもっているのか、才能を利用しようと思っているのか、よくわからないところが面白い。
そんな白木の妻からみれば、長内も戦友、仲間、同じ穴のなんとか、とみているのかもしれず、それ故に、嫉妬の炎を燃やすシーンが興味深いです。
(白木から長内が出家すると聞かされた場面、白木の臨終直前に長内が彼に声をかけて手を握り返された後の場面など)
白木の妻がいるお陰で映画に奥行きが出ました。
だって、いないと『愛の流刑地』になっちゃいますものねぇ。
なげーよ!
広末涼子の井上光晴の妻役がすごいカッコ良いのだが、よく考えればお嬢さんの荒野さんが原作の映画。そりゃ、母親をカッコ良く書くよなあ。と納得。寺島しのぶが粘着力ある脂っこい演技で、観る者に疲労感を与える。それにしても、ド左翼の井上光晴は下半身に人格ナシだなあ。驚いた。
映画的には無駄と思われるエピソードやシーンが多く、139分も使うことはないだろうに。新宿で中核ヘルの学生カップルが、ゴールデン街っぽい店に逃げ込んでくるシーンなど、唐突でまったく不要。背景を描くエピソードとしても手法は愚劣。井上の講演の語り部分や、初恋エピソードも不要だろう。脚本の段階で整理ができていないのか、思い入れすぎて観客を置いてけぼりにして、盛り込み過多となったのか。ともあれ、120分以下にして、リズムやテンポを重視していってほしかった。商業映画なんだから。
寺島しのぶの坊主頭は綺麗だなあ
初めての舞台挨拶上映。トヨエツはやたら背が高く、広末涼子の脚は異様に細く、寺島しのぶは凛として輝いていた。
モデルの井上光晴という作家は、見た目トヨエツでもなく、経歴詐称のうえ、底辺層への共感を作風にしつつ自分は儲けた金で調布に家建てるというどこが良いんだよのクズ野郎だが、そんなクズさも心象を文章としてoutputする力があると賛同や賞賛、恋慕をも呼ぶのであろう。そういう意味では瀬戸内寂聴も同類といえるか。ああ腹立たしくも羨ましいのは文才かな。
ラスト、夫の死に号泣する妻というありがちな情景(そうは言ってもこの人もかなりぶっ飛んでるが)に比べ、主人公の涙を見せつつも、一つの物語を終え次のステージに向かう決意を秘めたような表情がとても印象的で、不覚にもホロっときた。寺島しのぶの演技すげー。
まあ何だかんだで一番ぶっ飛んでるのは自分の親の情事をサラサラと書ける原作者の井上荒野かもしれん。
朝日新聞・・・・・・・。
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