CLOSE クロースのレビュー・感想・評価
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丁寧な映像表現と感傷的な音楽で・・・
映像による描写が巧みで、感傷的な音楽と相俟って、悲しい感情をかき立てられました。悲しみを帯びたカットカットが兎に角印象的で、それはカメラによるものなのか演出によるものなのか演技によるものなのか、あるいは編集によるものなのか、まぁいずれの要素すべてが融合した結果なのでしょうけど、とにかく悲しくなってしまう作品でした。
前に進むために、人は忘却の機能を備えていますが、大人になって、思い出したくないことでも、ふとよみがえってくることがあります。そんな心の澱を洗い流す物語です。
大人の入り口に立つ少年のイニシエーション(通過儀礼)の物語。そう表現するには、あまりにも痛切で悲劇的です。二度と取り戻せない日々だからこそ、その一瞬がまぶしく輝いても見えてくるのでした。
13歳のレオ(エデン・ダンブリン)と大親友のレミ(グスタフ・ドウ・ワエル)は何をするにも一緒。学校へ行き、放課後はともに遊び、寝るときだって互いの家を行き来し、寄り添って寝るほどの仲の良さ。2人も家族も、それが当然と思っていました。
長い夏期休暇を無邪気に過ごし新学期に。中学生となった彼らは同じクラスになります。でも、それは無邪気な時間の終わりへ。繊細で壊れやすく、手にした瞬間にその手からすり抜けてしまう「何か」のように、二人の関係に異変が待ち受けていました。
学校に行くと2人のあまりの仲の良さをいぶかしがるクラスメートが、「付き合ってるの?」と揶揄してきます。レオは「親友だから仲が良いのは当然だ」とムキになって反論するのです。
しかし、クラスメートの視線が気になったレオは、これをキッカケにレミと距離を取るようになります。なぜ自分を避けるのかわからないレミ。
一方、レオはレミをどこかで気にかけながらも、他のクラスメートと交流を深めていき男らしさを求めて、アイスホッケーのチームに加わります。一方、音楽家を目指すレミは、遠くからレオを見つめるだけ。映画の前半は、思春期の友情とも同性愛ともつかぬ感情の芽生えを、繊細に描写されます。
そして2人の友情に決定的な別れが訪れるのです。
心理学の世界で「close friendship」と呼ばれる、友情とも、愛情ともつかない少年同士の親密な感情が題材となっています。
デビュー作「Girl/ガール」で、バレリーナを目指すトランスジェンダーの少年の痛みを切なく描いたルーカス・ドン監督は、再び少年の複雑な内面に迫ります。ほとんどの場面がクローズショットで、カメラはレオと、レオが見ているものだけを映してゆくのです。レオからすれば、自分の態度や振る舞いは周囲にどう見えるのか。世間の目を気にして、社会規範からの逸脱におびえています。一方で、レミが気にかかり、その姿を無意識に目で追いかけてしまうのです。
もう一つは作者の目。物語には、アンジェロ・タイセンスと共同で脚本を手がけたドン監督の少年期の体験も反映されているそうです。大人になったレオの目とも言えるかもしれませんが、過去に失ったものをしのび、いとおしむ。そんな気配を感じさせてくれました。
映画の途中であっと驚く秘密が明かされるわけではありません。観客は家族ぐるみで付き合っているレオとレミの親密さ、関係がぎくしゃくしていく過程を全て目の当たりにしたうえで、取り返しのつかない悲劇的な状況に陥ったレオの感情に同化することになります。大人の私たちも、楽しいことだけではなかった“あの頃”の不安や孤立感が脳裏によみがえるのです。
2人が自転車に乗って登校する場面が何度か出てきます。最初は明るい陽光の中、2人は幸福感と一体感に包まれて疾走しています。しかし学校での出来事の後、硬い表情の2人は目を合わせず前方をにらんだまま。どちらの場面もセリフはなく同じ構図なのに、気まずさと戸惑いが痛いほど伝わってくるのでした。
やがて悲劇が起きて、レオは取り残されてしまいます。何が起きたのか、映画はやはり、はっきりと示しません。レオの表情と生活の断片がつなげられ、観客はそのはざまを埋めるべく想像と思索を促されるのです。
そんな状況の説明も前後の経緯も描かず瞬間だけを切り取って、本作はそこにあふれる情感をみずみずしくすくい取っていきます。
舞台はのどかな田園地帯。レオの心象を自然の風景に仮託した映像美に息をのみました。レオの実家は花卉農家。花畑が見せる季節の移り変わりは無常観を表し、慣れ親しんだ関係や価値観の崩壊も予感させるのです。花畑を駆け抜ける少年たちと並走する移動ショットのえも言われぬ美しさ。「Girl/ガール」に続いてフランク・バン・デン・エーデン撮影監督が撮った映像美が際立っています。でもただ美しいだけではありませんでした。 前半の赤い壁の自分の部屋でオーボエを吹くレミと、「お前のマネジャーとして大金を稼ぐ」というレオ。悲劇の影もない2人を、金色がかった自然光で柔らかく撮られていました。
対照的なのは、硬く冷たい人工の光で照らされた夜のスケートリンク。レオが、通路に見えたレミの母親に近寄って手すりにつかまるバストアップ。レミの母親ソフィー(エミリー・ドゥケンヌ)がリンクに向けた目を戻し「会えてうれしい」と、レオがきつい角度で切り返しを重ねます。2人ともレミの話を避け、対話感が出ないポジションの妙。ぎこちなさに、巧みさが見えました。演じている感じなのです。
レミや母親のソフィの感情表現も抑制的。過度な感傷を排し、淡々と長回しで台詞もなく描かれていく演出でも、それぞれの煩慮が痛いほど伝わってきました。
エアポケットのような虚脱を経て、再生への希望もにじみます。レオの再生のキーパーソンとなるソフィを演じたエミリー・ドゥケンヌの助演が光っていました。ふたりが奏でるラストシーンは、きっと涙がこみ上げてくることでしょう。
ところで、本作ではレオとレミ役の男の子の演技が抜群。これはひとえに監督の演技指導といいますか、信頼関係がしっかり築けている証しなのかもしれません。
しかも驚きなのが、2人とも演技は初経験であるとか。とにかく自然な演技+透明感が圧倒的です。わたしはふと一連の是枝作品に登場する素人の子役たちの自然な演技を連想しました。
演技に見えない演技とでもいうべきか、余計なことは考えずに素直に心で演じている感じなのです。口にするのは簡単ですが、なかなかどうして根気が必要な作業ですから容易ではなかったと思います。
最後に、ひと言。前に進むために、人は忘却の機能を備えていますが、大人になって、思い出したくないことでも、ふとよみがえってくることがあります。そんな心の澱を洗い流す物語です。
レオの瞳の複雑な色合いとその美しさ
本作、劇場で初めて予告編を見た途端「これはヤバいやろ(いい意味で)」と思っておりました。
違和感なく見入ってしまう美しい少年二人。前作『Girl ガール』ではトランスジェンダーの少女役にシスジェンダーの少年を配役したことで批判もあったようですが、まぁルーカス・ドン監督のキャスティングは絶妙です。
冒頭から、遊びの中での「鎧を着た兵士たち」演出や、寝付けないレミを気遣って諭す「蛇の話」など、想像力豊かで思慮深く、常に相手を想う大人びたレオに感情移入が避けられません。
学校と言うある種「特殊で狭い社会」に順応せざる負えないため、本来の思いとは裏腹に障壁を回避するための行動を取るレオですが、レオのようにやり過ごせないレミは戸惑い、そして悲劇が起こります。と、ここまでは予告からも想像できる範囲なので「ネタバレ注意」とはしませんが、まぁ、思った通り観ていてしんどいです。
アイスホッケーなどで自分を痛めつけるくらいい自分を追い込むレオ。とは言え、その細い腕をみれば、まだまだ華奢な身体に痛々しさを感じざるを得ず、レオの辛さを否が応でも想像して見もだえます。
そして、何より印象深いのはレオの眼差し。思慮深さからくる状況判断のため、常に彼の目線は観るべきものを追い続けます。そして気が付けば、レオの瞳の複雑な色合いとその美しさに見入ってしまいます。さらに最後のシーン、彼の目線の先には何が映っているのか?気づけば終始、レオ役のエデン・ダンブリンから目が離せません。
あと、何気に兄弟っていいですね。お互いを解って心赦せることや、説明の要らない「お互いを思いやりつつの言動」に劇中の当人たちと同じ思いで観ているこちらも、深く感じ入りました。
公開週のサービスデイ、ヒューマントラストシネマ有楽町の18時50分の回は5割弱の客入りでしたが、この逃げ場のない状況を体感するためにも、劇場鑑賞という選択肢もなくはないと思いますよ。
少年期はかくも美しく脆いのか
たらればを考えるのは生きてる人間の驕りなのかもしれん
落ちきった。観るべきではなかった。
美しい、だからこそ哀しい
13歳〜18歳の少年100人を対象にルーカス・ドン監督がアンケート調査した結果、13歳の頃は男友達をもっとも信頼できる大好きな存在として記されているが、成長とともに男友達との親密な関係に悩み出すようになるということ。それが「Close Friendship」(親密な友情)。
映画「CLOSE/クロース」は大人になりかけ、13歳の2人の少年に起こる関係の変化を丁寧に紡ぐ物語。
レオとレミは学校でも家でも家族ぐるみで一緒の時間を過ごす大親友。しかし、ある時2人の親密な関係をクラスメートに揶揄されたことをきっかけに「あれ?」と、自分って人から見てどんなふうに見えるのかしら?ということを意識し始める。
そして、この頃からレミとの関係に一歩引くようになってしまうレオ。気まずい雰囲気になる中で2人は些細なことから仲違いしてしまう。
親友同士の幸せな日々は永遠に続くと思っていたのに、、、、。という話。
思春期あるある!男の子あるある!
言葉にできない微妙な距離感、感覚、今にも壊れそうなガラスの感情を丁寧に掬い上げるルーカス・ドン監督の手腕が光ります。
セリフなし瞳の動きだけでここまで心のひだひだを語れるとは!
大人と子供の狭間にいる少年の感性を淡い光や美しい自然の光景に重ね合わせ見事に描き出しています!!
「怪物」の少年たちよりは少し年上だからこその悩みや考えが、どうにもできない歯がゆい気持ちが手に取るようにわかります。繊細な少年の感性、周囲にはなかなか理解し難い微妙な哀しい感覚、言葉にしにくいこんな感覚を監督は見事に映像化して、かつて少年(少女)だった者たちに突き刺してきます。
今年イチ、心に刻まれた映画です。
性別の問題を越えた普遍性を感じ取ることができる
すごく仲が良かったのに、些細なことがきっかけでちょと気まずい関係になってしまい、いつの間にか別れてしまう。
子供の頃には、誰でも似たような経験をするのではないだろうか?
この映画の場合は、親密な相手が同性だったが、仮に、相手が異性であっても「からかい」の対象にはなるだろうし、恥ずかしさや「照れ」を隠すために、相手につれない態度を取ってしまうということもあるだろう。
その点、この映画は、LGBTQという括りで語られがちだが、もっと普遍的な視点から観ることも可能なのではないかと思えるのである。
そんな、誰もが経験し得る子供の頃のちょっとした仲違いが、取り返しのつかない悲劇を引き起こしてしまうのだから、主人公の少年のショックたるや、並大抵のものではないだろう。
前半は、アップを多用して映し出される少年の自然な表情が魅力的なのだが、後半は、そんなドキュメンタリーのような映像が息苦しく感じられて、観ている方も辛くなってしまう。
そのような苦しい経験も、「自分のせい」であるということを認め、それを受け入れることによって乗り越えていくしかないという結末には、やはり普遍的な説得力を感じることができるのである。
ただ、確かに彼は何も悪くはないと思うのだが、それでも「謝罪の言葉」がなかったことに違和感を感じてしまうのは、やはり「文化の違い」というものだろうか?(すぐに謝るのは日本人の悪い癖か・・・)
レミとレオの痛たまれない気持ちが足まらなくせつない。
レミとレオの表情の細やかな演技が秀逸です。
二人の親友を超えた、性別を超えた、レミがレオを想う気持ち!レオがレミを想う気持ちが切なくクロスして、観てる自分は痛たまれなく感涙します。この二人の心の描写もこの映画は繊細に描いてます。
一人の人が男女恋愛では無く、単純に人を愛す気持ちを世の中は尊重してくれれば、レミは若い命を落とさなくても良かったのに。。。レオも、レミを避けて苦しまなくても良かったのに。。。
レミとレオ、ありえないけど、来世では、どうか心が結ばれて、二人が笑顔でいますように。。。と心から願いたい。
実像を歪ませる美しさの正体
匿名のSNS上(Twitterなど)ではゲイということをオープンにしていて、一方仕事上では特に聞かれもしないし当たり前のように異性愛を前提として仕事やプライベートに関する話題が進んでいくが故に現実ではヘテロっぽく振る舞いながら生きているのですが、そんな生活の中でりゅうちぇるさん、市川猿之助氏、そしてジャニー喜多川氏に関する話題になるたびに、その自分の生活の歪さがそのまま社会に投影されているようなそんな沈むような気持ちになりながら最近は暮らしています。
唯一の趣味である映画鑑賞という領域においても今年は邦画も含めて自身のセクシャリティに関連するテーマの映画が沢山放映されています。『怪物』『大いなる自由』『老ナルキソス』『エゴイスト』『CLOSE』、個人的には『aftersun』もそう感じたかな。その中で、個人的に一番当事者間のやりとりや関係性、ビジュアルが美化されていると感じて、腹が立ったのが本作と『エゴイスト』でした。というか、『怪物』という映画に「こういう痛みを描いてくれるヘテロ(多分)の監督や脚本家がいるのか。しかも日本に」という衝撃を受けて、それをきっかけに普段なら無意識に避けて見に行かないような映画を見に行った自分も悪いのですが、本作『CLOSE』は子供の世界だけで描かれる曖昧な関係性をただただ鑑賞するだけの映画で、本質的なレベルで大人が介入する場面もなく、そこに映画的な快楽を誘発させたいという強い意図を感じました。正直美しかったし、自分の中だけで葛藤していた自身の幼少期と照らし合わせたが故にその美しさに不愉快になったという側面もあるとは思うのですが、ではなぜ同じような年齢の子供を扱ってる『怪物』にそういった不愉快さを感じなかったのかふと疑問に思ったんです。その疑問を紐解いていった結果、『CLOSE』と違って『怪物』は作品の前提、テーマからして社会というものの枠組みの中に2人の子供をしっかり含んでいたからだと思いました。2人の子供をただの天使にしたり、関係性を安易に聖域化していない。そこには作り手が具体的に届けたい個人の存在のようなものを感じました。
一方で、『CLOSE』には監督の過去を美化したい欲求や映画的快楽を誘発させるためのプロダクションデザイン全体に対する作為性をどうしても感じてしまいました。でも、こういう映画がこの世から消えてほしいとも思いません。勿論、大嫌いですが。ただ、こういう風に自分が感じる違和感の所在を明確にする機会を得られるのなら自身に合わないであろう映画を見ることも必要だなと思い直すきっかけの作品にもなったのも事実です。
名作
*名作ですが、メンタルが弱っている時の鑑賞はおすすめしません
太陽の光を感じるシーンと光が感じられないシーン
時間がゆっくり流れるシーンとせわしなく流れるシーン
色鮮やかなシーンとモノクロのように感じるシーン
静かなシーンと騒がしいシーン
正面から表情をとらえるシーンと後ろから映すシーン
これらの対比が見事だった
そして、起こった出来事や状況、感情を台詞で説明させるのではなく、映像で我々に伝える手法も見事
私はフランス語は一切わからない
しかし、唯一聞きとれた「トレビアン」
そんな台詞ではないのかもしれない
しかし、少なくとも「トレビアン」と聞こえた言葉を発したのはレミのお父さんだった
その瞬間から涙がとまらず、私が映画館で最も泣いた作品はこの「CLOSE」となった
始まりは何時も突然。その終わりはあまりに悲しい
『是枝裕和』の〔怪物〕でも取り上げられた世界観。
とは言え、両者に通底するものを以って「LGBTQ+」の物語りと
単純にカテゴライズしたくはない。
十三歳の『レオ(エデン・ダンブリン)』と『レミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)』は
兄弟のように育った二人。
始終二人で居ることが当たり前過ぎて、
疑問に感じる余地もない。
加えて、日頃の暮らしでも
スキンシップが濃密な国との背景。
実際に、主人公とその兄は
心に不安があれば一つベッドで寝るし、
肩を抱いて慰めることも。
それが、血が繋がっていないだけで
蔑視の対象になるのは何故か。
疑念を投げ掛けた側にも
どこまでの悪意があったろうか。
無邪気な疑問の発露かもしれず、
或いは、仲の良い二人を嫉んだだけの可能性も。
とは言え、そのことが要因で、
知己の間にヒビが入る。
最初は些細な隙間だったものが、
次第に大きな亀裂となって行く。
しかも、それは一方的に起こり、
された方は突然に距離を置かれたことに混乱し、
修復しようと試み、叶わぬと判れば怒りが募る。
そして悲劇は起きる。
煌めく陽光の中での二人の記憶は
切ない過去へと変わってしまう。
二度と楽しかった日々が戻って来ることはない。
理由も判らず残された側は
原因を探し、且つ自分を責める。
実際は他に要因があったかもしれず、
本当のことはもはや誰にも分らない。
ただ喪失の痛みだけが、永遠に続く。
幼少期にはありがちな幾つもの感情と、
心の揺らぎを瑞々しく、丁寧に掬いあげた一本との評価。
そして演じた二人の子役の演技が
あまりにも素晴らし過ぎることも印象に残る。
一人ひとりの心情やその変化をじっとりと、丁寧に伝えていた映画
2人の少年と花々の風景がとことん美しい。
一つ一つの映像がどのシーンを切り取っても絵画のように美しくて、2人の時間がいかに尊かったのかを実感させられる。
前半は自分の思春期を思い出すエモい青春映画。中学校の感じは、自分の中学生時代を思い出して胸がぎゅーっとなった。
後半からは、大切な人との永遠の別れと後悔という重い展開。
みな多くは語らず、大声を出すことも少ない。小さな表情や会話の間で伝えてくる。優しい大人たちとの触れ合いを積み重ねて少しずつ感情を表出し、前を向く主人公。演技や伝え方に、なんとなく『ドライブマイカー』を少し思いだした。肌の質感や温度までじっとり伝わってくるあたり、邦画っぽさがあった。
大人たちはみんな優しくて温かく、でも子ども目線でみても人間くささが滲み出ていたりして、よかった。
観たい度◎鑑賞後の満足度◎ 13歳、児童とはもう言えず思春期には少し早い、無意識の残酷さを残したまま、でも成長は止まらず外界の一切を吸収しながらも最も傷つきやすい年頃。外界を見つめ内面を映すレオの瞳。
①自分の小学校から中学校に上がった時を思い出した。
レミのような大親友はいなかったけれども、小学校からの友達との付き合いは続いたけれど新しい環境になれることを優先した日々。
②12歳までは二人の世界が世界の全てだったのに、13歳ではじめて自分達が人の目にどう写るか嫌でも意識させられるようになるレオとレミ。
私もそうだった。狭い地域に住む友達達との日々が世界の全てだったのに、中学に上がってもっと広い地域の子達に混じって自分の居場所を作っていかねばならない。
ある意味はじめて“社会”というものに触れて意識し始める年頃。
③二人で一緒にいるのは二人にとってとても自然なことだったのに、“(少年少女の)社会”では「付き合っているの?」だの「いつも一緒にいる」だの揶揄される。
子供は残酷だから思ったまま言葉にする(大人になると思ってても言わないけど)。
レミは特に“オンナオトコ”等と呼ばれたから余計意識してしまう(私も全く同じ経験あり)。
“社会”に適応しようとするレオ。相変わらず自然体のレミ。
次第にギクシャクし出す二人の関係。これも思春期の入り口や思春期ではよく有ることだけど…
昔からの友達が新しい友達とつるむようになって自分が置き去りにされたような寂しさ、悲しさ。
今まで此方を向いていてくれたのに次第に向いてくれなくなる時の喪失感や寂廖感、孤独。
最も感じやすい年頃、最も傷つきやすい年頃だからこその苦しみ。
登校時先に行かれたレミが涙を流しはじめてレオにくってかかった時の気持ちもよく分かる。
でもあそこまで追い詰められていたとは。そこまで傷ついていたとは。
※最初にこの映画の概要をおぼろ気に知った時、少年版『噂の二人』?と思ったけれども、パルム・クィアにもノミネートされたところをみるとやはりうっすらとではあるがそういう要素を忍び込ませていたようだ。
④レオもそこまでは思い及ばなかったしレオに罪があるわけではない。
でも罪の意識が芽生えてしまったらもう抑えることは出来ない。
でも言えない。苦しい。そこまで苦しむことはないのに、と大人になった自分は思うのだが、それは自分が大人になってしまったから。
苦しいし怖い。
そこはやはりまだ子供だ。
勇気をふるってソフィに告白するが、怒ったソフィに危害を加えられるかと身を守る為に棒を振り上げるレオ。
しかしソフィとて真相を知ってもレオを傷つけられる筈はない。
レオも十分苦しんだと分かるから。
二人の抱擁は感動的だがそれがハッピーエンドではない。
頭では許していてもやはりレオが近くにいれば心穏やかにはなれないからだろう、引っ越していったレミの家族。
⑤何かを永遠に失くしてしまった13の年。
私達も忘れてしまっただけで何かを失くしてしまっているのかもしれない。いや、みんなそうなのだろう。
ラストのレオの視線がそう語っているように思えた。
レオ役のエデン・ダンプリンは大したものだと思う。監督の手腕とは云え、映画を一人でひっばっている。
追記:レオとソフィの抱擁のシーンは泣かなかったけれど、レオとレミの家族が食卓を囲んだシーンでレミの父親が泣き出した時にはもらい泣きしました。
大人であること
同監督の前作は観られていないのだが、子供の日々少しずつ変化する微妙な表情や行動を捉えるのが上手いな、という印象。
子供っていつも同じようでいながら毎日毎日少しずつ変わっていく。そうした変化の中で、周りからのほんの一言によって二人の関係も変化してゆく。
そして少年時代の終わりとしての花の季節の終わり。非常に上手い。風景や天候に雄弁に状況を語らせる。
そして予期せぬ事件。あの年代特有の危うさにふと思い当たったり…
フランス映画を観ていつも気付かされるのは、大人が過度に大人であることを求められず、個人のままでいることを許されている、ということ。レミの母もすべてを理解する大人でなくても良いのだ、ということの救いと残酷さ。
最近の日本映画のように一方的に大人であることを良しとはしないのだ…
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