劇場公開日 2023年7月14日

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「前に進むために、人は忘却の機能を備えていますが、大人になって、思い出したくないことでも、ふとよみがえってくることがあります。そんな心の澱を洗い流す物語です。」CLOSE クロース 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0前に進むために、人は忘却の機能を備えていますが、大人になって、思い出したくないことでも、ふとよみがえってくることがあります。そんな心の澱を洗い流す物語です。

2023年7月21日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

泣ける

悲しい

 大人の入り口に立つ少年のイニシエーション(通過儀礼)の物語。そう表現するには、あまりにも痛切で悲劇的です。二度と取り戻せない日々だからこそ、その一瞬がまぶしく輝いても見えてくるのでした。

 13歳のレオ(エデン・ダンブリン)と大親友のレミ(グスタフ・ドウ・ワエル)は何をするにも一緒。学校へ行き、放課後はともに遊び、寝るときだって互いの家を行き来し、寄り添って寝るほどの仲の良さ。2人も家族も、それが当然と思っていました。
 長い夏期休暇を無邪気に過ごし新学期に。中学生となった彼らは同じクラスになります。でも、それは無邪気な時間の終わりへ。繊細で壊れやすく、手にした瞬間にその手からすり抜けてしまう「何か」のように、二人の関係に異変が待ち受けていました。
 学校に行くと2人のあまりの仲の良さをいぶかしがるクラスメートが、「付き合ってるの?」と揶揄してきます。レオは「親友だから仲が良いのは当然だ」とムキになって反論するのです。
 しかし、クラスメートの視線が気になったレオは、これをキッカケにレミと距離を取るようになります。なぜ自分を避けるのかわからないレミ。
 一方、レオはレミをどこかで気にかけながらも、他のクラスメートと交流を深めていき男らしさを求めて、アイスホッケーのチームに加わります。一方、音楽家を目指すレミは、遠くからレオを見つめるだけ。映画の前半は、思春期の友情とも同性愛ともつかぬ感情の芽生えを、繊細に描写されます。
 そして2人の友情に決定的な別れが訪れるのです。

 心理学の世界で「close friendship」と呼ばれる、友情とも、愛情ともつかない少年同士の親密な感情が題材となっています。
 デビュー作「Girl/ガール」で、バレリーナを目指すトランスジェンダーの少年の痛みを切なく描いたルーカス・ドン監督は、再び少年の複雑な内面に迫ります。ほとんどの場面がクローズショットで、カメラはレオと、レオが見ているものだけを映してゆくのです。レオからすれば、自分の態度や振る舞いは周囲にどう見えるのか。世間の目を気にして、社会規範からの逸脱におびえています。一方で、レミが気にかかり、その姿を無意識に目で追いかけてしまうのです。
 もう一つは作者の目。物語には、アンジェロ・タイセンスと共同で脚本を手がけたドン監督の少年期の体験も反映されているそうです。大人になったレオの目とも言えるかもしれませんが、過去に失ったものをしのび、いとおしむ。そんな気配を感じさせてくれました。

 映画の途中であっと驚く秘密が明かされるわけではありません。観客は家族ぐるみで付き合っているレオとレミの親密さ、関係がぎくしゃくしていく過程を全て目の当たりにしたうえで、取り返しのつかない悲劇的な状況に陥ったレオの感情に同化することになります。大人の私たちも、楽しいことだけではなかった“あの頃”の不安や孤立感が脳裏によみがえるのです。

 2人が自転車に乗って登校する場面が何度か出てきます。最初は明るい陽光の中、2人は幸福感と一体感に包まれて疾走しています。しかし学校での出来事の後、硬い表情の2人は目を合わせず前方をにらんだまま。どちらの場面もセリフはなく同じ構図なのに、気まずさと戸惑いが痛いほど伝わってくるのでした。
 やがて悲劇が起きて、レオは取り残されてしまいます。何が起きたのか、映画はやはり、はっきりと示しません。レオの表情と生活の断片がつなげられ、観客はそのはざまを埋めるべく想像と思索を促されるのです。
 そんな状況の説明も前後の経緯も描かず瞬間だけを切り取って、本作はそこにあふれる情感をみずみずしくすくい取っていきます。

 舞台はのどかな田園地帯。レオの心象を自然の風景に仮託した映像美に息をのみました。レオの実家は花卉農家。花畑が見せる季節の移り変わりは無常観を表し、慣れ親しんだ関係や価値観の崩壊も予感させるのです。花畑を駆け抜ける少年たちと並走する移動ショットのえも言われぬ美しさ。「Girl/ガール」に続いてフランク・バン・デン・エーデン撮影監督が撮った映像美が際立っています。でもただ美しいだけではありませんでした。 前半の赤い壁の自分の部屋でオーボエを吹くレミと、「お前のマネジャーとして大金を稼ぐ」というレオ。悲劇の影もない2人を、金色がかった自然光で柔らかく撮られていました。
 対照的なのは、硬く冷たい人工の光で照らされた夜のスケートリンク。レオが、通路に見えたレミの母親に近寄って手すりにつかまるバストアップ。レミの母親ソフィー(エミリー・ドゥケンヌ)がリンクに向けた目を戻し「会えてうれしい」と、レオがきつい角度で切り返しを重ねます。2人ともレミの話を避け、対話感が出ないポジションの妙。ぎこちなさに、巧みさが見えました。演じている感じなのです。

 レミや母親のソフィの感情表現も抑制的。過度な感傷を排し、淡々と長回しで台詞もなく描かれていく演出でも、それぞれの煩慮が痛いほど伝わってきました。
 エアポケットのような虚脱を経て、再生への希望もにじみます。レオの再生のキーパーソンとなるソフィを演じたエミリー・ドゥケンヌの助演が光っていました。ふたりが奏でるラストシーンは、きっと涙がこみ上げてくることでしょう。

 ところで、本作ではレオとレミ役の男の子の演技が抜群。これはひとえに監督の演技指導といいますか、信頼関係がしっかり築けている証しなのかもしれません。
 しかも驚きなのが、2人とも演技は初経験であるとか。とにかく自然な演技+透明感が圧倒的です。わたしはふと一連の是枝作品に登場する素人の子役たちの自然な演技を連想しました。
 演技に見えない演技とでもいうべきか、余計なことは考えずに素直に心で演じている感じなのです。口にするのは簡単ですが、なかなかどうして根気が必要な作業ですから容易ではなかったと思います。

 最後に、ひと言。前に進むために、人は忘却の機能を備えていますが、大人になって、思い出したくないことでも、ふとよみがえってくることがあります。そんな心の澱を洗い流す物語です。

流山の小地蔵