CLOSE クロースのレビュー・感想・評価
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学校がもたらす残酷性
レオとレミは大の仲良しでいつも一緒にいる。レオは家業の農園の手伝いをしていて田園風景と戯れるふたりがまるで楽園の天使のように高らかに描かれる。
学校がはじまるといつもべったりなふたりはクラスメイトに「カップルなのか?」と聞かれる。さらに同性愛嫌悪のひやかしにもさらされる。
レオはこれらの学校内不文律を察し、排斥されてしまうのを怖れた結果、レミとつるむのをやめ、アイスホッケーのチームに加わり、軟弱だと思われないよう、荒々しい野郎気配を発することに努めるようになった。
一方、レミはおっとりした芸術肌の男の子で、独奏をするほどオーボエがじょうずで、学校がはじまり「おまえらいつもいっしょにいんな」と揶揄をされても、とくに気に留めていなかった。
だからなぜレオが突然冷たくなったのか解らない。ふたりは文字通り寝食をともにしてきたソウルメイトだったのだから、突如突き放されたレミの絶望やいかばかりか──である。
なんでなんだ?と泣きながらレオに詰め寄るレミ。その後、レミが欠席した旅行から戻ったレオに、レミのじさつが知らされる。
監督の前作がトランスジェンダーの少女をあつかった映画だったこともあり、セクシュアリティに着目した批評もあったが、レオとレミは性的にひかれていたわけではない。年齢からしてじぶんの性的指向に気づいてさえいなかっただろう。
すなわち同性愛嫌悪の中傷には同性愛者であろうとなかろうと反発する──ということを映画は言っていて、これは例えば男の子が女っぽい色や服やことばづかいやしぐさを呈したときに揶揄されることと同じような学校内の日常的な漫言に属するものに過ぎない。
みなさんもご存知のように、学校というところでは、たいした意味もなく、それが相手にどれほどダメージを与えるかなど考慮されずに、いろんなことを言ったり言われたりするものだ。
よって映画は学校のような集団生活では友情が脆いと言っているのであり、とりわけレオとレミのような「親密な友情=Close」は、瓦解したときに途方もない悲劇におちいってしまう──と言っているわけでもあった。
ただしそれは特殊な状況ではなく「突如として冷たくなる友人」は、幼少期から高校あたりまで誰にでも経験のある現象ではなかろうか。
わたしたちはレオと同じように学校内不文律を怖れ、はぶられた人と親しくするのを避けたり、時にはじぶんがはぶられたりしながら、学校生活をどうにかやりくりしてきたはずだ。したがって少年の気持ちはわかる。わたしは学校でレミにもなったときがあったし、誰かから見ればレオになったときもあったのかもしれない。
だからこそ、この話のどうしようもなさが胸に迫ってくる。そもそも二人の少年は、とうてい演技しているようには見えなかった。
この悲劇をさらに悲しくするのがレミのお母さんのソフィー(Émilie Dequenne)。
冒頭の“楽園”描写のなかで少年らと一緒になって遊ぶような自由人のお母さんで、レミが亡くなっても恐ろしく気丈で、かえってその悲しみが推察され怖いほどだった。
死んだ動機を知りたくて何度かやんわりレオにたずねたりもしたが、最終的にレオから「ぼくのせいだ、ぼくが原因だ、ぼくが突き放した」と告白され、そんときはもう冷静じゃいられずに(クルマから)「降りて」と言ったけれど、われに返って、レオを追った。レオは木の枝をもって武装していた。じぶんは彼女のむすこをころした犯人なんだからね。それを悟ったソフィーは、もうどうしようもなくて、和解とかじゃなくて唯唯どうしようもなくて、抱き合って泣いた。
いつしかレミの親たちは引っ越していていて、今、少年はひとりで野を駆けるのだった。
概説に『第75回カンヌ国際映画祭で「観客が最も泣いた映画」と称されグランプリを受賞。』と書いてあったけれど、冗談じゃない。涙なんか一滴も落ちませんわ。ほんとに悲しいけれど泣くどころか楽園から奈落へ突き落とされる。
謂わば学校生活の残酷さを描いていて人はしんでないにしても誰にでも大なり小なり似たような経験があるのではないかと思う。
imdb7.8、RottenTomatoes91%と88%。
近くて遠い僕の“クロース”
レミ、あいつら噂するように僕と君はカップルだったの?仲のいい友達?それとも...君がいなくなった今ではそんなこと、もうどうでもいい気がするよ。そんなささいなことを気にしていた自分自身に腹が立つくらい。サッカーにしか興味のないバカな奴らにからかわれるのが嫌で、僕は君を一方的に突き放した。でもレミ、君は違ったんだね、君がいなくなってやっとそれがわかった気がするよ。あの日、君が学校の日帰り旅行バスに乗らなかった日から、僕の身体の一部がどこかへ消えてしまったんだ。家の仕事を手伝っても、男らしく振る舞おうとはじめたアイスホッケーに打ち込んでも、君の家に泊まったことを思い出して兄貴の寝ているベッドに潜り込んでも、僕の喪失感は埋まらなかった。僕の胸の奥の方で、レミ君の吹くクラリネットの音がずっとずっと鳴り響いているんだ....君のお母さんが不思議がってた、なぜ君が突然○○なんてって。レミの目にそっくりな君のお母さんの目が僕に訴えているんだ。「何か知っているでしょ?」ってね。正直いうと、苦しくて苦しくてしょうがなかった。僕らのことを何も知らないクラスのバカな連中が、レミの○を悼むような詩を書いて、さも同情するような....あんな嘘っぽい態度も許せなかった、僕らの関係が馬鹿にされているみたいでさ。もしかしたら、僕も君に嘘をついて君をわざと突き放したからかもしれないね。アイスホッケーの試合中に骨折した僕は、先生に包帯を巻いてもらいながらいつの間にか泣いていたんだ。涙がどうにも止まらなかったんだ。骨が折れて痛かった?それは違うよレミ、君の心の痛みがあの時本当にわかった気がしたんだ。ごめんよレミ、大切な友達。僕があんな態度をとりさえしなければ、僕と君はずっと友達以上の“クロース”な関係でいられた気がするよ。だからねレミ、僕は君のお母さんに真実を打ち明けることにしたんだ。僕が君を突き放したこと、君のお母さんには知っておいて欲しかったんだ。それでねレミ僕は気が少し楽になったんだ、腕に巻いていたギブスがとれたみたいにさ、へへおかしいだろ。花畑をレミと一緒に駆け抜けたあの夏の日、僕はそれを一生忘れない。でもねレミ、過去を振り返ってばかりはいられないんだ。僕には君の分まで前を向いて生きていく義務がある。しばらくすれば新学期もはじまるしね。じゃあねレミ、近くて遠い僕の“クロース”......
その言葉が言えるまで・・・罪の意識を乗り越えて、
心の成長、そして身体の変化、
性別の違和感を感じる第一次性徵期真っ只中の13歳の二人。
その言葉に出せない違和感や同性への思慕。
子供の視点に立ち、13歳の目線で繊細に描く作品です。
自殺(したらしい)レミ。
黒髪の角度よっては女の子にしか見えないレミ。
金髪の男の子がレオ。
金髪が小刻みにウェーブしていてとても美しいレオ。
この映画、私的にはイライラ。
知りたい事が、中々明かされない。
それとカメラ(撮影)が、
私からしたら見たいものが見えない。
レオの農園の農作業も、季節が変わり収穫した作物や
種付けや、レオがとても真面目に農作業をお手伝いする偉い子、
なのは分かるのだけれど、もっと高いところから遠目に写して、
もっと風景の全体を見たい飢えを感じて堪らなくなる。
台詞は知りたい事が、語られない・・・
なので、正直なところ欲求不満も溜まりました。
バス旅行に現れなかったレミ。
到着間際のバスの中で、事件?
異変が教師から知らされる。
直ぐに察したレオは
「病院にいるの?」と訪ねる。
聞かれたレオの母親は、
「もういないの・・・」
とだけ答える。
(無表情なレオが、無表情だから、痛々しい)
自殺という言葉は一度も使われない。
まるでその言葉を出すと、ダイナマイトで爆発し、
ダムが決壊する様に「タブー視されて、・・・」
そして生徒たちには「心のケア」だと思うけれど、グループセラピー」
として「レミってどんな子だったのか?」話し合われる。
レミのことを、女の子の一人は、
「明るい子だった」とか、
別の男の子は、
「とてもハッピーそうだった・・・」
能天気に、そして他人事として「ハッピーそう・・・」
レオがその言葉に反応する、
(ハッピーだったなんてなぜ言えるんだ!!)
レミとレオを《カップル》と囃し立てたクラスメート。
レオの心に秘めた秘密がレオを苦しめている。
(絶対に秘密を心に隠している)
冒頭のシーン。
夏休み休暇の日々。
頻繁にに裕福なレミの家に泊まりに行くレオ。
スキンシップ、
ピッタリとレミの背中に抱きつく姿勢のレオ。
シーツに包まりじゃれ合うレミとレオ。
(危険な匂いがする)
オーボエが得意で音楽家を目指しているレミ。
「オトコオンナ」の言葉が校庭のどこかから聞こえる。
レオは次第に男の子らしく成長して、
アイスホッケー部に入り夜の練習に通う。
男らしくする事で、レミとの距離を取る。
スケートリンクを見に来たレミは、なんか違和感がある。
カッコいい男の子の出待ちする女の子のファンみたい。
そんな雰囲気がある。
レミの家をレミの死の何ヶ月後かに訪ねたレオは、
お母さんから、「何があったの?」と直球質問を受ける。
狼狽えて何も答えず、慌てて帰宅するレオ。
それでも、レミのお母さんの勤務する産院に訪ねるレオ。
送ってもらう車の中で、遂に真相を話す事が出来た。
「僕がレミを○○○○○」
この映画のまだるっこさはローティーン(13歳の2人)
(レオの幼い知能に合わせた会話と、
風景も身長に合わせてるからカメラが上を写さない・・・
全部じゃないけれど、低い位置ばかり多く写している・・・
今、フッと気付いたけれど、・・・なんかそんな気がしてきた。
13歳の子供に言える言葉・・・
当然、うまく気持ちを言葉になんか出来ない。
だから「自殺」なんて言葉は刺激がキツ過ぎるから
誰も言わない。
感じやすい、傷つきやすい、脆いガラスのようなこころ。
《あやうくて砕けてしまうこころ》
それを掬い取っている映画なのだと思う。
レミはレオが原因で、死んだ。
それもキッカケかも知れないけれど、女性の心を持つ自分が、
男性の身体を持つことに戸惑い、
絶望したのも一因ではないのだろうか?
ルーカス・ドン監督の処女作「Girlガール」では、
トランジェンダーでバレリーナを目指す主人公が
女性として生きる決意をする映画でした。
(とても衝撃的なラストシーンだったのですが、)
レミはレオに拒絶された事とともに、男性として変化していく自分に
失望し、女の子でないからレオは好きになって、くれない、
レミの愛を受け止めてくれない・・・
そう思ったのだとも思う。
レオがやっとレミのお母さんに、心にしまっていた秘密を話せた。
そのことはレオの成長・・・レミの死への罪悪感を乗り越えた・・・
事だと言える。
でも私には死んだレミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)の、
はにかむように微笑む顔が常に目に浮かぶのだった。
13歳の進学期9月から始まり、その学期の終わる7月。
見違えるほど大人びた知的な視線を持つレオ(エデン・ダンブリン)
悩み抜いた数ヶ月で見違えるほど成長した姿に驚いた。
(すごく背が伸びたね)
そして一番辛かった事。
子供に自殺されたレミの両親の苦悩。
その癒えない悲しみに、
涙しました。
名前はレオ
怒り、悲しみ、逃避、様々な感情が流れ込んでくる
不安定な感情を表情で伝える、大好きな映画だ。
思ったよりも早く急展開を迎える。
急過ぎて少し冷めてしまったのだが、ここからが本番だった。
寄りで無言のシーンが多いけれど、それに耐えうる演技もさることながら、そこに至るまでの経緯と状況から登場人物の心情を読み取ろうとすることで、全く退屈にならない。
それと同時に目線がこちらを向くショットなど、観客側にも感情が流れ込んでくる。
その感情も単純なものではなく、だれもが抱いたことがあるだろう複雑な感情で、言葉に出すのはとても勇気がいるもの。
それがこどもによってより強く感じられる。
子供から大人への成長も描いているが、仕事やスポーツなど、状況からもサポートとしてバランスよく表現されている。心なしか、顔つきも大人っぽくなっている気がする。
ラストシーンも、わかりやすいがとてもスッキリとする終わり方だった。
こころなしか、様々なシーンが『怪物』とも重なる。
2023年劇場鑑賞94本目
12歳が背負ったもの
最初に思ったのが、「こんなことで死ぬなよ」
今どきの子は、女子だけじゃなく男子だって、同性同士で仲が良すぎたらこのくらいのことは言うよ。ママと仲良しすぎてからかわれるのと同じレベルだと思う。それが嫌で友達を突き放すっていうのも、思春期入り口の子供ならありがち。こういうのを乗り越えて成長していくんじゃないか。レミは異様に繊細な子だったのかも(ママが、トイレに篭ったかと心配していたり)だけど、これで友達に死なれたレオが辛すぎる。
レオが、まず自分の保護者に相談、じゃなく、誰にも打ち明けず一人で背負って、レミの母に「自分のせいだ」と打ち明けに行ったのは漢だと思った。
彼が救われるといいな。
ひょろひょろと長い手足と薄い胸の美少年の苦悩する姿をひたすら見せた、少々あざとい映画と思う。
映画はそうだけど、レオにもレミにもあざとさはないので良いです。あったら見ていられないわ。
子役、特にエデン・ダンブリンはすごすぎる。
普遍的な青春ドラマ
いわゆるLGBTQをモティーフにした作品であるが、それ以上に普遍的なメロドラマとして興味深く鑑賞することができた。
この年頃の子供たちは、社会や学校といった周囲の環境にどうコミットし、そこでどうやって自己を確立させていくか、悩んだり戸惑ったりする大変難しい時期にいるように思う。本作はそのあたりの当事者の心理をよく捉えていると思った。
レオとレミは幼い頃から本当の兄弟のように一緒に過ごしてきた仲の良い幼馴染である。そんな二人は、中学に入ると周囲から奇異の目で見られるようになる。レオはそれを気にして次第にレミとの間に距離を置くようになってしまう。その結果、悲劇的な事件が起きてしまう。
よくある話といえばそうなのだが、それをここまで深く掘り下げて描いて見せた所に脱帽してしまう。
映画を観る限り、二人が実際にゲイだったとは言い難い。確かに毎晩のように同じベッドに寝ていたが、まだ二次性徴が始まるか始まらないかの年頃ということもあり、互いに性的な目では見ていなかったように思う。しかし、当事者はそうでも、周囲は色々と邪推してしまう。
もう少し周囲の家族や教師がケアしてあげれば…という気がした。本作はレオとレミの閉じた世界の中でドラマが展開されるため、そのあたりがどうだったのかよく分からないが、おそらく誰かに相談していれば”ああいう悲劇”は起こらなかったかもしれない。
尚、タイトルの「CLOSE」は”関係や距離が近い”という意味もあるが、”閉じた”という意味もある。前者はもちろんレオとレミの関係を示しているが、後者は彼らの狭い閉じた世界を意味しているような気がした。
映画は中盤の”悲劇”を起点にして、レミを遠ざけてしまったレオの後悔と罪の意識に焦点が当てられていくようになる。悲しい現実を受け入れられないレオの心情を大変丁寧に描写していて見応えを感じた。ただ、この丁寧さがテンポを若干鈍らせてしまったという印象も持った。重苦しいトーンが続くので、この辺りは致し方なしか…。
演出は基本的に手持ちカメラによるドキュメンタリータッチが貫かれ、アンビバレントな少年たちの心の機微を臨場感たっぷりに捉えている。どことなくダルデンヌ兄弟の作品を彷彿とさせた。
ただし、レオが演奏会を見に行くシーンは固定カメラで統一されている。レオがレミの母親を直視するカットがロングテイクのズーミングで捉えられており、かなり意味深に編集されていて印象に残った。”見る側”と”見られ側”のスリリングな関係にゾクゾクするような興奮を覚えた。
他にも、本作にはこうした”見る側”と”見られる側”を意識させるカメラワークが頻出する。その極めつけはラストカットである。レオの視線の先には我々観客がいる…という実に大胆且つ挑発的な幕引きが強烈なインパクトを残す。観終わった後に色々と考えさせられた。
サスペンスやロマンス、エロティズム、様々なドラマを誘発させる、こうした視覚演出も本作はかなり計算されていて感心させられた。
また、冒頭の花畑を走る疾走感溢れるカットを筆頭に、本作は横移動のカメラワークも実に素晴らしい。二人並んで自転車を走らせるカット等、画面に程よいメリハリをつけていると思った。
キャストでは、何と言ってもレオを演じた新人エデン・ダンブリンの佇まいが印象に残った。繊細さをにじませた哀愁漂う面持ちにスターの資質を予感させる。
レミの母親を演じたエミリー・ドゥケンヌは、ダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」のヒロイン役だったということを後で知って驚いた。今やすっかり母親役を演じるようになったことに時代の流れを感じる。こちらも好演である。
アイスホッケーでマッチョになろう
*以前にアップした内容が勝手に削除されたので、一部固有名詞を修正して再投稿。
ヒョロヒョロと長い手足の美少年レオとレミは、世界的にも他に類を見ない性犯罪で話題の日本の芸能事務所のジジイでなくても目を瞠ってしまう。ルーカス・ドン監督の前作はトランスジェンダーのバレエダンサーの話で、めっちゃ痛いクライマックスにすべての男性器持ちが失神しかけたが、その主人公といい今作のふたりといい、役者選びが絶妙すぎる。
怪物・星川君なんかより、レミに対する友愛の情を初っ端から飛ばし続けるレオに嫌な予感はしたわけだが、トクシック・マスキュリニティと言うには無邪気な気持ちの反動によるその結果を、12歳の子どもが背負う姿を見るのがツラすぎる…。
多くの場面が顔のアップかバストアップ、セリフも最小限で、表情と態度で心象を語ってくる。なので、レミの母ちゃんがレオに渡した水に毒でも入れてんじゃないかとドキドキしたが、さすがに違った。
#36 誰のせいでもないけど
主人公は自分の取った行動にずっと悩み続けるのだろう。
そもそも毎日泊まりに行くような仲が異常なのであって、からかわれなくてもいつの日か自然に離れて行くのが幼馴染ってものでしょう。
レミが何故命を絶たなきゃいけなかったかは誰にもわからない。
でもレオ1人のせいではないことは明らか。
ベトベトしてる。
一旦以下のようなレビュー書いたんですけど、思い返すとちょっと違うかもと思えてきた。
この映画で誰が悪いかって言ったら、やっぱり「あんたたちつきあってるの?」てクスクス笑う女子たちや「やーい女ー」みたいに体ぶつけて嫌がらせする男子たちってことになると思うんだけど、男同士くっつくだけでゲイと決めつける視線は自分の中にもあって、以下の自分のレビューなんかはひょっとしたら上の女子や男子と同種のものを含んでるのかもしれないですね。
この映画は、人の行動にラベルを貼ってをとやかく言いたがる、軽々しいんだけどいやらしくて深刻な悪意が何かを殺した、という映画で、自分の見方はちょっと殺す側に寄ってたのかも。
まあそれでもやっぱり男同士くっつきすぎて違和感はえるんだけどね。それはそれとして、その向こうで描こうとしてるものが、以下のレビュー書いたときはわかってなかったかもしれない。
あの少年のカメラ目線は、そういうとこに気づかない自分のような人たちを見てたのかもしれないと、思い当たった次第です。
***
中盤までは、それでもなかなか見応えある映画だと思っていたのだけど。
花畑を走る映像とか、おおー!って思ったし。
しかしだんだん、ベトベトした感じが気になって醒めてしまった。
シンプルに男同士くっつきすぎだし。
少年同士とか、兄弟とか、、あーこれ監督そういう趣味の人だろ、て、監督がゲイの人だとか予備知識なかったけど見ててそう思ったら、案の定そうらしく。。
別にそうい趣味自体が悪いというんではないけど、この映画のそれは、なんというか、わざとらしい気がした。
だいたい、ゲイだとかそうでないとか、重要は重要かもしれないが、そんなに決定的に本質的なことではないのでは?
大なり小なりそれをテーマに物語を描くとして、そこに人間としての普遍的な痛みや切なさや喜びや、そういうものが浮かび上がるからドラマになるんであって。
この映画は変にそれを押しすぎというか、ストーリー上は別にはっきりゲイってわけでもないのに、あの少年同士のモチャモチャは・・・、あれほんと単純に、趣味でそういうのが撮りたかったってだけなのでは?
わざとらしいという意味では、カメラワークも、終始アップにしっ放しっていうのが狙いすぎで鼻につくというか、見てて飽きるし、疲れる気がした。
たまに主人公があからさまにカメラ目線になるのも、どんな意図なのか知らないけど、ただ違和感を感じるだけで、あまりプラスになるものを感じなかったし。
途中からそんな感じで興味が失せてしまったので、主人公の本当の思いがどこかできっとあらわになると思って、それだけ待ってたのだけど、それも中途半端なまま終わってしまって・・・。
あれだけ小出しにして引っ張った割には、全然掘り下げ不足だったんじゃないですかね?
映像は美しいし、主人公の少年もルックス最強でめちゃくちゃ魅力あるし、母親たちの抑えた演技も素晴らしくて、まあいいところもたくさんあったんですけどね。
それもひっくるめて自分としては、夢中になれるような映画ではなかったかなー。
さほど深くはない。期待し過ぎた。
ストーリーも、描こうとしてる心情も、ごくシンプル。それを1時間40分の作品にするためにどう肉付けするのか、なにかポイントを絞って深堀りして描くのか、それともサイドストーリーを挟むのか。本作はどちらでもなく、淡々と似たようなシーンの繰り返しで時間を使っている。それらは「子どもの日常を描く」という役割を担ってはいるが、やや冗長。特に、くり返し出てくる主人公の部活(アイスホッケー)のシーンは、一定の役割を果たしつつも中途半端で退屈。あまりにも何度も出るので、「予算少なくて、1日でこの場所でたくさんシーン撮らなきゃいけなかったのかな」などと考えてしまった。
全体的に狭い画角のカットが多く、広い絵が少ないため、見ていて息苦しく、緩急がなく感じる。監督の狙いなのか?登場する大人たちが、みんなきちんと大人らしく振る舞っている描き方が欧州っぽかった。
大好きだけど大好きじゃない
レオは期末の休暇を幼馴染のレミとたっぷり過ごし、新学年を迎えた。新しいクラスで友達が増え、その誘いでスポーツチームに参加したりTVゲームを始めたり、交友関係や興味が広がって行く…というと日本でも春の学校あるあるで、保護者からすれば歓迎するような成長の兆しとも言える。
しかし、レオが新しい生活に傾倒するのはレミとの仲の良さをクラスメイトに揶揄われた反動も含んでいる、というのが本作の哀しいところ。兄弟のように生活していた親密さにレッテルを貼られ、スルーしきれずに行動で証明しようとするレオの年相応の未熟さとそこで生じるレミとのすれ違いが胸に痛い。
思春期につるむグループの面々が入れ替わるのは我々の学生時代にもよくあることで、それで多少ギスギスした経験がある人も少なくないだろう。だからこそレオの後悔も、レミの痛みも、誰かが決定的に悪くなくても悲劇が起こる哀しさがよく理解できる。
悲劇に対してフィクション的な都合の良さが与えられないリアリズムが非常に現代的で、観客がその余韻をどう処理するかで評価が二分しそうな作品だった。スクールカウンセリングのシーンで出てくる「感情はその人のもの」という言葉が印象的で、劇中の問題を象徴していた気がする。
言葉にできないような心情を、視線で語るレオが妙に心に残る
セリフがなく、表情と情景で語るような場面が多い映画だった。
恋人のような付き合い方をしていた少年2人が、関係性をからかわれたり、新たな人間関係ができる中で、次第に疎遠になっていく。
それが許せない少年達は大喧嘩をして、その直後・・・・といった話。
誰もが子供の頃に経験があるような話だが、普通はだんだん疎遠になって、ただの友達か他人になっていくが、この映画ではある意味決着をつけてしまう。
残された者は立ち直っていくしかなくて、少年は乗り越えられる未来が見えているが、母親はどうだろう?と思ってしまった。
レオのことは許せていたが、息子レミの行動をどう思い、どう心の整理をつけるのか?
表情だけの描写では私にはわからなかった。
うつくしくてかなしい。
相手に感じる親しみが、性欲を孕んでいるかが恐らくまだ未分である二人の話。
レオとレミという13歳?の男子で、新学期から中学生。
レオが主人公なのかな。毎日一緒に遊んで毎日一緒に、時に同じ布団で眠り、学校でも一緒にいる。
幼子と母親のような、身体接触を伴う親密さは、13歳の同級生たちには異質に見え、
二人は付き合ってるの?と女子たちにからかわれ、レオは必死に否定する。
レオ自身にレミへの性的な興味などがあるかは、全くわからない描き方だった。
ただ、”ふつうの男らしさ”を身に着けなければ、という圧力は感じていたようで、
レミを遠ざけ、男らしさを補強?するためのツール的に、アイスホッケーを習い始める。
クィアなものへの忌避ではなく、集団からの阻害を忌避したいように見えた。
そこはよくわかる。集団内で異質であることを受け入れるには、13歳は幼すぎる。
四十路の今では自らの異質さに抵抗がない私も、13歳のころには”みんなといっしょ”という安心を、心底欲していたもの。
レオのアイスホッケーのような努力を、私だって必死でやっていたもの。
”みんなといっしょ”が欲しくて、バレーボールやってたもの。
一方レミは、集団内での異質さに無頓着なんだと思う。オーボエが得意で、一人っ子。お母さんがすごくおおらかで素敵な雰囲気の人だった(レオの父母・兄がだめってことではない)。
レオへの親しみに、性的要素があったかは定かではない。こちらもその点は未分な気がした。
自らの異質さに無頓着でいられる、ある種の強さは、13歳が持っているのが珍しい類だと思う。
レオにとっては、考えられないことで、そのまんまでいようとするレミと対立してしまう。
結果、レミは、自死する。
この展開は、全く予想しておらず、辛かった。
レミが儚くなって、レオは当然ショックを受けているけど、そのショックが自分がレミを拒絶したからという
罪悪感であることは、誰も気付いていないし、誰にも言えない様子だった。
レミの両親は、時間がたっても悲しそうだし、自分も悲しい。
一心同体と言えるレミとレオが、小さな対立を経て一人と一人になることは、思春期の必要な成長なので、
対立自体は避けようがなかったと思う。
レオの拒絶は、結構強かったは強かったけど、レオが悪いわけではない。異質さを恐れることも自然なこと。
イニシエーションが一生の傷みたくなってしまって、つらかった。
そして、レミを死なせないことはできなかったのだろうか、としばらく思い悩んだ。
もちろん虚構であるし、実際のレミはいないけど。
レオはどんどん自分を罰し、最終的には、レミの母親に、きっとレミは自分のせいで死んだことを伝える。
レミの母に、話したくてでも言えなくて、家に行き、職場に行き(新生児室のナースだった)、家に送ってもらう
途中で話をし、森の中で苦悩をぶつけて受け止める。後半とてもよかった。
レオのおうちは、花卉農家で、多分香料を作るための花らしく、収穫は花部分のみベニバナみたいに摘み取る。
美しい花畑と夕空のなかを、まだ一心同体だったレオとレミがごっご遊びをしながら駆け抜ける風景も美しく、心に残った。
2023年TOP10入り
首都圏?では7月に公開され、ここ広島で
やっと公開された期待の作品。
オープニングですぐ心を鷲掴みにされる
美しい光景🌸🌷🌼🌷🌸🌷🌼
少年少女の揺れ動く感情と
誰にでも起こりうる小さなすれ違いで
人は居とも容易く傷つき壊れてしまう。
12歳の少年には耐えられなかった中傷
12歳の少年には理解できなかった距離感
どちらの少年も間違ってはいないのだけれども
2人とも選択肢を大きく間違えてしまった。
息子の親友を我が子のように
可愛がっていたからこそ
レミの両親は何も告げずに去って行ったのも
切ない。
とにかく2人の仲睦まじい姿と
葛藤と成長していく様がいいのです。
レオ役のエデン・ダンブリン
レミ役のグスタフ・ドゥ・ワエル
本作で映画デビューを果たしたとのこと。
とても初演技とは思えません。
これからがとても楽しみな若手俳優爆誕です㊗️
少年の全て
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