ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地のレビュー・感想・評価
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家とう牢獄で見せる家事の奥深さ
カメラも主人公もほとんど主人公の自宅から出ない。郵便局などに用事がある時だけ主人公は外に出る。驚異的な規則正しさで毎日の家事のルーティーンをこなす主人公は、しかし、自宅で売春を行っている。
女性を家に閉じ込め、家事労働させる「牢獄」のようにも見える。たしかにこの主人公には自由がない。家事は終わりがないので、ひと時も休めない。毎日同じことの繰り返しの地獄のようでもある。
しかし一方で、彼女の無駄の一切ない動きには、家事という行為の奥深さや価値ある何かが宿っているようにも思う。熟練の職人の正確無比な動きに見惚れたことがある人は多いだろうが、この映画の主人公の動きにもそれがある。これほど家事という労働の価値を高く描いた作品はそうそう無いと思う。家事に価値がないことだと考える前提そのものを覆す力を持った作品ではないか。超一流の家事職人の織りなす一挙手一投足に目が離せない。私たちの日常に、これだけ豊穣なものがある。家事をバカにしてはいけない。
伝説の映画を作り上げた天才っぷりにおののく。
伝説の女性監督シャンタル・アケルマンの特集が企画されたことで、アケルマン作品がまとめて観ることが叶った。その上映作品の中でも、アケルマンの代表作として知られてるのが本作。3時間かけてある主婦の日常を淡々と負い続けるのだが、次第に見ているものが静かな闇に囚われていくような、閉塞感の映画である。
一方で、家事という日常の作業の所作の、リズミカルな美しさを捉えた作品でもあり、その行為をルーティンとして繰り返す作業こそが主人公のセイフティネットになっている。しかしギリギリのところでそのネットが千切れて弾ける瞬間が大きなクライマックスになっていて、その点を見ても女性を抑圧する社会を告発した映画なのだと感じる。
さりとて何が是で非なのかを追求するのではなく、人をグレーゾーンに放り出す作風であり、これを20代で撮ったアケルマン恐るべしという凡庸な感想に収まってしまうのは、まあこちらが凡人だからなのだろう。
ただひとつだけ残念だったのは、作品のコンセプトを事前に知識として知ってしまっており、やはりこの映画の驚きとは初対面で出会いたかったと思う。伝説の映画だからこそ、お勉強として観てしまうというもったいなさ。なのでこのレビューはネタバレありにチェックボックスを付けておきます。
生活暴力
時間もしくは出来事が少し足りない
◎同じフレーミングの固定カメラでルーティンを反復的に捉え続け、ルーティンの綻びをサスペンスとして見せていく映像的表現が見事
◎観客の体感がジャンヌの日常と同化するような長回しによる各シーンの時間経過
◎リズムが狂い始めてからの非対称的な構図や、閉塞的なブロッキングも効果的にジャンヌの心情を語っていると感じた
◎家事という日常の所作の美しさ、子気味良さ
◎「子気味良さ」から徐々に「神経質」「支配的(と同時に被支配的)」な面が見えてくる。ゆっくり見え方が変化していき、ゾワゾワとした違和感で目が離せなくなる。じっくりしたテンポなのに充分に引き込まれる。
◎ほとんど止まることなく常に動いていたジャンヌが、リズムが狂って以降はたまに止まる。ただ1分間座っているだけでも強烈な違和感。常に時間に支配される自分への反抗⇄精神が保てずルーティンがままならない、を行ったりきたり、という風に初見では感じた。ラストでは7分間静止する。
× 小さな綻びが積み重なり、ジャンヌの中で大きくなっていってあのクライマックスに辿り着いたということだと感じたが、何年も(夫が亡くなって6年)同じような日々を繰り返していて、映画の「2日目」の最初の綻びから、「3日目」のあの状態になることへの納得感が、本作の尺をもってしても自分には足りなかった。
最初にジャンヌのルーティンが崩れたと感じた2回目の売春行為のシーンで何か見逃したかと再見したが、特になさそう。その後の息子との会話も、ジャンヌの精神を壊すほどとは思えず。
では、家事などの日常において自分のコントロールがとにかく及ばない気分になっていき、最後の売春で相手にのしかかられオーガズムを感じてそれが最大化したという方が監督の意図には近いのだろうな、と思ったが、それでもやはりクライマックスの納得感には不足を感じた。
監督の発言*を読んでみて、「2日目の売春時にオーガズムを感じたことが最初のしくじりだった」とあったが、それでもやはり納得できず。初めてオーガズムを感じたのではないだろうし、そこから家事のしくじりを通常よりは幾分多く繰り返した24時間後のオーガズムによりあのクライマックスが引き起こされるか。「何年間もの日常が爆発した最後の24時間」とも思えなかった。
*アケルマンの発言: 「儀式とルーティンがあったからこそ、ジャンヌはやってこられたのです。判りますか。最初は儀式が押し付けられます。でもその後は儀式のお陰でやって行けるのです。だから、オルガズムを感じてしまうことが最初の「しくじり」(actes manques)となるのです。その後は「しくじり」が続いていきます。なぜなら、彼女は自分と無意識とのバリアーを守っていくほど強くなくなってしまったからです。(中略)そうして、ジャンヌは原因を抹消することで結果も殺せると考えたのかも知れません。でも実際は、原因は彼女自身なのです。というのも、そのことが起こるのを彼女自身が許してしまったからです。もちろん意識的ではなく、そうなると判っていたわけでもありませんが」
冗長
「史上最高の映画」は流石に言い過ぎ
まずこの映画は近年になって英国映画協会が「史上最高の映画100」の第1位と位置付けた為にその名が一気に広まった物なので、その情報無しで鑑賞に至る人は非常に稀。つまり観る人のほぼ全てが、この作品がある映画界で権威を持った団体から究極の好評価を得ているというフィルターを通してしまっている。
そうなると大体の人はどこがそこまで評価されているのかを探るという所から入ってしまい、その時点で他の作品とは違う見方になってしまいがちだ。
端的に言ってこの作品は、「史上最高」と評すべき物ではないと思う。
家事に従事する女性の完璧なルーティンワークとそれが少しずつ乱れていくのを細かなアクションの中で見せていく手法や、奥ゆかしく画面を彩る小道具・美術や、家事という日常的な作業の奥深さやそれに伴う閉塞感を観客にジワジワと染み込ませるように伝えていく演出が、斬新で素晴らしいのは理解出来る。
理解は出来るが、どう考えても長すぎるシーンがいくつかあってテンポが悪いし(実際上映時間も長い)、編集・照明・カメラワーク・音響の介入は殆ど排除されているので、何をしているのかよく分からないシーンも結構ある。
それらは「ドラマの無い普遍的な日常を表現する為にあえてそうしているんでしょ」という事なのかも知れないが、それなら日中に自宅の寝室で売春を行なっているという設定と最後の主人公の行動は明らかにドラマ性を帯びていてどこにでもある普遍的な事象とは思えず、矛盾が生じる。
また、他の作品で同じように作り手が表現手段としてあえて何も起こらない長回しショットを挿入したのに対して「テンポが悪い」「ダラダラしてて退屈」といった批判が展開された事例は山程あるのに、この作品はそこが評価ポイントに変わってしまうのなら、それもおかしい。
やはり映画に客観的なランク付けをするなら色々な要素を包括した総合点で行うしかないと思うのだが、そこには前述の編集・照明・カメラワーク・音響に加えインパクトやエンターテインメント性等の優劣も加味されるべきで、それらを抜きにしてアート性や単純性に特化した映画を史上最高と評してしまっては、血の滲む思いで世界中の観客の心に強く響く素晴らしい作品を提供してきた数多の映画制作者達の立場が無いではないか。
結論、これは誰の心にも何かしら与える物があるという類の作品ではないと思う。
それこそ「ある視点」みたいな枠の中で評価されるべき。
何の予備知識もなく、見てほしい。
シャンタル・アケルマン映画祭2023で観賞、3時間20分、少しも退屈することはなかったが、極めて強い集中力と緊張感を持って撮影されているからだろう。
夫を戦争で失い、息子と二人で質素なアパートで暮らす、主婦ジャンヌの日常が淡々と固定カメラで撮影される。日常生活の中心になっているのは、日々の糧(Pain Quotidien)の材料を買い出しにゆき、台所で調理し、後片付けする家事にある。食事の中心は、茹でたジャガイモと肉料理。特に、ジャガイモはドイツや英国を含む北ヨーロッパの日常食。コーヒー一つ淹れる時も、必ず豆を挽くところから。全てが念入りで、しかも規則的であり、完成している。その他、起床から就寝するまで、身繕いし、ベッドを畳み整え、服のボタンを探し、カナダの妹に思いを巡らし、リセに通っているらしい思春期の息子と勉強し、新聞と本を読み、ラジオの音楽を聴く。糧を得るためのジャンヌの仕事も、その一環のようで、その後、簡単に沐浴する。近所の赤ん坊の面倒を短時間見て、買い物の時は、近くのカフェに寄って、いつもと同じ席でコーヒーを飲み、夕食のあとはゴミ捨てを兼ねて散歩にゆく。
これらの動きを繋いでいるのは、古いエレベーターを呼び、ドアを開けて乗り降りするところ。ところが、家事の中でも出てこないことがあり、それは床掃除と洗濯など。また、日々の糧から強く連想される宗教(おそらくユダヤ教)に関わることも、神への祈りを含め、一切出てこなかったように思う。
固定カメラのロング・ショットから考えて、小津の撮り方に間違いなく影響されているが、日常生活の緊張感が異なる。個人の物語と家族や知人たちとの交流では違いすぎるのではないか。
ただ、二日目には、綻びを見せる。何よりも、髪がわずかに乱れていた。しかも、それを帰宅した息子に指摘される。息子は、母の仕事を知っていることになる。三日目には、完全に破綻する。
おそらく、この作品は、定型的な家事を中心とした女性の日常生活の奥底には、どんなにそれらを完璧にこなしたとしても、家族や宗教などでは到底、埋め合わせすることができない、深い闇が広がっていることを、初めて示したのだろう。
是非、何の予備知識もない状態で、できれば映画館で見てほしい。そのためには、この文章もまた「ネタバレ」とするしかない。
伝説を目撃せよ
「“劇的なもの”でないもの」の威力
3時間に渡り、寡婦の日常を段々と描く。不穏な要素ーー思春期の息子、カナダにいる妹、そして何より売春らしき行為ーーが散りばめられているが、そこには最後までフォーカスされない。それよりも、ルーティンとしてこなしている日常的な行為が描かれる。起こることと言ったら、毎日茹でているじゃがいも茹でに失敗する(日本でいうとご飯の水加減に失敗する感じ?)、靴磨きのブラシをすっ飛ばす、ボタンを掛け忘れるなど細やかなズレ。(そういったズレが描かれていくことで、この人の人生がちらりと垣間見えるのも印象的。)それでもルーティンに軌道修正しようとするが、次第にズレのほうが大きくなり……。
常にソワソワとしている主人公だけに、座り込んでいる場面に重みがあった。
男には遠すぎる映画
思えば1日目の夜に「僕が女だったら好きでもない男とは絶対に寝ない」と嘯く息子に向かって「でもあなたは女じゃない」とジャンヌが言い放ったあの瞬間に、俺はこの映画から放逐されたのだと思う。これはお前の映画じゃないし、ジャンヌはお前のものじゃない、という非難にも似た宣言が第四の壁を突き破って俺を貫いた。俺は体も心も紛うことなく男だ。
本作は他人事として傍観するにはあまりにも冗長で緩慢だ。ヒーターを点ける、ジャガイモの皮を剥く、ポストを確認する。ひたすら反復されるそれらの動作を眺めているうちに思わず欠伸が出る。姿勢を変えたくなる。睡魔が襲ってくる。
しかしこのうんざりするような冗長さ、緩慢さこそが現代女性に理由もなく科せられている十字架であることを踏まえれば、睡魔の誘いに応えることはそうした問題に無関心を決め込むことと同義だ。我々男たちは、どうあがいても「同化」することが不可能なジャンヌのひたすら平板な日常の所作を、睡魔と良心の間を絶えず彷徨しながら追い続けるしかない。
ハッキリ言ってマジでしんどい200分だった。わかるよわかる、その気持ち、などと安っぽい同情を寄せる隙は微塵も用意されていない。俺たちは徹頭徹尾傍観することしか許されていない。それは我々男があらゆる場面において女を当事者から傍観者へと放逐し続けてきたことに対する、監督の痛烈な意趣返しなのだと思う。
普段であれば「ここのショットが~」とか「ゴダールの影響が~」とかシネフィル的な感想の一つや二つを並べ立ててみたくなるところだが、本作に関してはこれ以上の言及は避けようと思う。この映画はあまりにも俺から遠いし、その遠さを埋められるだけの誠実さは今の俺にない。
毎日観てしまう
シャンタル・アケルマン監督による3時間20分超の映画
1970年代のヨーロッパ映画で最重要な作品と言われるシャンタル・アケルマン監督作。
セリフが少なく、固定カメラでの長回しという映画ならではの手法によって、主婦の姿をアケルマン監督が細部に至るまで突き詰めた3時間20分超の映画。
長尺であるが、飽きることなく、じっくりと観ることができる作品。
主婦ジャンヌは、ブリュッセルのアパートに住み、料理を作り、服を毎日同じようにたたみ、買い物に行き、……と一見すると機械的に見える生活を続けている。
しかし、主婦ジャンヌは思春期の息子が出かけた後、自宅で売春をしている。このこと自体が驚きなのだが、売春の客を迎える姿・見送る姿すら事務的な感じ。
主婦ジャンヌを演じたデルフィーヌ・セイリグという女優は優雅な雰囲気であるが、平凡な主婦の機械的な日常を丸3日間描くことで、1日目よりも2日目は小さなミスが起こり、更に3日目は……という「少しずつ日常生活がズレていって、破滅に向かっていく怖さ」を感じる映画であった。
ジャンヌの妹はカナダにいて、妹からの手紙を読むことで(ジャンヌの夫がすでに亡くなっているなど)家庭状況を観客に伝えるあたりも上手い演出。
個人的には、ジャガイモを1袋買ったジャンヌが、紫色調の街並みを歩いていく後ろ姿のシーンが、とても綺麗に見えた。
衝撃的なシャンタル・アケルマン監督作品。
(※)今年(2022年)日本初公開された1975年作品だが、リマスター版なので映像は綺麗。なお、公開邦題は『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』。
じっくり見せてもらったからこそ、印象に残る作品。
200分(3時20分)という長く、ある意味単調な映画であったが、居眠りすることなく不思議と見入ってしまった。最近、何でも早口だったりカット数や登場人物が多かったりと、何かと気忙しい映画やTVが多いが、この映画はそれとは真逆である。1975年(昭和50年)制作だからできたのか。その当時でも画期的だったのか。
しかし、それだからこそ、いろいろなところに目が行く。いちいち動きを観察してしまう。セリフもほんどなく、限られたシーンのみ。しかし、それが重要な意味を持っている。不必要なセリフなどないといっていいだろう。余計な音楽の演出もない。
息子と暮らす主婦の家庭での日常生活を固定カメラで延々と映し出す。時たま外出することはあるが、用事で出掛けているだけであり、人との交わりは殆どない。基本的に台所、ダイニング・居間・息子の寝室、風呂場、主人公の寝室での主人公のありのままの姿を映し出す。バスルームでの体の洗い方、バスタブの洗浄、食器洗いなども別に取り立てることはないが、見てしまう。
部屋の出入りの際、必ずライトのスイッチをOn/offする。何度も繰り返されるこの照明の明・暗は、小津安二郎を思わせる部屋から部屋への動きと相まって私は好きである。この女性の几帳面さは、身だしなみの良さ、キチンとしたベッドメイキング、息子の靴磨き、料理の手際などでも表されている。ただ、息抜きらしいものは編み物ぐらいで、感情を抑えていたのかもしれない。
3日間だけの記録であるが、日ごと家に来る別々の男性。カナダに住む妹からの手紙と贈り物、息子の父親への思いなどが、サラリと出てくる。そして最後のシーンへ。後から思えばそれまで延々と続いてきた日常の最後の3日間なのかもしれない。
観る人を試す映画
ただただ凄かった。
凄すぎて、帰り道泣いてしまった。
それくらい、凄かった。
ここまでの感覚は久々。
静かなのが怖くなってくるような。
じわじわと侵食されてゆくような。
肌や皮膚が一体となるような。
そんな感覚。
あらすじをちらっと見た時も、
好みそうな映画だなと思っていたのだが、
その数十倍、この映画は凄かった。
彼女と200分を共にすることで、
私があちらに乗り移ったり、
あちらが私に乗り移ったりするような感じがした。
そして、終始アケルマンに試されている感じ。
いや、アケルマン、恐ろしいわ。。
本作が200分ある意味も妥当だし、
知りたいこと以上を教えてくれない。
これが映画だよ…。
人の魂が身体から飛び出してくるのを
目の当たりにしたというか、
いくら例えても本作を観るに勝ることは
伝えることができないな…。
日常って誰も見ていないところで
狂っていくんだよな。
しかもこの話、かなり汎用性がある。
今もどこかの部屋に彼女が居そうな感覚。
頭を離れない。
オールタイムベストものであった。
まだ観てないの3作あるんだが、
全部観たいなあ…。
唯一無二の傑作‼︎
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