「王道ホラーの諸要素を巧みに集積した、女性監督らしい北欧美少女ホラーの佳品」ハッチング 孵化 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
王道ホラーの諸要素を巧みに集積した、女性監督らしい北欧美少女ホラーの佳品
クローネンバーグの初期作に『ザ・ブルード 怒りのメタファー』という傑作がある。
僕が『ハッチング 孵化』の予告編を観て最初に想起したのが、上記の映画だった。
僕個人は、クローネンバーグ映画の中でも、少なくとも「アイディア」の面では最もぶっ飛んだ作品の一本だと思っているが、なにせまあまあ古い映画なので、若い人は知らないかもしれない。
『ザ・ブルード』は、精神的な病理を催眠によって「潰瘍化」させ、身体に外傷として顕現させたうえ、外科的手術を用いて切除すれば、心の病がすっきり治療できるという画期的施術を創造した医者が出てきて、その催眠療法を実際に受けた女性が、知らない間に「怒りの侏儒」を孕むようになり、女性の敵意の対象を、彼女からボコボコ産み落とされた「雛=ブルード」軍団が「彼女の代わりに」血祭に上げにいくという、血臭と女臭漂うとてもイカした映画だった。中学生の頃、僕はこれでエロゲより先に「母胎化生体プラントエンド」の原型に出くわし、大いに衝撃を受けたものだ。
実際に『ハッチング』を観るかぎり、監督または脚本家が、この『ザ・ブルード』のネタを土台に、いろいろとアイディアを膨らませていった可能性は結構高いと思う。
(家に帰ってから買ったパンフを読んだら、まさに高橋諭治さんが同じ指摘をしていた)
特に、ヒロイン自身は決して惨劇を望んでいないのに、「悪意」の具現化としての「代行者」が勝手に誰彼なく殺しに行って、それを止めることができずに本人も身を滅ぼしてゆくという物語構造が、とてもよく似ている。
『ザ・ブルード』のサマンサ・エッガーは成熟した女性だったので、結果的に自らが「ザ・ネスト」化することに相成ったが、本作のヒロインはまだ少女で、妊娠能力を有さない。
だから、彼女の「ブルード」はある種の代理出産――すなわち外から拾ってきた「卵」に、自らの「血と涙」を与える儀式を経て、生みだされることになる。
でも、『のび太の恐竜』みたいな出だしの話を、モンスター映画の枠内で、よくもまあ巧みに「ドッペルゲンガーもの」につなげて見せたものだと感心する。
要するに、モンスターとして生まれた「擬似子」が、急速に成長して「本人」に成り代わるという仕掛けである。なんか前例を知っているような、知らないような……なんだっけな?
明快に記憶に残っている例でいうと、『CUBE』のヴィンチェンゾ・ナタリの全くヒットしなかったゴミSFで『スプライス』というのがあって(僕は放出品のビデオで観た)、内容的にはちょっと似ているかもしれない。あれは科学者夫婦が動物と人間を掛け合わせた人工生命体を創造して、隠密裏に育てていたら、そのうちすごい美女に成長するのだが、その生物の進化はそこでとどまらず――といった映画だった。
総じての印象でいうと、『ぼくのエリ 200歳の少女』と共通するような、北欧ホラー特有の仄明るい空気感が支配的でありながらも、より徹底的に「美少女」の存在に依拠する作りは、近年の『イット・フォローズ』や『RAW 少女の目覚め』『テルマ』あたりの「少女ホラー」の系譜に近い。
ただ、実際に出てくるホラー的な要素の大半は、すでに70年代から80年代のホラー全盛期に作られたクリシェから、かなり直截的にとられていて、監督は意外にマニアックなタイプなのではないかという気もする。
まず、なんといってもクローネンバーグの濃厚な気配。
元ネタの『ザ・ブルード』のみならず、解剖学的な人体部位への偏執的なこだわり(冒頭の背骨!)や人体破壊への関心、何より「怪物の悲哀」を描く「哀しみ色」のホラーであることが、クローネンバーグの作風を直接的に継承している。特殊メイクに依拠するグロテスクな造形への偏愛と、CGを用いず実際に触知可能なクリーチャーを創造する復古的な姿勢も、クローネンバーグのそれと近しい。
それから、「美少女ホラー」といえば『フェノミナ』のダリオ・アルジェント。
犯人視点の一人称カメラや、廊下を奥に進んだり手前に向かってきたりするシンメトリックなシーンづくり、大型ナイフへのこだわり、鳥が暴れまくる描写など、本作には明らかにアルジェント・テイストの場面が散見される。
母娘関係の異常な緊張感や、自らの「分身」としての押し付けと理想化、経血や拒食といった少女の思春期性とからむ恐怖要素の多くは、当然ながら、ブライアン・デ・パルマの『キャリー』に負っている部分が大きい。
少女の外的変容と狂暴化、グロテスクな顔貌変化は、もちろん『エクソシスト』に由来する要素だ。
あと、カラスの不吉な象徴性は『オーメン』、育てている怪物の幼体が邪悪化するという流れは『グレムリン』、平和で幸せそのものの家族という「仮面家族」への恐怖感は『ステップフォードの妻たち』(『ゲット・アウト』の元ネタ映画でもある)。大きな卵が割れて異形が産まれるビジュアル・イメージも、もしかすると霊感源は『エイリアン』だったりして。
これらの映画からは時代は下るが、心に闇を抱えた少女が、おとぎ話のような悪夢を引き寄せて、それに飲み込まれていくという寓話性は、ギレルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』あたりとも通底する。
その他、数多あるドッペルゲンガー映画(ロメロの『ダーク・ハーフ』は、まさに頼んでもいない殺戮を繰り広げる「もう一人の自分」の話だった)や、アンファン・テリブルもの(見た目は同じ子供なのに中身が別の邪悪な存在って意味では『ペット・セメタリー』あたりも含まれるのでは)などの要素も含めて、監督と脚本家はあちこちから「どこかで観たようなネタ」を持ってきて、それをきわめて巧みに組み合わせ、一本の「少女」の物語にまとめあげている。
この、映画の底層を支えるシネフィル的なマニア性と過去言及性は、まさにアリ・アスターやロバート・エガースらA24周辺の映画作家たちと近接した「今風の」作家性であり、単に「昼のシーンの多いホラー」というにとどまらない、時代的な共通性を感じさせざるを得ない。
それと、上に上げた『キャリー』や『ペット・セメタリー』や『ダーク・ハーフ』の原作者であるスティーヴン・キングが少なくともフィンランドの隣国スウェーデンでは大変な人気があって、『ぼくのエリ』の原作者 ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストのようなフォロアーを生んでいることを考えると、フィンランドでもキングが広く受容されている可能性は大きいはずだ。そして、本作『ハッチング』に影響を与えている可能性も。
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映画自体は、とにかく一貫して、ヒロインの少女ティンヤ(シーリ・ソラリンナ)の美少女性を際立たせていく作りだ。
出だしから、レオタードに包まれた12歳のニンフェットな肢体美を惜しげもなく見せつけつつ、シーリちゃんはほぼ出ずっぱりで作品内に君臨している。
『ぼくのエリ』でも、やたら子供たちがジムで体操しているシーンが出てきたのを考えると、北欧では(日本におけるバレエのような感じで)体操とフィギュアスケートが「少女の習い事スポーツ」として盛んなのだろうが、これだけローティーンの「少女性」の魅力に依拠した映画を観たのは久しぶりかもしれない(大好物なので文句は一切ない)。
支配的な母親に歯向かえない従順な少女としての演技だけでなく、その裏返しとしての「アッリ」の怒りと悶えもちゃんと演技で表現できていて、本当に将来性豊かな女優さんだと思う。
一方、母親のインスタ蠅ぶりは、ある種戯画的というかコントじみた印象もあるが、作り笑顔で「外から見たあるべき家族の姿」を遮二無二追求する姿は、きわめて生々しく、おそらく日本でもたくさんうごめいている手合いなのだろう(私はSNSは一切やらないのでよく知らないが)。
旦那が自閉症スペクトラムっぽい感じ(たぶん、理系方面で偏りのある特殊な才能があって、結構な大金を稼ぐことができていて、奥さんはその辺を有効に使って裕福な生活を満喫しているのでは?)で、思い切り息子にそれが遺伝している(外見も、内面も)のも、いかにもありそうな話。で、旦那を小馬鹿にしている奥さんが、DIYに熱心なイケメンと浮気するのも、自然な展開だ。
この「インスタの中では幸せな家族」の実情と歪みを描きながら、そのストレスのはけ口として少女が「卵」に注いだ「悪意のDNA」(母親のスパルタで流れた手の血と、母親の浮気で流れた悲しみの涙)が生み出した悪夢の顛末を描くのが、本作の主眼である。要するに「王様の耳はロバの耳」の穴から、ドッペルゲンガーの怪物が這い出てくる話である。
少女から見れば、本作は過たずドッペルゲンガーの物語だが、産み落とされた怪物のサイドからすれば、これはまさにフランケンシュタインの物語であり、遺棄される子供としてのモンスターの物語であるともいえる。そもそも『フランケンシュタイン』はメアリ・シェリーの中にある「出産と子育て」にまつわる恐怖を「男×男」の物語に転嫁して吐き出した小説という部分も間違いなくあり、それを女性監督らしい感性で、「母×少女×少女」の物語に組み戻した産物ともいえるかもしれない。
映画のすべてが満足かと言われると、絵づくりの部分で物足りない気分があるのは否めない。
しょうじきこのテーマで撮るなら、もう少し耽美的な撮影方針でもいいだろうと思うし、あまりカット割りやフレーミングに美意識が感じられないので、映画としての画格が思ったより高くないのが残念だ。あれだけアニマトロニクスに力を入れているのに、なんとなく独特の「雰囲気」や「気配」といった余情が漂ってこない映画なのだ。
ティンヤのズル剝けになった手が、大して時間も経っていない様子なのにいつの間にか治っていたり、ラスト近くでむしり取られたはずのアッリの頭髪が次のシーンではなんともなかったりと、細かいところにあまり気が向いていないのも気にかかる。
「同じ外見の人間が二人居る」という設定からだと、もう少しいろいろネタを広げていけそうな気もする割に、その辺のアイディア醸成があまり見られなかったり、犬とかお面とか父親&弟とかインスタ視聴者とか、「実はもっと広げたらきっと面白かった部分」をほったらかしにしたまま終わっていたり、個人的には「もっと面白く出来た映画」なのではないかとも思う。
とはいえ、とにかくシーリちゃんが可愛かったし、清く正しい「女性監督によるニンフェットな少女映画(非LGBTQ)」を久々にスクリーンで観ることができて、本当に良かった。
そういや、自分の大好きな過去作品で「少女がカラスの異形を匿って餌をやって育てている」話があったはずなのになんだっけ思い出せねえなとずっと帰り道考えていたが、アニメの『プリンセスチュチュ』でした(笑)。