「なんだ、いざ観てみたらすげえ面白いじゃん。疾走感ある王道のボーイ・ミーツ・ガール譚!」バブル じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
なんだ、いざ観てみたらすげえ面白いじゃん。疾走感ある王道のボーイ・ミーツ・ガール譚!
調布では来週からモーニングショーのみになってしまうようなので(涙)、
慌てて最後のレイトショーに駆け込み。ううう、もう終わっちゃうんだね……。
僕個人は、結構期待してたんすよ。
荒木監督の『甲鉄城のカバネリ』映画版は、エンタメに徹したB級アクションとしては最高の出来で、BD買うくらい気に入っていたし。
監督・荒木哲郎、脚本・虚淵玄で、期待するなってほうがおかしい。
でも、なんか世間では、大爆死だの、圧倒的駄作だの、それこそけちょんけちょんに言われてるから、どんだけひどい出来なのかと思ったら……
全然そんなことないじゃん(笑)。
ちゃんと、すっげー面白いじゃないすか。
極限のボーイ・ミーツ・ガール&圧倒的な疾走感。
別に、なんの問題もなく、きちんと仕上がった映画で、ふつうにエンタメとして楽しかった!
てか、100歩ゆずって、展開されるストーリーとキャラクターのすべてがまるで気に食わなかったとしても、全編で展開されるパルクールの超絶アクション作画を観るだけでも、映画料金一本分くらいの価値は充分にあると思うけどなあ。
まあ、さかのぼってクソミソいってるレビューとか確認すると、明らかに観ないで叩いてるような人もいるみたいだし、こういう溺れる犬を面白がって叩くような風潮は、ホントくだらないの一言。
とはいえ、一度こういった空気ができちゃうと、なかなか復活は難しいんだろうね。
少なくとも、オタクにもメイン層にも受け入れられず、客がちっともはいらなかったってのは厳然たる事実であり、製作陣にとって反省会は大いに必要でしょう。
でも、この完成度で「出来が悪い」とか言われちゃうと、さすがにスタッフも監督も可哀想……。
ー ー ー
『バブル』は、とある童話がベースになった、きわめてシンプルな物語だ。
というか、それがほぼすべてみたいな作品なので、そこをネタバレしないで作品を語るっていうのは、極めて難しい。
ただ、既存のアニメで何に一番近いかというと、多分『交響詩篇エウレカセブン』じゃないかと思う。
(映画でいうと、タルコフスキーの『惑星ソラリス』がそもそもの元ネタのような気もするが)
あとは、わが偏愛する傑作アニメ『プリンセスチュチュ』も、ネタ自体は大きくかぶっている感じ。
観ているときは、東京全体が「バブル」で包まれた世界って、コロナ禍のメタファーなんじゃないかというのも脳裏をよぎったのだが、パンフを見ると、企画自体はコロナより何年も前から進行していたらしい。
プロデューサーの川村元気は、「未知の泡が突然降ってきて、東京がロックダウンされ、立ち入りができなくなり……というストーリーに、現実がどんどん追いついてきてしまった。東京オリンピック時のコロナ対策が「バブル方式」と呼ばれた時には、本当に驚きました」と語っている。
そういう、作品が時代と奇跡的なリンクを果たすときって、往々にして大ヒットしたりするんだけど、今回はそうはならなかったんだろうなあ。……なんでだろう?
たしかに、『エウレカ』に限らず、全体的にどこか「既視感」が強めのアニメであることは確かで、
半分水に沈んだ東京の光景は、新海誠の『天気の子』を容易に想像させるし、
そこで船をベースに生活する集団同士が小競り合いしてるのは、本作の脚本家・虚淵による『翠星のガルガンティア』を彷彿させる。
パルクールの動きは、世の中でさんざん言われているとおり、『進撃の巨人』の立体機動装置のアクションをベースにしたものだろう。
主人公がヘッドホンしてたり、聴覚過敏だったりするのも、いくつも先例を思いつく。
でも、既視感が強いアニメなど、世間にはそれこそ山ほどあるわけで、ここまで叩かれる理由にはなり得ない。
少なくとも、「超絶作画パルクール・バトルをメインとする、とある童話を基にしたシンプルなボーイ・ミーツ・ガールSF」という個性は、ちゃんと確立してるわけで、そこはちゃんと評価してあげないといけないと思う。
でも、「パルクール」って題材は、果たして作り手が考えていたほど、キャッチーなものだったのかどうか。
パルクールを題材にしたアニメとしては、いしづかあつこ監督の女性向けアニメ『プリンス・オブ・ストライド』がパッと思いつくが(全話視聴済み。佳作)、どちらかというと、ノリはついこのあいだやってた、内海紘子監督のぶっ飛びスケボーアニメ『SK∞ エスケーエイト』(女性向けだけど、バリクソ面白かった)とか、今やってるアカツキ原作の変態野球アニメ『トライブナイン』のほうに近いかもしれない。まあ、僕らの世代にとってはそれ以前に、パルクールといえば、なんといってもリュック・ベッソン製作の『YAMAKASI』なんだけど(あれもずいぶん「スカした」映画だった)。
ひとつの「敗因」として、このパルクールの漂わせている圧倒的な「陽キャ」感と、「ストリート」感が、オタクをしり込みさせたことは想像に難くない(笑)。陰キャのオタクにとっては、むしろこいつらは間違いなく「仮想敵」だから。
荒木監督はオタ向けの題材じゃないのは十分わかったうえで、一般のもっとストリートに寛容な陽キャ層や、『ヒプノシスマイク』とかにハマってる女性ファン層に期待したんだろうけど、そのへんの層とは今度はジブリっぽいボーイ・ミーツ・ガール感や、俺様感の薄い主人公が噛みあわなかったのかも。いや、よくわかりませんが。
あと、メイン・ビジュアルで使用されてるヒロインのウタの絵が、なんとなく『無限のリヴァイアス』のネーヤっぽい(そういや、キャラ設定や作中での役回りもよく似てる)のが、新海誠っぽい背景の世界観と、多少食い合わせが悪かった気もしないではない。ちなみに、ウタのセーラー服って、「電車にラッピングされてるアイドルのパーツを無作為にコピーした」(パンフの門脇総作監インタビュー)からああなったんだそうだ。観ていても気づかなかった……。
主人公が「女性に免疫のない、変人扱いされてるが根は素直な、超動ける陰キャ」、
ヒロインのほうは「パッパラパーの世間知らずで、超強いが脆いところがある」ってのは、
監督のオリジナル作品である『ギルティクラウン』でも『甲鉄城のカバネリ』でもそうだったので(『進撃の巨人』もそのカテゴリーだし)、明らかに荒木監督の好みなのだろう。
僕個人は、どちらのキャラも嫌いじゃなかったし、そんなに抵抗なく楽しめたのだが、ヒロインがフェリーニの『道』に出てくるジェルソミーナを祖型とした(とはっきりパンフに書いてある)、「無垢なる障碍者」の系譜を敢えて狙って造形されていたのは、しょうじき失敗だったかもしれない。
ここまで「足りてなくて」言葉もしゃべれず、ほぼ動物みたいな行動しかとれないヒロインに感情移入するのは、やっぱりなかなか難しいし、ヒビキがウタを好きになるのも、「言葉を介したイベント」がないままなし崩しに展開していくので、あくまで体感的/感覚的、もしくは運命的なものとしかとらえられず、今一つ観客には共感しづらいところがある。
あと、この厳しい環境下でなお、ひたすらパルクールに現を抜かしてる登場人物全員にとても共感しづらいとか、描かれてるパルクールの動き自体があまりに非現実的すぎて逆に引いちゃったとか、ウタの一部が「ぶくぶく」してるのが見た目としてふつうに気持ち悪いとか、ラストの船外に出るのすら危険な状況で敢えて仲間全員を連れてゆく理由がわからないとか、そもそも川村元気がプロデューサーやってるのがとにかく気に食わないとか、いろいろ「客が食いつかなかったマイナス要因」については考えちゃうのだが、やはり一番ネックになってくるのは、「ウタはヒビキに●●されると●●しちゃうのに、そのヒビキがウタを助けにいくという展開自体が、どう考えてもしっくりこない」って部分じゃないかな、とは思う。
ある意味、出逢ったら死んでしまう天敵中の天敵が、味方づらして追いかけてくるようなものだからねえ(笑)。
しかも、ウタがどう見てもけっこう大変なことになってるのに、「好き」なはずのヒビキがウタの抱えている問題にまったく気づかないところか、敢えて見ないふりしてるようにか見えないのも、視聴していて結構ひっかかったところだ。
ウタはもともと●●なので、別にそうなったところで、言うほど可哀想ってこともないって考え方もあるのかもしれないけど。
なんにせよ、ラストシーンのあの一枚絵(ヒビキに●●が犬みたいに寄り添ってるやつ)は、個人的にはかなり限界突破でダッサイと思っちゃったんだけど、他の人はどうでしょうか?(笑)
後、最大の「がっかり要因」――観た人がこの作品に反発を覚えた理由が、たぶん終わり方なんじゃないかというのは、なんとなくわかる。
とくに、宮崎駿や新海誠を彷彿させる「ボーイ・ミーツ・ガール」の王道で話が始まるぶん、観客のなかにはきっと、「こうなるだろう」「こうなってほしい」というものがあると思うのだが、そこがおそらく満たされないまま、この物語は終わってしまう。
逆に、「あの童話」が祖型なのは途中からは思い切り強調されるようになるので、観客にとっては「オチが読めてしまう」うえに、「ホントに予測したまんまのオチでひねりなく終わってしまってがっかり」ってのもあるかもしれない。
コロナやらウクライナ戦争やらで、しんそこ心の疲れきった今の日本人にとって、この手のエンディングは必ずしも望んでいなかったものではなかった、っていうのも、きっとあるだろう。
そりゃ作り手としては、大地丙太郎が『ナースエンジェルりりかSOS』や『今、そこにいる僕』を最初から「●●」として企画していたのと同じで、最初から●●がやりたくてわざわざ撮ったんだから、ラストが●●だからといって何が悪いんだって話なんだろうけどね。
まあ、強いて言えば時期が悪い。時代が悪い。
みんなが「なろう」に安易な癒しを求めているような「1憶総おつかれ時代」に、この手のお話は必ずしも求められていなかった。そういうことではないか。
でも、僕はこの映画を観て、充分に楽しかった。
崩壊した東京という設定を逆手にとって、作り手はここに「永遠の遊び場」を作り出したのだ。
(パンフを読むと、作り手は、本作の東京を「廃墟にして楽園」と位置付けている。)
ここでパルクールに興じる若者たちは、「令洋」という「秘密基地」に籠城して、いつまでも続く遊びの時間にとどまることを選択した、永遠の子どもたちだ。
子どもたちは、日夜「戦利品」を賭けて、遊び続ける。
仕事もしないで遊んでいるのではない。仕事として真剣に遊んでいる。
「パルクール」は、崩壊した世界からのある種の逃避ではあるかもしれないが、彼らにとっては、この荒廃した世界を「遊び場」として、「遊び続ける」こと自体が、最大のレジスタンスなのだ。
それにこのラストだって、そう叩いたものじゃないと思う。
ある種のインターフェイズとして存在したウタが知った「人間の心」を、「バブル」全体が分かち合うことで、きっとこの世界は変わってゆく。『エウレカ』で、大地と人間が新たな共生の関係を築き上げたように。
ここで描かれているのは、分断した世界における、「和解」を探るひとつの在り方だ。
「相手の立場になって」「相手と同じ姿で」「一緒の時間を過ごす」こと。
そこを起点にすれば、きっと、破壊と大量死を伴った悲劇の当事者間であっても、「交流」は生まれ得るし、「和解」も導かれ得る。
作り手たちが呈示しているのは、そういう「希望」のかたちだ。
レイトショーが終わって帰ろうとしていたら、斜め前に座っていたいかにもチー牛然としたガリ眼鏡のオタク青年ふたり組が、「いやああ、凄いのきましたねえ」「映画ってやっぱりこうじゃなくっちゃ!」と、かなり熱量高めに感想戦を語りはじめて、ほっこりした。
なんだ、こういう客だって、ちゃんといるんだな、っていう。
届く人には、届く。 届かない人には、届かない。
創作ってのは、結局はそういうものだ。
荒木監督もここでへこたれず、捲土重来でまた次に向けてぜひ頑張ってほしい。