「心の中の「乾天の慈雨」」渇水 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
心の中の「乾天の慈雨」
<映画のことば>
「見ていて、いいですか。
止めるところ。」
安全・衛生的な水道水を各戸に配水するためにはそれなりのコストもかかることですから、本作のセリフに出てくるような「水なんて、本来はタダでいいんじゃないかなぁ」ということには、なかなか、ならないようです。
形式とはいえ、水道は(ガスや電気も)、需要者の申し込みに基づいて提供されているわけでもありますし。
(実際、使っても使わなくても課金される水道やガスの基本料金がもったいないとのことで、供給の申込みをせず、飲水はペットボトル、お風呂は銭湯、ガスはカセットコンロという方も、現実にいないわけではありません。)
一方で、生活には必需とも言える水道の料金をを払わない(払えない)という理由は、人によってさまざまなのでしようけれども。
それで、どうしても水道料金のお支払に応じてもらえない需要者に対しては、元栓を閉止して、それ以上の滞納が膨らむことは、差し止めなければならないー。
そしてそれは(苦しい家計の中からも)滞ることなく料金を支払ってくれている家庭との均衡・公平という、大切な意味合いがあることも、言うまでもないところです。
本作で岩切たちが「最後の手段」としている停水執行というのは、要するに、そういうことなのでしょう。
その一方で、水は日常の生活に欠くことのできないもので、そのことは、停水執行に携わる水道職員である岩切たちが、他の誰よりも良く知っていたはずですから、彼らの苦悩も、いっそう深いものがあったことでしょう。
ひところは税務職員(徴税吏員)の端くれでもあったり、公営住宅の家賃の管理(収納管理、滞納整理)という仕事をしたりしたこともあった評論子には、その苦労が、いささかながら、偲ばれるところです。
それだけに、母親からのネグレクトに遭って、心細かったであろう恵子・久美子の姉妹を、見て見ぬふりは、できなかったのだろうとも思います。本作での岩切は。
結婚指輪こそ(まだ?)外していなかったにしても、自身も、今は愛息はと離れて暮らすことを余儀なくされていた身の上としての彼にしてみれば、なおさら。
一方で、衛生的な水が、人が生活して生きていくためには欠くことができないものであるだけに、そう単純には割りきることもできないことも一理でしょう。
前記のとおり、そのことは、現実に停水執行に携わる職員自身が誰よりもよく知っているだけに、その苦悩には、いっそう深いものがあるのだろうと推測します。評論子は。
そして、そういう処分の執行に携わる職員は、それが自分の役割と自分自身を納得させて…いわば、その想いで自分自身の個人的な感情は圧(お)し殺して、仕事に当たっているのがふつうではないかと思います。評論子は。
(税務職員であった当時の評論子も、そうであったように。)
そういう処分の執行に携わる職員の対応として「魚(うお)のような無表情で」と、よく形容されるのですけれども。
人間は、自分の個人的な感情を無理矢理に圧し殺していると、自然とそんな表情になってしまうものです。
まさに「言い得て妙」というべきでしょう。
そうすることによって、辛(かろ)うじてなんとか自分自身との「折り合い」をつけて「踏み止(とど)まっている」というのが、本当のところではないでしょうか。
それゆえ、本作の岩切のように、停水執行という、ある意味では「辛(つら)い」仕事に携さわっている職員が、滞納者の私的な生活関係に関心を持ったり、滞納者の私的な生活に関係に、いわば介入していくというような、そんな本作のような関係性を築くということは、現実にはあり得ないことで、「これは、あり得へんなぁ。」ということなのではありますけれども。
反面、それだけに、最後にはいわば「弾けてしまった」かのような岩切の解放感は、そういう仕事に携わる職員の心の「乾き」であり、心の奥底に封じ込めてしまっている感情そのものなのかも知れません。
その時に降った突然の雨は、恵子・久美子の姉妹と岩切とにとっては、まさに「心の中の乾天の慈雨」だったことは、疑いがないものと思いました。
評論子は。
そして、そういう精神的には辛い仕事に就いていても、滞納者を仕事の「客体」として(だけ)捉えるのではなく、こういう関係性を仮に築こうとすれば築くことのできるだけの(気持ちの?)「余裕」が、つらい仕事(停水執行、滞納処分などの租税の強制徴収)を執行する側にも、本当は求められているのかも知れません。
お互いが人間同士な訳ですから。
現実はともかく、そういう理想郷的な意味合いが本作に含まれているのだとすれば、それはそれで、なかなか訴えかけの深い作品とも言えそうです。本作は。
最後には雨に恵まれたことは、渇水期の終わりを象徴する意味合いがあったのかも知れませんけれども。
乾いていた岩切の心にも、大人が信じられなくなっていた恵子・久美子の姉妹にも、救いの意味での「乾天の慈雨」だったのだろうと思います。
そう思うと、本作はとても切ない一本で、観る者の心への訴えかけとしては、充分な佳作であったとは思います。評論子は。
(追記)
さいわい、評論子が住む北海道地方は、これまで「渇水」で、苦労をしたことはないようです。
日照続きでダムの水が干上がりかけてしまい、水道当局が住民に「節水」を呼び掛けることが、まったくなかった訳ではありませんけれども。
北海道の水源が豊かなのは、冬期間の大量の積雪が、いっぺんに降る降雨と異なり、ゆっくりと融けながら地面に染み込むことで、地下水が豊富だからといわれているようです。
(追記)
同じ「岩切」という人物がやったこととはいえ、水道局職員としての岩切の指示で同僚(いずれも市の公務員)がかけた停水栓を(いくらやり方を知っているからとはいえ、その当該公務員としての身分ではない個人の立場で)岩切が取り除くのは、封印破棄罪(刑法96条)に当たることは、間違いがないのだろうと思います。評論子は。
水道局としては、局内に「示し」をつける意味でも、刑事告訴に踏み切らなければならなかったのでしょう。
いちおうは刑法犯に当たるわけですから、内部の懲戒処分で済む程度の非違行為ではないと水道局が判断したのであれば、それが明らかにおかしいとまでは、言い切れないようにも思います。評論子は。
その意味では、退職金が全額不支給となる懲戒免職ではなく、依願退職(本人の意思・申出によって認められる退職)する余地を与えてくれたのは、まだ水道局の温情だったのかも知れません。
(水道局としては「本来は懲戒免職にすべき職員に退職金を支払って、市の財政に退職金相当額の損害を与えた」として、他の市民から住民訴訟を起こされるリスクもあったはず。)
ここは、レビュアーの評価が別れているようですし、また、映画作品として、別れてもいいところ(別れるべきところ?)とも言えそうです。
そう思いました。評論子は。
りかさん、いつもコメントありがとうございます。
そうですね。そういう場合は「だって、義務教育は無償って、憲法に書いてあるじゃない。」とおっしゃる方もいらっしゃいますね。
「いやいや、無償って、授業料や教科書代を申し受けないということで、お子さんが食べた給食の代金はいただかないと…汗」ということなのですけれども。
給食費の未納(滞納)も、深刻な問題と聞いています。
まさか、他のお子さんの前で、未納家庭のお子さんにだけ食べないでもらうということもできないでしょうし。
(一方で、100食を99食に減らしても、100分の1のコストは減らないという事情もあります)
現場では、ほうれん草を小松菜に代えたり、卵のサイズをM玉からMS玉に変更する…など、いろいろ苦労していると聞いています。
トミーさん、いつもコメントありがとうございます。
そうですね。水道料金は「水道水」という明確な対価があるからいいのですが、その点、税金は大変です。
「別にオレのところは火事になっても消しに来なくていいから」と言われても「いやいや、お宅から近所に延焼するかもしれないし…」とか(汗)。
往時が思い出されて、複雑な気持ちでもあります。
共感ありがとうございます。
社会維持的にも彼等の仕事は厳正に行われなければならず、反面生まれる感情も解るので板ばさみは辛かったですね。
「湯水のように使う」砂漠の国では真逆の意味になるんですかね?